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第一部 五章
明らかになる事 1
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規則正しい揺れに身を任せながら、アルトは真正面で不機嫌そうな表情で脚を組み、じっと窓の外を見ているエルに視線を向ける。
こちらの視線に気付いているはずだが一切見ようとせず、むしろ重苦しい空気が更に増す。
しかし、その姿ひとつ取っても絵になってしまうのだから、やや皮肉なものだった。
(あの時の事……まだ怒ってるんだ)
アルトは数日前の出来事を思い出し、エルに気付かれないよう小さく溜め息を吐いた。
◆◆◆
突然の来訪者が後から来たエルを伴って退室してから数時間後、窓の外は漆黒の空の中にやや欠けた月がぽつんとあった。
不意に控えめな扉を叩く音がして、アルトはベッドに入ろうとしていた身体を反転させる。
すぐに解錠音が響き、こちらから開ける間もなく扉が外から開いた。
「っ」
姿を現した人物の来訪は珍しく、さすがに予想していなかったためアルトは文字通り困惑してしまう。
その人の手に持っていた手持ちのランプがゆらりと動き、ガシャンと高い音を立てて地面に落ちる。
幸いガラス部分を逸れたのか割れてはおらず、ゆらゆらと小さな火が控えめに灯っていた。
「フィアナ、なんで……?」
王宮を訪ねた時からずっと気に掛けてくれ、世話を焼いてくれていた女性は丸く大きな瞳に涙をいっぱいに溜めていた。
その服装はメイドのそれだが、いつもの白いエプロンは着けておらず、普段は一つに結んでいる髪も解かれていた。
どうしてか慌てて小屋に来てくれたようで、やや息が乱れている。
「アルト様……っ」
ふんわりとウェーブのかった亜麻色の髪が揺れる。
ほとんど摑みかかりそうな勢いで、フィアナはアルトの前に二歩三歩と脚を進めた。
扉はどこかに引っかかったのか閉まる気配はない。
「ど、どうしたんだ……?」
ここまで慌てているのは見たことがなく、そもそも女性の泣き顔などアルトは見慣れていなかった。
どうしたものか行き場のない手を浮かべたまま、そろりとフィアナの顔を覗き込む。
「殿下から、言付け……です」
震える声もそのままに、しかしはっきりとフィアナが言った。
「必ず自分を連れて行くのであれば、ソルライト商会へ行く……そう、仰っておりました」
フィアナは潤んだ瞳をこちらに向け、しかしすぐに瞼を閉じる。
その拍子に零れそうだった大粒の涙が一筋、ゆっくりと頬を伝った。
「アルト様……お嫌だというのは百も承知です。けれど、どうかご理解ください。殿下は、エルヴィズ様は本当に貴方様を……」
「──分かってる」
アルトは間髪入れずに言った。
「分かってるんだ、フィアナ。あいつが……エルが、どれだけ俺を大事にしてくれてるのか」
この数日でエルが『自分』に向けてくれている想いを自覚し、そして理解した。
今、己の理性も身体も、エルからの愛を受け入れようと必死になっている。
どこまであるか定かではない、執着という名の愛に『アルト』は興味を示さなかった。
しかし『朔真』であれば話は別になってくるのだ。
(全部終わったら話さないと。俺はお前の知る人間じゃないって)
その返答を聞くのは怖いが、このまま隠しているとこちらの苦しみが増すだけだ。
たとえ嫌われ、正式にエルの方から婚約破棄されようとそれでもいい。
愛しいという感情を抱いてしまった男が下す決断なら、アルトはどんなものでも受け入れる覚悟だった。
「それに」
アルトはそこで言葉を切り、己に言い聞かせるように言った。
「俺は知らないといけない。ずっと苦しんできたあいつの過去を」
ソルライト商会の人間──ルシエラに宛てる手紙は早ければ早いほどいい、とミハルドは言っていた。
「フィアナ」
堪えきれず泣きじゃくっていたフィアナは、アルトに名を呼ばれるとおもむろに顔を上げる。
涙に濡れた顔はやや赤くなっており、そんなフィアナを安心させるようにアルトは淡く微笑んだ。
今の己がしっかりと笑えている自信はないが、目の前の女性を安心させたかった。
「今から手紙を書きたい相手がいるんだ。こんな時間でごめんだけど……準備をしてくれるか?」
その言葉を理解すると、フィアナは泣き笑いのような表情を見せた。
「はい。すぐに、すぐに持って参ります……!」
そう言うが早いかフィアナは小屋から出ると、パタパタと足音が遠ざかっていった。
小屋での用が終わったら必ず施錠するという、エルからの『約束』はフィアナの頭の中から抜け落ちてしまったらしく、扉は開け放たれたままだ。
しかし、アルトに逃げるという意思はもうない。
「ルシエラ……」
アルトはゆっくりと扉を閉めながら、数日前に会ったきりの男に思いを馳せる。
どんな文章を書くか頭では固まっているものの、それは果たしていい方向へ転ぶだろうか。
しかし、こちらとしてもエルの苦しみを早急に取り除いてやりたかった。
アルトはルシエラに宛てる手紙の内容を考えつつ、ミハルドから伝えられた『犯人』の名前を何度も反芻する。
それはきっとエルだけでなく、ルシエラにとっても酷な事になる──そんな予感がしてならなかった。
◆◆◆
王宮を出てから二十分ほど。
窓から見える景色は色とりどりの建物が多くなり、そろそろソルライト商会に着くのではないかという雰囲気だ。
(き、気まずい……)
狭い馬車の中はずっと重苦しい空気で満ちており、アルトの額や背中にうっすらと汗が滲む。
馬車に乗り込む前はもちろん会話はなく、この数日は小屋に姿を見せる事もなかった。
エルと顔を合わせるのは、実にあの夜ぶりと言ってもいい。
ただ、この空気を打破するために何か言わないとと思うのに、こちらからいざ話し掛けようにも『貴方からの問いには答えない』という圧をひしひしと感じる。
まさか自分の不甲斐なさを恨む事になるとは思わなかったな、とアルトは心の中で自嘲した。
元より自分から率先して話す方ではないが、今だけは上手い言葉が出ないのがもどかしかった。
それでも、こうして話さない方が考えを整理するのに丁度いいのかもしれない。
これから何が起こるのか、ある程度身構えた方がこちらの負担も少なくなるはずなのだ。
(大丈夫、何も起こらない。……多分、大丈夫)
アルトは膝に置いていた手をきゅっと握り締め、己を鼓舞する。
そうでもしないとこの湧き起こる不安を拭い切れず、最悪の場合気絶しそうだった。
「──て」
不意にごくわずかな呟きを耳が拾い、アルトはそろりと顔を上げる。
「え、エル……?」
「俺から離れないって、約束して」
エルは窓に視線を向けたままだが、落ち着いた声は普段となんら変わらない。
しかしその瞳は氷のように冷えきっており、奇妙な感覚を覚えた。
(怒ってる……?)
「怒ってない」
「っ!」
こちらを見ることなく間髪入れずに言われ、図らずも肩が跳ねる。
(お、俺、声に出してた……!?)
「……分かりやすいんだ、貴方は」
ふぅ、とエルはやや呆れを含んだ溜め息を吐くと、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
艶のある黒髪がさらりと揺れ、エルと真正面で視線が絡む。
ほんの数日間顔を合わせていないだけなのに、まるで久しぶりに会った時のような錯覚に陥った。
それもこれも、アルトがエルを恋しく思ってしまっているからだろうか。
(そんなに顔に出てたのか……)
誰からも言われた事がなかったため指摘されると恥ずかしく、なんとも言えない気持ちになる。
「ほら、その顔」
「っ!」
不意にぐいと顎を摑まれ、間近にエルの顔が迫ってくる。
あとほんの少し顔を近付ければ唇が触れ合いそうな距離に、知らず息が詰まった。
「……俺が何をするか怖い?」
緩く首を傾げて問われ、アルトは目を丸くする。
そしてゆっくりと首を横に振り、小さな声で言った。
「怖くない。……お前が、エルが居るなら」
エルが傍に居てくれるのならば、何があろうと怖くはない。
ただ、不安がないと言えば嘘になる。
それでも知らなければいけない事が目の前にあり、今更後戻りをするのは嫌だった。
「……そう」
アルトの言葉と表情をどう読み取ったのか、エルは顎から手を離すとまた元通り窓に視線を移した。
ゆっくりと伏せられた瞼はどこか物憂げで、一抹の不安を覚えずにはいられない。
(何を考えてるんだ……)
エルが商会に着くと同時に何をするのか、アルトには予想し得ない。
何もなければ御の字だが、頑なに『貴方は何もしなくていい』と言ったかと思えば『自分も連れていけ』と言って聞かなかった男だ。
ミハルドから教えられた犯人──ラディア・マーティーに出会ってしまえば最後、アルトが止められるかどうかまでは見当がつかなかった。
それから一言も会話する事なく、ガタンと音を立てて馬車が停まる。
「──着いたみたいだ」
ぽつりと呟いたエルの表情は、王宮から纏っていた外套のフードを被ったことで見えなくなった。
しかし、わずかに見えた口元は真一文字に引き結ばれていた。
黒を基調とした紋章のない馬車はただでさえ目立つ。
すぐに終わるから、と王宮からの御者を人気のない所で待たせ、エルと二人揃ってソルライト商会への道を通った。
どうしてかこの身体は『覚えている』らしく、アルトはそう迷う間もなく商会に着いた。
紺碧の色をした建物は一見地味だが、ところどころにある装飾は華美な輝きを放っている。
(ここがソルライト商会……)
扉の前にはその名が刻まれたプレートが掛かっており、上部の窓ガラスから中を見渡せる。
男らが忙しなく歩き回り、文字通り忙殺されているようだった。
(これでまだマシ、なのか)
ルシエラに宛てた手紙はすぐに返答があり、この日ならまだ余裕があるからという理由で今日訪ねる事になったのだ。
アルトは小さく深呼吸し、心を落ち着ける。
何度も商会にやってきたであろう『アルト』らしくいる自信はないが、自分がやるべき事はすべて頭の中にある。
あとはこの扉を開けるだけだが、その一歩が踏み出せない。
するとエルの手が控えめにアルトのそれに絡み付いた。
握られた指先から熱が伝わり、不安に蝕まれそうだった心がじんわりと和らいでいく。
(……よし)
アルトは一度エルの指先を握り返すと、意を決して扉を開けようと手を伸ばした。
「アルトぉー!」
「うわ!?」
いざ開けようとするよりも少し早く、満面の笑みを浮かべた男が半ば突撃するように扉を開けてきた。
「うっ!」
アルトはすんでのところでエルに引き寄せられ何もなかったが、男──ルシエラは扉を開けた反動か、それとも走ってきて勢いをつけすぎたのか派手に顔から転んだ。
「だ、大丈夫か?」
「おう……まぁ、大丈夫、だ」
アルトが慌てて手を差し伸べると、ルシエラはその手を借りて立ち上がる。
大きな音を立てて転けたわりにルシエラの顔は赤くなっているだけで、どこも怪我はしていなかった。
悪運が強いなと頭の中で思いつつ、アルトは口を動かす。
「悪いな、お前も忙しいのに──」
「それよりアルト、俺は嬉しいぞ! お前の方からこっちに来たいなんて、久しぶりじゃないか?」
がばりとこちらが抵抗する間もなく抱き着かれ、背後にいるエルが小さく舌打ちしたのが聞こえた。
(あ、これは駄目だ)
本能的に身体が強ばり、背後を振り向かずともエルが苛立っているのが分かった。
しかしルシエラはさして気に留めるでもなく満面の笑みはそのままに、やや身体を離してこちらを見つめる。
その瞳はキラキラと期待に満ちており、このまま目を開けていては何かが浄化していく気がした。
「分かった、嬉しいのは分かったから離れてくれ!」
「えー」
なんでだよ、と尚も言い募ろうとするルシエラはどこ吹く風だが、アルトに至ってはエルの視線が身体中にいくつも刺さり、これでは今からどうにかなってしまいそうだった。
「またまたぁ。照れるなよ、俺らの仲だろ相棒」
「照れてない! なんでお前はいっつも距離が近いんだ……!」
な、と肩を抱かれて言われると呆れるしかなくなる。
このままでは事がすべて終わったと同時に、己の下半身がどうなるか考えるだけで小さく身体が震えた。
「よし、んじゃあ気を取り直して。──二人とも、中に入ってくれ」
ルシエラはそのままアルトの肩を組んだまま、エルの腕を半ば強引にと摑むと商会の中に先導する。
外からはあまり中が見えなかったが、扉を開けると何やら機械が稼働しており、様々な怒号が飛び交っていた。
「いやぁ、ごめんな。みんな忙しいみたいで」
こっちだ、とぐいぐいとルシエラに急かされるまま歩かされ、やがて奥まった扉の前に着いた。
ルシエラは懐から鍵を取り出し扉を開け、自身は一歩部屋に足を踏み入れる。
そしてアルトとエルを交互に見回し、勿体ぶった仕草で胸に手をあてた。
「本日はようこそおいでくださいました。私、ソルライト商会は会長でございます、ルシエラ・サンライムと申します」
にこりと微笑んだルシエラは、しかしその笑みはどこか仄暗い雰囲気をまとっている。
「以後お見知りおきを。アルト・ムーンバレイ公爵」
こちらの視線に気付いているはずだが一切見ようとせず、むしろ重苦しい空気が更に増す。
しかし、その姿ひとつ取っても絵になってしまうのだから、やや皮肉なものだった。
(あの時の事……まだ怒ってるんだ)
アルトは数日前の出来事を思い出し、エルに気付かれないよう小さく溜め息を吐いた。
◆◆◆
突然の来訪者が後から来たエルを伴って退室してから数時間後、窓の外は漆黒の空の中にやや欠けた月がぽつんとあった。
不意に控えめな扉を叩く音がして、アルトはベッドに入ろうとしていた身体を反転させる。
すぐに解錠音が響き、こちらから開ける間もなく扉が外から開いた。
「っ」
姿を現した人物の来訪は珍しく、さすがに予想していなかったためアルトは文字通り困惑してしまう。
その人の手に持っていた手持ちのランプがゆらりと動き、ガシャンと高い音を立てて地面に落ちる。
幸いガラス部分を逸れたのか割れてはおらず、ゆらゆらと小さな火が控えめに灯っていた。
「フィアナ、なんで……?」
王宮を訪ねた時からずっと気に掛けてくれ、世話を焼いてくれていた女性は丸く大きな瞳に涙をいっぱいに溜めていた。
その服装はメイドのそれだが、いつもの白いエプロンは着けておらず、普段は一つに結んでいる髪も解かれていた。
どうしてか慌てて小屋に来てくれたようで、やや息が乱れている。
「アルト様……っ」
ふんわりとウェーブのかった亜麻色の髪が揺れる。
ほとんど摑みかかりそうな勢いで、フィアナはアルトの前に二歩三歩と脚を進めた。
扉はどこかに引っかかったのか閉まる気配はない。
「ど、どうしたんだ……?」
ここまで慌てているのは見たことがなく、そもそも女性の泣き顔などアルトは見慣れていなかった。
どうしたものか行き場のない手を浮かべたまま、そろりとフィアナの顔を覗き込む。
「殿下から、言付け……です」
震える声もそのままに、しかしはっきりとフィアナが言った。
「必ず自分を連れて行くのであれば、ソルライト商会へ行く……そう、仰っておりました」
フィアナは潤んだ瞳をこちらに向け、しかしすぐに瞼を閉じる。
その拍子に零れそうだった大粒の涙が一筋、ゆっくりと頬を伝った。
「アルト様……お嫌だというのは百も承知です。けれど、どうかご理解ください。殿下は、エルヴィズ様は本当に貴方様を……」
「──分かってる」
アルトは間髪入れずに言った。
「分かってるんだ、フィアナ。あいつが……エルが、どれだけ俺を大事にしてくれてるのか」
この数日でエルが『自分』に向けてくれている想いを自覚し、そして理解した。
今、己の理性も身体も、エルからの愛を受け入れようと必死になっている。
どこまであるか定かではない、執着という名の愛に『アルト』は興味を示さなかった。
しかし『朔真』であれば話は別になってくるのだ。
(全部終わったら話さないと。俺はお前の知る人間じゃないって)
その返答を聞くのは怖いが、このまま隠しているとこちらの苦しみが増すだけだ。
たとえ嫌われ、正式にエルの方から婚約破棄されようとそれでもいい。
愛しいという感情を抱いてしまった男が下す決断なら、アルトはどんなものでも受け入れる覚悟だった。
「それに」
アルトはそこで言葉を切り、己に言い聞かせるように言った。
「俺は知らないといけない。ずっと苦しんできたあいつの過去を」
ソルライト商会の人間──ルシエラに宛てる手紙は早ければ早いほどいい、とミハルドは言っていた。
「フィアナ」
堪えきれず泣きじゃくっていたフィアナは、アルトに名を呼ばれるとおもむろに顔を上げる。
涙に濡れた顔はやや赤くなっており、そんなフィアナを安心させるようにアルトは淡く微笑んだ。
今の己がしっかりと笑えている自信はないが、目の前の女性を安心させたかった。
「今から手紙を書きたい相手がいるんだ。こんな時間でごめんだけど……準備をしてくれるか?」
その言葉を理解すると、フィアナは泣き笑いのような表情を見せた。
「はい。すぐに、すぐに持って参ります……!」
そう言うが早いかフィアナは小屋から出ると、パタパタと足音が遠ざかっていった。
小屋での用が終わったら必ず施錠するという、エルからの『約束』はフィアナの頭の中から抜け落ちてしまったらしく、扉は開け放たれたままだ。
しかし、アルトに逃げるという意思はもうない。
「ルシエラ……」
アルトはゆっくりと扉を閉めながら、数日前に会ったきりの男に思いを馳せる。
どんな文章を書くか頭では固まっているものの、それは果たしていい方向へ転ぶだろうか。
しかし、こちらとしてもエルの苦しみを早急に取り除いてやりたかった。
アルトはルシエラに宛てる手紙の内容を考えつつ、ミハルドから伝えられた『犯人』の名前を何度も反芻する。
それはきっとエルだけでなく、ルシエラにとっても酷な事になる──そんな予感がしてならなかった。
◆◆◆
王宮を出てから二十分ほど。
窓から見える景色は色とりどりの建物が多くなり、そろそろソルライト商会に着くのではないかという雰囲気だ。
(き、気まずい……)
狭い馬車の中はずっと重苦しい空気で満ちており、アルトの額や背中にうっすらと汗が滲む。
馬車に乗り込む前はもちろん会話はなく、この数日は小屋に姿を見せる事もなかった。
エルと顔を合わせるのは、実にあの夜ぶりと言ってもいい。
ただ、この空気を打破するために何か言わないとと思うのに、こちらからいざ話し掛けようにも『貴方からの問いには答えない』という圧をひしひしと感じる。
まさか自分の不甲斐なさを恨む事になるとは思わなかったな、とアルトは心の中で自嘲した。
元より自分から率先して話す方ではないが、今だけは上手い言葉が出ないのがもどかしかった。
それでも、こうして話さない方が考えを整理するのに丁度いいのかもしれない。
これから何が起こるのか、ある程度身構えた方がこちらの負担も少なくなるはずなのだ。
(大丈夫、何も起こらない。……多分、大丈夫)
アルトは膝に置いていた手をきゅっと握り締め、己を鼓舞する。
そうでもしないとこの湧き起こる不安を拭い切れず、最悪の場合気絶しそうだった。
「──て」
不意にごくわずかな呟きを耳が拾い、アルトはそろりと顔を上げる。
「え、エル……?」
「俺から離れないって、約束して」
エルは窓に視線を向けたままだが、落ち着いた声は普段となんら変わらない。
しかしその瞳は氷のように冷えきっており、奇妙な感覚を覚えた。
(怒ってる……?)
「怒ってない」
「っ!」
こちらを見ることなく間髪入れずに言われ、図らずも肩が跳ねる。
(お、俺、声に出してた……!?)
「……分かりやすいんだ、貴方は」
ふぅ、とエルはやや呆れを含んだ溜め息を吐くと、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
艶のある黒髪がさらりと揺れ、エルと真正面で視線が絡む。
ほんの数日間顔を合わせていないだけなのに、まるで久しぶりに会った時のような錯覚に陥った。
それもこれも、アルトがエルを恋しく思ってしまっているからだろうか。
(そんなに顔に出てたのか……)
誰からも言われた事がなかったため指摘されると恥ずかしく、なんとも言えない気持ちになる。
「ほら、その顔」
「っ!」
不意にぐいと顎を摑まれ、間近にエルの顔が迫ってくる。
あとほんの少し顔を近付ければ唇が触れ合いそうな距離に、知らず息が詰まった。
「……俺が何をするか怖い?」
緩く首を傾げて問われ、アルトは目を丸くする。
そしてゆっくりと首を横に振り、小さな声で言った。
「怖くない。……お前が、エルが居るなら」
エルが傍に居てくれるのならば、何があろうと怖くはない。
ただ、不安がないと言えば嘘になる。
それでも知らなければいけない事が目の前にあり、今更後戻りをするのは嫌だった。
「……そう」
アルトの言葉と表情をどう読み取ったのか、エルは顎から手を離すとまた元通り窓に視線を移した。
ゆっくりと伏せられた瞼はどこか物憂げで、一抹の不安を覚えずにはいられない。
(何を考えてるんだ……)
エルが商会に着くと同時に何をするのか、アルトには予想し得ない。
何もなければ御の字だが、頑なに『貴方は何もしなくていい』と言ったかと思えば『自分も連れていけ』と言って聞かなかった男だ。
ミハルドから教えられた犯人──ラディア・マーティーに出会ってしまえば最後、アルトが止められるかどうかまでは見当がつかなかった。
それから一言も会話する事なく、ガタンと音を立てて馬車が停まる。
「──着いたみたいだ」
ぽつりと呟いたエルの表情は、王宮から纏っていた外套のフードを被ったことで見えなくなった。
しかし、わずかに見えた口元は真一文字に引き結ばれていた。
黒を基調とした紋章のない馬車はただでさえ目立つ。
すぐに終わるから、と王宮からの御者を人気のない所で待たせ、エルと二人揃ってソルライト商会への道を通った。
どうしてかこの身体は『覚えている』らしく、アルトはそう迷う間もなく商会に着いた。
紺碧の色をした建物は一見地味だが、ところどころにある装飾は華美な輝きを放っている。
(ここがソルライト商会……)
扉の前にはその名が刻まれたプレートが掛かっており、上部の窓ガラスから中を見渡せる。
男らが忙しなく歩き回り、文字通り忙殺されているようだった。
(これでまだマシ、なのか)
ルシエラに宛てた手紙はすぐに返答があり、この日ならまだ余裕があるからという理由で今日訪ねる事になったのだ。
アルトは小さく深呼吸し、心を落ち着ける。
何度も商会にやってきたであろう『アルト』らしくいる自信はないが、自分がやるべき事はすべて頭の中にある。
あとはこの扉を開けるだけだが、その一歩が踏み出せない。
するとエルの手が控えめにアルトのそれに絡み付いた。
握られた指先から熱が伝わり、不安に蝕まれそうだった心がじんわりと和らいでいく。
(……よし)
アルトは一度エルの指先を握り返すと、意を決して扉を開けようと手を伸ばした。
「アルトぉー!」
「うわ!?」
いざ開けようとするよりも少し早く、満面の笑みを浮かべた男が半ば突撃するように扉を開けてきた。
「うっ!」
アルトはすんでのところでエルに引き寄せられ何もなかったが、男──ルシエラは扉を開けた反動か、それとも走ってきて勢いをつけすぎたのか派手に顔から転んだ。
「だ、大丈夫か?」
「おう……まぁ、大丈夫、だ」
アルトが慌てて手を差し伸べると、ルシエラはその手を借りて立ち上がる。
大きな音を立てて転けたわりにルシエラの顔は赤くなっているだけで、どこも怪我はしていなかった。
悪運が強いなと頭の中で思いつつ、アルトは口を動かす。
「悪いな、お前も忙しいのに──」
「それよりアルト、俺は嬉しいぞ! お前の方からこっちに来たいなんて、久しぶりじゃないか?」
がばりとこちらが抵抗する間もなく抱き着かれ、背後にいるエルが小さく舌打ちしたのが聞こえた。
(あ、これは駄目だ)
本能的に身体が強ばり、背後を振り向かずともエルが苛立っているのが分かった。
しかしルシエラはさして気に留めるでもなく満面の笑みはそのままに、やや身体を離してこちらを見つめる。
その瞳はキラキラと期待に満ちており、このまま目を開けていては何かが浄化していく気がした。
「分かった、嬉しいのは分かったから離れてくれ!」
「えー」
なんでだよ、と尚も言い募ろうとするルシエラはどこ吹く風だが、アルトに至ってはエルの視線が身体中にいくつも刺さり、これでは今からどうにかなってしまいそうだった。
「またまたぁ。照れるなよ、俺らの仲だろ相棒」
「照れてない! なんでお前はいっつも距離が近いんだ……!」
な、と肩を抱かれて言われると呆れるしかなくなる。
このままでは事がすべて終わったと同時に、己の下半身がどうなるか考えるだけで小さく身体が震えた。
「よし、んじゃあ気を取り直して。──二人とも、中に入ってくれ」
ルシエラはそのままアルトの肩を組んだまま、エルの腕を半ば強引にと摑むと商会の中に先導する。
外からはあまり中が見えなかったが、扉を開けると何やら機械が稼働しており、様々な怒号が飛び交っていた。
「いやぁ、ごめんな。みんな忙しいみたいで」
こっちだ、とぐいぐいとルシエラに急かされるまま歩かされ、やがて奥まった扉の前に着いた。
ルシエラは懐から鍵を取り出し扉を開け、自身は一歩部屋に足を踏み入れる。
そしてアルトとエルを交互に見回し、勿体ぶった仕草で胸に手をあてた。
「本日はようこそおいでくださいました。私、ソルライト商会は会長でございます、ルシエラ・サンライムと申します」
にこりと微笑んだルシエラは、しかしその笑みはどこか仄暗い雰囲気をまとっている。
「以後お見知りおきを。アルト・ムーンバレイ公爵」
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