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第二部 五章
Epilogue この先の未来
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かつん、と一定の感覚で床に杖を打つ音が響く。
王宮の門を通ってすぐの渡り廊下には、大柄な影が一つあった。
ぼうっと足下を照らすのは手に持っているランプのみで、それ以外の光は無い。
真正面から誰が来るとも分からない恐怖よりも、ただ形ばかりでしかない『謁見』をする事が嫌でたまらない。
しかし、ライアンは迷いのない足取りである場所へ向けて歩を進めていた。
普段から己の心情によく気付いてくれる可愛らしい側近の姿も、鬱陶しいほど張り付いてくる護衛の姿も無い。
完全な闇の中、手に持つ明かりだけが頼りだった。
(気が重い)
そう心の中で呟くと、それに呼応して足取りが重くなっていく気さえする。
ライアンはふるりと首を振り、考えを打ち消した。
普段よりも気が乗らないのは事実だが、あまり先送りにしていては悪い事が起こる可能性が上がってしまう。
それだけはあってはならない。
今頃愛しい者と触れ合っている息子のためにも、なんとしても己の手で片付けなければならないのだ。
やがて王宮の更に奥──その昔、罪を犯した王族を閉じ込めるために作られた部屋の前に着いた。
音もなく扉を開けると同時に、何かがこちら目掛けて向かってくる気配があった。
しかし、あと一歩で触れられる寸前、扉の両脇に控えていた衛兵が『それ』を押さえ付ける。
「──何をするの、離しなさい! 私はこの国の、ライアン・リストニア様の第二王妃なのですよ!?」
二人掛かりで身体を押さえ付けられた女──レティシアが叫ぶ。
きんきんと響くそれは金切り声に近く、すぐ近くで聞いていると頭痛がしてくる。
ライアンは杖を持つ手に力を込め、冷めた目でレティシアを見つめた。
パーティーを終えてすぐ、己の命令でこの部屋に連行させたのだ。
質素な作りをした部屋は、手入れがされていて埃一つない。
ベッドからソファ、簡素な丸テーブルまで必要なものはすべて揃っている。
部屋の奥に扉があるが、小さな風呂場とトイレがあるだけだ。
見ようによっては庶民の住まう家にも取れ、しかしレティシアほどの人間からすれば牢屋も同然なのだろう。
父であるデレッタント国王から愛情を一身に注がれ、幼い頃から苦労を知らない女だ。
しかし何があってか他の男と子を成しており、あまつさえこちらにそれを報告する事なく息子共々嫁いできた。
息子と年の同じ王子に罪はなく、その時は仕方ないと思った。
ただ、よく考えればケイトは厄介払いされたのだと今なら分かる。
淡い髪色よりも特に奇異な瞳の色は、誰だか分からない父親のものだ。
デレッタント国王はそんな娘に愛想を尽かし、加えて広大な土地と民を持つ自国と強い血脈に目が眩んだのだ。
しかし万に一つ、国王もレティシアもケイトが王太子になる可能性を捨てきれなかったのだと推察している。
その時の事は今でもよく覚えている。
◆◆◆
『なぜですか、ライアン様……!?』
謁見を終えてすぐに胸倉を摑まれ、その力強さにライアンは目を瞬かせた。
この日はエルを立太子するため、国中の有力貴族らの前で宣言したのだ。
貴族らは形ばかりの挨拶を済ませた後、早々に退散したためこの場にはエルとミハルド、そしてレティシアの後ろで申し訳なさそうにしているケイトしかいない。
『なぜ、なぜ……ケイトではないのです? 我が息子は確かに劣っておりますが、王太子としての素質はあると──』
『私が決めた事に指図するのか』
尚も言い募ろうとするレティシアの言葉を遮り、ライアンは低い声で言う。
『そ、れは……っ』
一瞬怯んだ隙を突いてミハルドが割って入り、レティシアを引き剥がす。
乱れた胸元を正しながら、ライアンは隣りに立つエルに顔を向けた。
幼い頃から『自分は王太子になる』と自覚していた者らしく、その瞳には確かな覚悟が宿っている。
『──エルヴィズであれば皆を導けると思ったのだ。それに、王太子の右腕として民の営みに関わる道もある。爵位が欲しいならまた話は別だが……見たところ、ケイトは興味が無さそうだな』
その言葉にケイトはライアンを見つめ、ぱちぱちと瞬いた。
(図星か)
ケイトはあまり感情の起伏がないが、少し目を見れば分かる。
ライアンとて、伊達に年を重ねていない。
ただ、己の決めた事に何癖を付けるのが身近な者だと予想できず、少し強く言ってしまった自覚はある。
ライアンはレティシアの手を取り、そっと両手で握り締めた。
他の者の体温が伝わり、柔らかく小さなそれは己と同じくらいの力を返してくる。
『すまないな、レティシア。既に決めてしまった手前、こんな事を言うのもおかしいかもしれないが……どうか受け入れて欲しい』
その言葉にじわりと目を見開き、やがてレティシアは小さく頷いた。
『……ありがとう』
ライアンは緩く口角を上げると、ぱっと第二王妃の手を離す。
『エルヴィズ、先に戻っていろ』
そして新たな王太子の背中に手を添え、退室を促した。
名を呼ばれたエルははっとした表情を見せたものの、かすかに『分かりました』という声が聞こえた。
大扉が静かに閉まると、張り詰めた空気が一層強くなる。
ライアンは扉に向けていた視線を改めてレティシアに移し、冷ややかな声で言った。
『──先程のケイトに対する言葉、今一度私の前で言ってみろ。次はないからな』
腹を痛めて産んだ子のことを見下している癖に、尚も『ケイトは王太子になる人間だ』と言う。
声音からも表情からも、愛おしいという感情が少しでもあればまだ可愛げはあったものの、レティシアが向ける瞳は憐憫だ。
幼い頃から母の愛を与えられずに育ち、しかし気丈に振る舞うケイトを見ていると胸が痛むのだ。
血の繋がった母をすぐに亡くし、その後は第三王妃であるベアトリスからの愛を一身に受けていたエル。
片や、実の母親から愛される事も褒められる事もなく、ただただ顔色を伺っているケイト。
環境が違うと人とはこうも変わるのか、と思った事もあった。
同情だと分かってはいるが、己と血の繋がりが無くともケイトは家族も同然なのだ。
ケイトはじっとライアンを見つめていたが、己の前では一度も言葉を発することはないと理解している。
(父親代わりとして、何かさせてくれても良いんだが)
無理だろうな、とライアンは心の中で付け加えた。
小さく息を吐き、レティシアの言葉を待つことなく大扉に足を向ける。
『ど、うして──』
背後からごく小さなレティシアの声が聞こえたが、その先の言葉は小さ過ぎてライアンには届かなかった。
◆◆◆
ライアンはエルから再三言われた言葉を思い出す。
『どうか私のことは気にせず、ご自分の感情を優先させてください。……ただ、あまりやり過ぎては皆を恐怖させてしまうので、ほどほどに』
それはレティシアと共謀したアディルを、王として『形ばかり』の拷問をする前に投げ掛けられた言葉だった。
あと少しでレティシアの主催するパーティーに乗り込み、大多数の貴族や貴婦人の前で王配暗殺を企てていたあらましを伝える。
ライアンとて人を痛め付けるのは好きではなかったが、周辺を調べていた者の情報では事実の線が濃厚なのだ。
そんな中、冷静に伝える自信は実のところなかった。
それよりも怒りの方が強く、しかしエルの方がもっと冷静でいられないはずだ。
しかし『どんな形であれ、アディルやレティシアに思っていることをぶつけろ』と言ってくれた。
自分の方が感情に任せてしまいたいだろうに、と思ったものの広間で見たエルは落ち着いていた。
(本当に……立派になったものだな)
場違いだがしみじみと息子の成長に思いを馳せていると、不意に聞こえた高い声にそれまでの意識を切り替えた。
「──だから何度も言っているでしょう!? 私はまだ愛されていると!」
「国王陛下の御前だ、口を慎め!」
レティシアの声を追って衛兵の声が響き、更に肩を押さえ込む。
苦悶の表情を浮かべていたが、可哀想だとも離してやれとも思わなかった。
腰まである茶髪は何度も頭を振り乱したのか、ところどころ絡まっていた。
パーティーの時は美しい装飾品をいくつも付けていたが、今となっては首飾り一つ付けていない。
薄く化粧した顔は先程まで泣いていたらしく、涙の痕があったが今ではどうでもよかった。
「……みっともない」
息を吐くように口を突いて出る。
「へ、陛下……! そうですよね、本当にこの方々ったら私を」
「お前のそのさまが、私はみっともないと言ったのだ」
がばりと顔だけをこちらに向けたレティシアの言葉を遮り、ライアンは続ける。
「早朝、船でここを発て」
「え、っ……?」
信じられないものを見ているような新緑の瞳が目障りで堪らないが、今は無視をするより他ない。
「広間で第二王妃の位を剥奪しただろう。よって、お前の身柄をデレッタントに返す」
未遂とはいえアディルですら伯爵位を剥奪し、親族と共に遠方の国へ追放した。
だというのに首謀者である自分は何も無いと思っていた、とでも言いたいような表情だ。
「なんだ、その目は。──また私の決めた事に反論するか」
その言葉にレティシアは目を瞠り、ぎりりと唇を噛み締めた。
己に増悪を抱いた顔は見慣れているが、これほどなんの感情も動かされないのも珍しい。
「……いい、え」
やがてレティシアは床に膝を突き、衛兵に半ば支えられる形で首を横に振った。
自身の置かれている状況に、故郷に返すという意味に、そしてなぜライアンが厳しい視線を寄越しているのかをやっと悟ったらしい。
「細かなことは側近に届けさせる。……本当なら今までケイトや王太子、ベアトリスにした事を謝って欲しいくらいだが」
無理だろうな、とライアンは言葉にせず心の中で呟いた。
身体の拘束を解かれたレティシアは両手を突き、ぶつぶつと何かを繰り返している。
名実共に離縁を突き付けられ、デレッタントへ戻っても受け入れてもらえるかも分からない。
現国王はレティシアの兄で、特に反りが合わないというから実質厄介払いされるだろう。
父である前国王が、実の孫にあたるケイトに同じ事をしたように。
衛兵に会釈し、ライアンがこの場から踵を返そうとするとマントの裾を摑まれた。
「……まだ何かあるのか」
静かな、しかし冷たい口調で問い掛ける。
「──ですか」
そう力は強くないが、マントを持つレティシアの手が震えていた。
「私よりも、ベアトリスが……あの側近が、大事なのですか」
「……ああ」
軽く眉を上げ、ライアンは顔だけを振り向かせた。
「少なくともお前よりは可愛らしい。……俺に媚びへつらうような、そんな人間ではないからな」
「っ……!」
ふっと笑みを浮かべると同時にマントから手が離れ、ライアンはそのまま部屋を後にした。
背後からは何も聞こえなかったが、代わりに己の持つ杖を突く音が静かに反響した。
◆◆◆
王宮の図書室を月に五度民に向けて解放する日、老若男女問わず人がひしめく。
それまでは最低でも二度程度だったが、アルトが『民たちと交流したい』と言った次の日から回数が増えた。
「アルトさまー!」
「ねぇねぇ、これよんで?」
「ちょっと待ってな」
周囲の賑やかな子供たちの声に一人ずつ応えながら、アルトは読んでいた本を閉じた。
「……また難しそうなもの持ってきたな」
一人の子供が持ってきた本を手に取ると、アルトは小さく笑った。
背格好は五歳かそれくらいに見えるその子は、大人も読むような書籍を好むと前に来た時に教えてくれた。
「おもしろそうだったから。あのね、よめないところがあるの」
おしえて、と可愛らしく首を傾げながら見つめられ、こちらの庇護欲を擽られる。
「……分かった。一緒に読もうか」
アルトは読んでいた本を退かすとぽんぽんと自身の膝を叩き、座るよう促す。
場所を移動する手もあったが、アルトが歩くと周囲にいる子供らが着いてくるため動けないのだ。
(それに……エルが来るの待ってるし)
やる事があるから、と重い足取りで寝室から出ていった今朝の事を思い出す。
普段は離れるのが名残惜しいというのに加え、面倒臭いという声音を隠そうともしなかった。
『仕方ないけど行かないと。……行かないと』
何度も言い聞かせるように繰り返し、結局のところレオンが扉を開けるギリギリまで粘っていたのだ。
(にしても珍しい気がする)
早朝から公務があるとはとても思えず、仮に視察だとしてもエルは前日に教えてくれる。
迷惑かもしれない、と思いながら図書室に行く前にそっと執務室を覗いてみても誰の姿もなく、使用人が行き交う廊下も普段とは違い、しんと静まり返っている。
どこかもやもやとした不思議な思いを抱えながら、膝に座る子と同じく本に目を向けていると、ぱたぱたと足音が聞こえた。
「アルト王配殿下!」
「っ……!」
ばん、とすぐ側から高らかなテーブルを叩く音が響き、アルトはもちろん周囲の子供らもびくりと肩を跳ねさせる。
「ソフィアーナ……王女?」
目を向けると亜麻色の髪を耳の後ろで結い、薄い桃色のドレスを身に纏った少女──ソフィアーナが立っていた。
頬を膨らませ、やや批難した瞳をこちらに向けている。
「酷いではありませんか、お見送りにも来られないなんて」
「へ、見送り? 俺が? ソフィアーナ王女の?」
何度も目を瞬かせ、アルトは必死に頭を働かせる。
「そうですわ。私、今日でデレッタントへ帰るんです。なのに、王太子殿下のお隣りに貴方様の姿が見えなくて……やっと、やっと見つけました!」
半ば抱き着いてきそうな勢いに、アルトは慌てて立ち上がった。
「えっと、帰るのは初耳なんですけど……でもなんで俺を?」
間近で見ると小さく、唐突な来訪者を可愛らしく思いこそすれ言わんとしていることの意図が見えず、尋ね返す。
すると見る間に頬を染め、顔を俯けたかと思うと身体の前に持ってきていた手をくるくると弄ぶ。
「……笑わないで聞いてくださいますか?」
アルトはゆっくりと頷くと、その様子に安心したのか一度ソフィアーナは深呼吸してから口を開いた。
「……その、王太子殿下から可愛らしくて面白い方だと聞いていて。それからずっと、貴方様とお話してみたくて」
「……はい!?」
反射的に素っ頓狂な声が漏れ、しかしソフィアーナは少しもアルトに気付いていないのか言葉を重ねる。
「でも貴方様とお会いする機会も、お話する機会もなくて。やっと自由に動けると思ったら、国王陛下から『船を出すから帰りなさい』って言われたんです……! もっと、もっとこの国について知りたいのに!」
最後は半ば絶叫するように言うと、ソフィアーナは肩で息をする。
うっすらとだが額に汗が浮かんでおり、リネスト国に対してそれほどまでの情熱があるのは十分に理解した。
しかし、なぜエルの名前が出るのか分からない。
「あの、ソフィアーナ王女」
「──勝手にいなくならないでもらえますか」
もしかして、という思いでエルについて尋ねようとした時、低くやや冷たい声が響いた。
声がした方に目を向けると、扉の出入口に黒髪の男が立っていた。
男──エルが底冷えするほどの笑みを浮かべ、こちらにやって来るのが見える。
「なぜここにいると分かったんですか、エルヴィズ様!?」
「……突然いなくなった貴方を探していたのですが。逆になぜ驚かれるのか、私には分かりませんね」
疲れた表情を隠すことなく、エルはソフィアーナに向けて続ける。
「王配に会いたい時は私を通せ、とまでは言いませんが……あまり勝手なことをされると困ります」
「っ」
言いながらエルはアルトの背後に周り、ぐいと肩を抱き寄せた。
あまりに予想していなかった事が立て続けに起こり、脳が処理しきれない。
しかしエルの表情を見るに、ソフィアーナ関連で朝から奔走しているのは確実なのだろう。
肩に添えられた手にはあまり力が入っておらず、懸命に体重を掛けないようにしてくれている。
その優しさがありがたいと思う反面、今朝起きるのを渋った理由が分かる気がした。
「勝手だなんてとんでもない! 私は自分の欲に忠実なだけです!」
「一国の王女がそのようなことを言うものではありません。……本当、最初の頃とはまるきり違うな」
ソフィアーナが何かを言う度、エルは疲労を滲ませた声音で諭す。
「それはエルヴィズ様が勘違いしてらしただけですわ。ベアトリス第二王妃様の存在も、お聞きするまで知りませんでしたし……よく似ているなど恐れ多いと何度も言っているのに」
エルを軽く睨み付け、ソフィアーナが言う。
その視線を浴びたエルは硬直し、しかしすぐににこりと笑って早口で捲し立てた。
「……そうですね、ベアトリス様は貴方のようにお転婆ではなかった。一ヶ月ご一緒させて頂いた時も私にあれは何、これは何、と尋ねてばかりで落ち着きの欠片もない」
「それは悪口ですか?」
「とんでもない、事実を述べたまでですよ。……貴方のお父上からも娘を立派な淑女にして欲しい、と言付かっておりますので」
そこで言葉を切り、エルはアルトの顔を覗き込んだ。
「へ、っ」
あまりに顔が近過ぎて、図らずも小さく声を漏らす。
「どうやら貴方と話したいらしい。だが、そろそろ船を出すから無理だと言ったら飛び出してしまって……邪魔をしてすまない」
すぐ傍から低い声が耳朶を擽り、加えて子供たちの楽しげにお喋りする声も相俟って内容が入って来ない。
しかし断片的にだが理解した。
(時間がないって言っても……)
ちらりとソフィアーナを見つめるとエルに言われたことが効いたのか、うるうると涙を滲ませている。
このまま王宮で過ごした日々を悲しい思い出にさせたくなくて、アルトはしばし逡巡した。
「……文通、とか」
ぽつりと呟いた言葉にソフィアーナは目を丸くし、やがて口角を上げる。
「いいですね、それ! ぜひともしたい、いえ……させてください!」
興奮しきった口調はとても王女のそれではなく、アルトだけでなくエルもひくりと顔を引き攣らせた。
「──あ、すみません。でも、本当にいいのですか……?」
ソフィアーナは慌てて口元を抑え、怖々と問うてくる。
どうやらこちらを気遣ってくれているらしく、しかしアルトは満面の笑みを浮かべた。
「もちろん。俺も話してみたいですし、丁度これを読んでいたので……教えてくれると嬉しいです」
アルトは先程読んでいた本を手に取り、表紙をソフィアーナに向ける。
『デレッタント帝国とその地域』と書かれたそれは、つい先日見つけたものだった。
「俺、この国以外あんまり知らなくて。だから、国際交流がてら……でも大丈夫、か?」
いち個人としての文通がいいのか悪いのか分からないが、国際交流であれば許されるのではないか。
そんな思いと共にエルを見上げ、問い掛ける。
「……まぁ、貴方がそうしたいなら」
エルは渋面を作ったものの、やがて諦めたように溜め息を吐いた。
『ソフィアーナとこれ以上仲良くなるのか』という嫉妬が隠しきれておらず、そんなところも愛おしく思う。
(俺も同じ気持ちだった)
あの時、図書室でソフィアーナと距離が近かったのはレティシアの息のかかった者が居る可能性が高かったから、と教えてもらったのだ。
『嘘でも仲良くしてなければ、貴方に危害が加えられるかもしれなかった。……ごめんね、どうにかして伝えられたら良かったんだけど』
狂おしいほどの愛を与えられた翌日、朝食の席でそう言われた。
エルの方にも配下を紛れ込ませていたが、蹲って泣いているアルトに声を掛けられなかったという。
『貴方が居たって聞いた時、自分を呪った。……でも、何も言わなかった俺にも責任がある』
その日のエルはことあるごとに謝罪の言葉を繰り返し、アルトが『もうやめろ』と言わなければ止めなかったほどだ。
「あ、あの。もう一つお願いがあるのですが……よろしいでしょうか?」
不意にソフィアーナの遠慮がちな声が聞こえ、アルトはゆっくりと頷いた。
「文通をするということは、お友達も同然なのですよね。では、アルト様とお呼びしても大丈夫、ですか……?」
「え、はい」
間髪入れずアルトはこくりと首肯した。
むしろ王配殿下という敬称で呼ばれる事に未だ慣れておらず、そう呼んで欲しいとすら思うほどなのだ。
「よかった……! あの、では私のことはソフィアと」
「そろそろお時間が迫っているので行きましょうか、ソフィアーナ王女」
きらきらと目を輝かせるソフィアーナの言葉を遮り、エルが口を開く。
(お、大人気ねぇ……)
アルトは声に出さず心の中で突っ込んだ。
愛称で読んで欲しいという願いを最後まで言うのも駄目なのか、と思うがエルの嫉妬もここまで来ると尊敬する。
「あ、そうでした! 私、先に行ってますね!」
そう言うが早いか、王女は慌てて図書室から出ていく。
「……すまないな、騒がしくて」
ソフィアーナの姿が完全に見えなくなると、エルが疲弊しきった表情で誰にともなく呟いた。
「俺は大丈夫だけど……」
椅子に座るか、と言おうにもエルは後を追わねばならない。
するとこちらの感情を読んだのか、そっと耳元に唇を近付けてくる。
「──王女を見送ったら、その後は何もないから。それまでいい子で待ってて」
「なっ、おま……!」
艶を含んだわずかに高い声は甘く、瞬間アルトの頬が熱を持つ。
「じゃあね」
アルトの様子にくすりと笑うと、エルは颯爽と図書室を後にした。
「アルトさま、かおまっかだ!」
「だいじょうぶ? おねつ、なった?」
するとそれを見ていた子供たちが、口々に思ったことを言葉に乗せる。
「あ、いや……ちが」
アルトはしどろもどろになりながら、しかし頭の中はエルのことでいっぱいだった。
(あの馬鹿、絶対……絶対疲れてないだろ!)
エルの口振りで何をするのか分かってしまったが、心の中で少しの悪態を吐きつつ改めて椅子に座った。
「ねぇねぇ、アルトさまー」
「おうたいしさまと、なにはなしてたの?」
先程とはまた別の意味で子供たちが集まってきたが、エルが来るその時まで頬の熱さを下げなければいけない。
「え、っとな」
次々と投げ掛けられる可愛らしい疑問に答えつつ、アルトは思った。
(文通、駄目だったかもしれない……!)
あの口調では今日の夜を無事に越せないのは確実で、しかしそんな嫉妬も可愛らしいと思ってしまっている自分がいた。
王宮の門を通ってすぐの渡り廊下には、大柄な影が一つあった。
ぼうっと足下を照らすのは手に持っているランプのみで、それ以外の光は無い。
真正面から誰が来るとも分からない恐怖よりも、ただ形ばかりでしかない『謁見』をする事が嫌でたまらない。
しかし、ライアンは迷いのない足取りである場所へ向けて歩を進めていた。
普段から己の心情によく気付いてくれる可愛らしい側近の姿も、鬱陶しいほど張り付いてくる護衛の姿も無い。
完全な闇の中、手に持つ明かりだけが頼りだった。
(気が重い)
そう心の中で呟くと、それに呼応して足取りが重くなっていく気さえする。
ライアンはふるりと首を振り、考えを打ち消した。
普段よりも気が乗らないのは事実だが、あまり先送りにしていては悪い事が起こる可能性が上がってしまう。
それだけはあってはならない。
今頃愛しい者と触れ合っている息子のためにも、なんとしても己の手で片付けなければならないのだ。
やがて王宮の更に奥──その昔、罪を犯した王族を閉じ込めるために作られた部屋の前に着いた。
音もなく扉を開けると同時に、何かがこちら目掛けて向かってくる気配があった。
しかし、あと一歩で触れられる寸前、扉の両脇に控えていた衛兵が『それ』を押さえ付ける。
「──何をするの、離しなさい! 私はこの国の、ライアン・リストニア様の第二王妃なのですよ!?」
二人掛かりで身体を押さえ付けられた女──レティシアが叫ぶ。
きんきんと響くそれは金切り声に近く、すぐ近くで聞いていると頭痛がしてくる。
ライアンは杖を持つ手に力を込め、冷めた目でレティシアを見つめた。
パーティーを終えてすぐ、己の命令でこの部屋に連行させたのだ。
質素な作りをした部屋は、手入れがされていて埃一つない。
ベッドからソファ、簡素な丸テーブルまで必要なものはすべて揃っている。
部屋の奥に扉があるが、小さな風呂場とトイレがあるだけだ。
見ようによっては庶民の住まう家にも取れ、しかしレティシアほどの人間からすれば牢屋も同然なのだろう。
父であるデレッタント国王から愛情を一身に注がれ、幼い頃から苦労を知らない女だ。
しかし何があってか他の男と子を成しており、あまつさえこちらにそれを報告する事なく息子共々嫁いできた。
息子と年の同じ王子に罪はなく、その時は仕方ないと思った。
ただ、よく考えればケイトは厄介払いされたのだと今なら分かる。
淡い髪色よりも特に奇異な瞳の色は、誰だか分からない父親のものだ。
デレッタント国王はそんな娘に愛想を尽かし、加えて広大な土地と民を持つ自国と強い血脈に目が眩んだのだ。
しかし万に一つ、国王もレティシアもケイトが王太子になる可能性を捨てきれなかったのだと推察している。
その時の事は今でもよく覚えている。
◆◆◆
『なぜですか、ライアン様……!?』
謁見を終えてすぐに胸倉を摑まれ、その力強さにライアンは目を瞬かせた。
この日はエルを立太子するため、国中の有力貴族らの前で宣言したのだ。
貴族らは形ばかりの挨拶を済ませた後、早々に退散したためこの場にはエルとミハルド、そしてレティシアの後ろで申し訳なさそうにしているケイトしかいない。
『なぜ、なぜ……ケイトではないのです? 我が息子は確かに劣っておりますが、王太子としての素質はあると──』
『私が決めた事に指図するのか』
尚も言い募ろうとするレティシアの言葉を遮り、ライアンは低い声で言う。
『そ、れは……っ』
一瞬怯んだ隙を突いてミハルドが割って入り、レティシアを引き剥がす。
乱れた胸元を正しながら、ライアンは隣りに立つエルに顔を向けた。
幼い頃から『自分は王太子になる』と自覚していた者らしく、その瞳には確かな覚悟が宿っている。
『──エルヴィズであれば皆を導けると思ったのだ。それに、王太子の右腕として民の営みに関わる道もある。爵位が欲しいならまた話は別だが……見たところ、ケイトは興味が無さそうだな』
その言葉にケイトはライアンを見つめ、ぱちぱちと瞬いた。
(図星か)
ケイトはあまり感情の起伏がないが、少し目を見れば分かる。
ライアンとて、伊達に年を重ねていない。
ただ、己の決めた事に何癖を付けるのが身近な者だと予想できず、少し強く言ってしまった自覚はある。
ライアンはレティシアの手を取り、そっと両手で握り締めた。
他の者の体温が伝わり、柔らかく小さなそれは己と同じくらいの力を返してくる。
『すまないな、レティシア。既に決めてしまった手前、こんな事を言うのもおかしいかもしれないが……どうか受け入れて欲しい』
その言葉にじわりと目を見開き、やがてレティシアは小さく頷いた。
『……ありがとう』
ライアンは緩く口角を上げると、ぱっと第二王妃の手を離す。
『エルヴィズ、先に戻っていろ』
そして新たな王太子の背中に手を添え、退室を促した。
名を呼ばれたエルははっとした表情を見せたものの、かすかに『分かりました』という声が聞こえた。
大扉が静かに閉まると、張り詰めた空気が一層強くなる。
ライアンは扉に向けていた視線を改めてレティシアに移し、冷ややかな声で言った。
『──先程のケイトに対する言葉、今一度私の前で言ってみろ。次はないからな』
腹を痛めて産んだ子のことを見下している癖に、尚も『ケイトは王太子になる人間だ』と言う。
声音からも表情からも、愛おしいという感情が少しでもあればまだ可愛げはあったものの、レティシアが向ける瞳は憐憫だ。
幼い頃から母の愛を与えられずに育ち、しかし気丈に振る舞うケイトを見ていると胸が痛むのだ。
血の繋がった母をすぐに亡くし、その後は第三王妃であるベアトリスからの愛を一身に受けていたエル。
片や、実の母親から愛される事も褒められる事もなく、ただただ顔色を伺っているケイト。
環境が違うと人とはこうも変わるのか、と思った事もあった。
同情だと分かってはいるが、己と血の繋がりが無くともケイトは家族も同然なのだ。
ケイトはじっとライアンを見つめていたが、己の前では一度も言葉を発することはないと理解している。
(父親代わりとして、何かさせてくれても良いんだが)
無理だろうな、とライアンは心の中で付け加えた。
小さく息を吐き、レティシアの言葉を待つことなく大扉に足を向ける。
『ど、うして──』
背後からごく小さなレティシアの声が聞こえたが、その先の言葉は小さ過ぎてライアンには届かなかった。
◆◆◆
ライアンはエルから再三言われた言葉を思い出す。
『どうか私のことは気にせず、ご自分の感情を優先させてください。……ただ、あまりやり過ぎては皆を恐怖させてしまうので、ほどほどに』
それはレティシアと共謀したアディルを、王として『形ばかり』の拷問をする前に投げ掛けられた言葉だった。
あと少しでレティシアの主催するパーティーに乗り込み、大多数の貴族や貴婦人の前で王配暗殺を企てていたあらましを伝える。
ライアンとて人を痛め付けるのは好きではなかったが、周辺を調べていた者の情報では事実の線が濃厚なのだ。
そんな中、冷静に伝える自信は実のところなかった。
それよりも怒りの方が強く、しかしエルの方がもっと冷静でいられないはずだ。
しかし『どんな形であれ、アディルやレティシアに思っていることをぶつけろ』と言ってくれた。
自分の方が感情に任せてしまいたいだろうに、と思ったものの広間で見たエルは落ち着いていた。
(本当に……立派になったものだな)
場違いだがしみじみと息子の成長に思いを馳せていると、不意に聞こえた高い声にそれまでの意識を切り替えた。
「──だから何度も言っているでしょう!? 私はまだ愛されていると!」
「国王陛下の御前だ、口を慎め!」
レティシアの声を追って衛兵の声が響き、更に肩を押さえ込む。
苦悶の表情を浮かべていたが、可哀想だとも離してやれとも思わなかった。
腰まである茶髪は何度も頭を振り乱したのか、ところどころ絡まっていた。
パーティーの時は美しい装飾品をいくつも付けていたが、今となっては首飾り一つ付けていない。
薄く化粧した顔は先程まで泣いていたらしく、涙の痕があったが今ではどうでもよかった。
「……みっともない」
息を吐くように口を突いて出る。
「へ、陛下……! そうですよね、本当にこの方々ったら私を」
「お前のそのさまが、私はみっともないと言ったのだ」
がばりと顔だけをこちらに向けたレティシアの言葉を遮り、ライアンは続ける。
「早朝、船でここを発て」
「え、っ……?」
信じられないものを見ているような新緑の瞳が目障りで堪らないが、今は無視をするより他ない。
「広間で第二王妃の位を剥奪しただろう。よって、お前の身柄をデレッタントに返す」
未遂とはいえアディルですら伯爵位を剥奪し、親族と共に遠方の国へ追放した。
だというのに首謀者である自分は何も無いと思っていた、とでも言いたいような表情だ。
「なんだ、その目は。──また私の決めた事に反論するか」
その言葉にレティシアは目を瞠り、ぎりりと唇を噛み締めた。
己に増悪を抱いた顔は見慣れているが、これほどなんの感情も動かされないのも珍しい。
「……いい、え」
やがてレティシアは床に膝を突き、衛兵に半ば支えられる形で首を横に振った。
自身の置かれている状況に、故郷に返すという意味に、そしてなぜライアンが厳しい視線を寄越しているのかをやっと悟ったらしい。
「細かなことは側近に届けさせる。……本当なら今までケイトや王太子、ベアトリスにした事を謝って欲しいくらいだが」
無理だろうな、とライアンは言葉にせず心の中で呟いた。
身体の拘束を解かれたレティシアは両手を突き、ぶつぶつと何かを繰り返している。
名実共に離縁を突き付けられ、デレッタントへ戻っても受け入れてもらえるかも分からない。
現国王はレティシアの兄で、特に反りが合わないというから実質厄介払いされるだろう。
父である前国王が、実の孫にあたるケイトに同じ事をしたように。
衛兵に会釈し、ライアンがこの場から踵を返そうとするとマントの裾を摑まれた。
「……まだ何かあるのか」
静かな、しかし冷たい口調で問い掛ける。
「──ですか」
そう力は強くないが、マントを持つレティシアの手が震えていた。
「私よりも、ベアトリスが……あの側近が、大事なのですか」
「……ああ」
軽く眉を上げ、ライアンは顔だけを振り向かせた。
「少なくともお前よりは可愛らしい。……俺に媚びへつらうような、そんな人間ではないからな」
「っ……!」
ふっと笑みを浮かべると同時にマントから手が離れ、ライアンはそのまま部屋を後にした。
背後からは何も聞こえなかったが、代わりに己の持つ杖を突く音が静かに反響した。
◆◆◆
王宮の図書室を月に五度民に向けて解放する日、老若男女問わず人がひしめく。
それまでは最低でも二度程度だったが、アルトが『民たちと交流したい』と言った次の日から回数が増えた。
「アルトさまー!」
「ねぇねぇ、これよんで?」
「ちょっと待ってな」
周囲の賑やかな子供たちの声に一人ずつ応えながら、アルトは読んでいた本を閉じた。
「……また難しそうなもの持ってきたな」
一人の子供が持ってきた本を手に取ると、アルトは小さく笑った。
背格好は五歳かそれくらいに見えるその子は、大人も読むような書籍を好むと前に来た時に教えてくれた。
「おもしろそうだったから。あのね、よめないところがあるの」
おしえて、と可愛らしく首を傾げながら見つめられ、こちらの庇護欲を擽られる。
「……分かった。一緒に読もうか」
アルトは読んでいた本を退かすとぽんぽんと自身の膝を叩き、座るよう促す。
場所を移動する手もあったが、アルトが歩くと周囲にいる子供らが着いてくるため動けないのだ。
(それに……エルが来るの待ってるし)
やる事があるから、と重い足取りで寝室から出ていった今朝の事を思い出す。
普段は離れるのが名残惜しいというのに加え、面倒臭いという声音を隠そうともしなかった。
『仕方ないけど行かないと。……行かないと』
何度も言い聞かせるように繰り返し、結局のところレオンが扉を開けるギリギリまで粘っていたのだ。
(にしても珍しい気がする)
早朝から公務があるとはとても思えず、仮に視察だとしてもエルは前日に教えてくれる。
迷惑かもしれない、と思いながら図書室に行く前にそっと執務室を覗いてみても誰の姿もなく、使用人が行き交う廊下も普段とは違い、しんと静まり返っている。
どこかもやもやとした不思議な思いを抱えながら、膝に座る子と同じく本に目を向けていると、ぱたぱたと足音が聞こえた。
「アルト王配殿下!」
「っ……!」
ばん、とすぐ側から高らかなテーブルを叩く音が響き、アルトはもちろん周囲の子供らもびくりと肩を跳ねさせる。
「ソフィアーナ……王女?」
目を向けると亜麻色の髪を耳の後ろで結い、薄い桃色のドレスを身に纏った少女──ソフィアーナが立っていた。
頬を膨らませ、やや批難した瞳をこちらに向けている。
「酷いではありませんか、お見送りにも来られないなんて」
「へ、見送り? 俺が? ソフィアーナ王女の?」
何度も目を瞬かせ、アルトは必死に頭を働かせる。
「そうですわ。私、今日でデレッタントへ帰るんです。なのに、王太子殿下のお隣りに貴方様の姿が見えなくて……やっと、やっと見つけました!」
半ば抱き着いてきそうな勢いに、アルトは慌てて立ち上がった。
「えっと、帰るのは初耳なんですけど……でもなんで俺を?」
間近で見ると小さく、唐突な来訪者を可愛らしく思いこそすれ言わんとしていることの意図が見えず、尋ね返す。
すると見る間に頬を染め、顔を俯けたかと思うと身体の前に持ってきていた手をくるくると弄ぶ。
「……笑わないで聞いてくださいますか?」
アルトはゆっくりと頷くと、その様子に安心したのか一度ソフィアーナは深呼吸してから口を開いた。
「……その、王太子殿下から可愛らしくて面白い方だと聞いていて。それからずっと、貴方様とお話してみたくて」
「……はい!?」
反射的に素っ頓狂な声が漏れ、しかしソフィアーナは少しもアルトに気付いていないのか言葉を重ねる。
「でも貴方様とお会いする機会も、お話する機会もなくて。やっと自由に動けると思ったら、国王陛下から『船を出すから帰りなさい』って言われたんです……! もっと、もっとこの国について知りたいのに!」
最後は半ば絶叫するように言うと、ソフィアーナは肩で息をする。
うっすらとだが額に汗が浮かんでおり、リネスト国に対してそれほどまでの情熱があるのは十分に理解した。
しかし、なぜエルの名前が出るのか分からない。
「あの、ソフィアーナ王女」
「──勝手にいなくならないでもらえますか」
もしかして、という思いでエルについて尋ねようとした時、低くやや冷たい声が響いた。
声がした方に目を向けると、扉の出入口に黒髪の男が立っていた。
男──エルが底冷えするほどの笑みを浮かべ、こちらにやって来るのが見える。
「なぜここにいると分かったんですか、エルヴィズ様!?」
「……突然いなくなった貴方を探していたのですが。逆になぜ驚かれるのか、私には分かりませんね」
疲れた表情を隠すことなく、エルはソフィアーナに向けて続ける。
「王配に会いたい時は私を通せ、とまでは言いませんが……あまり勝手なことをされると困ります」
「っ」
言いながらエルはアルトの背後に周り、ぐいと肩を抱き寄せた。
あまりに予想していなかった事が立て続けに起こり、脳が処理しきれない。
しかしエルの表情を見るに、ソフィアーナ関連で朝から奔走しているのは確実なのだろう。
肩に添えられた手にはあまり力が入っておらず、懸命に体重を掛けないようにしてくれている。
その優しさがありがたいと思う反面、今朝起きるのを渋った理由が分かる気がした。
「勝手だなんてとんでもない! 私は自分の欲に忠実なだけです!」
「一国の王女がそのようなことを言うものではありません。……本当、最初の頃とはまるきり違うな」
ソフィアーナが何かを言う度、エルは疲労を滲ませた声音で諭す。
「それはエルヴィズ様が勘違いしてらしただけですわ。ベアトリス第二王妃様の存在も、お聞きするまで知りませんでしたし……よく似ているなど恐れ多いと何度も言っているのに」
エルを軽く睨み付け、ソフィアーナが言う。
その視線を浴びたエルは硬直し、しかしすぐににこりと笑って早口で捲し立てた。
「……そうですね、ベアトリス様は貴方のようにお転婆ではなかった。一ヶ月ご一緒させて頂いた時も私にあれは何、これは何、と尋ねてばかりで落ち着きの欠片もない」
「それは悪口ですか?」
「とんでもない、事実を述べたまでですよ。……貴方のお父上からも娘を立派な淑女にして欲しい、と言付かっておりますので」
そこで言葉を切り、エルはアルトの顔を覗き込んだ。
「へ、っ」
あまりに顔が近過ぎて、図らずも小さく声を漏らす。
「どうやら貴方と話したいらしい。だが、そろそろ船を出すから無理だと言ったら飛び出してしまって……邪魔をしてすまない」
すぐ傍から低い声が耳朶を擽り、加えて子供たちの楽しげにお喋りする声も相俟って内容が入って来ない。
しかし断片的にだが理解した。
(時間がないって言っても……)
ちらりとソフィアーナを見つめるとエルに言われたことが効いたのか、うるうると涙を滲ませている。
このまま王宮で過ごした日々を悲しい思い出にさせたくなくて、アルトはしばし逡巡した。
「……文通、とか」
ぽつりと呟いた言葉にソフィアーナは目を丸くし、やがて口角を上げる。
「いいですね、それ! ぜひともしたい、いえ……させてください!」
興奮しきった口調はとても王女のそれではなく、アルトだけでなくエルもひくりと顔を引き攣らせた。
「──あ、すみません。でも、本当にいいのですか……?」
ソフィアーナは慌てて口元を抑え、怖々と問うてくる。
どうやらこちらを気遣ってくれているらしく、しかしアルトは満面の笑みを浮かべた。
「もちろん。俺も話してみたいですし、丁度これを読んでいたので……教えてくれると嬉しいです」
アルトは先程読んでいた本を手に取り、表紙をソフィアーナに向ける。
『デレッタント帝国とその地域』と書かれたそれは、つい先日見つけたものだった。
「俺、この国以外あんまり知らなくて。だから、国際交流がてら……でも大丈夫、か?」
いち個人としての文通がいいのか悪いのか分からないが、国際交流であれば許されるのではないか。
そんな思いと共にエルを見上げ、問い掛ける。
「……まぁ、貴方がそうしたいなら」
エルは渋面を作ったものの、やがて諦めたように溜め息を吐いた。
『ソフィアーナとこれ以上仲良くなるのか』という嫉妬が隠しきれておらず、そんなところも愛おしく思う。
(俺も同じ気持ちだった)
あの時、図書室でソフィアーナと距離が近かったのはレティシアの息のかかった者が居る可能性が高かったから、と教えてもらったのだ。
『嘘でも仲良くしてなければ、貴方に危害が加えられるかもしれなかった。……ごめんね、どうにかして伝えられたら良かったんだけど』
狂おしいほどの愛を与えられた翌日、朝食の席でそう言われた。
エルの方にも配下を紛れ込ませていたが、蹲って泣いているアルトに声を掛けられなかったという。
『貴方が居たって聞いた時、自分を呪った。……でも、何も言わなかった俺にも責任がある』
その日のエルはことあるごとに謝罪の言葉を繰り返し、アルトが『もうやめろ』と言わなければ止めなかったほどだ。
「あ、あの。もう一つお願いがあるのですが……よろしいでしょうか?」
不意にソフィアーナの遠慮がちな声が聞こえ、アルトはゆっくりと頷いた。
「文通をするということは、お友達も同然なのですよね。では、アルト様とお呼びしても大丈夫、ですか……?」
「え、はい」
間髪入れずアルトはこくりと首肯した。
むしろ王配殿下という敬称で呼ばれる事に未だ慣れておらず、そう呼んで欲しいとすら思うほどなのだ。
「よかった……! あの、では私のことはソフィアと」
「そろそろお時間が迫っているので行きましょうか、ソフィアーナ王女」
きらきらと目を輝かせるソフィアーナの言葉を遮り、エルが口を開く。
(お、大人気ねぇ……)
アルトは声に出さず心の中で突っ込んだ。
愛称で読んで欲しいという願いを最後まで言うのも駄目なのか、と思うがエルの嫉妬もここまで来ると尊敬する。
「あ、そうでした! 私、先に行ってますね!」
そう言うが早いか、王女は慌てて図書室から出ていく。
「……すまないな、騒がしくて」
ソフィアーナの姿が完全に見えなくなると、エルが疲弊しきった表情で誰にともなく呟いた。
「俺は大丈夫だけど……」
椅子に座るか、と言おうにもエルは後を追わねばならない。
するとこちらの感情を読んだのか、そっと耳元に唇を近付けてくる。
「──王女を見送ったら、その後は何もないから。それまでいい子で待ってて」
「なっ、おま……!」
艶を含んだわずかに高い声は甘く、瞬間アルトの頬が熱を持つ。
「じゃあね」
アルトの様子にくすりと笑うと、エルは颯爽と図書室を後にした。
「アルトさま、かおまっかだ!」
「だいじょうぶ? おねつ、なった?」
するとそれを見ていた子供たちが、口々に思ったことを言葉に乗せる。
「あ、いや……ちが」
アルトはしどろもどろになりながら、しかし頭の中はエルのことでいっぱいだった。
(あの馬鹿、絶対……絶対疲れてないだろ!)
エルの口振りで何をするのか分かってしまったが、心の中で少しの悪態を吐きつつ改めて椅子に座った。
「ねぇねぇ、アルトさまー」
「おうたいしさまと、なにはなしてたの?」
先程とはまた別の意味で子供たちが集まってきたが、エルが来るその時まで頬の熱さを下げなければいけない。
「え、っとな」
次々と投げ掛けられる可愛らしい疑問に答えつつ、アルトは思った。
(文通、駄目だったかもしれない……!)
あの口調では今日の夜を無事に越せないのは確実で、しかしそんな嫉妬も可愛らしいと思ってしまっている自分がいた。
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