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第二部 四章

忍び寄る影 2

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「……眠そうだね」

 ぽんぽんと頭を撫でられ、ゆっくりと瞼を開ける。

 目をすがめつつ顔を上げると、すぐに優しい声が降ってきた。

 少しの間エルの胸に身体を預けていたようで、自身を半ば無理矢理包み込んだ外套は肩に掛けられていた。

「ついた、のか……?」

 眠気でぼうっとした瞳のまま問い掛ける。

 そんなアルトにエルは口角を上げ、やや掠れた声で言った。

「立てる? それとも、このまま抱いていこうか?」

 どこかからかいを含んだ声音と、愛おしさを隠そうともしていない瞳に、段々とアルトの意識がはっきりとしてきた。

「そ、そんなのしなくていい! ……ってぇ!?」

 身体を離そうとしたが、馬車の中は狭い。

 そう距離が開くはずもなく、勢い余って扉へしたたかに背中を打ち付け、アルトはしばらく痛みにもだえる。

っ……頭も、……ぶつけ、た」

 つくづく己は不意打ちに弱いと思うと同時に、エルの声や表情ひとつ取っても耐性がないようだ。

(そりゃあ綺麗な顔だし……そもそも、最初があれだったし)

 ここはどこでこの身体は、周囲の人間は誰なのか何も理解できず、あれよあれよと王宮へ向かった時の事を思い出す。

 同性というのを抜きにしても、エルは美しいと思った。

 初対面の人間に『綺麗』だという感想を抱いてしまったことは否めない。

 しかし、今では誰よりも愛しくて誰にも渡したくない、と思っているのだから不思議なものだった。

「──朔真」

「っ!」

 耳元で名前を呼ばれ、びくりと肩が跳ねる。

 ゆっくりとした、やや高く掠れた声は別の意味で心臓が高鳴った。

 そろりとこちらに手を伸ばされ、反射的に目を閉じる。

「痛かったよね。赤くなってない……? 頭はなんともない、かな」

 大きな手でそっと背中を撫でられ、続いてぶつけたであろう頭も撫でられる。

 どちらもじくじくと痛むが、エルがあまりにも悲しそうな顔をしているため、段々とおかしくなってくる。

「びっくりした俺が悪いのにそんな顔するなよ」

 しばらくすれば収まるから、と付け加える。

 大事にされているのは分かるが、こちらの不注意にエルが気を揉む必要はないのだ。

 けれど聞き入れてくれない事は十分に理解しているため、代わりにやんわりと唇を尖らせる。

「俺だって同じ男なんだ、そんなにヤワじゃない」

 異性であれば優しさを受け入れるかもしれないが、こればかりは同性としてのプライドがあった。

 エルまでとはいかないが、身体を鍛えているため馬鹿にしないで欲しい。

 そんな思いで言うと、エルはぱちくりと瞬くとやがて微笑んだ。

「……そう、だね。ごめん、貴方は強いのに」

 まるで親に叱られた幼子のように声が落ち、今度はアルトが頭に疑問符を浮かべる番だった。

(なんか……やっぱりおかしい気がする)

 普段ならば反論しても愛おしそうにキスをしたり、更にくっつこうとしてくるというのに、エルはそれ以上何もしない。

 むしろ王宮に着く前にした触れるだけの短いキスが幻であるかのようで、どこか違和感があった。

(これならもうしばらく……いや、あと一日でも邸に居たら良かったかもしれない)

 エルの身体の疲れは取れているはずだが、まだ少し掠れた声ではいつ再発するか分からない。

 しかし本人が『戻る』と言ってはばからないため、王宮へ戻る予定を早めたのは否定できなかった。

「──違う」

 やがてアルトは小さく呟くと、両手でエルの手を取った。

「謝ってほしいわけじゃないんだ。ただ、子供扱いは……やめてほしいな、って。俺は、えっと……その、お前のだし」

 頬が赤くなるのを感じるが、つっかえつつも唇を動かす。

 しかし言葉にしなければ何も伝わらないのだ。

 きゅうと長く大きな手を握り締め、エルの目を見つめながらゆっくりと言った。

「さっきも言ったけど辛かったり……話すのが無理だったら、俺が守るから。だから」

「ふ、っ」

 吐息にも似た小さな声が馬車に響いたかと思えば、それは次第に笑い声に変わった。

「エル……?」

 何か変なことを言ってしまったのか、と思っているとエルが目尻に涙を浮かべながら呟いた。

「いや、おかしいんじゃなくて、ね。頼もしいな、って」

 くすくすと未だに笑っているため説得力がないが、やがて収まったのかエルは微笑んで言った。

「ありがとう。やっぱり貴方は……俺には勿体ない人だ」

 エルはアルトの両手をきゅうと握り返すと、触れるだけのキスを手の甲に落とした。

「降りようか、御者もずっと待っててくれてるみたいだし。それに、早く父上にも報告しないと」

「あ」

 背中や頭をぶつけた事で忘れていたが、既に王宮に着いていた事を思い出す。

 同時に、ここまでのやり取りを御者にも聞かれていたのだと思うと、なんとも言えない羞恥心が募っていく。

 そんなアルトに向けて、エルは額に優しく口付けた。



 ◆◆◆



「ご心配をお掛けし、申し訳ございません。エルヴィズ・リストニア並びにアルト・リストニア、ただいま戻りました」

 エルは玉座からこちらを見下ろす父王──ライアンに向け、うやうやしくひざまずくと頭を下げた。

 すぐ隣りにはアルトもおり、エルにならうのが視界の端に映る。

「今回、俺の勝手な願いを聞き入れてくれた事……大変ありがたく思います」

 ありがとうございます、とアルトは慣れない口調で礼を述べる。

「──二人とも楽にしなさい。この場には私しかいないのだから」

 低く、しかし背筋の伸びる声音が耳に届く。

「……はい」

 エルは言葉通り顔を上げると、豪奢な椅子にゆったりと座るライアンを見つめた。

 やがて海に似た碧眼が細められる。

「ミハルドから伝え聞いた時、最初こそ何をと思ったものだが……結果的に快復したようだな。アルト、君には感謝してもしきれない」

 ありがとう、とライアンはアルトに向けて頭を下げた。

 その姿にアルトだけでなくエルも瞠目した。

 一国の王が目下の人間──そうでなくても王配に向けて頭を下げるなど、本来であれば有り得ない事なのだ。

 しかしライアンの性格を熟知している者、特にミハルドが居れば『また始まった』と言う姿が見える。

 よく言えばお人好し、悪く言えば考えなしと揶揄されるほど、ライアンは自由気ままだ。

 それでも国は円滑に進んでいるため、常に周囲が結束している賜物たまものだと言えるのだが。

「ちょ、やめてください! 俺はただ、エルにゆっくり休んでほしくて……」

 すぐさまアルトが抗議の声を上げたが、しかしライアンはどこ吹く風と言ったふうだ。

「ああ、分かっている。君が考えてくれた事に異論は無いんだ。ただ」

 そこでライアンは言葉を切ると、額に手をあて伏し目がちに呟いた。

「……面倒な事になった」

 いつになく憔悴しきった姿に、エルは唇を噛み締める。

(やっぱり問題が起こってしまった。それに、父上は真面目な方だから)

 エルは小さく嘆息し、未だ掠れた声のまま問うた。

「何か、あったのですか」

「昨夜ミハルドが報告してくれた。本来ならレオンハルトが、になるんだが──どうやらこの国の事情を貴族らに教えている者が王宮内に居るそうだ」

 それは情報漏洩にも等しく、しかし何を漏らしたのかまではまだ分からないという。

 ただ、それは『王宮に出入りしていない』貴族に限られ、中には社交界でも噂になっているらしい。

 それが機密情報であり、謀反を起こそうとしている国に流れてしまえば、その国と戦争が始まる日も近い。

 リネスト国は広大な土地と人口を有しているが、一部の人間がライアンを玉座から引き摺り下ろそうとしているのも事実だった。

「近々レオンハルトが報告すると思うが……最悪、私の予想が当たっていたとすれば……言わずとも分かるな?」

 ライアンはこちらをじっと見つめ、低く冷たい声を出した。

 しかしその瞳の奥は紛れもない闘争心が燃えており、同時に理解する。

 最悪の場合、ライアンは国王として、また騎士として、敵を迎え撃とうとしている事を。

(俺は)

 やはり敵わない、と思った。

 いくら己が剣や体術に優れていようと、国を背負って戦うという覚悟は実際のところあまり無い。

 悲しいかな、今は隣りで国王の言葉に耳を傾けているアルトを──『朔真』を守るだけで精一杯なのだ。

 それに、戦争となってしまえば一人残していく訳にはいかない。

 いや、それ以上に愛しい男が悲しむ顔など見たくない、というのが本音だった。

「──エルヴィズ」

「っ、はい」

 不意に名を呼ばれ、エルは慌てて返事をする。

「すまないな、戻って早々にこんな話をして。……アルト、君も疲れただろう。今日はゆっくり休みなさい」

 エルが視線を向けるとぎこちなく微笑み、ライアンは退室を促す。

 先程見せた冷たい表情はなりを潜めており、代わりに普段と同じ優しげな瞳を向けていた。

「失礼、致しました」

 エルは小さく頭を下げ、王の間から退室する。

 やがて扉が重い音を立てて完全に閉まると、後ろを着いてきていたアルトに向き直った。

「っ、危な……」

 アルトが言い終わる前にぎゅうと抱き締める。

「え、な、エル……!?」

 突然の事にアルトが拒否しようと腕を突っぱねているが、それすらできないほど強く抱き竦めた。

「ちょ、皆通ってる、から……」

 か細い声が耳に響いたが、今ばかりは使用人などに目を配る余裕は無い。

(朔真が俺の傍から離れないって分かってるけど)

 それでもライアンの言う『最悪』が当たってしまえば、エルはどうするか自分でも分からない。

 国全体が戦火となる可能性もあるため置いていくなどできず、かといって悲しませるような事もしたくない。

 己の病状も少しずつ落ち着きつつあり、今日から穏やかで楽しい日々を過ごして欲しい、と思った矢先にこれなのだ。

 先程から同じような考えが頭の中でぐるぐると渦巻き、目眩がしそうだった。

(離さない)

「……絶対、俺が守る」

「っ」

 囁くように低く言った言葉は、アルトの耳にしっかりと届いたようだ。

 胸を押していた手は弱まり、その代わり控えめに抱き締め返される。

 ライアンに帰城を報告した後、それも王の間がある扉の前で何をしているのか、とレオンが居れば怒髪天を衝かれそうだが今はこうしていたかった。

 ちらほらと廊下を歩く使用人に目を向ける余裕も出来た頃、足早にこちらに向かってくる人間が視界に入る。

「……ぁ、っ」

 その人を見た瞬間知らず身体が震え、息が苦しくなる。

 心做しか喉がじくじくと痛み、手に力が入らなくなる錯覚があった。

「エル……?」

 異変に気付いたのか、アルトがそろりと顔を上げるのが分かった。

 しかし身体は段々と震えが大きくなり、脚から先が冷えていく。

「──あら、エルヴィズ」

 女性特有の高い声が耳に入り、ぞわりと肌が粟立つ。

「ここのところ姿が見えないから心配したのですよ。もう体調は大丈夫なのですか?」

 眉間に皺を寄せ、高らかな靴音を立てて廊下の向こう側から歩いてきた人物──レティシアが、表情には少しも似合わない猫撫で声で言った。

 傍から見れば街から戻ってきた王太子を心配し、第二王妃がわざわざやってきたとも取れる。

 しかし、エルは知っている。

 この女が次に何を言い、どんな行動を取るのかを。

 エルは震えそうになる身体を叱咤し、アルトを抱き締める。

「……そんなに警戒しないでくださいな。私は貴方とお話したいだけなのですよ」

 くすりと口角を上げ、レティシアが目を細める。

 嘘を言うな、と言ってやりたいが喉は少しも動かない。

 昨日の時点でほとんど治ったと思っていたが、レティシアを前にしていると、唇を開いては閉じてを繰り返すしかできなかった。

「でも少し顔色が悪いですね。用があったのだけれど、また日を改めるか……そうだ、使用人に届けさせるわ」

 構いませんか、とエルに目を向ける。

 どこか爛々と輝く碧眼は、こちらを品定めしているとさえ感じるほどだ。

 しかしこのまま黙っている訳にもいかず、エルはぐっとアルトを抱く手に力を込めると声を絞り出した。

「は、……い」

 ただの短い応答だけだというのに、か細い声しか出ない己の身体が恨めしい。

 けれどエルの態度に満足したようで、レティシアは更に笑みを深めた。

「ありがとう、ではね。エルヴィズ……王配殿下も、また」

 さも上機嫌な様子で、レティシアは来た時と同じく靴音を立てて戻っていった。

 やがてレティシアの姿が完全に見えなくなると身体の震えも収まり、そこでアルトがじっと顔を見つめているのに気付いた。

「ごめ、……俺、まだ」

 治ってなかった、と言おうとした言葉は指先が唇に触れたことで遮られた。

「……言わなくていい」

 間近で感じたエルの変化に戸惑っている様子だが、アルトは努めて落ち着いた声で言った。

「部屋に戻ろう。歩ける、よな……?」

 こちらを先導するようにそっと手を差し出され、エルは手とアルトとを交互に見つめる。

 どこまでも気遣ってくれ、声を掛けてくれる男が愛おしい。

 普段であれば己が手を差し伸べる立場だが、今はその手が何よりもありがたかった。

「……ん」

 小さく頷くと、自身よりも少し小さな手にそれを重ねる。

 不思議と脚はすぐに動き、エルはアルトの後を着いて部屋に続く廊下から階段を上がっていく。

 時々こちらを向く瞳があまりにも優しく、ともすれば泣いてしまいそうな気がした。
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