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第二部 三章
秘め事と思惑 3 ★
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生き物のように蠢いたかと思えば、噛み跡に沿うように短く啄んでくる。
「っ、ぅ……ふっ」
ただ手の甲に口付けられているだけだというのに、甘い疼きが止まらない。
やがてちゅ、と小さな音を立てて唇が離れると、エルはそろりと額を合わせてきた。
「エ、ル……?」
そのまま肩口に頭を乗せられ、ぐりぐりと擦り付けられる。
(……可愛い)
小動物が甘える時のそれに近い仕草に、アルトは無意識にエルの頭をそっと撫でた。
ぴくりと肩が跳ねたものの、動きを止めさせる気配はない。
アルトは指通りのいい黒髪を梳くように、愛おしいという感情を込めて何度も撫でる。
普段からエルがしてくれているというのもあるが、今ばかりは少しでも癒してあげたくて、これまで自分を守ってくれた分を返したかった。
「ん……」
どれほどそうしていたのか、ふとエルが肩口から頭を離した。
しかし、ほんの少し首を傾ければ唇が触れ合いそうな距離だ。
「──は」
ほとんど言葉にはなっていないが、確かにエルは何かを伝えようとそっと唇を動かした。
「……エル」
アルトは囁くように名前を呼ぶ。
起き上がるようになってから、誰も見ていないところで声を出そうと頑張っているのはよく知っているのだ。
邪魔をしないよう退室した時もあれば、エルに気付かれないよう陰ながら見ていた時もある。
ただ、その成果は未だ出ていないようで、良くても吐息のような掠れた声が関の山らしかった。
透明な色をした瞳が、じっとこちらを見つめている。
「大丈夫。ゆっくり……ゆっくりでいいんだ」
焦らなくていい、とアルトはエルの手を取って手の甲に口付ける。
確かに声を出せるようになれば嬉しいが、こちらが急かす素振りを見せてはそれこそエルに負担が掛かってしまう。
「俺はずっと、エルの傍に居るから」
いつかにエルが投げ掛けてくれた言葉を、そっと呟いた。
アルトがこの言葉にどれほど救われ、そして嬉しかったのか少しでも感じてほしくて。
「──」
エルの肩が揺れ、わずかに瞳が見開かれたのが視界に入る。
長い睫毛が伏せられたのを合図に、エルがゆっくりと顔を傾けてきた。
口付けられる仕草にアルトも瞼を伏せた時、不意に扉を叩く音が大きく響き、反射的にエルの胸を渾身の力で押した。
「っ……!」
ごほ、とエルがあえかな咳を零す。
「お待たせ致しました、お二人とも」
アルバートには珍しく、満面の笑みを浮かべてキャリーを押して応接室に入ってきた。
「……何かございましたか?」
不自然に空いた距離に加え、なぜか咳き込んでいるエルに疑問を持ったのか、アルバートが怪訝な表情で問うてくる。
「いや、なんでも……なんでもない!」
ごめんな、と慌ててアルトはエルの背中を擦る。
『大丈夫』
エルはかすかに咳き込みつつも、にこりと微笑んだ。
気遣わせてしまった事にさぁっと血の気が引いていると、アルバートが落ち着いた声で言った。
「──それにしても王太子殿下。こういったことはあまり言いたくはありませんが、ご無理はなさいませんよう。ローガンの代わりに目を配っているというのに、悪化しようものなら私が叱責されますゆえ」
「おま、いつ……!?」
アルバートの言葉に、瞬時に頬が熱くなる。
いつから聞いていたのか問いたいが、同時に己のやや甘い声が聞こえていたも同然な気がして、知らず唇がもつれてしまう。
しかしアルトの問いは聞こえていないとでも言うように、アルバートは手際良く紅茶のセッティングをしながら言った。
「ウィル様は後からいらっしゃるようですが、遅くなりそうだから先に頂いてくれとも仰っておりました」
それと、とエルを横目で見ながらアルバートが言う。
「『兄さんに変な事はするな』と王太子殿下へ言伝です」
(ウィル……!)
どうやらアルバートではなくウィルの方が一枚上手らしい。
先程、まさにウィルの言う『変な事』をしようとしていたのだから。
なんとも言えない羞恥心に襲われ、アルトは顔を俯けるしかできない。
ややあって馨しい紅茶の香りが応接室に充満し始め、少しずつ心が落ち着いていく。
「さぁ、温かいうちにどうぞ召し上がってください」
アルバートが銀の蓋を開けると、ふわりと甘い匂いが漂った。
切り分ける前のパウンドケーキはほこほこと湯気を立てており、食欲を唆る。
紅茶の香りと混ざり合い、図らずもアルトの喉が小さく鳴った。
(……アルバートのケーキも久しぶりだ)
王宮で暮らすようになってからというもの、毎日違う菓子をこれでもかと出してくれているが、何か物足りない時がままあるのだ。
今思えば、アルバートの作る菓子が恋しかったのだと合点する。
(エルは甘いもの好きだったっけ)
ちらりと隣りに視線を移すと、エルは瞳をきらきらと輝かせていた。
「……はい?」
アルトはエルとパウンドケーキとを交互に見つめ、恐る恐る問い掛けた。
「もしかして食べた事ない、のか……?」
純粋な疑問を唇に乗せると、エルは一瞬迷いつつも小さく頷く。
ただ、どこか昔を懐かしんでいるようなそんな表情とも読み取れる。
(あ、そうか)
ふと頭の中に、今は亡き第三王妃であるベアトリスとの話を思い出した。
おそらくエルはシンプルな、それも切り分けていないケーキはこの目で見たことが無いのだ。
思い出すと王宮で食べるものはすべてが美しく盛り付けられているため、それも当たり前かと思う。
こうしたケーキはアルトが満足するまで食べられるように、というアルバートなりの心遣いなのだが。
「エル」
くいとアルトはエルの袖を軽く引っ張る。
「アルバートが作るケーキは美味いんだ。ちょっと甘いかもしれないけど……口に合うと思う」
エルが甘いものを食べるところはほとんど見たことがないが、自分が好きなものを一緒に食べて欲しい。
そんな思いで言葉にすると同時に、エルの元に切り分けられたパウンドケーキが置かれた。
「どうぞ」
アルバートは口元に淡い笑みを浮かべ、『では』と腰からお辞儀をして退室していった。
二人きりにしてくれた気遣いに感謝しつつ、アルトはエルにフォークを差し出す。
エルはややあって受け取り、一口に切り分けてそっと口に運んだ。
「……ん!」
「な、美味いだろ?」
見る間に蕩けたような顔を見せてくれ、こちらまで嬉しくなる。
ほどなくしてアルトはナイフを手に取ると、エルの二倍はあろうかという厚さに切り分けた。
「……いただきます」
小さく手を合わせ、やや大きめなケーキを口いっぱいに頬張る。
アルバートが居ると行儀が悪いと言われてしまいそうだが、まだ温かいそれはふわふわとして、程よい甘さを含んだパウンドケーキがいつもより美味しく感じた。
◆◆◆
「……食べ過ぎた気がする」
アルトは客間用のやや大きなベッドの端に座り、ぽそりと呟いた。
知らずのうちに気が緩んでいたようで、アルバートに勧められるまま酒を飲んだためか、視界がふわふわとしている。
「ん……?」
ぽんと肩を叩かれアルトはそちらに視線を向けると、エルが心配そうな表情で口だけを動かした。
『大丈夫?』
相も変わらず声は出ていないが、アルトの耳にじんわりと甘くわずかに高い声が届く。
(不思議だ)
エルの頭から足先をじっと見つめ、やがて言葉にする。
「……エルも同じくらい食べて飲んでたのに、変わらないよな」
自身は満足するまで食べてしまい腹が少し苦しいほどだが、酒の力も相俟って身体は心地いい。
ただ、目の前の男は表情一つ取っても普段と変わらないのだ。
やはり鍛錬をしているからか、とぼんやりと思ったが起き上がれるようになってからのエルの食欲は凄まじかった。
高熱で魘され、三日間目覚めなかった人間が摂る食事は消化の良いものが望ましい。
しかしエルはそれまで摂っていなかった栄養を補うかのように、パンやスープなどの普段と変わらないものから始まり、果てには肉を初日から食べていたのだから恐れ入る。
それ以外にも、細身だというのに大量の食べ物はどこに入っているのかと疑問さえ抱くほどだ。
『アルバート殿が勧めてくる分、全部食べてしまう朔真の方が凄いと思うよ』
苦笑しながら紙を見せられ、アルトは首を傾げて己の頬を触った。
燃えるように熱い体温を手の平に感じ、傍から見ても火照っているのは明白だった。
「そう、だっけ。なんならデザートも食べたかったな」
ぼうっと天井を見つめ、続いてエルを見る。
「……座らないのか?」
ぽんぽんと自身の隣りを叩き、緩く首を傾げて問い掛けた。
「ん」
エルは嬉しそうに微笑むと、ぎしりとわずかに音を立てて隣りに腰を下ろす。
どうしてか普段よりもエルがずっと素直で可愛らしく見え、アルトはそっとエルの手を取った。
するとやけに冷たく感じ、アルトはそのまま頬を擦り寄せる。
自分よりも大きく、すっぽりと包み込めてしまいそうな手が好きだ。
愛おしそうに頭や頬を撫でてくれ、これ以上ないほど愛してくれるエルが好きだ。
だというのに、不調に気付くのが遅かったせいでエルに辛い思いをさせてしまった、そんな己を責めてしまう日ばかりだ。
眠っている時に見る夢はエルがいなくなるような、信じたくないものばかりで起きると泣いている時が多々あった。
(俺が、守らないと)
何度となく唱えた言葉を心の中で呟く。
応接室でパウンドケーキを食べ終わって少しした時、エルに自身の考えていることを掻い摘んで言った。
王宮に戻ればレティシアと否が応でも鉢合わせ、エルの症状は悪化してしまう。
そうでなくてもソフィアーナの歓迎パーティーに出席すると約束してしまった手前、エルの負担は大きくなるだろう。
だから少しでも休めるよう、公爵邸で数日過ごして欲しい──そう問うた時、エルは困ったように笑ったのだ。
『朔真は優しいね。でも大丈夫、貴方が心配するような事にはならないから』
流麗な筆跡の一つ一つは乱れていなかったため、本心なのだろう。
しかしエルが大丈夫と言っても、それ以上にアルトが嫌だった。
(お前がいなくなったら俺は……)
辛い思いをしてほしくないのはもちろんだが、何もできず見ているしかできないのは嫌だ。
何よりエルを失いたくはなく、変われるものなら変わってやりたい、と目覚めない間何度思ったかは数え切れない。
アルトはぎゅう、とエルの手に縋り付くように深く手を絡めた。
「……っ?」
エルは驚いた表情をしたものの、アルトの好きにさせるようだった。
止めないのをいいことに、そのまま形のいい人差し指の爪に短く口付ける。
それだけでは飽き足らず、そっと口に含んだ。
ちゅうちゅうと赤子が乳を吸うように、時折舌を使って甘く吸い上げては焦らすように舐め上げる。
熱っぽいエルの視線を間近に感じるが、少しも止める気にはならなかった。
とろりと飲みきれなかった唾液が指先を伝い、指の間に落ちていく。
(俺、の)
「……おれ、の」
唇は人差し指に触れたまま、ぽそりと囁いた。
「エルは俺の、だから……」
すり、とアルトはエルの胸に顔を寄せる。
規則正しい心臓の音が、次第に速くなっていく。
それはどちらのものなのか判然としないが、互いの熱は先程よりも上がっていた。
やがてアルトはやや上目遣いでエルを見つめると、絡められた手はそのままに空いた方の手が頬に触れてくる。
「……ん、っ」
ゆっくりと唇に温かなものが重なり、アルトは小さく声を漏らす。
何度も角度を変えて口付けられ、わずかに開いた隙間から唇よりも熱い舌が侵入した。
歯列を割って入ったそれは優しく口蓋を擽り、歯の一本一本まで余すことなく舐められる。
ほんのりと酒の味がし、くらくらとした酩酊感に支配された。
それがあまりにも生々しく、恥ずかしい。
しかし気持ちがよくて、アルトは無意識にエルの肩に爪を立てた。
「ふ、ぁ……んぅ」
ちゅくちゅくと舌を絡め合わされ、それだけで下腹部が切なく疼く。
酒も入っているからか、酔いも手伝って身体の熱が高まっていく。
頬に添えられていた手が首筋に触れ、続いて鎖骨を滑った。
同時に唇が解かれ、鎖骨の窪みに舌が這う。
ぬめる舌が縦横無尽に蠢き、ぞわりと肌が快感で粟立った。
「や、っ……」
アルトは自由になった口で喘ぎながら言う。
「まっ、て……いま、だめだ、って……」
雰囲気に流されそうになったが、まさかこのままするのかと瞳で問い掛ける。
身体は熱いが酒が抜け切っていないからか、今ばかりはソレが張り詰める兆しはないのだ。
普段ならばいざ知らず、このままするのは理性が嫌だと言っていた。
するとエルはにこりと微笑み、そっとアルトの手を取った。
『もっと触るって約束したでしょ?』
ゆっくりと手の平に書かれ、そこで昼間の馬車の中でのやり取りを思い出す。
「あれ、が……?」
まさか本気だったのか、とアルトが瞳を見開くと同時に視界がぐるりと変わった。
楽しげに微笑むエルの背後には天井が見え、そこで押し倒されたのだと理解する。
「っ」
アルトが小さく声を出すと、眼前にエルの瞳が迫った。
ちゅうと頬や瞼、額にまで口付けられ、唇の端にもキスされる。
つい先程とは違い、じゃれるような愛撫ではいささか物足りない。
ただ、これからされる事への期待に、身体の奥深くがきゅうと収縮した。
「っ、ぅ……ふっ」
ただ手の甲に口付けられているだけだというのに、甘い疼きが止まらない。
やがてちゅ、と小さな音を立てて唇が離れると、エルはそろりと額を合わせてきた。
「エ、ル……?」
そのまま肩口に頭を乗せられ、ぐりぐりと擦り付けられる。
(……可愛い)
小動物が甘える時のそれに近い仕草に、アルトは無意識にエルの頭をそっと撫でた。
ぴくりと肩が跳ねたものの、動きを止めさせる気配はない。
アルトは指通りのいい黒髪を梳くように、愛おしいという感情を込めて何度も撫でる。
普段からエルがしてくれているというのもあるが、今ばかりは少しでも癒してあげたくて、これまで自分を守ってくれた分を返したかった。
「ん……」
どれほどそうしていたのか、ふとエルが肩口から頭を離した。
しかし、ほんの少し首を傾ければ唇が触れ合いそうな距離だ。
「──は」
ほとんど言葉にはなっていないが、確かにエルは何かを伝えようとそっと唇を動かした。
「……エル」
アルトは囁くように名前を呼ぶ。
起き上がるようになってから、誰も見ていないところで声を出そうと頑張っているのはよく知っているのだ。
邪魔をしないよう退室した時もあれば、エルに気付かれないよう陰ながら見ていた時もある。
ただ、その成果は未だ出ていないようで、良くても吐息のような掠れた声が関の山らしかった。
透明な色をした瞳が、じっとこちらを見つめている。
「大丈夫。ゆっくり……ゆっくりでいいんだ」
焦らなくていい、とアルトはエルの手を取って手の甲に口付ける。
確かに声を出せるようになれば嬉しいが、こちらが急かす素振りを見せてはそれこそエルに負担が掛かってしまう。
「俺はずっと、エルの傍に居るから」
いつかにエルが投げ掛けてくれた言葉を、そっと呟いた。
アルトがこの言葉にどれほど救われ、そして嬉しかったのか少しでも感じてほしくて。
「──」
エルの肩が揺れ、わずかに瞳が見開かれたのが視界に入る。
長い睫毛が伏せられたのを合図に、エルがゆっくりと顔を傾けてきた。
口付けられる仕草にアルトも瞼を伏せた時、不意に扉を叩く音が大きく響き、反射的にエルの胸を渾身の力で押した。
「っ……!」
ごほ、とエルがあえかな咳を零す。
「お待たせ致しました、お二人とも」
アルバートには珍しく、満面の笑みを浮かべてキャリーを押して応接室に入ってきた。
「……何かございましたか?」
不自然に空いた距離に加え、なぜか咳き込んでいるエルに疑問を持ったのか、アルバートが怪訝な表情で問うてくる。
「いや、なんでも……なんでもない!」
ごめんな、と慌ててアルトはエルの背中を擦る。
『大丈夫』
エルはかすかに咳き込みつつも、にこりと微笑んだ。
気遣わせてしまった事にさぁっと血の気が引いていると、アルバートが落ち着いた声で言った。
「──それにしても王太子殿下。こういったことはあまり言いたくはありませんが、ご無理はなさいませんよう。ローガンの代わりに目を配っているというのに、悪化しようものなら私が叱責されますゆえ」
「おま、いつ……!?」
アルバートの言葉に、瞬時に頬が熱くなる。
いつから聞いていたのか問いたいが、同時に己のやや甘い声が聞こえていたも同然な気がして、知らず唇がもつれてしまう。
しかしアルトの問いは聞こえていないとでも言うように、アルバートは手際良く紅茶のセッティングをしながら言った。
「ウィル様は後からいらっしゃるようですが、遅くなりそうだから先に頂いてくれとも仰っておりました」
それと、とエルを横目で見ながらアルバートが言う。
「『兄さんに変な事はするな』と王太子殿下へ言伝です」
(ウィル……!)
どうやらアルバートではなくウィルの方が一枚上手らしい。
先程、まさにウィルの言う『変な事』をしようとしていたのだから。
なんとも言えない羞恥心に襲われ、アルトは顔を俯けるしかできない。
ややあって馨しい紅茶の香りが応接室に充満し始め、少しずつ心が落ち着いていく。
「さぁ、温かいうちにどうぞ召し上がってください」
アルバートが銀の蓋を開けると、ふわりと甘い匂いが漂った。
切り分ける前のパウンドケーキはほこほこと湯気を立てており、食欲を唆る。
紅茶の香りと混ざり合い、図らずもアルトの喉が小さく鳴った。
(……アルバートのケーキも久しぶりだ)
王宮で暮らすようになってからというもの、毎日違う菓子をこれでもかと出してくれているが、何か物足りない時がままあるのだ。
今思えば、アルバートの作る菓子が恋しかったのだと合点する。
(エルは甘いもの好きだったっけ)
ちらりと隣りに視線を移すと、エルは瞳をきらきらと輝かせていた。
「……はい?」
アルトはエルとパウンドケーキとを交互に見つめ、恐る恐る問い掛けた。
「もしかして食べた事ない、のか……?」
純粋な疑問を唇に乗せると、エルは一瞬迷いつつも小さく頷く。
ただ、どこか昔を懐かしんでいるようなそんな表情とも読み取れる。
(あ、そうか)
ふと頭の中に、今は亡き第三王妃であるベアトリスとの話を思い出した。
おそらくエルはシンプルな、それも切り分けていないケーキはこの目で見たことが無いのだ。
思い出すと王宮で食べるものはすべてが美しく盛り付けられているため、それも当たり前かと思う。
こうしたケーキはアルトが満足するまで食べられるように、というアルバートなりの心遣いなのだが。
「エル」
くいとアルトはエルの袖を軽く引っ張る。
「アルバートが作るケーキは美味いんだ。ちょっと甘いかもしれないけど……口に合うと思う」
エルが甘いものを食べるところはほとんど見たことがないが、自分が好きなものを一緒に食べて欲しい。
そんな思いで言葉にすると同時に、エルの元に切り分けられたパウンドケーキが置かれた。
「どうぞ」
アルバートは口元に淡い笑みを浮かべ、『では』と腰からお辞儀をして退室していった。
二人きりにしてくれた気遣いに感謝しつつ、アルトはエルにフォークを差し出す。
エルはややあって受け取り、一口に切り分けてそっと口に運んだ。
「……ん!」
「な、美味いだろ?」
見る間に蕩けたような顔を見せてくれ、こちらまで嬉しくなる。
ほどなくしてアルトはナイフを手に取ると、エルの二倍はあろうかという厚さに切り分けた。
「……いただきます」
小さく手を合わせ、やや大きめなケーキを口いっぱいに頬張る。
アルバートが居ると行儀が悪いと言われてしまいそうだが、まだ温かいそれはふわふわとして、程よい甘さを含んだパウンドケーキがいつもより美味しく感じた。
◆◆◆
「……食べ過ぎた気がする」
アルトは客間用のやや大きなベッドの端に座り、ぽそりと呟いた。
知らずのうちに気が緩んでいたようで、アルバートに勧められるまま酒を飲んだためか、視界がふわふわとしている。
「ん……?」
ぽんと肩を叩かれアルトはそちらに視線を向けると、エルが心配そうな表情で口だけを動かした。
『大丈夫?』
相も変わらず声は出ていないが、アルトの耳にじんわりと甘くわずかに高い声が届く。
(不思議だ)
エルの頭から足先をじっと見つめ、やがて言葉にする。
「……エルも同じくらい食べて飲んでたのに、変わらないよな」
自身は満足するまで食べてしまい腹が少し苦しいほどだが、酒の力も相俟って身体は心地いい。
ただ、目の前の男は表情一つ取っても普段と変わらないのだ。
やはり鍛錬をしているからか、とぼんやりと思ったが起き上がれるようになってからのエルの食欲は凄まじかった。
高熱で魘され、三日間目覚めなかった人間が摂る食事は消化の良いものが望ましい。
しかしエルはそれまで摂っていなかった栄養を補うかのように、パンやスープなどの普段と変わらないものから始まり、果てには肉を初日から食べていたのだから恐れ入る。
それ以外にも、細身だというのに大量の食べ物はどこに入っているのかと疑問さえ抱くほどだ。
『アルバート殿が勧めてくる分、全部食べてしまう朔真の方が凄いと思うよ』
苦笑しながら紙を見せられ、アルトは首を傾げて己の頬を触った。
燃えるように熱い体温を手の平に感じ、傍から見ても火照っているのは明白だった。
「そう、だっけ。なんならデザートも食べたかったな」
ぼうっと天井を見つめ、続いてエルを見る。
「……座らないのか?」
ぽんぽんと自身の隣りを叩き、緩く首を傾げて問い掛けた。
「ん」
エルは嬉しそうに微笑むと、ぎしりとわずかに音を立てて隣りに腰を下ろす。
どうしてか普段よりもエルがずっと素直で可愛らしく見え、アルトはそっとエルの手を取った。
するとやけに冷たく感じ、アルトはそのまま頬を擦り寄せる。
自分よりも大きく、すっぽりと包み込めてしまいそうな手が好きだ。
愛おしそうに頭や頬を撫でてくれ、これ以上ないほど愛してくれるエルが好きだ。
だというのに、不調に気付くのが遅かったせいでエルに辛い思いをさせてしまった、そんな己を責めてしまう日ばかりだ。
眠っている時に見る夢はエルがいなくなるような、信じたくないものばかりで起きると泣いている時が多々あった。
(俺が、守らないと)
何度となく唱えた言葉を心の中で呟く。
応接室でパウンドケーキを食べ終わって少しした時、エルに自身の考えていることを掻い摘んで言った。
王宮に戻ればレティシアと否が応でも鉢合わせ、エルの症状は悪化してしまう。
そうでなくてもソフィアーナの歓迎パーティーに出席すると約束してしまった手前、エルの負担は大きくなるだろう。
だから少しでも休めるよう、公爵邸で数日過ごして欲しい──そう問うた時、エルは困ったように笑ったのだ。
『朔真は優しいね。でも大丈夫、貴方が心配するような事にはならないから』
流麗な筆跡の一つ一つは乱れていなかったため、本心なのだろう。
しかしエルが大丈夫と言っても、それ以上にアルトが嫌だった。
(お前がいなくなったら俺は……)
辛い思いをしてほしくないのはもちろんだが、何もできず見ているしかできないのは嫌だ。
何よりエルを失いたくはなく、変われるものなら変わってやりたい、と目覚めない間何度思ったかは数え切れない。
アルトはぎゅう、とエルの手に縋り付くように深く手を絡めた。
「……っ?」
エルは驚いた表情をしたものの、アルトの好きにさせるようだった。
止めないのをいいことに、そのまま形のいい人差し指の爪に短く口付ける。
それだけでは飽き足らず、そっと口に含んだ。
ちゅうちゅうと赤子が乳を吸うように、時折舌を使って甘く吸い上げては焦らすように舐め上げる。
熱っぽいエルの視線を間近に感じるが、少しも止める気にはならなかった。
とろりと飲みきれなかった唾液が指先を伝い、指の間に落ちていく。
(俺、の)
「……おれ、の」
唇は人差し指に触れたまま、ぽそりと囁いた。
「エルは俺の、だから……」
すり、とアルトはエルの胸に顔を寄せる。
規則正しい心臓の音が、次第に速くなっていく。
それはどちらのものなのか判然としないが、互いの熱は先程よりも上がっていた。
やがてアルトはやや上目遣いでエルを見つめると、絡められた手はそのままに空いた方の手が頬に触れてくる。
「……ん、っ」
ゆっくりと唇に温かなものが重なり、アルトは小さく声を漏らす。
何度も角度を変えて口付けられ、わずかに開いた隙間から唇よりも熱い舌が侵入した。
歯列を割って入ったそれは優しく口蓋を擽り、歯の一本一本まで余すことなく舐められる。
ほんのりと酒の味がし、くらくらとした酩酊感に支配された。
それがあまりにも生々しく、恥ずかしい。
しかし気持ちがよくて、アルトは無意識にエルの肩に爪を立てた。
「ふ、ぁ……んぅ」
ちゅくちゅくと舌を絡め合わされ、それだけで下腹部が切なく疼く。
酒も入っているからか、酔いも手伝って身体の熱が高まっていく。
頬に添えられていた手が首筋に触れ、続いて鎖骨を滑った。
同時に唇が解かれ、鎖骨の窪みに舌が這う。
ぬめる舌が縦横無尽に蠢き、ぞわりと肌が快感で粟立った。
「や、っ……」
アルトは自由になった口で喘ぎながら言う。
「まっ、て……いま、だめだ、って……」
雰囲気に流されそうになったが、まさかこのままするのかと瞳で問い掛ける。
身体は熱いが酒が抜け切っていないからか、今ばかりはソレが張り詰める兆しはないのだ。
普段ならばいざ知らず、このままするのは理性が嫌だと言っていた。
するとエルはにこりと微笑み、そっとアルトの手を取った。
『もっと触るって約束したでしょ?』
ゆっくりと手の平に書かれ、そこで昼間の馬車の中でのやり取りを思い出す。
「あれ、が……?」
まさか本気だったのか、とアルトが瞳を見開くと同時に視界がぐるりと変わった。
楽しげに微笑むエルの背後には天井が見え、そこで押し倒されたのだと理解する。
「っ」
アルトが小さく声を出すと、眼前にエルの瞳が迫った。
ちゅうと頬や瞼、額にまで口付けられ、唇の端にもキスされる。
つい先程とは違い、じゃれるような愛撫ではいささか物足りない。
ただ、これからされる事への期待に、身体の奥深くがきゅうと収縮した。
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