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第二部 五章
いつまでも慕う 3
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「本来であればお止めするべきなのでしょうが……今回ばかりは貴方様に味方致します。さぁ、お早く」
「え、でも」
本当にいいのか、という瞳をレオンに向ける。
スイーツの載った二皿を器用に片手に持ち変え、レオンはゆっくりと続けた。
「……殿下は貴方様がお傍に来るのを待ち望んでおられます。あれはそういうお顔です」
どこか哀愁漂う表情をしたかと思えば、ふっとミハルドの方に顔を向ける。
「兄さんも殿下が心配なのは分かりますが、あまりお怒りになりませんよう。……今回ばかりはアルト様にお譲りになられてはいかがです?」
周囲は王太子がなぜ居るのか、第二王妃は何を考えているのか、という声が溢れている。
けれど、静かなレオンの声だけが不思議と耳に入った。
ミハルドは薄く瞳を開き、エルが居る方向に視線を向けて呟いた。
「そう、だな。……今のあの方には、私よりもアルト様の方が適任だ」
何が見えているのかアルトには判然としないが、レオンの言葉を了承したようだった。
やがてアルトに視線を移し、ミハルドはゆっくりと口を開く。
血のように赤い瞳がこちらに向けられると、無意識に身構えてしまう癖は抜けないままだ。
アルトのかすかな仕草に、ミハルドは安心させるように柔らかく笑い、皿を持ったままゆっくりと礼をする。
「不躾なお願いで申し訳ありませんが、殿下をお止めください。王配殿下にしかできない事なのです」
「……殿下が何を仰るつもりなのか、私達にも分かりません。ですので、お行きください。後の事はこちらでなんとか致します」
ミハルドの言葉に重ねるようにレオンが口を開き、悲痛な面持ちのまま呟いた。
エルがレティシアの傍に居るという事は知っていても、パーティーで発する言葉までは把握していないのだろう。
幸い、未だざわめきは収まっておらず周囲の喧騒は続いている。
この分なら、急げば階段の真下にまで向かえるはずだ。
アルトは手の平に力を込め、短く唇を動かした。
「っ、分かった。何かあったらごめんだけど……行ってくる」
そう言い終わるが早いか、アルトは二人に背を向けて貴族らがひしめく中を掻き分けていく。
元いた場所から階段下までの距離が長く感じたが、皆が皆アルトの姿を目に留めると、すっと人波が階段下のほど近くまで引いていった。
(なんだ……?)
頭の片隅で不思議に思っているうちに、アルトの脚はエルの顔が見える位置に着く。
近くまで来ると、エルが眉間に皺を寄せているのがはっきりと見えた。
両手を手摺りに預け、忙しない視線を周囲に向けている。
まるで誰かをを探しているような様子だが、こちらに視線が向けられることはない。
「エル……!」
どうにかして気付いてほしくて、アルトは未だ収まらないざわめきの中、己が今出せる限りの声を張り上げた。
「っ!」
すると声が届いたのか、不意にエルの美しい瞳がこちらに向けられた。
アルトだけを見つめる水色の瞳が驚愕に揺れており、しかしどこか安堵しているようにも見て取れる。
一ヶ月ぶりにしっかりと見た顔は少しやつれていたが、愛しい男が己だけを見つめている事実に、得も言われぬ感動が迫り上がる。
今すぐにでも傍に行って、その身体を抱き締められない事が忌々しい。
階段で隔てられた距離を恨めしく思っていると、エルの唇がそっと動くのが見えた。
「さ、くま……」
囁きにも似た自身を呼ぶ声を耳が拾い、たったそれだけで視界が歪むのを感じる。
(駄目だ、泣くな)
レティシアの言う『挨拶』を周囲に言ってすらいないのに、ここで涙の一つでも零してしまえばエルは自身の置かれている状況も構わず、こちらに駆け付けてしまうだろう。
それだけはあってはならない、と頭の中の己が言っている。
「……どうしたの、エルヴィズ? 皆、貴方の言葉を待っているのですよ」
突然レティシアの声が広間に響いたことで、それまでざわめいていた貴族らは水を打ったように静まり返った。
「さぁ、早くご挨拶なさい。──私の言葉を忘れたわけではないでしょう?」
椅子に座ったまま、レティシアがしっとりとした声でエルに問い掛ける。
(一体何を言ったんだ)
レティシアの口振りからは、パーティーが始まる前に何かよからぬ事を囁いたのは明らかで、心臓が嫌な音を立てる。
本当ならば、今すぐにでもエルの口を塞いでこの場から連れ出してしまいたいが、なぜか脚は縫い付けられたように動かなかった。
次第に速くなっていく心音に耳を傾けながら、アルトはエルの一挙手一投足を注視する。
「……は、て」
(エル……?)
気を付けていなければ空気に溶けてしまいそうなほどの声が、不意にアルトの耳に届く。
それはこちらに向けられた言葉にも取れたが、顔を俯けてしまったためその意図は分からなかった。
やがてエルは手摺りに預けていた両手を離し、まっすぐに前を向くとぎこちなく口を開く。
「今日、集まってもらったのは他でもない」
ゆっくりと紡がれた言葉が、さざめきのように広間全体に広がる。
エルはそこで言葉を切り、唇を噛み締めるとしばらくの静寂の後、形のいい唇を動かす。
「──デレッタント帝国はソフィアーナ王女を娶るため、席を設けた」
「は、っ……?」
どくん、と心臓が一際大きく音を立てる。
低く、冷たい声音は紛れもない王太子としてのものだ。
しかし唐突なエルの言葉に、理解が追い付かないでいる。
「パーティーというのは建前だ。……この場に居る皆には、私とソフィアーナの門出を祝福して欲しい」
しんとした痛いほどの沈黙が広間を支配する。
(エルと、ソフィアーナ王女が……?)
何かの間違いではないのか。
正式に婚約した時も、幸せと恥ずかしさでいっぱいだった初夜の時も、レティシアと対面する前──ソフィアーナと顔を合わせた後でさえ『朔真しか愛してない』と言ってくれた。
嫌というほど愛されて、これからも二人で手を取り合っていくと思っていた。
この一ヶ月顔を合わせなかったのは、この事を言えなかったからではないのか。
言ってしまったら最後、己が離れていくと思ってしまったからではないのか。
だから手紙を書いて、少しでも安心させたかったのだろう。
俺は朔真『も』愛してる、と書いていなかっただけ偉いと思わなくては。
(たしかに、びっくりした……け、ど)
仲睦まじくしている二人を今後も見るのは嫌だな、と思ってしまう。
『パーティーが始まったら、俺の傍から絶対に離れないで』
三日前にこっそりと送られた、二枚目の乱雑に書かれた文面はたった今嘘だと分かった。
既にパーティーは始まっており、エルの傍に行く事もエルがこちらに来る事もできないというのに。
二枚目はソフィアーナに向けられたもので、間違えて入れてしまったものなのだ。
(こうなるなら、ちゃんと顔見て言ってほしかったな)
手紙を読んだ時は信頼しなかった自分を殴りたかったが、今はこの場から消えてしまいたい。
エルはまだ自分を愛してくれている、と再確認したのに最後の最後で裏切られた気分だった。
すると控えめな拍手がどこかから上がったのを皮切りに、周囲に伝播していく。
「おめでとうございます……!」
「王太子殿下とソフィアーナ王女へ祝福を!」
拍手とともに声は次第に大きくなり、それはアルトの耳をつんざくほどだ。
「は、っ……はは、……なに、してんだろ」
堪らず顔を俯けて額に手をあてると、何かが目の上に当たったのに気付く。
広間を照らすシャンデリアで、左手の薬指に嵌めた青い宝石がきらきらと輝いていた。
「……こんなの」
いらない、と口を突いてしまいそうな言葉をぐっと飲み込む。
顔を上げればエルが居る距離で、こちらを見ている可能性さえあるのだ。
おかしな素振りをしては不審がられてしまうし、そもそもこの指輪はソフィアーナに贈ろうとしたとも取れる。
本来ならば自分が付けているものではないのは明白で、しかし外そうという気にはとてもならなかった。
「皆様、ありがとう。さぁ、ソフィーもご挨拶をなさい」
レティシアの鈴の鳴るような声が広間に響くと、広間がゆっくりと静まっていく。
聞きたくないと思うのにアルトの耳は、視線は、階段の上に吸い寄せられていった。
「わ、わたし、は……」
叔母に名指しされ、一歩前に進むよう背を押されたソフィアーナはレティシアとエルとを交互に見つめ、唇をきゅうと噛み締める。
煌びやかなドレスを皺になるほど握り締め、何かを怖がっているようだった。
「そ、の……」
図書室で見たソフィアーナは、年頃の少女らしくエルを見つめる瞳が熱っぽかったように思う。
しかし、今すぐにでもこの場から逃げてしまいそうな雰囲気がソフィアーナにはあった。
「声が小さくて聞こえないわ。はっきりと、皆様に聞こえるように……」
「──とでも言えば満足ですか」
レティシアが苛立ちを滲ませた声で尚もソフィアーナに言葉を重ねようとすると、不意に氷のように冷たい声音が広間に響いた。
内にある怒りを少しも隠そうとしない、ともすれば恐怖で竦み上がってしまいそうな声だ。
「っ……!」
アルトはびくりと肩を竦ませ、反射的にエルを見たと同時に身震いする。
淡い水色の瞳には、普段は見せない軽蔑の色をはっきりと滲ませており、その視線はレティシアに向けられている。
「な、何を言っているの、エルヴィズ? 貴方がおかしなことを言うなんて……」
レティシアもエルの様子がおかしいことに気付いたのか、椅子から立ち上がる。
「おかしなこと? この状況でも十分おかしいと思いますが」
慌てて笑みを浮かべるレティシアとは対照的に、エルは冷静な口調で続けた。
「失礼を承知で第二王妃様へお尋ねしますが、よろしいですね?」
「……もったいぶらないで早く言ってちょうだい。ソフィアーナのご挨拶がまだなのですよ」
苛立ちを隠す気がないのか、レティシアが眉間に軽く皺を寄せる。
「……そうですね。でもその前に」
そこでエルは言葉を切り、身を乗り出すように手摺りに両手を掛けた。
「アルト」
「へ、っ……?」
まさか呼ばれるとは思わず、アルトは小さく声を漏らす。
まっすぐに絡み合った水色の瞳には冷たさなど一切なく、むしろ温かくて優しい色をしていた。
「そこに居るんだろう? ──おいで」
柔らかく紡がれた言葉は普段通りで、先程の声が、表情が、幻だと思う気さえする。
「俺、に……言って、る……?」
この状況が現実とは思えなくて、己に問い掛けるようにぽつりと呟く。
「貴方以外に他に誰がいるんだ。ほら、早く」
距離があるから声は聞こえていないはずなのに、アルトが何を言ったのかエルには届いたらしかった。
やや顔を綻ばせ、こちらに来いと手招きされる。
「え、……っと」
遠慮がちながらも、アルトはエルの声に導かれて一段二段と階段を上っていく。
階段を上がる度に貴族らの視線を一身に浴び、それは巨大になっていく。
──誰だ、あの男は。
──場違いなのではないか。
──王配殿下ともあろう者が、まさか嫌とは言うまい。
こちらを批難する幻聴が頭の中に響いてくる。
しかし目の前でエルが待っていてくれているからか、不思議と少しも気にならなかった。
ただただアルトだけを見つめているその瞳には、愛おしさで溢れているから。
(エルだ……)
先程まで身体が面白いほど震えていたのに、はっきりと姿を見てしまったからか、身体がエルの傍に行きたいと求めていた。
「……少し痩せたね」
最後の一段を上がりきりエルの目の前にやってくると、そっと頬に撫でられる。
一ヶ月ぶりに触れられた手の平は手袋越しだったが温かく、こんな時なのに安心してしまう。
「──レティシア様」
すると声音が怖いほど冷たさを帯び、それと同時にぐいと肩を抱かれた。
「っ」
突然の変化にアルトは目を白黒させていると、こちらの感情を悟ったのかエルがふっと微笑み掛けてきた。
肩を摑む大きな手の平が、大丈夫と安心させてくれる。
間近で手見下ろしてくる瞳は優しく、レティシアに向けるものとはまるきり違うのだと分かる。
(ごめん)
アルトは心の中で謝罪した。
こんなにも愛おしいという感情を向けてくれる相手は知らない。
だというのに、どうしてもエルの言葉や態度で一喜一憂してしまう。
一度信頼すると決めたのなら、最後まで信じるのが最善だと頭では理解していても、身体は意思に反して上手くいかないのだ。
ふと手の平の力がわずかに込められたのを感じ、ややあってエルはレティシアに向けて唇を開く。
「一ヶ月前ほど、貴方はご自身の使用人を使って手紙を寄越しましたね。……まぁ、私の側近が届けてくれたのですが」
ゆっくりと語られるエルの口調は冷静で、どこか他人事のようにも聞こえた。
「私のことが可愛くて堪らないといった貴方の文章には、正直なところ吐き気がしました」
ああ、と何かを思い出したのかにこりと微笑む。
「大事に取っておけ、と書かれたようですが……あんなものすぐに捨てましたので」
そこでエルは小さく息を吐き、遠くを見る仕草をする。
「……幼かった頃、私は貴方と仲良くなろうとした。けれど一度たりとも私を見てくれず、あまつさえ第三王妃様すら邪険に扱っていたというのに」
階段下の貴族達がざわめくのを肌で感じた。
アルトはそっとそちらに目を向けると、誰もが信じられないものを見るような瞳でレティシアを見ていた。
「おい、嘘だろ……あの第二王妃が」
どこかから聞こえた一声を合図に、喧騒が大きくなる。
どうやらレティシアは誰に対しても対等で優しく、穏やかな性格だと知れ渡っていたらしい。
エルの声は普段よりずっと低く静かな分、広間の端から端まで広がっていく。
「ご自身の子であるケイトですら、貴方は虫を追い払うような扱いをされていた。それを使用人にも徹底していて、ケイトを一人残してどこかへ行く事もざらだった……そう、聞いています」
ちらりと階下へ視線を向け、続いてエルは憐憫に満ちた瞳をレティシアに向ける。
「そんな方が次は何をするか分からないほど、私は落ちぶれていない」
言いながら肩に添えられていた手の平が外され、ぎゅうと手を握られる。
「エル、ヴィズ……?」
痛いほどの強さに、アルトはわずかに顔を顰める。
しかしエルはこちらを見ることなく、レティシアだけを見ていた。
今まで見たことがないほどの増悪を滲ませた、ともすれば冷ややかな瞳だった。
ぞわりと悪寒が走ったのはアルトだけではないようで、エルのさまを見たソフィアーナはレティシアの椅子の影に隠れて縮こまっている。
「貴方は」
「……め、て」
落ち着いたエルの言葉に、半ば被せ気味でレティシアが静止の声を漏らす。
その表情は恐怖で強ばっており、日に焼けていない白い肌が更に白くなっていた。
「なぜ止めろと言うんです?」
しかしエルは気にも留めず、殊更ゆっくりとした声で言った。
「……今日出席しなければ王配に手を掛ける、と脅したと皆に知れ渡るのが怖いと?」
「っ……!」
ひゅうと喉が鳴ったのはアルトなのかそれともレティシアか、貴族らなのかは分からない。
ただ、アルトだけはこの後に放たれる言葉が予想出来てしまった。
「え、でも」
本当にいいのか、という瞳をレオンに向ける。
スイーツの載った二皿を器用に片手に持ち変え、レオンはゆっくりと続けた。
「……殿下は貴方様がお傍に来るのを待ち望んでおられます。あれはそういうお顔です」
どこか哀愁漂う表情をしたかと思えば、ふっとミハルドの方に顔を向ける。
「兄さんも殿下が心配なのは分かりますが、あまりお怒りになりませんよう。……今回ばかりはアルト様にお譲りになられてはいかがです?」
周囲は王太子がなぜ居るのか、第二王妃は何を考えているのか、という声が溢れている。
けれど、静かなレオンの声だけが不思議と耳に入った。
ミハルドは薄く瞳を開き、エルが居る方向に視線を向けて呟いた。
「そう、だな。……今のあの方には、私よりもアルト様の方が適任だ」
何が見えているのかアルトには判然としないが、レオンの言葉を了承したようだった。
やがてアルトに視線を移し、ミハルドはゆっくりと口を開く。
血のように赤い瞳がこちらに向けられると、無意識に身構えてしまう癖は抜けないままだ。
アルトのかすかな仕草に、ミハルドは安心させるように柔らかく笑い、皿を持ったままゆっくりと礼をする。
「不躾なお願いで申し訳ありませんが、殿下をお止めください。王配殿下にしかできない事なのです」
「……殿下が何を仰るつもりなのか、私達にも分かりません。ですので、お行きください。後の事はこちらでなんとか致します」
ミハルドの言葉に重ねるようにレオンが口を開き、悲痛な面持ちのまま呟いた。
エルがレティシアの傍に居るという事は知っていても、パーティーで発する言葉までは把握していないのだろう。
幸い、未だざわめきは収まっておらず周囲の喧騒は続いている。
この分なら、急げば階段の真下にまで向かえるはずだ。
アルトは手の平に力を込め、短く唇を動かした。
「っ、分かった。何かあったらごめんだけど……行ってくる」
そう言い終わるが早いか、アルトは二人に背を向けて貴族らがひしめく中を掻き分けていく。
元いた場所から階段下までの距離が長く感じたが、皆が皆アルトの姿を目に留めると、すっと人波が階段下のほど近くまで引いていった。
(なんだ……?)
頭の片隅で不思議に思っているうちに、アルトの脚はエルの顔が見える位置に着く。
近くまで来ると、エルが眉間に皺を寄せているのがはっきりと見えた。
両手を手摺りに預け、忙しない視線を周囲に向けている。
まるで誰かをを探しているような様子だが、こちらに視線が向けられることはない。
「エル……!」
どうにかして気付いてほしくて、アルトは未だ収まらないざわめきの中、己が今出せる限りの声を張り上げた。
「っ!」
すると声が届いたのか、不意にエルの美しい瞳がこちらに向けられた。
アルトだけを見つめる水色の瞳が驚愕に揺れており、しかしどこか安堵しているようにも見て取れる。
一ヶ月ぶりにしっかりと見た顔は少しやつれていたが、愛しい男が己だけを見つめている事実に、得も言われぬ感動が迫り上がる。
今すぐにでも傍に行って、その身体を抱き締められない事が忌々しい。
階段で隔てられた距離を恨めしく思っていると、エルの唇がそっと動くのが見えた。
「さ、くま……」
囁きにも似た自身を呼ぶ声を耳が拾い、たったそれだけで視界が歪むのを感じる。
(駄目だ、泣くな)
レティシアの言う『挨拶』を周囲に言ってすらいないのに、ここで涙の一つでも零してしまえばエルは自身の置かれている状況も構わず、こちらに駆け付けてしまうだろう。
それだけはあってはならない、と頭の中の己が言っている。
「……どうしたの、エルヴィズ? 皆、貴方の言葉を待っているのですよ」
突然レティシアの声が広間に響いたことで、それまでざわめいていた貴族らは水を打ったように静まり返った。
「さぁ、早くご挨拶なさい。──私の言葉を忘れたわけではないでしょう?」
椅子に座ったまま、レティシアがしっとりとした声でエルに問い掛ける。
(一体何を言ったんだ)
レティシアの口振りからは、パーティーが始まる前に何かよからぬ事を囁いたのは明らかで、心臓が嫌な音を立てる。
本当ならば、今すぐにでもエルの口を塞いでこの場から連れ出してしまいたいが、なぜか脚は縫い付けられたように動かなかった。
次第に速くなっていく心音に耳を傾けながら、アルトはエルの一挙手一投足を注視する。
「……は、て」
(エル……?)
気を付けていなければ空気に溶けてしまいそうなほどの声が、不意にアルトの耳に届く。
それはこちらに向けられた言葉にも取れたが、顔を俯けてしまったためその意図は分からなかった。
やがてエルは手摺りに預けていた両手を離し、まっすぐに前を向くとぎこちなく口を開く。
「今日、集まってもらったのは他でもない」
ゆっくりと紡がれた言葉が、さざめきのように広間全体に広がる。
エルはそこで言葉を切り、唇を噛み締めるとしばらくの静寂の後、形のいい唇を動かす。
「──デレッタント帝国はソフィアーナ王女を娶るため、席を設けた」
「は、っ……?」
どくん、と心臓が一際大きく音を立てる。
低く、冷たい声音は紛れもない王太子としてのものだ。
しかし唐突なエルの言葉に、理解が追い付かないでいる。
「パーティーというのは建前だ。……この場に居る皆には、私とソフィアーナの門出を祝福して欲しい」
しんとした痛いほどの沈黙が広間を支配する。
(エルと、ソフィアーナ王女が……?)
何かの間違いではないのか。
正式に婚約した時も、幸せと恥ずかしさでいっぱいだった初夜の時も、レティシアと対面する前──ソフィアーナと顔を合わせた後でさえ『朔真しか愛してない』と言ってくれた。
嫌というほど愛されて、これからも二人で手を取り合っていくと思っていた。
この一ヶ月顔を合わせなかったのは、この事を言えなかったからではないのか。
言ってしまったら最後、己が離れていくと思ってしまったからではないのか。
だから手紙を書いて、少しでも安心させたかったのだろう。
俺は朔真『も』愛してる、と書いていなかっただけ偉いと思わなくては。
(たしかに、びっくりした……け、ど)
仲睦まじくしている二人を今後も見るのは嫌だな、と思ってしまう。
『パーティーが始まったら、俺の傍から絶対に離れないで』
三日前にこっそりと送られた、二枚目の乱雑に書かれた文面はたった今嘘だと分かった。
既にパーティーは始まっており、エルの傍に行く事もエルがこちらに来る事もできないというのに。
二枚目はソフィアーナに向けられたもので、間違えて入れてしまったものなのだ。
(こうなるなら、ちゃんと顔見て言ってほしかったな)
手紙を読んだ時は信頼しなかった自分を殴りたかったが、今はこの場から消えてしまいたい。
エルはまだ自分を愛してくれている、と再確認したのに最後の最後で裏切られた気分だった。
すると控えめな拍手がどこかから上がったのを皮切りに、周囲に伝播していく。
「おめでとうございます……!」
「王太子殿下とソフィアーナ王女へ祝福を!」
拍手とともに声は次第に大きくなり、それはアルトの耳をつんざくほどだ。
「は、っ……はは、……なに、してんだろ」
堪らず顔を俯けて額に手をあてると、何かが目の上に当たったのに気付く。
広間を照らすシャンデリアで、左手の薬指に嵌めた青い宝石がきらきらと輝いていた。
「……こんなの」
いらない、と口を突いてしまいそうな言葉をぐっと飲み込む。
顔を上げればエルが居る距離で、こちらを見ている可能性さえあるのだ。
おかしな素振りをしては不審がられてしまうし、そもそもこの指輪はソフィアーナに贈ろうとしたとも取れる。
本来ならば自分が付けているものではないのは明白で、しかし外そうという気にはとてもならなかった。
「皆様、ありがとう。さぁ、ソフィーもご挨拶をなさい」
レティシアの鈴の鳴るような声が広間に響くと、広間がゆっくりと静まっていく。
聞きたくないと思うのにアルトの耳は、視線は、階段の上に吸い寄せられていった。
「わ、わたし、は……」
叔母に名指しされ、一歩前に進むよう背を押されたソフィアーナはレティシアとエルとを交互に見つめ、唇をきゅうと噛み締める。
煌びやかなドレスを皺になるほど握り締め、何かを怖がっているようだった。
「そ、の……」
図書室で見たソフィアーナは、年頃の少女らしくエルを見つめる瞳が熱っぽかったように思う。
しかし、今すぐにでもこの場から逃げてしまいそうな雰囲気がソフィアーナにはあった。
「声が小さくて聞こえないわ。はっきりと、皆様に聞こえるように……」
「──とでも言えば満足ですか」
レティシアが苛立ちを滲ませた声で尚もソフィアーナに言葉を重ねようとすると、不意に氷のように冷たい声音が広間に響いた。
内にある怒りを少しも隠そうとしない、ともすれば恐怖で竦み上がってしまいそうな声だ。
「っ……!」
アルトはびくりと肩を竦ませ、反射的にエルを見たと同時に身震いする。
淡い水色の瞳には、普段は見せない軽蔑の色をはっきりと滲ませており、その視線はレティシアに向けられている。
「な、何を言っているの、エルヴィズ? 貴方がおかしなことを言うなんて……」
レティシアもエルの様子がおかしいことに気付いたのか、椅子から立ち上がる。
「おかしなこと? この状況でも十分おかしいと思いますが」
慌てて笑みを浮かべるレティシアとは対照的に、エルは冷静な口調で続けた。
「失礼を承知で第二王妃様へお尋ねしますが、よろしいですね?」
「……もったいぶらないで早く言ってちょうだい。ソフィアーナのご挨拶がまだなのですよ」
苛立ちを隠す気がないのか、レティシアが眉間に軽く皺を寄せる。
「……そうですね。でもその前に」
そこでエルは言葉を切り、身を乗り出すように手摺りに両手を掛けた。
「アルト」
「へ、っ……?」
まさか呼ばれるとは思わず、アルトは小さく声を漏らす。
まっすぐに絡み合った水色の瞳には冷たさなど一切なく、むしろ温かくて優しい色をしていた。
「そこに居るんだろう? ──おいで」
柔らかく紡がれた言葉は普段通りで、先程の声が、表情が、幻だと思う気さえする。
「俺、に……言って、る……?」
この状況が現実とは思えなくて、己に問い掛けるようにぽつりと呟く。
「貴方以外に他に誰がいるんだ。ほら、早く」
距離があるから声は聞こえていないはずなのに、アルトが何を言ったのかエルには届いたらしかった。
やや顔を綻ばせ、こちらに来いと手招きされる。
「え、……っと」
遠慮がちながらも、アルトはエルの声に導かれて一段二段と階段を上っていく。
階段を上がる度に貴族らの視線を一身に浴び、それは巨大になっていく。
──誰だ、あの男は。
──場違いなのではないか。
──王配殿下ともあろう者が、まさか嫌とは言うまい。
こちらを批難する幻聴が頭の中に響いてくる。
しかし目の前でエルが待っていてくれているからか、不思議と少しも気にならなかった。
ただただアルトだけを見つめているその瞳には、愛おしさで溢れているから。
(エルだ……)
先程まで身体が面白いほど震えていたのに、はっきりと姿を見てしまったからか、身体がエルの傍に行きたいと求めていた。
「……少し痩せたね」
最後の一段を上がりきりエルの目の前にやってくると、そっと頬に撫でられる。
一ヶ月ぶりに触れられた手の平は手袋越しだったが温かく、こんな時なのに安心してしまう。
「──レティシア様」
すると声音が怖いほど冷たさを帯び、それと同時にぐいと肩を抱かれた。
「っ」
突然の変化にアルトは目を白黒させていると、こちらの感情を悟ったのかエルがふっと微笑み掛けてきた。
肩を摑む大きな手の平が、大丈夫と安心させてくれる。
間近で手見下ろしてくる瞳は優しく、レティシアに向けるものとはまるきり違うのだと分かる。
(ごめん)
アルトは心の中で謝罪した。
こんなにも愛おしいという感情を向けてくれる相手は知らない。
だというのに、どうしてもエルの言葉や態度で一喜一憂してしまう。
一度信頼すると決めたのなら、最後まで信じるのが最善だと頭では理解していても、身体は意思に反して上手くいかないのだ。
ふと手の平の力がわずかに込められたのを感じ、ややあってエルはレティシアに向けて唇を開く。
「一ヶ月前ほど、貴方はご自身の使用人を使って手紙を寄越しましたね。……まぁ、私の側近が届けてくれたのですが」
ゆっくりと語られるエルの口調は冷静で、どこか他人事のようにも聞こえた。
「私のことが可愛くて堪らないといった貴方の文章には、正直なところ吐き気がしました」
ああ、と何かを思い出したのかにこりと微笑む。
「大事に取っておけ、と書かれたようですが……あんなものすぐに捨てましたので」
そこでエルは小さく息を吐き、遠くを見る仕草をする。
「……幼かった頃、私は貴方と仲良くなろうとした。けれど一度たりとも私を見てくれず、あまつさえ第三王妃様すら邪険に扱っていたというのに」
階段下の貴族達がざわめくのを肌で感じた。
アルトはそっとそちらに目を向けると、誰もが信じられないものを見るような瞳でレティシアを見ていた。
「おい、嘘だろ……あの第二王妃が」
どこかから聞こえた一声を合図に、喧騒が大きくなる。
どうやらレティシアは誰に対しても対等で優しく、穏やかな性格だと知れ渡っていたらしい。
エルの声は普段よりずっと低く静かな分、広間の端から端まで広がっていく。
「ご自身の子であるケイトですら、貴方は虫を追い払うような扱いをされていた。それを使用人にも徹底していて、ケイトを一人残してどこかへ行く事もざらだった……そう、聞いています」
ちらりと階下へ視線を向け、続いてエルは憐憫に満ちた瞳をレティシアに向ける。
「そんな方が次は何をするか分からないほど、私は落ちぶれていない」
言いながら肩に添えられていた手の平が外され、ぎゅうと手を握られる。
「エル、ヴィズ……?」
痛いほどの強さに、アルトはわずかに顔を顰める。
しかしエルはこちらを見ることなく、レティシアだけを見ていた。
今まで見たことがないほどの増悪を滲ませた、ともすれば冷ややかな瞳だった。
ぞわりと悪寒が走ったのはアルトだけではないようで、エルのさまを見たソフィアーナはレティシアの椅子の影に隠れて縮こまっている。
「貴方は」
「……め、て」
落ち着いたエルの言葉に、半ば被せ気味でレティシアが静止の声を漏らす。
その表情は恐怖で強ばっており、日に焼けていない白い肌が更に白くなっていた。
「なぜ止めろと言うんです?」
しかしエルは気にも留めず、殊更ゆっくりとした声で言った。
「……今日出席しなければ王配に手を掛ける、と脅したと皆に知れ渡るのが怖いと?」
「っ……!」
ひゅうと喉が鳴ったのはアルトなのかそれともレティシアか、貴族らなのかは分からない。
ただ、アルトだけはこの後に放たれる言葉が予想出来てしまった。
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BL
「い、いやだ、いや……。捨てないでっ、お願いぃ……。な、何でも!何でもするっ!金なら出すしっ、えっと、あ、ぱ、パシリになるから!」
そう言って涙を流しながら足元にすがり付くαである彼氏、霜月慧弥。ノリで告白されノリで了承したこの付き合いに、βである榊原伊織は頃合いかと別れを切り出したが、慧弥は何故か未練があるらしい。
チャライケメンα(尽くし体質)×物静かβ(尽くされ体質)の話。
魔界最強に転生した社畜は、イケメン王子に奪い合われることになりました
タタミ
BL
ブラック企業に務める社畜・佐藤流嘉。
クリスマスも残業確定の非リア人生は、トラックの激突により突然終了する。
死後目覚めると、目の前で見目麗しい天使が微笑んでいた。
「ここは天国ではなく魔界です」
天使に会えたと喜んだのもつかの間、そこは天国などではなく魔法が当たり前にある世界・魔界だと知らされる。そして流嘉は、魔界に君臨する最強の支配者『至上様』に転生していたのだった。
「至上様、私に接吻を」
「あっ。ああ、接吻か……って、接吻!?なんだそれ、まさかキスですか!?」
何が起こっているのかわからないうちに、流嘉の前に現れたのは美しい4人の王子。この4王子にキスをして、結婚相手を選ばなければならないと言われて──!?
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買われた悪役令息は攻略対象に異常なくらい愛でられてます
瑳来
BL
元は純日本人の俺は不慮な事故にあい死んでしまった。そんな俺の第2の人生は死ぬ前に姉がやっていた乙女ゲームの悪役令息だった。悪役令息の役割を全うしていた俺はついに天罰がくらい捕らえられて人身売買のオークションに出品されていた。
そこで俺を落札したのは俺を破滅へと追い込んだ王家の第1王子でありゲームの攻略対象だった。
そんな落ちぶれた俺と俺を買った何考えてるかわかんない王子との生活がはじまった。
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美少年に転生したらヤンデレ婚約者が出来ました
SEKISUI
BL
ブラック企業に勤めていたOLが寝てそのまま永眠したら美少年に転生していた
見た目は勝ち組
中身は社畜
斜めな思考の持ち主
なのでもう働くのは嫌なので怠惰に生きようと思う
そんな主人公はやばい公爵令息に目を付けられて翻弄される
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
今世はメシウマ召喚獣
片里 狛
BL
オーバーワークが原因でうっかり命を落としたはずの最上春伊25歳。召喚獣として呼び出された世界で、娼館の料理人として働くことになって!?的なBL小説です。
最終的に溺愛系娼館主人様×全般的にふつーの日本人青年。
※女の子もゴリゴリ出てきます。
※設定ふんわりとしか考えてないので穴があってもスルーしてください。お約束等には疎いので優しい気持ちで読んでくださると幸い。
※誤字脱字の報告は不要です。いつか直したい。
※なるべくさくさく更新したい。
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実はαだった俺、逃げることにした。
るるらら
BL
俺はアルディウス。とある貴族の生まれだが今は冒険者として悠々自適に暮らす26歳!
実は俺には秘密があって、前世の記憶があるんだ。日本という島国で暮らす一般人(サラリーマン)だったよな。事故で死んでしまったけど、今は転生して自由気ままに生きている。
一人で生きるようになって数十年。過去の人間達とはすっかり縁も切れてこのまま独身を貫いて生きていくんだろうなと思っていた矢先、事件が起きたんだ!
前世持ち特級Sランク冒険者(α)とヤンデレストーカー化した幼馴染(α→Ω)の追いかけっ子ラブ?ストーリー。
!注意!
初のオメガバース作品。
ゆるゆる設定です。運命の番はおとぎ話のようなもので主人公が暮らす時代には存在しないとされています。
バースが突然変異した設定ですので、無理だと思われたらスッとページを閉じましょう。
!ごめんなさい!
幼馴染だった王子様の嘆き3 の前に
復活した俺に不穏な影1 を更新してしまいました!申し訳ありません。新たに更新しましたので確認してみてください!
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