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第二部 二章

変わりゆく日々 3

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 ◆◆◆



 かすかな薬品の臭いが鼻腔を擽り、その刺激でエルはゆっくりと瞼を上げた。

「っ……?」

 ぼんやりと映る視界は何度か瞬くと鮮明になり、やがて見慣れた黒い天井が見えた。

(ここは……俺の、部屋)

 どうやら自分は寝室のベッドに寝かされているらしく、身体を柔らかなもので包まれていた。

(そうだ、あの後……倒れて)

 そこでエルは己の今の状況を理解する。

 アルトと共にレティシアと対面し、早い段階でソフィアーナとも顔を合わせた事を。

 本来であれば王宮に着き次第丁重に迎えろ、というのがライアンの命令だ。

 しかしこちらに着いたという一報は入っておらず、父からはもちろん誰からも報告を受けていなかった。

 おおかた、密かに王宮の裏手から入ったのだと予想したが、事が露呈してしまえば周囲は騒がしいはずだ。

 なのにその素振りがないとあれば、未だソフィアーナが王宮に居る事はばれていないのだろうか。

(……格好悪いところ、見せちゃったな)

 部屋に入ってレティシアに続いてソフィアーナの姿を認めた瞬間、身体が固まってしまった。

 脚は気合いでどうにか動かしたが、定型的な言葉を言うにしても唇がもつれかけ、加えて感情的になってしまった自覚はある。

 それだけならばいざ知らず、ソフィアーナに突然抱き着いてこられた時は心臓が止まるかと思った。

 なんとか理性を総動員させて離そうとしたものの、すぐに自ら離れていったため、なぜあんな行動をしたのかが分からなかった。

 正直なところ、誰が何を話していたのかなど少しも覚えていない。

 しかしレティシアの言葉だけがずっと頭の中に残っており、エルの脳裏を黒く染めていく。

『正式にソフィアーナを妻に迎える、と約束なさい。でなれけば、内々にアルト王配殿下を……聡い貴方なら、すべて言わずともお分かりですね?』

 鈴の鳴るような声が、ぐるぐると頭の中に反響する。

 その言葉の意味を履き違えるほど、エルとて馬鹿ではない。

 嘘でも、レティシアがそんな事を言う人間だとは思わなかった。

(いや……あの人のことだから、俺の知らないところで何かしでかすかもしれない)

 そんな事はさせない。

 大事な人は今度こそ護りきる、と幼い頃に誓ったのだ。

 なのに、レティシアはどういう訳か姪を連れて来た。

 エルがベアトリスを慕っている、というのはレティシアも聞き及んでいるというのに、どういう事なのだろうか。

(思い出しても怖気が走る)

 レティシアほどではないが、ソフィアーナも高い声でキンキンと喋っていた。

 普段は女性に優しく接しているつもりだが、抱き着かれた時も椅子の影からこちらを見ていた時も、身体が恐怖と怒りとで身体が動かなかったのは事実だ。

 不意に片眼鏡モノクルを掛けた初老の男が、こちらを覗き込んだ。

「気付かれましたか、王太子殿下……!」

 白髪を後ろに撫で付けた男はエルの意識が戻ったのが分かると、見る間に深い青の瞳が見開かれた。

「旦那様! ……失礼、王配殿下! 王太子殿下が目を覚まされましたぞ……!」

 男はがばりと背後を振り向き、声高に叫ぶ。

 どこか聞き覚えのある声と口調に、エルは己の記憶を掘り起こした。

(誰、だったかな……)

 ぼんやりと未だ覚醒しきってない意識の中、その人物の名前と顔を思い出そうとする。

「──本当か!?」

 愛しい男の声が聞こえ、エルはそれまでの考えを打ち消しすと目線だけをそちらに向けた。

「よかった、エル……! 身体は、気持ち悪いとか、そういうのはないか?」

「……ぁ、っ」

 アルト、と呼ぼうとした声は掠れてしまい、それはおろか言葉にすらならなかった。

(え……?)

 エルはじわりと目を瞠る。

 自分に起きている身体の変化が信じられず、唇を開いては閉じてを繰り返す。

「エル? どうした?」

 何も言わないエルを不審に思ったのか、アルトが首を傾げて問い掛けてくる。

 可愛らしい仕草に今すぐ起き上がりたいが、如何せん起き上がれそうにないのがもどかしかった。

 こちらを見つめてくるアルトの表情が、段々と曇っていく。

 今すぐベッドを降りて抱き締めたいのに、指先一つ動かせない。

(なんだ、これ……)

「──アルト様、後ろを失礼します。父さん、貴方は邪魔です……! ほら、どいて! 殿下の診察をしますから、横にズレるのではなく立って。そのまま後ろに居てください!」

 するとアルトの背後から慌ただしい足音はそのままに、血相を変えた茶髪の青年が姿を現し、口早に言うと初老の男を強引に跳ね除ける。

 ベッドの傍に膝を突いた青年は、エルに掛けていた上掛けを捲ると手首や首筋に指先を滑らせた。

 とくとくと血流が動いているのを感じ、ぴくりと図らずもエルの手が跳ねる。

「……呼吸は安定していますが、少し身体が硬直しているようですね。熱は下がったみたいで安心しました」

 青年はほっとした表情を見せる。

「殿下が眠られている間に、お身体を拭かせて頂きました」

 気分はどうです、と問われてエルは小さく首を振った。

 首が少し動くのは幸いだが、それでも重だるさは変わらない。

「……嘘を言わず教えてください。身体に不快なところは、痛いところはございますか?」

 それにもエルは同じように首を横に振った。

「──成程」

 深い青色の瞳がすっと細められ、青年の手が伸びる。

「失礼」

 そう一言断ると口を開けさせられ、しばらくして何かに納得すると、青年は背後を振り返った。

「アルト様、お手数ですがもう一度倒れられた時の状況を教えてくださいますか」

「あ、ああ」

 名指しされたアルトは俯きがちに、しかしはっきりと言葉にした。

「第二王妃様と会ってすぐに、エルの様子がおかしいと思ったんだ。……気のせいかと思ったけど、退室したあと辛そうにしてた」

 エルは、とこちらに視線が向けられる。

 その表情は泣き出してしまいそうで、今すぐに抱き締めてやりたかった。

「そのまま壁に凭れて、休めばいいって言ってたけどすぐに座り込んで……誰か呼ぼうとしたけど、大丈夫だって言って。……その後の事って、正直あんまり覚えてないんだよな」

 段々と語尾が小さくなり、懸命に唇を動かしているのを見ていると、こちらの不甲斐なさが大きくなっていく。

「頭ん中ぐちゃぐちゃで、手近な部屋が空いてたからそこに入った。その時は呼吸も浅くなってて。……どれくらい経ったか分からないけど、レオンさんが気付いてくれてなかったら俺、あのまま」

「分かりました。すみません、嫌な事をお話させてしまい……」

 アルトの言葉を遮るように、青年がそこで口を挟んだ。

 ちらりとエルを見つめてから深く長い息を吐くと、アルトに視線を戻して青年が言った。

「いささか申し上げにくいのですが、よろしいでしょうか」

「……なに」

 ややぶっきらぼうなアルトの声音を気にも留めず、こちらからその表情は見えないものの、青年の苦しげな声がゆっくりと紡がれる。

「──お声が、出ないようです」

「……誰、の」

 アルトの怯える表情は、悲しむ表情は、エルとて見たくない。

 しかし目を逸らす事はしなかった。

 青年の見立ては事実でエルとて信じられないが、そうとしか言えないのだ。

「殿下です。……ご自分でも、知らずのうちに我慢をされていたのです。それが巡り巡って、結果的にお身体を追い込んでしまった」

 努めて冷静な声音が静かに部屋に響き、そして落ちる。

 痛いほどの沈黙が流れ、こちらまで呼吸するのさえ忘れてしまうほどだ。

「あれ、か」

「……アルト様?」

 ぽそりと呟いた言葉に、青年が首を傾げる。

「体調が悪いって俺が、気付かなかったから……? だから、エルは倒れるまで……」

「──それは違いますぞ、旦那様」

 それまで黙っていた初老の男が口を挟んだ。

「っ、ローガンじゃないのにアルバートに何が分かるんだ!?」

 すかさずアルトが初老の男──アルバートに噛み付く。

(そうだ、アルバートだった)

 アルトの幼い頃から公爵邸に仕えている男で、結婚式を挙げた時も顔を合わせたのだと思い出す。

 そして自分を診てくれているのが王宮お抱えの医師で、数いる中の一人であるということも。

「我が愚息ほどではありませんが、私にも医術の心得はあります」

 アルバートはゆっくりと落ち着いた声で言いながら、アルトを見つめる。

 その瞳はいつくしみで満ちているものの、口調はエルに同情しているようだった。

「王太子殿下は、貴方様に心配を掛けたくなかったのです。……愛する者に弱味を見せなかった殿下も殿下ですが、今回ばかりは心労が祟ったのでしょう」

 王太子殿下、とアルバートはこちらに視線を向けた。

「よくよくご自分の愚行を、今一度考えていただきたい。旦那様は貴方が目覚めぬ間、一睡もしておられぬのですから」

 きっと瞳を鋭くし、こちらを睨め付ける。

 幼い頃から成長を見守り、主人に忠誠を誓ってきた男の視線をエルは逸らす事なく受け止めた。

(どれだけ眠っていたんだ……?)

 ベッドから見える窓の外はやや明るいため、少なくとも今は昼過ぎだろう。

 アルバートの口振りから一日以上経っていると予想したが、何も言えないため尋ねる事もできない。

「……三日ほど眠っておられました」

 未だベッドの傍に膝を突いていたローガンが、エルの意思を汲み取って小さく呟く。

「その間、私はずっとこちらに詰めていたのでアルト様のご様子もよく知っております。……目覚められて本当に良かった」

 ふっとローガンが安堵の息を吐く。

 あまり眠っていないのか、目の下にはうっすらと隈が出来ていた。

「──陛下に、殿下がお目覚めになられた事を報告して参ります。お疲れのところ申し訳ございませんが、後を任せてもよろしいでしょうか」

 ローガンはゆっくりと立ち上がり、アルトを見て言う。

 未だ頭が整理できていないのか俯きがちだったものの、アルトはややあって顔を上げた。

「ああ。……ごめん、ありがとう」

 その言葉にローガンは小さく会釈すると、アルバートを伴って部屋を出て行った。

 部屋には針を刺したような沈黙が落ち、肌が痛いほどだ。

 何も話せず動けないため、エルはきゅうと唇を噛み締める事しかできなかった。

「……なんで」

 ぽつりとアルトが呟く。

「なんで、あんなになるまで我慢してたんだ! お前が死ぬかもって、どれだけ考えたか分かるか? ずっと傍に居たのに無茶して……俺がどれだけ自分を責めて、エルがいなくなるかもって怖かった気持ちが分かるか……!?」

(ごめん)

 悲痛な声に言葉を返したいのに、抱き締めて安心させたいのに、今の身体では何もできないのがもどかしくて堪らない。

 愛する男の気持ちも考えず、己が無茶をしたのは事実だ。

 アルバートの言葉もローガンの言葉も正論で、心の中で反論一つできなかった。

 アルトを心配させた挙句、怖がらせてしまった事に至ってはどれだけ謝っても足りないほどで、そんな自分がどれほどの事をしたかも理解している。

(……隠したら隠したで怒るんだろうな、貴方は)

 アルトがどれほど己を愛してくれているか、十分過ぎるほど知っている。

しかし、レティシアの前で気丈に振る舞ったのは見栄でしかない。

(そうでもしないと俺が壊れるから)

 すべては目の前の男を心配させたくなかったが故だが、結果的に怒らせた挙句泣かせ、周囲の人間にも心配を掛けてしまった。

 その事が申し訳なく、アルトの顔をしっかりと見れずエルはきつく瞳を閉じた。

「……こんなこと言っても声、出ないんだったな」

 はは、とアルトは自嘲するように呟いた。

「言いたいことも言えないのは辛いよな。でも……エルの声が聞けない方がもっと辛いよ、俺は」

 アルトはベッドの傍に膝を突くと、そっと手を摑んでくる。

 体温を与えられるように頬を擦り寄せられ、時折温かな唇が手の平を掠める。

 頭を撫でて『大丈夫だよ』と言いたいのに、何もできない自分が一層惨めに思えてならなかった。

 エルは心の中で何度も何度も名前を呼ぶ。

(朔真……)

 二人きりの時は『朔真』でいい、と言ってくれたのは嬉しかった。

 己にだけ本当の一面を見せてくれている気がして、これ以上ないほどの優越感に包まれた事は昨日の事のように覚えている。

 しかし同時に、その身体を形作る『アルト』と呼べないのも今のエルにとっては嫌でならなかった。

 幼い頃の思い出も、大人になってから再会した時の『魂』は違っていたが、それすらもエルにとってはかけがえのない思い出なのだ。

 いつの間にかアルトの頬に涙が流れ、手の平を伝ってシーツに小さな染みを作っていた。

 これまでにも何度か泣かせた事はあったが、自分が弱いばかりに流れていくそれは、こちらの胸まで痛んでしまう。

 自業自得でしかないが、あまりにも不甲斐なくて消えてしまいたくなった。

「エル、ちゃんと教えてくれ」

「……っ?」

 熱い吐息を手の平に感じ、エルは顔をそちらに向ける。

 涙に濡れてきらきらと輝く青い瞳は、しっかりとエルだけを見つめていた。

「ここまでエルが追い詰められるような、そんな事が出来るのはレティシア様なんだろ……? 何を言われたのか知らないけど、『俺』を受け入れてくれたのと同じ事を今度はエルに返したい」

 それに、とアルトは小さく口角を上げながら続ける。

「俺だってエルを守れるくらい強くなってるから。……知ってるか? 時間がある時、ミハルドさんに稽古を付けてもらってるんだ」

(ミハルドに……?)

 結婚式を挙げてからは互いに忙しく、アルトとの時間が取れないと思っていたが裏でそんな事をしていたのか。

(そんなの、俺が教えるのに)

 ここにはいないミハルドに少しの嫉妬心を駆られたが、エルにとってはアルトの剣の捌きではお遊びにもならないと思われているのだろう。

 その実、頑固な節のある男だ。

 こちらがこうだと言っても聞かない事もあり、その時は少し強引な手段を取ってしまっているのだが。

 それでもアルトは懸命に、己の出来る事をやろうとしてくれている。

 それが微笑ましく、時に甘やかしたくもなるというのを知らないのだろう。

「──なんて今こんなこと言っても、何も言えないんだよな。守れなくてごめ……」

 ふと顔を曇らせ、アルトが謝罪しようとする。

「……っ、ぅ」

 ふるふると首を振り、今己が出来る限りの力を手の平に込める。

 違う、と言いたかった。

 なのに喉は思うように動いてくれず、出せたとしても掠れたものにしかならない。

「そう、だな。お前は……エルはそういう奴だよ」

 しかし言いたい事は伝わったらしく、アルトは困ったように淡く微笑んだ。

「でも……これだけは覚えてて」

 そう言うと、アルトはエルの顔の横に手を突いた。

 ぎしりとベッドが軋んだかと思えば、すぐに唇に温かな熱が触れる。

「俺はエルが何よりも大事で、一生愛してるってことを」

 ふっと小さく笑ったアルトは、普段の己を彷彿とさせる。

 それ以上に嬉しい言葉を言われ、エルもゆっくりと口角を上げた。

 すると、それを合図にもう一度降ってくる唇をしっかりと享受した。
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