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第一部 五章
明らかになる事 5
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◆◆◆
アルトは椅子に座ると、テーブルの上に置いていた読み掛けの本を開いた。
それは小屋に監禁されている時、退屈だろうからとエル自ら選んでくれ、ミハルドが持ってきてくれた複数の書籍のうちの一冊だ。
しかし、頭の中に内容はほとんど入ってきていない。
それもこれも、これからエルに打ち明ける時の言葉をずっと考えているからだ。
ただ『アルト・ムーンバレイ』という男はもういない、というだけなのにその先の反応を知るのが怖いのだ。
つくづく己の弱さを感じるとともに、喉に何かが挟まったような違和感があり、それは夕食の時間になっても続いた。
残してしまうのは作ってくれた者に申し訳ないため、無理矢理口に詰め込んだのもあるのだろうか。
(エル、遅いな……)
アルトは落ち着かない気持ちで視線を窓に移した。
窓から見える空は漆黒に染まっており、月すら見えない。
風呂にも入ったあとでは特にやる事もなく、こうして本を読むか物思いに耽るしかなかった。
このままエルを待つという選択肢もあるが、鬱屈とした気持ちでは何も手につきそうにない。
昼間に別れたきりで、こんなにもエルのことを考えるのは久しぶりだった。
「俺、あいつのこと好き過ぎるだろ……」
本を閉じて己の頬に触れる。
頬は沸騰したように熱くなっており、熱でも出してしまいそうな錯覚に陥った。
(でも、今日でこの気持ちも終わりだ)
エルから拒絶されてしまえば、アルトは──『朔真』は生きていけなくなる。
虚言ではなく、本当にそうなってしまってもおかしくないほど、エルのことを好きになっているのだ。
最初はこうなると予想しておらず、もしもあの時の自分がいたならば目を覚ませと一発殴られているだろう。
己の感情の変化に小さく溜め息を吐くと、アルトは椅子から立ち上がった。
昼間はそうでもなかったが、先程から廊下が少し騒がしい。
普段はエルが人払いでもしているのか、寝室のある廊下を通る人間はあまりいないため余計に気になってしまう。
アルトは薄く扉を開け、周囲を見回した。
するとメイドが慌ただしく廊下を行き来しているのが見え、アルトは目を丸くする。
「なんだ……?」
普段ならば足音一つ立てない王宮のメイドらは、周囲を気にすることなくパタパタと廊下を小走りで行き来していた。
その手には服をそれぞれ持っており、軽いものから重厚そうなものまで様々だ。
すぐに扉を閉め、アルトはそのまま扉に背を預ける。
「エルが関係してる、のかな」
別室に通されているという夫人らがエルに何がしかの用があり、王宮内のメイドを総出させているのだ。
「……まさか誕生日とか」
ただの想像でしかないが、いち王族の──次期国王の誕生日ともなれば民から盛大に祝われ、各国の人間らが王宮に集うことだろう。
夫人らはそれに向けての仕立てや段取りを相談するために来た、となればエルが遅いというのも納得がいく。
(王太子って大変なんだな)
行事一つ、たとえ自身の生まれた日であってもその準備に追われ、ゆっくりできないとは少し可哀想だった。
元の世界ではそう盛大に祝われた事はなく、まして『おめでとう』と言ってくれた人間は社会を経験して年々減っていったほどだ。
それもこれも、いちサラリーマンというのに加え入った会社が所謂ブラック企業だったからだろうか。
未だにこうしてぼうっとしたり、手慰みに読書をしたりするのは実際あまり慣れていない。
これでは邸に戻って細々とした雑務をしていた方がマシだと思ったが、今はそうではなかった。
(エルの傍にいたい。……お前は嫌だって言いそうだけど)
アルトは自身の胸に手をあてる。
この身体には確かに『アルト』のもので、自分のものではないと分かっている。
ただ身体を借りてるだけで、本来の人格がどこにあるのか既に知る術はないのだ。
しかし何度となく考え、もう『アルト』はいないと結論付けたものの、やはり身体と心に少しの違和感があった。
「うお!?」
不意に身体を預けていた扉が動き、アルトは前につんのめった。
「びっ……くりした。アルト、扉の前に居たら危ないだろう?」
扉の向こうから姿を現した人物──エルはアルトがそこにいるとは思わなかったのか、慌てた声で駆け寄ってきた。
「ご、ごめん」
目の前に回り込まれたエルの顔を見れず、アルトは小さく頭を下げる。
(こういうの、前にもあった気がする……)
二度あることは三度ある、という言葉が頭の中に浮かぶ。
どうやら自分は考え事をしていると目の前が見えなくなるらしく、前回と同じ言葉と仕草をしている自覚があった。
「……本当に待っててくれたんだね。ありがとう」
「っ」
ぽん、と頭に手を置かれ、形を確かめるように撫でられる。
こちらを見下ろす優しく愛おしい視線を感じ、更に顔を上げられなくなった。
「遅くなってごめんね、話し合いに結構時間が掛かって」
言いながらエルはアルトの両手をそっと握る。
その手は震えており、普段エルらしからないものだった。
「貴方の方から大事な話があるって言ってくれたのに、今言うのも狡いかもしれないけど」
エルはそこで言葉を切ると視線を左右に彷徨わせつつ、しかしゆっくりと形のいい唇を開いた。
「──貴方はもうここから出られない」
「っ!」
それはいつかにも聞いた言葉だと理解する前に、ぎゅうと握られた手の力が強くなる。
痛みを感じるほどの強さに、アルトの顔がわずかに歪んだ。
それをエルは否と取ったのか、商会で聞いたのと同じ低く冷たい声音で続ける。
「王配として……俺の傍にずっと居るんだ。勝手に出歩くのも許さない。貴方が嫌だと泣いても、俺の許可がない限りは一人で行動なんかさせない。貴方はずっと俺の──」
「ま、ってくれ」
早口に捲し立てられ、段々と強くなる力にアルトは息も絶え絶えに遮る。
何か重大な勘違いをしているようで、このままでは聞いてくれなくなる可能性が脳裏を掠めた。
「今すぐ邸に帰るって言うなら許さないよ」
こちらの声に耳を傾けることなく、一人で完結させようとしている男にアルトの中の何かが切れる。
「……違う!」
唐突なアルトの声量に、びくりとエルが小さく肩を竦める。
矢継ぎ早に自分の知らない事を言われ、加えてエルに打ち明けるために直前まで考えていた数々の言葉は、頭からすべて抜けてしまった。
しかし、アルトは自身を叱咤して懸命に声を絞り出す。
「俺は逃げない、ってずっと……ずっと言ってるのに。なんで、信じてくれないんだ」
「……アルト?」
何か違和感を感じたのか、エルの手の平の力がわずかに緩む。
アルトはその隙を突き、素早く人ひとり分の距離を取った。
エルは訝しげな表情でこちらを見ており、何かを言う気配はない。
そこでアルトは短く細く息を吸い込むと、視線は床に向けたまま俯きがちに呟いた。
「俺、は」
声が震える。
身体も心做しか震えており、指先がゆっくりと冷えていくのが分かった。
それでも今、しっかりと言わなければいけない。
ここで黙ってばかりいては、エルから逃げているも同然なのだから。
きつく唇を噛み締め、意を決して口を開く。
「俺はアルトじゃ、ないんだ。本当の『アルト』は……もう、いない」
エルが息を呑んだのが嫌でも分かる。
(……そりゃあそうだ、俺だってびっくりする)
己の唐突な打ち明け方に心の中で自嘲し、ぎゅうと瞼をきつく閉じると、消え入りそうな声で続けた。
「……ごめん。ずっと、黙ってて。こんなこと、いきなり言われても困るよな。きらい、になったよな……」
自分から言ったことだが、嫌いという言葉に堪らず視界がぼやける。
本当は好きで好きで仕方ないのに、自ら言葉にするのは些か勇気が足りなかったらしい。
(泣かない、って決めてたのに)
いくつも熱い雫が伝うのを嫌でも感じ、零れ落ちたそれが床に小さなシミを作る。
「──言いたいことはそれだけ?」
エルの声が間近で聞こえると同時に、不意に周囲が暗くなった。
程よい温かさが身体を包み込み、エルに抱き締められているのだと遅れて理解した。
「エ、ル……?」
「それが黙っていたこと? 他には? 何もない?」
そっとエルの手が涙に濡れた頬に触れ、俯けていた顔を無理矢理上げさせられる。
水色の瞳と強制的に視線が交わり、その中に見えた自分は情けない顔をしていた。
「なん、で……こんな、嫌だろ。お前は、ずっと『アルト』が好きだったのに」
しゃくり上げるのもそのままに、エルの服を摑みながら声を絞り出すように続ける。
「嫌だって、言ってくれてもいいんだ。俺のことなんか気にしないで、このまま突き放してくれた方が──」
「俺が婚約破棄する、って言えば貴方は満足なの?」
冷えた声音で紡がれた言葉に、びくりと肩が強ばる。
エルは強要している言葉をただ繰り返してくれただけだが、耳に入った言葉を理解した瞬間、ぽつんと胸に大きな穴が空いたような喪失感に陥った。
(いや、だ)
それだけは嫌だ。
最初こそエルと過ごす日々は最悪なものだったが、段々と強く想うようになってからは傍にいたいと願うようになっていた。
『アルト』として隣りに居ることに抵抗があったのは事実で、何も知らないままのエルを騙している気がして、それを言う勇気のない自分が嫌いだった。
だから突き放されるのを、嫌われるのを決意して言ったのにエルはただ『大丈夫』と言うばかりなのだ。
後から後から零れる涙を何度も指先で拭ってくれ、安心させるように背中を撫でてくれる。
「嫌だよね、隠し事をするのは。ありがとう、言ってくれて。……頑張ったね」
耳朶に響く声はどこまでも優しく、じんわりと身体に染み渡るようだった。
「や、っ……」
ぐいとエルの胸を押し離れようとする。
これでは『アルト』ではなく自分──『朔真』を受け入れてくれ、好きだと言ってくれているも同義となってしまうのだ。
それに、ここまで優しくされてはもう離れられなくなってしまう。
誰にもこの男を渡したくなくなってしまう。
そう考えているとエルも分かっているのか、離れた分だけ距離を詰められ、先程よりも更に深く抱き締められる。
あまり拘束は強くないが、上手く呼吸ができない。
加えて泣いていたせいもあってか、ひくりと小さく鼻が鳴った。
(優しくするな。したら、もっと俺は)
「う、ぅぅ……」
涙腺が壊れてしまったのか、制御できなくなった雫がエルの服を濡らしていく。
止めようとしても止まらないそれをもどかしく思いつつも、そのまま声を殺して啜り泣くしかできなかった。
「──名前」
ふとエルが小さく囁いた。
新鮮な空気を求めてやや上を向くと、エルの瞳が間近に迫っている。
「貴方の、本当の名前は?」
「な、まえ……?」
優しい色をしたそれは、ただただ純粋なものだった。
「そう。アルトじゃない、貴方の名前」
濁りのない水色はどこまでもこちらを思いやってくれ、言葉を待ってくれている。
言ってもいいのだろうか。
言って、離れていってしまわないだろうか。
ぐるぐると頭の中をその二つが駆け巡っていると、背中に回された手の平にわずかに力がこもった。
(あ……)
本当の名前を聞くことは、やはりエルも怖いのだ。
今まで接していた男が違う人間で、中身も随分と変わっていただろうに、それをさして注意する事なくここまで来てくれたのだから。
しかしそれをおくびにも出さず接してくれたエルに、申し訳なさと罪悪感が綯い交ぜになる。
はくはくと口を開いては閉じてを何度か繰り返すと、きゅうと唇を噛み締めて喉から声を絞り出す。
「……ま」
ぽそりと呟いたそれは、喉につっかえてしまった。
「さ、くま」
心臓の音が聞こえやしないかと気が気ではないが、掠れ気味なそれがゆっくりと口を突いて出た。
「さくま。……朔真」
『アルト』ではない──『朔真』という、本来の名前を何度も唇に乗せる。
「サクマが、貴方の名前?」
どこかたどたどしいエルの口調に、 アルト──朔真がこくりと小さく首肯すると同時にエルの顔が眼前に迫った。
「ん……」
そっと触れるだけですぐに離れた唇は熱く、そこから熱が広がっていくようだった。
背中に回されていた手はいつの間にか頭に添えられており、よく頑張ったとでもいうように何度も撫でられる。
「サクマ。朔真、か」
唇を解いたエルに肩口に顎を載せられ、ぽつぽつと『朔真』と何度も口の中で繰り返す。
そうした時間はあまり長くなかったものの、やっと自分の中で納得したのか、ゆっくりとエルが肩から顔を離した。
「……朔真」
「っ」
愛おしそうに朔真の名を呼ぶと、エルはそっと身体の拘束を解いた。
すると床に片膝を突き、こちらを見上げる形になる。
「貴方に、改めて婚約を申し込む。……受け入れてくれる?」
エルの美しい水色の瞳は、アルト・ムーンバレイを──朔真を見つめていた。
アルトは椅子に座ると、テーブルの上に置いていた読み掛けの本を開いた。
それは小屋に監禁されている時、退屈だろうからとエル自ら選んでくれ、ミハルドが持ってきてくれた複数の書籍のうちの一冊だ。
しかし、頭の中に内容はほとんど入ってきていない。
それもこれも、これからエルに打ち明ける時の言葉をずっと考えているからだ。
ただ『アルト・ムーンバレイ』という男はもういない、というだけなのにその先の反応を知るのが怖いのだ。
つくづく己の弱さを感じるとともに、喉に何かが挟まったような違和感があり、それは夕食の時間になっても続いた。
残してしまうのは作ってくれた者に申し訳ないため、無理矢理口に詰め込んだのもあるのだろうか。
(エル、遅いな……)
アルトは落ち着かない気持ちで視線を窓に移した。
窓から見える空は漆黒に染まっており、月すら見えない。
風呂にも入ったあとでは特にやる事もなく、こうして本を読むか物思いに耽るしかなかった。
このままエルを待つという選択肢もあるが、鬱屈とした気持ちでは何も手につきそうにない。
昼間に別れたきりで、こんなにもエルのことを考えるのは久しぶりだった。
「俺、あいつのこと好き過ぎるだろ……」
本を閉じて己の頬に触れる。
頬は沸騰したように熱くなっており、熱でも出してしまいそうな錯覚に陥った。
(でも、今日でこの気持ちも終わりだ)
エルから拒絶されてしまえば、アルトは──『朔真』は生きていけなくなる。
虚言ではなく、本当にそうなってしまってもおかしくないほど、エルのことを好きになっているのだ。
最初はこうなると予想しておらず、もしもあの時の自分がいたならば目を覚ませと一発殴られているだろう。
己の感情の変化に小さく溜め息を吐くと、アルトは椅子から立ち上がった。
昼間はそうでもなかったが、先程から廊下が少し騒がしい。
普段はエルが人払いでもしているのか、寝室のある廊下を通る人間はあまりいないため余計に気になってしまう。
アルトは薄く扉を開け、周囲を見回した。
するとメイドが慌ただしく廊下を行き来しているのが見え、アルトは目を丸くする。
「なんだ……?」
普段ならば足音一つ立てない王宮のメイドらは、周囲を気にすることなくパタパタと廊下を小走りで行き来していた。
その手には服をそれぞれ持っており、軽いものから重厚そうなものまで様々だ。
すぐに扉を閉め、アルトはそのまま扉に背を預ける。
「エルが関係してる、のかな」
別室に通されているという夫人らがエルに何がしかの用があり、王宮内のメイドを総出させているのだ。
「……まさか誕生日とか」
ただの想像でしかないが、いち王族の──次期国王の誕生日ともなれば民から盛大に祝われ、各国の人間らが王宮に集うことだろう。
夫人らはそれに向けての仕立てや段取りを相談するために来た、となればエルが遅いというのも納得がいく。
(王太子って大変なんだな)
行事一つ、たとえ自身の生まれた日であってもその準備に追われ、ゆっくりできないとは少し可哀想だった。
元の世界ではそう盛大に祝われた事はなく、まして『おめでとう』と言ってくれた人間は社会を経験して年々減っていったほどだ。
それもこれも、いちサラリーマンというのに加え入った会社が所謂ブラック企業だったからだろうか。
未だにこうしてぼうっとしたり、手慰みに読書をしたりするのは実際あまり慣れていない。
これでは邸に戻って細々とした雑務をしていた方がマシだと思ったが、今はそうではなかった。
(エルの傍にいたい。……お前は嫌だって言いそうだけど)
アルトは自身の胸に手をあてる。
この身体には確かに『アルト』のもので、自分のものではないと分かっている。
ただ身体を借りてるだけで、本来の人格がどこにあるのか既に知る術はないのだ。
しかし何度となく考え、もう『アルト』はいないと結論付けたものの、やはり身体と心に少しの違和感があった。
「うお!?」
不意に身体を預けていた扉が動き、アルトは前につんのめった。
「びっ……くりした。アルト、扉の前に居たら危ないだろう?」
扉の向こうから姿を現した人物──エルはアルトがそこにいるとは思わなかったのか、慌てた声で駆け寄ってきた。
「ご、ごめん」
目の前に回り込まれたエルの顔を見れず、アルトは小さく頭を下げる。
(こういうの、前にもあった気がする……)
二度あることは三度ある、という言葉が頭の中に浮かぶ。
どうやら自分は考え事をしていると目の前が見えなくなるらしく、前回と同じ言葉と仕草をしている自覚があった。
「……本当に待っててくれたんだね。ありがとう」
「っ」
ぽん、と頭に手を置かれ、形を確かめるように撫でられる。
こちらを見下ろす優しく愛おしい視線を感じ、更に顔を上げられなくなった。
「遅くなってごめんね、話し合いに結構時間が掛かって」
言いながらエルはアルトの両手をそっと握る。
その手は震えており、普段エルらしからないものだった。
「貴方の方から大事な話があるって言ってくれたのに、今言うのも狡いかもしれないけど」
エルはそこで言葉を切ると視線を左右に彷徨わせつつ、しかしゆっくりと形のいい唇を開いた。
「──貴方はもうここから出られない」
「っ!」
それはいつかにも聞いた言葉だと理解する前に、ぎゅうと握られた手の力が強くなる。
痛みを感じるほどの強さに、アルトの顔がわずかに歪んだ。
それをエルは否と取ったのか、商会で聞いたのと同じ低く冷たい声音で続ける。
「王配として……俺の傍にずっと居るんだ。勝手に出歩くのも許さない。貴方が嫌だと泣いても、俺の許可がない限りは一人で行動なんかさせない。貴方はずっと俺の──」
「ま、ってくれ」
早口に捲し立てられ、段々と強くなる力にアルトは息も絶え絶えに遮る。
何か重大な勘違いをしているようで、このままでは聞いてくれなくなる可能性が脳裏を掠めた。
「今すぐ邸に帰るって言うなら許さないよ」
こちらの声に耳を傾けることなく、一人で完結させようとしている男にアルトの中の何かが切れる。
「……違う!」
唐突なアルトの声量に、びくりとエルが小さく肩を竦める。
矢継ぎ早に自分の知らない事を言われ、加えてエルに打ち明けるために直前まで考えていた数々の言葉は、頭からすべて抜けてしまった。
しかし、アルトは自身を叱咤して懸命に声を絞り出す。
「俺は逃げない、ってずっと……ずっと言ってるのに。なんで、信じてくれないんだ」
「……アルト?」
何か違和感を感じたのか、エルの手の平の力がわずかに緩む。
アルトはその隙を突き、素早く人ひとり分の距離を取った。
エルは訝しげな表情でこちらを見ており、何かを言う気配はない。
そこでアルトは短く細く息を吸い込むと、視線は床に向けたまま俯きがちに呟いた。
「俺、は」
声が震える。
身体も心做しか震えており、指先がゆっくりと冷えていくのが分かった。
それでも今、しっかりと言わなければいけない。
ここで黙ってばかりいては、エルから逃げているも同然なのだから。
きつく唇を噛み締め、意を決して口を開く。
「俺はアルトじゃ、ないんだ。本当の『アルト』は……もう、いない」
エルが息を呑んだのが嫌でも分かる。
(……そりゃあそうだ、俺だってびっくりする)
己の唐突な打ち明け方に心の中で自嘲し、ぎゅうと瞼をきつく閉じると、消え入りそうな声で続けた。
「……ごめん。ずっと、黙ってて。こんなこと、いきなり言われても困るよな。きらい、になったよな……」
自分から言ったことだが、嫌いという言葉に堪らず視界がぼやける。
本当は好きで好きで仕方ないのに、自ら言葉にするのは些か勇気が足りなかったらしい。
(泣かない、って決めてたのに)
いくつも熱い雫が伝うのを嫌でも感じ、零れ落ちたそれが床に小さなシミを作る。
「──言いたいことはそれだけ?」
エルの声が間近で聞こえると同時に、不意に周囲が暗くなった。
程よい温かさが身体を包み込み、エルに抱き締められているのだと遅れて理解した。
「エ、ル……?」
「それが黙っていたこと? 他には? 何もない?」
そっとエルの手が涙に濡れた頬に触れ、俯けていた顔を無理矢理上げさせられる。
水色の瞳と強制的に視線が交わり、その中に見えた自分は情けない顔をしていた。
「なん、で……こんな、嫌だろ。お前は、ずっと『アルト』が好きだったのに」
しゃくり上げるのもそのままに、エルの服を摑みながら声を絞り出すように続ける。
「嫌だって、言ってくれてもいいんだ。俺のことなんか気にしないで、このまま突き放してくれた方が──」
「俺が婚約破棄する、って言えば貴方は満足なの?」
冷えた声音で紡がれた言葉に、びくりと肩が強ばる。
エルは強要している言葉をただ繰り返してくれただけだが、耳に入った言葉を理解した瞬間、ぽつんと胸に大きな穴が空いたような喪失感に陥った。
(いや、だ)
それだけは嫌だ。
最初こそエルと過ごす日々は最悪なものだったが、段々と強く想うようになってからは傍にいたいと願うようになっていた。
『アルト』として隣りに居ることに抵抗があったのは事実で、何も知らないままのエルを騙している気がして、それを言う勇気のない自分が嫌いだった。
だから突き放されるのを、嫌われるのを決意して言ったのにエルはただ『大丈夫』と言うばかりなのだ。
後から後から零れる涙を何度も指先で拭ってくれ、安心させるように背中を撫でてくれる。
「嫌だよね、隠し事をするのは。ありがとう、言ってくれて。……頑張ったね」
耳朶に響く声はどこまでも優しく、じんわりと身体に染み渡るようだった。
「や、っ……」
ぐいとエルの胸を押し離れようとする。
これでは『アルト』ではなく自分──『朔真』を受け入れてくれ、好きだと言ってくれているも同義となってしまうのだ。
それに、ここまで優しくされてはもう離れられなくなってしまう。
誰にもこの男を渡したくなくなってしまう。
そう考えているとエルも分かっているのか、離れた分だけ距離を詰められ、先程よりも更に深く抱き締められる。
あまり拘束は強くないが、上手く呼吸ができない。
加えて泣いていたせいもあってか、ひくりと小さく鼻が鳴った。
(優しくするな。したら、もっと俺は)
「う、ぅぅ……」
涙腺が壊れてしまったのか、制御できなくなった雫がエルの服を濡らしていく。
止めようとしても止まらないそれをもどかしく思いつつも、そのまま声を殺して啜り泣くしかできなかった。
「──名前」
ふとエルが小さく囁いた。
新鮮な空気を求めてやや上を向くと、エルの瞳が間近に迫っている。
「貴方の、本当の名前は?」
「な、まえ……?」
優しい色をしたそれは、ただただ純粋なものだった。
「そう。アルトじゃない、貴方の名前」
濁りのない水色はどこまでもこちらを思いやってくれ、言葉を待ってくれている。
言ってもいいのだろうか。
言って、離れていってしまわないだろうか。
ぐるぐると頭の中をその二つが駆け巡っていると、背中に回された手の平にわずかに力がこもった。
(あ……)
本当の名前を聞くことは、やはりエルも怖いのだ。
今まで接していた男が違う人間で、中身も随分と変わっていただろうに、それをさして注意する事なくここまで来てくれたのだから。
しかしそれをおくびにも出さず接してくれたエルに、申し訳なさと罪悪感が綯い交ぜになる。
はくはくと口を開いては閉じてを何度か繰り返すと、きゅうと唇を噛み締めて喉から声を絞り出す。
「……ま」
ぽそりと呟いたそれは、喉につっかえてしまった。
「さ、くま」
心臓の音が聞こえやしないかと気が気ではないが、掠れ気味なそれがゆっくりと口を突いて出た。
「さくま。……朔真」
『アルト』ではない──『朔真』という、本来の名前を何度も唇に乗せる。
「サクマが、貴方の名前?」
どこかたどたどしいエルの口調に、 アルト──朔真がこくりと小さく首肯すると同時にエルの顔が眼前に迫った。
「ん……」
そっと触れるだけですぐに離れた唇は熱く、そこから熱が広がっていくようだった。
背中に回されていた手はいつの間にか頭に添えられており、よく頑張ったとでもいうように何度も撫でられる。
「サクマ。朔真、か」
唇を解いたエルに肩口に顎を載せられ、ぽつぽつと『朔真』と何度も口の中で繰り返す。
そうした時間はあまり長くなかったものの、やっと自分の中で納得したのか、ゆっくりとエルが肩から顔を離した。
「……朔真」
「っ」
愛おしそうに朔真の名を呼ぶと、エルはそっと身体の拘束を解いた。
すると床に片膝を突き、こちらを見上げる形になる。
「貴方に、改めて婚約を申し込む。……受け入れてくれる?」
エルの美しい水色の瞳は、アルト・ムーンバレイを──朔真を見つめていた。
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