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第二部 三章
秘め事と思惑 5
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◆◆◆
「──うん、今のところは大丈夫なようですね」
ローガンの言葉に、エルは知らず詰めていた息を細く吐き出した。
数分前にアルバートに呼ばれ応接室へ向かうと、ローガンがこちらの来訪を待っていたのだ。
挨拶もそこそこにソファに座ると顔色や体調の有無に始まり、脈や喉などの細かな触診がされた。
ローガンは一息つくと、エルから視線を外してゆっくりと言う。
「アルト様から一時的に邸に身を置く、と突然提案された時は驚きましたが……結果的に殿下の体調はもちろん、お声も少しずつ安定している」
心からほっとした表情を見せ、ローガンは続ける。
「本当に……あの方には恐れ入る」
どこか慈しみを思わせる声に疑問を持ったが、すぐに納得した。
アルバートの息子ということは『アルト』の幼少期を知っているということだ。
しかし、とんと『アルト』には関心が無いという事実に自分で驚く。
(朔真の方が好きになってるからだろうな)
事実、結婚してからはずっと『朔真』しか見ていなかった。
倒れる前も今も、エルの瞳は『アルト』の見た目をした違う男に向けられているのだ。
打ち明けられた時は驚いた部分もあるが、気付けば『朔真』のことを『アルト』よりも愛おしいと思い、この命に変えても絶対に守るという誓いを立てていたのだから不思議なものだ。
控えめに微笑んでくれる時はもちろん、時として向けられる怒った表情ひとつでさえエルの理性は暴走しかける。
本来であれば誰の目にも触れないところで大切に囲い込み、自分以外の人間と話して欲しくないほどだった。
(嫌われるから抑えてるけど──最悪、いつかみたいに閉じ込めるのも手かな)
エルは己の胸の内でそっと呟く。
一時期とはいえ監禁していたのは事実だが、その時と今ではは状況が違うのだ。
名実ともに王配となり、隣りに立ってくれている。
この国をより良くしようと、自分の出来る事に奔走している姿は目を瞠るものがあった。
互いに多忙で二人の時間を取れない時もあるが、エルにとっては傍に居てくれるだけで嬉しい反面、やはり物足りない時もあるのだが。
「──そういえば殿下」
ふと何かを思い出したようにローガンが口を開き、こちらに視線を向ける。
エルは緩く首を傾げ、続く言葉を待った。
「王宮にはいつお戻りになるのか、と陛下が申しておりましたが……どうなさいますか」
「ちち、うえ……が?」
エルはそっと唇を動かすだけでなく声を出した。
公爵邸に身を置くようになってから三日が経った今、短い言葉なら声を出せるようになっている。
自分を亡き者にしようとする人間がいないためか、ここ数日で驚くほど回復しているとさえ思うほどだ。
「ええ。正確には貴方様をよく思っていない方々が、ですが。陛下としては心ゆくまで休め、と仰っておりました」
ローガンは眉間に皺を寄せて頷くと、やがて溜め息を吐いた。
「私とてゆっくりと休んで頂きたい。しかし、貴方様には少なからず敵がいらっしゃる。……第二王妃様を崇拝する貴族の方が大半ですが、警戒するに越した事はありません」
聞けば王宮だけでなく貴族の屋敷にも出入りしているらしく、王宮の噂話はもちろん庶民の生活の事まで耳に入るという。
その中には王族を中傷する者もおり、人知れず苦虫を噛み潰した時も少なからずあったらしい。
「恐れ多くも王族の方々を侮辱するとは、と勢いに任せて噛み付きたいと何度思った事か。……けれど、背後に第二王妃様が居ては私などすぐに捻り潰されてしまう」
ややあってローガンはこちらに向き直ると、エルをじっと見つめた。
海のように深い瞳は真摯で、ともすれば懇願しているようにも見受けられた。
「貴方様お一人であれば何という事はないでしょうが、アルト様は……お心がとても弱いのです」
『アルト』は幼い頃、ある出来事によって心を病む事があったという。
今でこそ気丈に振る舞っているが、自分のいないところでアルトの身に何かあれば許さない、とローガンは忠告しているのだ。
「あの方を守る覚悟があるのならば、どうか最期のその時まで──」
ガタン、と不意に大きな音が応接室に響いた。
ローガンの声もそこで途切れ、揃って音の在り処に視線を向ける。
扉が薄く開いており、ふわふわとした金髪が隙間を横切った。
「……盗み聞きとは趣味が悪いですね、アルト様」
半ば含み笑ったローガンが呟くと、すぐに件の──愛しい男が姿を現した。
「ごめん、こんな事するつもりじゃなかったんだけど……ただ、二人とも喉乾いてるかなって」
アルトはひょこりと顔だけを覗かせ、気まずそうに微笑むと応接室に入る。
手にはトレイを持っており、その上には湯気を立てたミルクが二つと黄色い何かが入った瓶が載せられていた。
カップをテーブルに置くと、にこりと微笑んで続ける。
「さっきウィルが街に出た時、甘いものとか色々買ったみたいでな。この蜂蜜とか、でかい瓶ごと抱えて帰ってきてた」
多過ぎるから小さい方に少しずつ詰め替えたんだぞ、と苦笑しながらアルトが瓶の蓋を開けると、ふわりと甘い香りが部屋に漂った。
「確かに貴方はお好きでしたね。眠れない時とか、特に」
「……そうだったっけ」
アルトは少しの間を置き、ゆっくりと言った。
『アルトではない』と打ち明けられた時、この身体の記憶はそのままだが幼い頃の記憶は無いと言っていた。
『ここが作り物の世界だったら、何もかも思い出すのがお約束なんだけどな。アルトの昔のこととか、正直言って気になるけど……もうこの身体にはいないんだ』
寂しいな、とごく小さな声で呟いていた『朔真』の顔をエルは忘れていない。
(優しい人だ)
何を言っているかあまり分からないところもあったが、エルが知り得る限りアルトは王宮内のしがらみはもちろん、きな臭い事に関わっていい人間ではない。
本来の身体の持ち主のことを気にして、それだけでなく過去すら知ろうとしているのだ。
もしも自分が同じ立場であれば、何も気に留めずに日々を過ごすことだろう。
そういう意味では優しく、そして悲しいと感じた。
このままでは自分の預かり知らぬところで相手に手篭めにされ、知らず加担している事すらあるのだ。
(やっぱり俺が守らないと)
エルに守られる必要はないと言うが、こちらとしては気が気でないのだ。
いつか、自分の目の前からいなくなってしまう気がして。
己が目覚めた時に泣いてくれ、怖い思いをさせてしまった時の事は未だに覚えている。
それほどエルを愛してくれているのと同じように、自身も『朔真』を愛している。
その紛れもない感情は、しっかりと伝わっていても不安でならなかった。
「……よく私や父さんに作ってくれ、とせがんでおりました。あの時の貴方は可愛らしかったですね」
ふふ、とローガンは昔を懐かしむように小さく笑うとミルクの入ったカップを手に取った。
匙から蜂蜜を掬い、たっぷりと二杯入れる。
「殿下」
そっとローガンから瓶を差し出され、そこでエルはそれまでの思考を切り替えた。
「は……?」
(なんで、動かない……?)
しかし瓶に伸ばそうとした腕は膝の上で少しも動かず、ただテーブルに置かれた瓶を見つめるしかできない。
アルトが姿を見せるまでは何もなかったというのに、己の唐突な身体の変化に着いていけず、エルは自己嫌悪に陥りかけた。
「──エル」
ふと柔らかな声が聞こえると同時に、温かな体温が手に触れる。
見ればアルトがぎゅうと手を握り、何度も手の甲を撫で摩ってくれていた。
「手、冷えてるから動かないんだろ? ……ほら、これで大丈夫」
ぎゅ、と駄目押しのように一度強く握られる。
そこで自分の手が氷のように冷えていたのだと、今になって気付いた。
(馬鹿だな、俺も)
無意識に今居る場所が王宮だと思っていたようで、そう考えた己に自嘲する。
アルトの計らいでしばらく公爵邸に身を寄せているというのに、少しも休めていないようだった。
(せっかく持ってきてくれたんだ)
エルは恐る恐る腕を動かし、手を開いては閉じてを繰り返す。
まだ少し腕から先にかけて違和感があったものの、アルトの優しさを無碍にはできず、エルは気合いで手に力を込める。
匙一つ持てなくては心配させてしまう、それだけは絶対にあってはならなかった。
「──殿下は甘いものがお嫌いでしたか」
そっと隣りから声を掛けられ、ぴくりとエルの眉が跳ねる。
「え、そうだったのか……? いや、確かにあんまり見たことないな。今から紅茶を持ってくるけど」
「だい……じょう、ぶ」
見る間に部屋を出ていこうとするアルトの言葉を遮り、エルは掠れた声を出した。
小さく息を呑むのが空気で分かったが、正直なところ甘いものは好きではない。
ただ、せっかくアルトが持ってきてくれたものを自分だけ飲まないのは許せなかった。
(ローガンも余計なことを)
助け舟を出してくれたようだが、こちらにとっては余計な世話でしかない。
エルは震えそうになる手を根気で抑え、瓶からひと匙掬った。
ミルクに溶かしてゆっくりとカップを傾けると、ふんわりとした花の香りと蜂蜜の甘みが口の中に広がる。
温かいミルクが蜂蜜と合わさり、身体が芯からゆっくりと暖まっていくのが分かった。
「おい、しい」
ほうっと小さく息を吐き、そっとアルトに視線を向ける。
こちらを信じられないような瞳で見つめ、しかし何か感情を抑えているのか、小さく肩が震えていた。
「──た」
「っ……?」
アルトが何かを呟いたが聞き取れず、エルがもう一度口を開いて問おうとすると、背後に立ち上がる気配があった。
「──次の方の時間が迫っていますので、私はこれで。ごちそうさまでした」
ローガンはにこりと微笑み、エルとアルトに向けて丁重にお辞儀をする。
そこでアルトはローガンに向き直ると、小さくけれどはっきりと声を出した。
「いや、俺こそありがとう。お前は忙しいのに、わざわざこっちまで来てくれて……」
「アルト様が気にする必要はありませんよ。それよりも、あんな惚気を見せられては私が邪魔でしょうから」
半ばからかいを含んだ声でローガンが言う。
「へ、え、いや、そんな……別に邪魔じゃ」
あの仕草は無意識だったらしく、指摘された途端しどろもどろになるアルトを横目に、ローガンがこちらに顔を向けた。
耳元に唇を寄せられ、はっきりとした声で囁かれた。
「──ご病気の原因はお気を張り過ぎだと申しましたが、無闇に声を出しませんよう。落ち着いているとはいえ、喉が悪化してしまえばまた悲しませてしまいますよ」
アルト様の悲しむ顔は見たくはないでしょう、とローガンは低い声で続ける。
それがどういう意味なのか、先程のアルトの表情ですべてを悟った。
(俺の声が出なくなったのも、さっき手が動かなくなったのも朔真のせいじゃないのに)
これは自身の弱さから来るもので、レティシアと対峙した時と同じくアルトは何も悪くない。
悪いのはただ己の鍛錬が足りないだけなのだが、いくら言っても聞き入れてくれないと予想している。
一度こうと決めたら頑固で、しかしそんなところも可愛らしいと思ってしまう自分もどうかしているのだが。
「……では、また数日後に伺いますね」
ややあってローガンは顔を離すと、青い瞳を細める。
その微笑みにどこか空恐ろしいという感情を抱いたが、呼び止めようとエルが顔を上げた時には扉が閉まっていた。
しんと静まった応接室には、ゆっくりとした時間が流れている。
「……エル」
「っ」
不意に肩に手を添えられ、図らずもびくりと身体が揺れた。
そんなエルにアルトは一瞬目を見開きつつも、ふっと柔らかく口角を上げる。
「孤児院に行こうと思うんだけど、一緒に行かないか?」
思いがけないアルトの言葉に、エルは緩く首を傾げた。
「──うん、今のところは大丈夫なようですね」
ローガンの言葉に、エルは知らず詰めていた息を細く吐き出した。
数分前にアルバートに呼ばれ応接室へ向かうと、ローガンがこちらの来訪を待っていたのだ。
挨拶もそこそこにソファに座ると顔色や体調の有無に始まり、脈や喉などの細かな触診がされた。
ローガンは一息つくと、エルから視線を外してゆっくりと言う。
「アルト様から一時的に邸に身を置く、と突然提案された時は驚きましたが……結果的に殿下の体調はもちろん、お声も少しずつ安定している」
心からほっとした表情を見せ、ローガンは続ける。
「本当に……あの方には恐れ入る」
どこか慈しみを思わせる声に疑問を持ったが、すぐに納得した。
アルバートの息子ということは『アルト』の幼少期を知っているということだ。
しかし、とんと『アルト』には関心が無いという事実に自分で驚く。
(朔真の方が好きになってるからだろうな)
事実、結婚してからはずっと『朔真』しか見ていなかった。
倒れる前も今も、エルの瞳は『アルト』の見た目をした違う男に向けられているのだ。
打ち明けられた時は驚いた部分もあるが、気付けば『朔真』のことを『アルト』よりも愛おしいと思い、この命に変えても絶対に守るという誓いを立てていたのだから不思議なものだ。
控えめに微笑んでくれる時はもちろん、時として向けられる怒った表情ひとつでさえエルの理性は暴走しかける。
本来であれば誰の目にも触れないところで大切に囲い込み、自分以外の人間と話して欲しくないほどだった。
(嫌われるから抑えてるけど──最悪、いつかみたいに閉じ込めるのも手かな)
エルは己の胸の内でそっと呟く。
一時期とはいえ監禁していたのは事実だが、その時と今ではは状況が違うのだ。
名実ともに王配となり、隣りに立ってくれている。
この国をより良くしようと、自分の出来る事に奔走している姿は目を瞠るものがあった。
互いに多忙で二人の時間を取れない時もあるが、エルにとっては傍に居てくれるだけで嬉しい反面、やはり物足りない時もあるのだが。
「──そういえば殿下」
ふと何かを思い出したようにローガンが口を開き、こちらに視線を向ける。
エルは緩く首を傾げ、続く言葉を待った。
「王宮にはいつお戻りになるのか、と陛下が申しておりましたが……どうなさいますか」
「ちち、うえ……が?」
エルはそっと唇を動かすだけでなく声を出した。
公爵邸に身を置くようになってから三日が経った今、短い言葉なら声を出せるようになっている。
自分を亡き者にしようとする人間がいないためか、ここ数日で驚くほど回復しているとさえ思うほどだ。
「ええ。正確には貴方様をよく思っていない方々が、ですが。陛下としては心ゆくまで休め、と仰っておりました」
ローガンは眉間に皺を寄せて頷くと、やがて溜め息を吐いた。
「私とてゆっくりと休んで頂きたい。しかし、貴方様には少なからず敵がいらっしゃる。……第二王妃様を崇拝する貴族の方が大半ですが、警戒するに越した事はありません」
聞けば王宮だけでなく貴族の屋敷にも出入りしているらしく、王宮の噂話はもちろん庶民の生活の事まで耳に入るという。
その中には王族を中傷する者もおり、人知れず苦虫を噛み潰した時も少なからずあったらしい。
「恐れ多くも王族の方々を侮辱するとは、と勢いに任せて噛み付きたいと何度思った事か。……けれど、背後に第二王妃様が居ては私などすぐに捻り潰されてしまう」
ややあってローガンはこちらに向き直ると、エルをじっと見つめた。
海のように深い瞳は真摯で、ともすれば懇願しているようにも見受けられた。
「貴方様お一人であれば何という事はないでしょうが、アルト様は……お心がとても弱いのです」
『アルト』は幼い頃、ある出来事によって心を病む事があったという。
今でこそ気丈に振る舞っているが、自分のいないところでアルトの身に何かあれば許さない、とローガンは忠告しているのだ。
「あの方を守る覚悟があるのならば、どうか最期のその時まで──」
ガタン、と不意に大きな音が応接室に響いた。
ローガンの声もそこで途切れ、揃って音の在り処に視線を向ける。
扉が薄く開いており、ふわふわとした金髪が隙間を横切った。
「……盗み聞きとは趣味が悪いですね、アルト様」
半ば含み笑ったローガンが呟くと、すぐに件の──愛しい男が姿を現した。
「ごめん、こんな事するつもりじゃなかったんだけど……ただ、二人とも喉乾いてるかなって」
アルトはひょこりと顔だけを覗かせ、気まずそうに微笑むと応接室に入る。
手にはトレイを持っており、その上には湯気を立てたミルクが二つと黄色い何かが入った瓶が載せられていた。
カップをテーブルに置くと、にこりと微笑んで続ける。
「さっきウィルが街に出た時、甘いものとか色々買ったみたいでな。この蜂蜜とか、でかい瓶ごと抱えて帰ってきてた」
多過ぎるから小さい方に少しずつ詰め替えたんだぞ、と苦笑しながらアルトが瓶の蓋を開けると、ふわりと甘い香りが部屋に漂った。
「確かに貴方はお好きでしたね。眠れない時とか、特に」
「……そうだったっけ」
アルトは少しの間を置き、ゆっくりと言った。
『アルトではない』と打ち明けられた時、この身体の記憶はそのままだが幼い頃の記憶は無いと言っていた。
『ここが作り物の世界だったら、何もかも思い出すのがお約束なんだけどな。アルトの昔のこととか、正直言って気になるけど……もうこの身体にはいないんだ』
寂しいな、とごく小さな声で呟いていた『朔真』の顔をエルは忘れていない。
(優しい人だ)
何を言っているかあまり分からないところもあったが、エルが知り得る限りアルトは王宮内のしがらみはもちろん、きな臭い事に関わっていい人間ではない。
本来の身体の持ち主のことを気にして、それだけでなく過去すら知ろうとしているのだ。
もしも自分が同じ立場であれば、何も気に留めずに日々を過ごすことだろう。
そういう意味では優しく、そして悲しいと感じた。
このままでは自分の預かり知らぬところで相手に手篭めにされ、知らず加担している事すらあるのだ。
(やっぱり俺が守らないと)
エルに守られる必要はないと言うが、こちらとしては気が気でないのだ。
いつか、自分の目の前からいなくなってしまう気がして。
己が目覚めた時に泣いてくれ、怖い思いをさせてしまった時の事は未だに覚えている。
それほどエルを愛してくれているのと同じように、自身も『朔真』を愛している。
その紛れもない感情は、しっかりと伝わっていても不安でならなかった。
「……よく私や父さんに作ってくれ、とせがんでおりました。あの時の貴方は可愛らしかったですね」
ふふ、とローガンは昔を懐かしむように小さく笑うとミルクの入ったカップを手に取った。
匙から蜂蜜を掬い、たっぷりと二杯入れる。
「殿下」
そっとローガンから瓶を差し出され、そこでエルはそれまでの思考を切り替えた。
「は……?」
(なんで、動かない……?)
しかし瓶に伸ばそうとした腕は膝の上で少しも動かず、ただテーブルに置かれた瓶を見つめるしかできない。
アルトが姿を見せるまでは何もなかったというのに、己の唐突な身体の変化に着いていけず、エルは自己嫌悪に陥りかけた。
「──エル」
ふと柔らかな声が聞こえると同時に、温かな体温が手に触れる。
見ればアルトがぎゅうと手を握り、何度も手の甲を撫で摩ってくれていた。
「手、冷えてるから動かないんだろ? ……ほら、これで大丈夫」
ぎゅ、と駄目押しのように一度強く握られる。
そこで自分の手が氷のように冷えていたのだと、今になって気付いた。
(馬鹿だな、俺も)
無意識に今居る場所が王宮だと思っていたようで、そう考えた己に自嘲する。
アルトの計らいでしばらく公爵邸に身を寄せているというのに、少しも休めていないようだった。
(せっかく持ってきてくれたんだ)
エルは恐る恐る腕を動かし、手を開いては閉じてを繰り返す。
まだ少し腕から先にかけて違和感があったものの、アルトの優しさを無碍にはできず、エルは気合いで手に力を込める。
匙一つ持てなくては心配させてしまう、それだけは絶対にあってはならなかった。
「──殿下は甘いものがお嫌いでしたか」
そっと隣りから声を掛けられ、ぴくりとエルの眉が跳ねる。
「え、そうだったのか……? いや、確かにあんまり見たことないな。今から紅茶を持ってくるけど」
「だい……じょう、ぶ」
見る間に部屋を出ていこうとするアルトの言葉を遮り、エルは掠れた声を出した。
小さく息を呑むのが空気で分かったが、正直なところ甘いものは好きではない。
ただ、せっかくアルトが持ってきてくれたものを自分だけ飲まないのは許せなかった。
(ローガンも余計なことを)
助け舟を出してくれたようだが、こちらにとっては余計な世話でしかない。
エルは震えそうになる手を根気で抑え、瓶からひと匙掬った。
ミルクに溶かしてゆっくりとカップを傾けると、ふんわりとした花の香りと蜂蜜の甘みが口の中に広がる。
温かいミルクが蜂蜜と合わさり、身体が芯からゆっくりと暖まっていくのが分かった。
「おい、しい」
ほうっと小さく息を吐き、そっとアルトに視線を向ける。
こちらを信じられないような瞳で見つめ、しかし何か感情を抑えているのか、小さく肩が震えていた。
「──た」
「っ……?」
アルトが何かを呟いたが聞き取れず、エルがもう一度口を開いて問おうとすると、背後に立ち上がる気配があった。
「──次の方の時間が迫っていますので、私はこれで。ごちそうさまでした」
ローガンはにこりと微笑み、エルとアルトに向けて丁重にお辞儀をする。
そこでアルトはローガンに向き直ると、小さくけれどはっきりと声を出した。
「いや、俺こそありがとう。お前は忙しいのに、わざわざこっちまで来てくれて……」
「アルト様が気にする必要はありませんよ。それよりも、あんな惚気を見せられては私が邪魔でしょうから」
半ばからかいを含んだ声でローガンが言う。
「へ、え、いや、そんな……別に邪魔じゃ」
あの仕草は無意識だったらしく、指摘された途端しどろもどろになるアルトを横目に、ローガンがこちらに顔を向けた。
耳元に唇を寄せられ、はっきりとした声で囁かれた。
「──ご病気の原因はお気を張り過ぎだと申しましたが、無闇に声を出しませんよう。落ち着いているとはいえ、喉が悪化してしまえばまた悲しませてしまいますよ」
アルト様の悲しむ顔は見たくはないでしょう、とローガンは低い声で続ける。
それがどういう意味なのか、先程のアルトの表情ですべてを悟った。
(俺の声が出なくなったのも、さっき手が動かなくなったのも朔真のせいじゃないのに)
これは自身の弱さから来るもので、レティシアと対峙した時と同じくアルトは何も悪くない。
悪いのはただ己の鍛錬が足りないだけなのだが、いくら言っても聞き入れてくれないと予想している。
一度こうと決めたら頑固で、しかしそんなところも可愛らしいと思ってしまう自分もどうかしているのだが。
「……では、また数日後に伺いますね」
ややあってローガンは顔を離すと、青い瞳を細める。
その微笑みにどこか空恐ろしいという感情を抱いたが、呼び止めようとエルが顔を上げた時には扉が閉まっていた。
しんと静まった応接室には、ゆっくりとした時間が流れている。
「……エル」
「っ」
不意に肩に手を添えられ、図らずもびくりと身体が揺れた。
そんなエルにアルトは一瞬目を見開きつつも、ふっと柔らかく口角を上げる。
「孤児院に行こうと思うんだけど、一緒に行かないか?」
思いがけないアルトの言葉に、エルは緩く首を傾げた。
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