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第二部 四章

忍び寄る影 3

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 ◆◆◆



 うららかな午後、エルはベアトリスに向けて後ろ手に持っていたものを差し出した。

『ベアトリスさま、これ!』

 それは赤や青、白に桃色といった小さな花束だった。

 天気がいいからお茶をしようとせがみ、準備まで少し時間があったためエル自ら庭で摘んできたのだ。

 傍には使用人が居てくれ、何かあれば手伝ってくれたため見映えはいいはずだ。

『まあ、これくらいのことにお礼なんていらないのに……』

 ベアトリスは苦笑しつつも、花束を受け取ってくれた。

『いい匂いね……ありがとう、エルヴィズ。とっても嬉しいわ』

 そっと花束を抱き締め、ベアトリスはふわりと花開くように微笑んだ。

 緩く結った亜麻色の髪が太陽の光を受けて輝き、さながら女神のようで目を奪われる。

『えっ、と』

 エルはもごもごと口を動かした。

 喜ぶ顔を見るために花を摘んだのだ、と言えば笑われるだろうか。

 いや、ベアトリスならばそんなことはしないだろう。

 現にエルからの花を喜んでくれている、それだけでこちらまで嬉しかった。

 これ以上を望めば罰が当たる、と思い込もうとする。

『──何をしているの?』

 ふと高く艶のある声が聞こえ、エルは顔を上げる。

『レティシア様』

 こんにちは、とベアトリスが言う。

 侍女らしき使用人を引き連れた女性──第二王妃であるレティシアがこちらに向かって歩いてきた。

 その数歩下がったところからケイトが着いてきており、興味深そうにこちらに視線を寄越している。

 レティシアはややウェーブのかかった茶髪を耳の後ろで束ね、太陽の光を受けて輝く装飾品これでもかと付けている。

 あまり華美を好まない父やベアトリスとは対照的で、エルはそんな第二王妃に苦手意識を持っていた。

 ベアトリスが控えめな野花ならば、この人は美しく豪華な花と形容した方がしっくりくるだろう。

 やがてレティシアがテーブルの前にやってきて、ちらりとエルを一瞥する。

(あ、もしかして)

 甘いお菓子や紅茶が好きなのかもしれない、と思い至りエルは自分の前の皿に置いていたクッキーを差し出そうとする。

『……ごきげんよう、エルヴィズ様』

 しかしそれよりもわずかに早く、レティシアが挨拶をした。

『こ、こんにちは!』

 エルは摘んでいたクッキーから手を離し、慌ててお辞儀をする。

 声を掛けられたら挨拶をなさい、とベアトリスから言われているからだ。

 そんなエルとレティシアの様子を見つめ、やがてベアトリスが口を開いた。

『今日はお天気がいいでしょう? こんな日はお日様に当たらないといけませんから』

 穏やかにレティシアへ声を掛けると、その後ろできらきらと目を輝かせているケイトに向けて言った。

『よろしければケイト様も……お母君とご一緒にお茶をしませんか? ケイト様が居てくれたら、エルヴィズも喜ぶわ』

 まさか自分に声を掛けてくれるとは思わなかったのか、ケイトはぱちぱちと目を瞬かせる。

『お、おれ……』

『──ありがたいけれど、遠慮しておくわ。私はあまり日に焼けたくないの。せっかくの肌が皺だらけになってしまうから』

 しかしケイトの声を遮るように、レティシアがやや声高に言った。

(ケイトがなにか、いおうとしてたのに)

 きゅっと眉尻を下げ、どこか憐憫れんびんにも似た表情をする人間を見たことがなくて、エルはレティシアに対して少しの違和感を覚える。

 実際、ケイトとはあまり話した事がない。

 何が好きで、自身のことをなんと呼んでくれるのか知りたいし、単純に仲良くなりたかった。

 レティシアの言葉に、ベアトリスは慌てて声を出した。

『で、ではお部屋に戻りませんか? 準備に時間が掛かってしまうけれど、貴方とゆっくりお話してみたくて』

『私と? なぜ?』

 心底分からないと言った口調でレティシアが言う。

 ベアトリスは一瞬瞼を伏せた後、きゅっと唇を噛み締めて小さく呟いた。

『その、陛下の元に嫁いでから、私たちは今までほとんどお話した事がないでしょう? 私は貴方と仲良くなりたいのです。だって──』

『お誘いありがとう、ベアトリス様』

『っ』

 ベアトリスが小さく息を呑む。

 エルから顔を逸らしたためその表情は見えなくなったが、レティシアの声が静かに響いた。

『──でも、私は話す事なんかないわ。それよりも早くこの場を去りたいの。これから街に出るから声を掛けただけなのに、貴方とゆっくりお茶をする暇なんかないのよ』

 行くわよ、とレティシアはケイトと侍女に向けて言うと、足早に庭を後にした。

 侍女は丁重にお辞儀をすると、ケイトの背を軽く押して歩くよう促す。

 ちらちらとこちらを気にしていたが、母を待たせる訳にはいかないのだろう。

 後ろ髪引かれて去っていくケイトの後ろ姿を見えなくなるまで見送ると、それまで黙っていたエルはベアトリスの傍に回り込む。

『ベアトリスさま……?』

 見上げた母親代わりのその人は、エルがあげた花束を持ったまま小さく震えていた。

『だいじょうぶ? おなか、いたい……?』

 そっと膝に手を置き、顔を覗き込むとエルは小さく息を詰めた。

『あ……』

 声を殺して、ベアトリスは泣いていた。

 大きな瞳からは大粒の涙がいくつも伝い、エルの顔に落ちていく。

 エルはどうしていいものか分からず、きょろきょろと周囲に視線を彷徨さまよわせるしかできない。

 するとベアトリスの侍女の一人が慌ててこちらにやってきて、そっと肩を抱いた。

『お部屋に戻りましょう。……エルヴィズ様も、あまりお話してはいけませんよ』

 その意味が誰に向けてで、どんな意味を持って言われたのか、唐突な事に気が動転しているエルには分からなかった。
 
 

 ◆◆◆


 
「ん……」

 ふっと意識が覚醒し、エルは何度か瞬きを繰り返す。

(まだ夜、か……)

 窓から見える空はどんよりと暗く、ぽつんと浮かんだ月が周囲を煌々と照らしていた。

 まだ太陽が出るには時間があるだろう、と思い直す。

 もそりと寝返りを打つと、隣りには愛しい男が健やかな寝息を立てていた。

 エルはそんなアルトの頭をそっと撫で、ゆっくりと口角を上げる。

(久しぶりに見たな)

 まだベアトリスが存命で、自身も幼かった頃の夢だった。

 あの時はあまりにも純粋で、目の前の事にしか意識が向いていなかった。

 子供とはそういうものだと理解しているが、もしもあの時何か言い返していたら、と思わずにはいられない。

(でも、きっと……貴方は咎めるんだろう)

 ベアトリスはエルが知る中で誰よりも心優しく、争いを好まない人だったということを一番知っている。

 レティシアに対して、根気強く話し掛けていたのも仲良くなりたいためだと今なら理解出来るが、仮にその時分かったとしても嫌悪感の方が強いだろう。

 覚えている限り、レティシアはベアトリスからの誘いをことごとく断り、加えて小さな嫌がらせもしていたというのに。

 それを見ているしかできなかった自分もだが、レティシアに対しても不快でしかなかった。

(あの人の本心が分からない)

 愛する者は王配のみ、と神の前で誓ったのにこれ以上──レティシアの息がかかっているであろう身内が王宮内に居るのは、特に嫌だった。

 それに、ベアトリスと同じく自身は嫌われていたはずだ。

 しかしエルが結婚すると、レティシアは今までの事が無かったかのように優しくなった。

 なぜと思ったが、すべてはエルの血を引く子を産ませるため、という理由ならば最悪以外の何物でもない。

 王宮にソフィアーナを呼び寄せた理由も、レティシアの企みのうちの一つだとすれば、警戒するに越した事はなかった。

(そういえば……何かを後で届けさせるって言ってたっけ)

 それが何であるのか分からないが、どうあれエルにとってはゴミにも等しいものだ。

 アルトを起こさないようそっとベッドから降り、エルは執務室に続く扉を開ける。

 一度考えると目が覚めてしまい、このままでは寝付けそうにないのだ。

「っ!」

 執務室には一つの大きな影があり、エルは出そうになる悲鳴をすんでのところで飲み込む。

 やがて月明かりがその人の姿をぼんやり照らすと、エルは目をすがめた。

「……レオン、か」

 エルの声に男──レオンはゆっくりとこちらに視線を向けた。

 髪を下ろしているが、ミハルドよりも分かりやすい殺気がない。

 瞳は赤いが、ミハルドが血のような黒さを持ち合わせているのに対してレオンはわずかに明るく、赤みが強かった。

「──おや、驚いた。まさか起きていらっしゃるとは」

 どうやら起こしてしまったと思ったようで、レオンも普段は見せない驚きの色を表情に浮かべていた。

「いや、寝付けなかっただけだ。……何かあったのか」

 エルはわずかに掠れた声のまま、ゆっくりと問い掛ける。

 昔からの腐れ縁である以前に側近でもあるため、こんな夜更けに執務室に居てもおかしくはない。

 しかしレオンは何も持っておらず、見たところ手ぶらなようだった。

 エルが首を傾げていると、レオンが一歩一歩距離を詰めてくる。

「起きて来られた時にお渡ししようと思っていたのですが」

 言いながらそっと白い封筒を差し出され、エルはいぶかしみつつもそれを受け取った。

(なんだ……?)

 開けようとすると既に封が切られており、少しの疑問が残るものの便箋を開く。

 ふわりとどこかの花のきつい香りが漂い、図らずも顔をしかめた。

「……こちらに来る途中、第二王妃様のお付きの者にお会いしまして。時間も時間なので、私が届けに参った次第です。その時に中をあらためさせて頂いたのですが、よろしかったでしょうか」

 レオンはエルの心情を察してくれたようで、それを右から左に聞き流しつつもう一つの疑問を口にした。

「それは構わないが、なぜ髪を下ろしているんだ? お前は、確か……部屋に戻るまで解かないはずだろう」

「ああ、あちらの方は兄が怖いようです。なんでも、何を考えているのか分からないとか」

 お顔を見た時には解こうと思っていたので丁度良かったですが、とレオンは続ける。

「ふぅん」

 エルは小さく相槌を打つと、改めて便箋に目を向けた。

『可愛い可愛いエルヴィズへ』

「ひ……っ!」

 小さな悲鳴が己の口から出そうになるのをなんとか抑え込み、その下の文字に恐る恐る視線を移す。

『いいこと? 絶対に、絶対にパーティーに出席するのよ。その時、ソフィアーナを正式に娶ると宣言なさい』

 名は書いていないが伸びやかな筆跡には見覚えがあり、同時に背筋に冷たい汗が伝う。

 何かが胃からせり上がりそうになったが、口元を抑えて耐えた。

 たったそれだけの短い文章を、何度も頭の中で間違いかもしれないと思い込む。

 しかし何度読もうと同じ言葉が書かれており、知らずのうちに浮遊感に襲われる。

「殿下……?」

 目を見開いて微動だにしないエルを不審に思ったのか、レオンがまた一歩距離を詰めてくる。

「っ、……!」

 バシ、と反射的に伸ばされた手を叩き落とした。

「は、っ……?」

 何が起こったのか分からないというような表情で、レオンが目を瞠る。

 けれどすぐにその心情を察してくれたらしく、ゆっくりと呟いた。

「……申し訳ございません。やはり今、お見せするべきではありませんでした」

 すみません、とレオンはもう一度謝罪の言葉を繰り返し、やがて頭を下げる。

 しかしエルは息をするだけで精一杯で、何も聞こえていない。

(なんで、なんで……!)

 ぐしゃりと力任せに手の中のものを握り締め、血が滲むほど唇を噛む。

 それはエルにとって悪夢にも等しいものだった。

 加えて己がこうなった原因である言葉を二度も伝えられ、このままではもう一度倒れてしまいそうな心地さえする。

「エル……?」

 不意に少し甘い声を耳が拾い、そこでエルは顔を上げる。

 見つめた先は寝室と執務室を繋ぐ扉で、どこか寝惚け眼のアルトが立っていた。

「どうした、んだ……? ミハルドさん、も」

「おっと」

 そこでレオンは今の己の出で立ちに気付いたのか、短く声を漏らす。

「レオンです、王配殿下。……起こしてしまい、申し訳ございません。重ねてお願いをしてしまい恐縮なのですが、王太子殿下を──エル様を寝室に連れて行ってくださいますか?」

 アルトの傍に掛け寄り、レオンは殊更ゆっくりと言葉にする。

「……ん。エル、寝よう」

「っ!」

 くいと己の袖を引く気配に、知らず肩が跳ねた。

 その手はアルトだと分かっているが、身体が己以外のすべてを敵だと思っているようで、意思に関係なく拒絶してしまう。

(ちがう。……さくま、だ)

 しかしエルは迷わず手を伸ばす。

 自分よりもわずかに小さいこの手は嫌な事をしない、と身体が分かっているからだ。

 ぎゅうと手を握られる感覚に、エルの意識が少しずつ現実に引き戻される。

 温かく、それでいて力強い手は、先程感じた悪寒をゆっくりと溶かしていく。

「……おやすみなさいませ」

 アルトに先導され寝室に続く扉が閉まろうとしている時、背後から投げられたレオンの声が、どこか物悲しく響いた。
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