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第一部 四章
小屋の中で 7
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「あの時分で未来の王太子としての自覚をしたのだろうな。……君にこんな事を言うのもなんだが、王族に生まれ落ちた瞬間から危険が伴う」
ライアンは一度言葉を切り、何かに耐えるように息を吐き出した。
「普通ならば影を立て、王太子を必ず護らねばならぬのだ。しかし、そんなものは要らないほどあれは強くなった。教え導いたミハルドでも太刀打ち出来ないほどに」
やや伏せていた視線を上げ、ライアンがこちらをじっと見つめてくる。
「私が何を言いたいのか分かるかい?」
アルトは一瞬考えたものの小さな、けれどはっきりと声に出した。
「いいえ……でも、あいつに逆らっちゃ駄目って分かっているつもりです」
そもそも、今アルトが置かれている状況を見れば明白だった。
エルが公務をしている間は、気を許しているらしい口の堅い人間に最低限の世話を任せ、時間が出来た時は自らこの小屋にやってくる。
内からも外からも監視されている視線を小屋の中に居ても感じ、アルトに自由はないと言ってもいいのだ。
一度でも逆らえば酷い事──未遂ではあったが──をされるため、アルトはエルの出方を伺って可能な限り大人しくするしかなかった。
しかし今エルが戻ってきてしまったら、この後何が待ち受けているか想像したくはない。
痛いことはもちろん、嫌だと言っても止めてくれないエルが怖くて堪らないのだ。
「ただいま、アルト──」
不意に扉が開く音がし、やや高い声とともにエルが姿を現す。
「っ」
ライアン以外の視線を向けられたエルは、アルト以外の者が居る事に一瞬驚いたものの、何事もなかったように父王へ向かって頭を下げた。
「これは国王陛下。ご挨拶もせず、申し訳ございません」
低く、どこか威厳に満ちた声は王太子のそれを思わせる。
その顔色はいつになく強ばっており、わずかに張り詰めた空気が流れた。
「──エルヴィズ、堅苦しい挨拶は良い」
(エルヴィズ……?)
ふと聞こえた名前にアルトは顔には出さなかったものの、頭の中に疑問符を浮かべた。
ただ、すぐに今の今まで呼んでいた名前は愛称だったのだと合点する。
「お前を待っていたんだ」
ライアンはゆっくりと振り向き、エルを一瞥した。
「私を……?」
なんなのかとんと分からないといったふうで、エルは二度三度と瞬きを繰り返す。
「ああ、ムーンバレイ公爵から話があるというのでな」
ちらりとライアンの視線がこちらに向き、矛先を変えられたアルトはぴくりと顔を強ばらせた。
「……それは本当か?」
アルト、と名前こそ呼ばれなかったもののエルの瞳がわずかに鋭くなる。
先程よりも声が低くなり、爛々と輝く瞳に見つめられるだけで背筋が知らず寒くなるのを感じた。
「そんな所に立っていないでこちらに来い」
ライアンの言葉に、背後に居たミハルドが一歩二歩と下がる。
何かを言いたそうにこちらを見たものの、エルは黙ってライアンの隣りに歩を進めた。
ライアンが立っている間も思ったが、エルと並ぶとあまり身長が変わらないと分かる。
自分だけが椅子に座り、大の男二人と真正面で対峙するのはいささか圧が強かった。
こちらを見つめる水色の瞳が増えた分、アルトの喉が先程よりもカラカラに渇く。
今すぐにでも逃げ出したいほどだが、こうして国王自らやってきたということはブローチの意味を分かってくれたらしかった。
現にここに来てくれているのだ、声を掛けた自分が黙っていては何も始まらない。
(エルと鉢合わせるのは予想してなかったと言えば嘘になる。なる、けど)
アルトは唇を引き結び、声が震えそうになるのを叱咤してゆっくりと口を開く。
「先の、第三王妃様が亡くなれた件……俺なりに考えたんです」
アルトはライアンを、そしてエルを交互に見つめた。
二人は黙ってアルトの言葉を待ってくれているが、エルの視線は依然険しいままだ。
自分がこれから言うことをエルは許してくれるだろうか、そんなことばかりが頭を駆け巡る。
しかし、こればかりは言わない限りずっと平行線を辿るだけだ。
アルトは小さく深呼吸して心を落ち着かせ、改めて言葉にした。
「ソルライト商会の……」
「──何をしようとしている」
アルトの言葉に被せるように、すかさずエルが口を挟んできた。
(やっぱり、か)
今からアルトが何を言うか分かっていて、それでも端から話を聞く気はないのだと分かり、アルトは落胆と同時に呆れてしまいそうだった。
どう足掻いても聞いてくれず、かといってどうすればいいのかアルトにはそこまで考えが及ばない。
「……エルヴィズ」
どう言ったものか忙しなく頭をはたらかせていると、努めて優しい声音でライアンがエルの名前を呼んだ。
「っ」
「ムーンバレイ公爵、続けてくれ」
声を詰まらせたエルを見ることもなく、ライアンはにこりと微笑んでアルトに続きを促す。
アルトはライアンの声で我に返り、エルにちらりと視線を寄越しながら同じ言葉を繰り返した。
エルはこちらを見つめてはいるものの、ひやりとした視線はそのままだ。
「第三王妃様を殺したのは、ソルライト商会の人間が怪しいんですよね。俺にはツテがありますし、きっと犯人を探すお力になれるはずで……」
ふとアルトの真正面に影が差した。
その正体が誰なのか、仮に目を閉じていようとも分かる。
「アルト」
とん、とテーブルに男──エルの手が置かれた。
「貴方は何もしなくていい、知らなくていいと言ったはずだ。……よもや私の言葉を忘れたのか?」
見た者を凍らせる瞳が、こちらをじっと見下ろしていた。
声音もアルトが今まで知るものよりもずっと冷たく、ともすれば憐憫にも似た感情が見え隠れしている。
「忘れていないだろう? 何度も貴方に言ったのに、それを覆したらどうなるか……身を持って知ったはずだろう!?」
半ば胸倉を摑みそうな勢いに、アルトは反射的に目を閉じる。
しかし、こちらに与えられる衝撃はおろか声一つ飛んでこなかった。
「エ、ル……?」
そろそろとアルトが瞼を上げると、エルの肩が大きく震えたのが視界に入った。
テーブルに置かれていた手はいつの間にか握り締められており、小刻みに震えていた。
「──すまない、ムーンバレイ公爵。王太子は体調が優れないようでな、今日のところはこれで失礼させてもらうよ」
「え、それは……」
有無を言わせぬライアンの口調に躊躇ったものの、アルトは慌てて椅子から立ち上がった。
床に椅子が擦れ、ガタガタと耳障りな音を立てる。
「エルヴィズ」
「……はい」
ライアンはエルの背を軽く叩き、退室を促す。
きゅっと唇を噛み締め、何かを言いたそうにこちらを見ていたが、エルはそのまま振り返ることなく小屋を後にした。
残ったのはアルトとミハルドのみで、ただ重苦しい空気が小さな部屋に残るだけだ。
「アルト様」
今の今まで口を挟むでもなく静観していたミハルドが、ややあって口を開く。
「貴方は殿下のご様子から何を思われる?」
背後から投げ掛けられた言葉の意図に、アルトは一瞬息を詰まらせる。
(エルがああまで言うのは俺じゃなくて……『アルト』が大事だから)
何度となく好かれているのは自分ではないと思おうとすると、ずきりと胸が痛む。
それはやがて心までも蝕み、どうにかなってしまいそうなほどだった。
「……言ったら、ミハルドさんは何か教えてくれるのか?」
アルトは胸の痛みを堪え、振り向きながら呟く。
「エルが何を思ってるか、そんなの分かるわけない。俺はあいつじゃないんだから」
八つ当たりだと頭では分かっていても、もう止められなかった。
「何を言っても聞いてくれないし、聞こうともしないんだぞ!? ずっと我慢して我慢して……やっと落ち着いて話せると思ったらこれだ! 国王陛下が居ても──」
はぁ、とミハルドが小さく溜息を吐く。
「っ!」
その態度にアルトは口を噤み、そこでやっと己の心臓がうるさいほど高鳴っているのを自覚した。
「──エルヴィズ様は昔からああなのです」
短く息を吸って吐いてを繰り返しながら、アルトはミハルドの言葉に耳を傾ける。
「一度こうと決めたら頑として首を縦に振らない。ご自分が正しい、間違えているはずがない、と信じて疑わない」
うっすらと瞼が開き、赤い瞳と視線が交わう。
普段とは打って変わって、どこか悲しそうな色をしていた。
「しかし、貴方様のことは何よりも大切にされている。……私の予想でしかありませんが、ご自分の命よりも尊重していると感じます」
ミハルドは一歩一歩こちらに歩を進めていき、やがて人ひとり分の距離になった。
「アルト様」
ゆっくりと名を呼ばれ、アルトはそっと上を向く。
真正面、少し上にあるミハルドの顔立ちは普段よりも幾分か優しかった。
それに、エルを想う気持ちだけは誰よりも強いのだと分かる。
昔から知っている相手がこうまで心配してくれ、それを甘んじて受け入れようとしないエルを思うと憐れになった。
(エルは俺が思ってたより寂しいのかもしれない)
育ての母が目の前で血の海に沈んだのを見て、エルは変わってしまったのだろう。
それからは己の心のままに動き、誰の指図も受けようとしない。
このままにしては、孤独な王太子となってしまうのも時間の問題だった。
「……私の願いを聞いてくださいますか?」
ミハルドが改まった口調で言った。
アルトは迷わず頷く。エルが変わってくれるのであれば、どんな事でもする覚悟だ。
「──ありがとうございます。やはり、貴方を見初められたのは正解だったのかもしれません」
ふふ、とミハルドはこんな時なのに緩く口角を上げる。
「可能な限り、私の方から助言をしてみます。こちらにもある程度の情報はございますが……商会の中には貴方様しか入れないでしょう。それに、犯人に勘付かれてしまうのも、最早時間の問題です」
「それ、って……?」
ふっとミハルドは目に力を込め、殊更ゆっくりと続けた。
「私は商会に顔が割れている。しかし、エルヴィズ様は貴方お一人では決して出歩かせないはずです。なので、ソルライト商会の者──ルシエラ様に向けて手紙を一筆お願いしたい」
不意に最後の一歩を詰められ、ミハルドにそっと耳打ちされる。
「本当に本当、なのか……?」
ある人間の名が耳に届き、すぐには信じられないながらもアルトは震える声で尋ねた。
「ええ。貴方様にだけは内密にと釘を刺されているのですが……ここまで来てしまえば背に腹は変えられません」
いつになく苦々しい声音に、これは真実なのだと嫌でも理解した。
同時に信じられない気持ちでミハルドを見つめる。
既に赤い瞳は見えず、普段となんら変わらない男がそこに居た。
「エルヴィズ様のことだけでなく、ルシエラ様に対しても酷な事を言っている自覚はございます。しかし、私では……」
「もう言わなくていい」
ミハルドが何を言いたいか、言葉にせずとも十分過ぎるほど分かった。
エルを助けたい、あわよくば長年の怨嗟から解放して欲しい、と言っているのだ。
それはアルトとて同じ気持ちで、ミハルドの考えが痛いほど分かる。
だからかいつの間にか視界がぼやけ、頬を熱い雫がいくつも伝っているのに今気付いたほどだ。
「俺に任せて。必ず……必ず、説得してみせるから」
その言葉を聞くと、ミハルドの顔がわずかに歪む。
しかしアルトが二度三度と瞬いた時には、何事もなく柔らかな微笑みを浮かべていた。
ライアンは一度言葉を切り、何かに耐えるように息を吐き出した。
「普通ならば影を立て、王太子を必ず護らねばならぬのだ。しかし、そんなものは要らないほどあれは強くなった。教え導いたミハルドでも太刀打ち出来ないほどに」
やや伏せていた視線を上げ、ライアンがこちらをじっと見つめてくる。
「私が何を言いたいのか分かるかい?」
アルトは一瞬考えたものの小さな、けれどはっきりと声に出した。
「いいえ……でも、あいつに逆らっちゃ駄目って分かっているつもりです」
そもそも、今アルトが置かれている状況を見れば明白だった。
エルが公務をしている間は、気を許しているらしい口の堅い人間に最低限の世話を任せ、時間が出来た時は自らこの小屋にやってくる。
内からも外からも監視されている視線を小屋の中に居ても感じ、アルトに自由はないと言ってもいいのだ。
一度でも逆らえば酷い事──未遂ではあったが──をされるため、アルトはエルの出方を伺って可能な限り大人しくするしかなかった。
しかし今エルが戻ってきてしまったら、この後何が待ち受けているか想像したくはない。
痛いことはもちろん、嫌だと言っても止めてくれないエルが怖くて堪らないのだ。
「ただいま、アルト──」
不意に扉が開く音がし、やや高い声とともにエルが姿を現す。
「っ」
ライアン以外の視線を向けられたエルは、アルト以外の者が居る事に一瞬驚いたものの、何事もなかったように父王へ向かって頭を下げた。
「これは国王陛下。ご挨拶もせず、申し訳ございません」
低く、どこか威厳に満ちた声は王太子のそれを思わせる。
その顔色はいつになく強ばっており、わずかに張り詰めた空気が流れた。
「──エルヴィズ、堅苦しい挨拶は良い」
(エルヴィズ……?)
ふと聞こえた名前にアルトは顔には出さなかったものの、頭の中に疑問符を浮かべた。
ただ、すぐに今の今まで呼んでいた名前は愛称だったのだと合点する。
「お前を待っていたんだ」
ライアンはゆっくりと振り向き、エルを一瞥した。
「私を……?」
なんなのかとんと分からないといったふうで、エルは二度三度と瞬きを繰り返す。
「ああ、ムーンバレイ公爵から話があるというのでな」
ちらりとライアンの視線がこちらに向き、矛先を変えられたアルトはぴくりと顔を強ばらせた。
「……それは本当か?」
アルト、と名前こそ呼ばれなかったもののエルの瞳がわずかに鋭くなる。
先程よりも声が低くなり、爛々と輝く瞳に見つめられるだけで背筋が知らず寒くなるのを感じた。
「そんな所に立っていないでこちらに来い」
ライアンの言葉に、背後に居たミハルドが一歩二歩と下がる。
何かを言いたそうにこちらを見たものの、エルは黙ってライアンの隣りに歩を進めた。
ライアンが立っている間も思ったが、エルと並ぶとあまり身長が変わらないと分かる。
自分だけが椅子に座り、大の男二人と真正面で対峙するのはいささか圧が強かった。
こちらを見つめる水色の瞳が増えた分、アルトの喉が先程よりもカラカラに渇く。
今すぐにでも逃げ出したいほどだが、こうして国王自らやってきたということはブローチの意味を分かってくれたらしかった。
現にここに来てくれているのだ、声を掛けた自分が黙っていては何も始まらない。
(エルと鉢合わせるのは予想してなかったと言えば嘘になる。なる、けど)
アルトは唇を引き結び、声が震えそうになるのを叱咤してゆっくりと口を開く。
「先の、第三王妃様が亡くなれた件……俺なりに考えたんです」
アルトはライアンを、そしてエルを交互に見つめた。
二人は黙ってアルトの言葉を待ってくれているが、エルの視線は依然険しいままだ。
自分がこれから言うことをエルは許してくれるだろうか、そんなことばかりが頭を駆け巡る。
しかし、こればかりは言わない限りずっと平行線を辿るだけだ。
アルトは小さく深呼吸して心を落ち着かせ、改めて言葉にした。
「ソルライト商会の……」
「──何をしようとしている」
アルトの言葉に被せるように、すかさずエルが口を挟んできた。
(やっぱり、か)
今からアルトが何を言うか分かっていて、それでも端から話を聞く気はないのだと分かり、アルトは落胆と同時に呆れてしまいそうだった。
どう足掻いても聞いてくれず、かといってどうすればいいのかアルトにはそこまで考えが及ばない。
「……エルヴィズ」
どう言ったものか忙しなく頭をはたらかせていると、努めて優しい声音でライアンがエルの名前を呼んだ。
「っ」
「ムーンバレイ公爵、続けてくれ」
声を詰まらせたエルを見ることもなく、ライアンはにこりと微笑んでアルトに続きを促す。
アルトはライアンの声で我に返り、エルにちらりと視線を寄越しながら同じ言葉を繰り返した。
エルはこちらを見つめてはいるものの、ひやりとした視線はそのままだ。
「第三王妃様を殺したのは、ソルライト商会の人間が怪しいんですよね。俺にはツテがありますし、きっと犯人を探すお力になれるはずで……」
ふとアルトの真正面に影が差した。
その正体が誰なのか、仮に目を閉じていようとも分かる。
「アルト」
とん、とテーブルに男──エルの手が置かれた。
「貴方は何もしなくていい、知らなくていいと言ったはずだ。……よもや私の言葉を忘れたのか?」
見た者を凍らせる瞳が、こちらをじっと見下ろしていた。
声音もアルトが今まで知るものよりもずっと冷たく、ともすれば憐憫にも似た感情が見え隠れしている。
「忘れていないだろう? 何度も貴方に言ったのに、それを覆したらどうなるか……身を持って知ったはずだろう!?」
半ば胸倉を摑みそうな勢いに、アルトは反射的に目を閉じる。
しかし、こちらに与えられる衝撃はおろか声一つ飛んでこなかった。
「エ、ル……?」
そろそろとアルトが瞼を上げると、エルの肩が大きく震えたのが視界に入った。
テーブルに置かれていた手はいつの間にか握り締められており、小刻みに震えていた。
「──すまない、ムーンバレイ公爵。王太子は体調が優れないようでな、今日のところはこれで失礼させてもらうよ」
「え、それは……」
有無を言わせぬライアンの口調に躊躇ったものの、アルトは慌てて椅子から立ち上がった。
床に椅子が擦れ、ガタガタと耳障りな音を立てる。
「エルヴィズ」
「……はい」
ライアンはエルの背を軽く叩き、退室を促す。
きゅっと唇を噛み締め、何かを言いたそうにこちらを見ていたが、エルはそのまま振り返ることなく小屋を後にした。
残ったのはアルトとミハルドのみで、ただ重苦しい空気が小さな部屋に残るだけだ。
「アルト様」
今の今まで口を挟むでもなく静観していたミハルドが、ややあって口を開く。
「貴方は殿下のご様子から何を思われる?」
背後から投げ掛けられた言葉の意図に、アルトは一瞬息を詰まらせる。
(エルがああまで言うのは俺じゃなくて……『アルト』が大事だから)
何度となく好かれているのは自分ではないと思おうとすると、ずきりと胸が痛む。
それはやがて心までも蝕み、どうにかなってしまいそうなほどだった。
「……言ったら、ミハルドさんは何か教えてくれるのか?」
アルトは胸の痛みを堪え、振り向きながら呟く。
「エルが何を思ってるか、そんなの分かるわけない。俺はあいつじゃないんだから」
八つ当たりだと頭では分かっていても、もう止められなかった。
「何を言っても聞いてくれないし、聞こうともしないんだぞ!? ずっと我慢して我慢して……やっと落ち着いて話せると思ったらこれだ! 国王陛下が居ても──」
はぁ、とミハルドが小さく溜息を吐く。
「っ!」
その態度にアルトは口を噤み、そこでやっと己の心臓がうるさいほど高鳴っているのを自覚した。
「──エルヴィズ様は昔からああなのです」
短く息を吸って吐いてを繰り返しながら、アルトはミハルドの言葉に耳を傾ける。
「一度こうと決めたら頑として首を縦に振らない。ご自分が正しい、間違えているはずがない、と信じて疑わない」
うっすらと瞼が開き、赤い瞳と視線が交わう。
普段とは打って変わって、どこか悲しそうな色をしていた。
「しかし、貴方様のことは何よりも大切にされている。……私の予想でしかありませんが、ご自分の命よりも尊重していると感じます」
ミハルドは一歩一歩こちらに歩を進めていき、やがて人ひとり分の距離になった。
「アルト様」
ゆっくりと名を呼ばれ、アルトはそっと上を向く。
真正面、少し上にあるミハルドの顔立ちは普段よりも幾分か優しかった。
それに、エルを想う気持ちだけは誰よりも強いのだと分かる。
昔から知っている相手がこうまで心配してくれ、それを甘んじて受け入れようとしないエルを思うと憐れになった。
(エルは俺が思ってたより寂しいのかもしれない)
育ての母が目の前で血の海に沈んだのを見て、エルは変わってしまったのだろう。
それからは己の心のままに動き、誰の指図も受けようとしない。
このままにしては、孤独な王太子となってしまうのも時間の問題だった。
「……私の願いを聞いてくださいますか?」
ミハルドが改まった口調で言った。
アルトは迷わず頷く。エルが変わってくれるのであれば、どんな事でもする覚悟だ。
「──ありがとうございます。やはり、貴方を見初められたのは正解だったのかもしれません」
ふふ、とミハルドはこんな時なのに緩く口角を上げる。
「可能な限り、私の方から助言をしてみます。こちらにもある程度の情報はございますが……商会の中には貴方様しか入れないでしょう。それに、犯人に勘付かれてしまうのも、最早時間の問題です」
「それ、って……?」
ふっとミハルドは目に力を込め、殊更ゆっくりと続けた。
「私は商会に顔が割れている。しかし、エルヴィズ様は貴方お一人では決して出歩かせないはずです。なので、ソルライト商会の者──ルシエラ様に向けて手紙を一筆お願いしたい」
不意に最後の一歩を詰められ、ミハルドにそっと耳打ちされる。
「本当に本当、なのか……?」
ある人間の名が耳に届き、すぐには信じられないながらもアルトは震える声で尋ねた。
「ええ。貴方様にだけは内密にと釘を刺されているのですが……ここまで来てしまえば背に腹は変えられません」
いつになく苦々しい声音に、これは真実なのだと嫌でも理解した。
同時に信じられない気持ちでミハルドを見つめる。
既に赤い瞳は見えず、普段となんら変わらない男がそこに居た。
「エルヴィズ様のことだけでなく、ルシエラ様に対しても酷な事を言っている自覚はございます。しかし、私では……」
「もう言わなくていい」
ミハルドが何を言いたいか、言葉にせずとも十分過ぎるほど分かった。
エルを助けたい、あわよくば長年の怨嗟から解放して欲しい、と言っているのだ。
それはアルトとて同じ気持ちで、ミハルドの考えが痛いほど分かる。
だからかいつの間にか視界がぼやけ、頬を熱い雫がいくつも伝っているのに今気付いたほどだ。
「俺に任せて。必ず……必ず、説得してみせるから」
その言葉を聞くと、ミハルドの顔がわずかに歪む。
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