その美人、執着系攻めにつき。

月城雪華

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第二部 一章

ささやかな日常 3

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「……ん」

 ベッドがわずかに軋む音に、アルトの意識がゆっくりと浮上する。

 寝室はまだカーテンを閉めているため暗く、しかしわずかに窓から光が漏れている。

 部屋の内装が落ち着いた色というのもあるが、柔らかな光ひとつでも目が痛くなるほどだ。

「──ごめんね、起こした?」

 落ち着いた柔らかな声が頭上から降り、瞼に軽く口付けられた。

「おはよ……エル」

 アルトはやや目をすがめ、小さく言った。

 温かい唇に眠気を誘われるが、昨日のように何も言えないまま眠っているのはごめんだ。

 アルトはベッドから起き上がろうとするが、それよりも早く肩をそっと押され、そのままベッドにもう一度沈み込んだ。

「っ」

 ふかふかのベッドに身体を受け止められ、痛みはないものの小さな声が漏れる。

 そんなアルトにエルは上掛けをもう一度掛けてくれ、乱れた金髪を優しい手つきで整えくれる。

 一定の感覚で半ば頭を撫でられていると、抗えない睡魔が後からやつてくる。

「まだ眠いんだろう? すぐに戻るから、もう少し寝てていいよ」

 あくまでこちらを気遣ってくれるエルに愛おしさが増すが、それでもアルトは嫌だった。

 ふるふると首を振り、唇を開いては閉じてを繰り返す。

(今日こそ『行ってらっしゃい』って言うんだ)

 小さなことかもしれないが、誰かに言われるとそれだけで一日を頑張れるのだ。

 元の世界では自分に向けてむなしく言うだけだった言葉を、出来る限り言いたかった。

 エルはそんな様子のアルトをじっと見つめ、やがて頬に触れてくる。

「本当にすぐに戻るから。まだ起きるには早いし、朝食まで寝ていて」

「エル……っ」

 アルトはエルの言葉を遮り、頬に触れる大きな手に己のそれを重ねた。

「ん?」

 首を傾げ、こちらに顔を寄せたエルは暗い部屋の中でもきらきらと輝いて見えた。

 確かに眠いのは事実だが、大事なことを言わずして寝てはいられなかった。

「……いってらっしゃい」

 それは小さく掠れてしまったが、しっかりとエルに伝わったようだ。

 一瞬目を丸くしたものの、すぐにエルは美しい笑みを浮かべてくれた。

「ありがとう。……行ってくるね、朔真」

 甘く名を呼ぶと、エルはベッドの縁に腰掛けたままそっと口付けてくる。

 普段とは違い、どうしてかそのキスはほんのりと甘く、ほろ苦い味がした。

(エル……)

 ぼんやりとした違和感を覚えたものの、柔らかなベッドに横になっていると、眠気がやってくるのにあまり時間は掛からなかった。

 エルの香りに包まれ、アルトはそっと目を閉じる。
 脳裏には、優しくこちらを見つめる男の顔が浮かんだ。



 ◆◆◆



 普段ならば王宮の鍛錬場は騎士らでひしめき合っているが、明朝のためか閑散としていた。

 エルは傍らに立て掛けていた剣を手に取ると、ゆっくりと頭上に構えて一息に振り下ろす。

「ふ……っ!」

 一振りするだけで空気が張り詰め、びりびりと肌が痛む。

 きっとこの場に人が居れば圧倒され、一歩も動けないだろう。

 それほどエルは殺気をみなぎらせ、ただ黙々と目の前にいない『敵』を斬り伏せた。

 すべては己の手で愛しい男を、そして民を守るためにあると自覚している。

 しかし今では王宮に自分以上の剣の腕を持つ者などおらず、やや手応えがないというのも事実だった。

 はらりと頬に掛かった髪を耳にかけ、しばらく呼吸を整えていると不意に誰かの気配を感じた。

「あれ、もう止めるのか?」

 残念だなぁ、とやけに間延びした能天気な声には聞き覚えがあった。

 剣を下ろしゆっくりと振り向くと、鍛錬場の出入口に男が背をもたせ掛けていた。

「……ケイト」

 エルは男──弟である第二王子の名を呼んだ。

 にこにこと人好きのする笑みを浮かべ、ケイトがこちらにやってくる。

 エルとは違い、柔らかなクリーム色の髪に角度によって紺碧にも紫にも見える、不思議な瞳をしていた。

 リネスト国ではその瞳の色が奇異なためか、幼い頃は相手にされない事もしばしばだった、と笑いながら言っていたのを思い出す。

 ここ最近は姿を見ていなかったが、やっと合点がいった。

(レティシア様の使いで帝国に行っていたのか)

 普段、一部の王宮のお偉方はケイトをいない者として扱う。

 そもそも本来であればエルに『弟』はいないのだ。

 ライアンがエルのために二人の王女を娶ろうとした時、リネスト国側はレティシアが妊娠しているという事を把握していなかった。

 リネスト国は広大な領地を持ち、新鮮な食物が豊富なのはもちろんのこと、民の数も多い。

 国を挙げて戦争でも起こせば圧倒的な戦力差をもって、自国が飲み込まれると思ったのだろう。

 そのためレティシアの父である前王は妊娠が発覚した折、婚約を破棄する事はなかった。

 ほとんど決定事項の降嫁をすべて取り消す事になれば、リネスト国側との繋がりが無くなる。

 デレッタント帝国側は自国の繁栄と娘とを天秤に掛け、ごく身近な者を娘の傍に付けて秘密裏に出産させたらしい。

 徐々に腹が出てくるとレティシアを誰の目にも届かない所に住まわせ、やがてケイトを産んだ。

 嫁ぐ日になると口の硬い者で周囲を固め、帝国から一月ほど馬車を走らせ、王宮に着いてやっと発覚したという事だった。

 最初こライアンは怒り心頭だったが側近らに宥められ、その場は一度穏便に済んだ。

 まだ幼い王太子に加え、そう年の変わらない王子のために戦争を起こすのは得策ではないのだ。

 王家と血は繋がっていないが、ライアンの温情により表向きは『王太弟』という肩書きでケイトは王宮に住んでいる。

 第二王妃の不貞が明るみに出れば争いが起きる、とライアンは言っていた。

 それは今も継続しており、ケイトが肩身の狭い思いをしているのはそういう理由があってだ。

 加えて成長するにつれ、二人の差は顕著になっていった。

 ひとたび剣を取ればエルの圧勝で、勉学ひとつ取ってもエルの方が頭が良かった。

 細々としたものでもケイトはいつも面倒そうで、本気で取り組もうとしていない。

 未だに公務や王家主催のパーティーがあれば、ほとんどを『面倒だから』という理由で断っている。

 しかしその実、誰よりも努力している事をエルは知っている。

 ただ、分かってはいてもこの男とは壊滅的に合わない。

 飄々とした口調もることながら、こちらの痛いところを時として突いてくるのだ。

(悪い奴ではないんだけど……いつ会っても何を考えてるか分からない)

 ケイトはレティシアの正真正銘の息子で、父親は分かっていない。

 王宮の一部の人間が目の敵にするのはそういう理由だが、可哀想だとエルは思う。

 当の本人は悪くないのに非難され、目の敵にされる事がどんなに辛い事なのか、エルには分かるつもりだ。

 本来ならばこの王宮に嫌気が指し、今日まで生きていられないかもしれないというのに、ケイトは強いと思う。

「どうしたんだ、エル」

 おーい、と顔の前でひらひらと手を振られ、そこでエルは正気に戻った。

「……いいや、なんでもない。それよりもどこに行っていたんだ? 最近姿が見えないから心配していたのだが」

 エルは向かってくるケイトを通り過ぎ、剣を元の位置に立て掛ける。

 すると小さな笑い声が聞こえ、やや眉間に皺を寄せながら振り向いた。

「何を笑っている」

「いや、ごめん。笑うつもりじゃなくて」

 ふふふ、と口元に手をあて笑いを堪えていては、少しも説得力がなかった。

「エルのその口調も久しぶりだな、って。やっぱ似合わないよ、それ」

「……は」

 ピキ、と額に青筋が立つのが分かる。

 エルとて好きでこの口調なわけではないのだ。

 誰に言われたわけでもないが、王太子として厳格であれという信念のもと、気付けばこの話し方で落ち着いていた。

 しかし気を許している者の前──数少ない人間の前では素で、現にアルトの前ではただ一人の男として接している。

 本当は公式な場以外でも普通でいたいが、染み付いてしまったものは簡単に直せるものではなかった。

「お前にとやかく言われる筋合いはない。でも」

 エルは低い声はそのままに、ケイトの耳元に形のいい唇を寄せた。

「俺に何か用があるんだろう? ──言って」

「っ」

 びくりとケイトの肩が跳ねるのを目に留め、更に唇を寄せる。

「隠し事はよくない。無理に言えとは言わないけど、そのままじゃケイトが辛いだけだよ」

 静かな鍛錬場には互いの声がよく響き、こちらの気付かないうちに聞き耳を立てている者が居るかもしれない。

 そうした意味で内緒話をするように近付いたが、ケイトが口を開く素振りはなかった。

「ケイ……」

「な、何言ってるんだよ! おかしい奴だな、エルは!」

 結婚して頭が鈍ったか、とケイトはエルの言葉を遮ってさもおかしそうに笑う。

 ぽんとエルの肩を叩くと、ケイトは出入口にゆっくりと脚を向けた。

「……本当に何もないんだ。だから、俺のことなんか気にしなくていい」

 すれ違う間際、ぽつりと呟いた言葉をエルは聞き逃さなかった。

(どういう意味なんだ……?)

 人間というのは隠し事をする時、必ず何かがある。

 しかしケイトは頑なに言おうとせず、無理に言っては更に口をつぐんでしまうだろう。

 エルが数度瞬くとケイトは振り返っており、こちらに笑みを向けていた。

「そうそう、母さんが昼に来てくれってさ。アルトも一緒に」

「……アルト、も?」

 予想し得ない名前が出て、つい声が裏返る。

 当事者であるエルだけならばまだしも、アルトが同席する意味を見いだせなかった。

 それに、アルトにはレティシアを会わせたくない。

 結婚式の時に慣例とはいえ顔を合わせて軽い話をしていたが、ぞわりとした胸騒ぎに耐えていたほどだ。

「まぁ悪い方向には進まないと思う。──俺がそう話しておいたから」

 その言葉だけですべてを察し、エルはギリと奥歯を噛み締めた。

(また、俺は……)

 周囲だけでなくケイトの手までも煩わせてしまった己に、ほとほと嫌気が指してしまう。

 しかしエルはそれをおくびにも出さず、先を歩くケイトの後を追って鍛錬場を出て行く。

 来たばかりの頃はまだ出ていなかった太陽が、ゆっくりと昇ろうとしていた。
 

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