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第一部 四章
小屋の中で 6
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「……綺麗だな」
アルトはベッドの縁に腰掛けながら、窓から射し込む太陽にブローチをかざす。
周りは精緻な金細工が施され、中央に嵌め込まれている赤い宝石がキラキラと輝いている。
昨日見つけ、バレないようにポケットの中に隠し持っていたものだ。
ベッドのすぐそばには本棚があり、その中の二冊が他の本に比べてわずかに背表紙が出ていたのだ。
不審に思ったアルトがそれを出してみると、その奥からブローチが出てきたというのが昨日の顛末だった。
(ベアトリスさんのものなら、国王陛下はきっと『どこで見つけた』って聞いてくるはず)
エルは普段から装飾品を付けておらず、むしろ簡素な服装が多い。
本人が華美なものを好まないというのもあるが、仮にこのブローチがベアトリスの身に付けていたものだったとして、幼い時のエルが何を思ってブローチをここに隠したのか想像に難くなかった。
(生きていた思い出、か……)
エルのベアトリスに対する口振りからは、親愛よりもずっと強い感情が見え隠れしていた。
どれほど共に過ごしたのかは予想でしかないが、エルにとってはブローチ一つとっても数少ない大切なものなのだろう。
(気付かれないように回収して、今の今までここに置いていたんだ)
そう年端もいかない中で、ベアトリスの死を受け入れざるを得なかったエルを思うと胸が痛む。
小屋に半ば無理矢理連れられた時、最近まで人の過ごしていた空気があった。
一人になりたい時、ベアトリスの生きた証を感じたい時に来ていたから清潔で、埃一つなかったのだと予想する。
(そりゃあ商会を恨んでも仕方ないよな)
育ての母が目の前で動かなくなった瞬間を見てしまえば、誰だって気に病むどころではない。
アルトはブローチをポケットに入れ、目を閉じてごろりと横になる。
(エルには手を汚してほしくない。……夏輝みたいには絶対、俺がさせない)
元の世界で幼馴染みだった男の顔を思い浮かべる。
幼い時からずっと一緒で、大人になってからも交流が続いていた。
しかしそんなある日、夏輝から『人を殺した』とたった一言電話があったのだ。
最初こそ冗談だと思おうとしたものの、それは大々的にニュースに取り上げられて瞬く間に広がり、その後堕ちていった。
原因としては当時付き合っていた恋人を殺され、その報復として殺人に手を染めたという事だった。
誰にも相談する事はなく、夏輝は自ら罪を犯してしまったのだ。
のうのうと生きていた自分を恥ずかしく思い、これが今生の別れになるとその時の自分は思っていなかった。
今となっては夏輝が生きているのかも定かではないが、自分の目が届く範囲で大切な存在が汚れていくなど許せなかった。
思い出しても頭が痛くなる光景を、元の世界だけでなくここでも見る事になるなどまっぴらなのだ。
「──なんて、きっと分かってくれないだろうけど」
それでも、このまま見過ごせるほど人間ができていないのだ。
エルには悪いが、今自分が出来得る限りの手を尽くさせてもらう他なかった。
「どうにかして止めさせないと」
ここから出るためにも、と心の中で付け足す。
今頃エルはこの国の民のために、身を粉にして務めを果たしていることだろう。
その内心に燻る熱を押し隠して。
「──さま。アルト様」
不意にかすかなノックとともに自分を呼ぶ声が耳に届く。
すぐに扉が解錠音が響き、アルトはベッドから半ば跳ね起きるようにして立ち上がる。
「ミハルドさん」
そっとこちら側から扉を開けると、ミハルドが立っていた。
その手には分厚い本を何冊も持っており、見るからに重そうだ。
「これを」
「え、おっ……とと」
アルトの胸に押し付けるように渡され、慌ててすべての本を受け取る。
「これ、誰が……?」
「殿下が退屈だろうから、と」
ミハルドは手短に要件を伝え終わると、では、と小さく会釈して扉を閉めようとする。
「ちょ、ちょっと待って!」
あと少しで閉まろうとしたところに、アルトはすんでのところで爪先を入れた。
いち早くアルトが何をするか気付いてくれたため、足に痛みはやって来なかったが、それでも素早く反応した身体に反して頭の中はぐるぐると渦巻いている。
「あ、開けといてくれ、な!?」
「はぁ……?」
ミハルドに一言断り、素早く本をテーブルに置いて戻る。
扉にはしっかりと脚を掛け、改めて勝手に閉めないように固定する。
「これ、国王陛下に渡してくれないか?」
そっと小声で言い、ポケットからブローチを取り出した。
ミハルドは最初こそまじまじと見たものの、首を傾げるばかりだ。
「なぜ陛下に……? あの方が落として行かれたのですか?」
とんと分からないといったふうで、ミハルドはアルトの手を押し返そうとする。
けれど、それに負けじとアルトは更に言い募った。
「いや、正確には違う。けど、国王陛下にとって大事なものなんだ。何も言わずに渡してくれるか?」
ミハルドは一瞬考え込んだものの、小さく溜め息を吐くとアルトに向けて手を伸ばす。
「……お預かりします」
ブローチを手に取り、懐から取り出した白いハンカチでそれを包んだ。
丁重に懐へ入れられたのを見届けると、アルトは小さく付け加えた。
「それでな、何か伝言があれば教えてほしいんだ。早ければ早いほどありがたいけど……」
「貴方が何をしようとしているのか、私には知る権利はございませんが──陛下に危害を加える気は無いのですね?」
アルトの言葉を半ば遮り、ミハルドがこちらを見つめる顔が鋭利なものになった。
ゆっくりと開かれた赤い瞳と目が合い、背中に冷や汗が伝う。
「あ、ああ。もちろん」
これまで以上の剣呑な雰囲気を悟り、アルトは反射的に頷いた。
国王の側近としての本能なのか、目の前の男は今にも瞳だけで射殺してしまいそうなほどだ。
「……分かりました」
アルトの言葉に満足したのかミハルドはにこりと微笑み、そっと肩に手を置いてくる。
「ならば本日中に、殿下へは内密に伝えに参ります」
構いませんか、とミハルドが囁くように続ける。
「ああ、頼む」
ミハルドを見つめ、アルトははっきりと声に出した。
使える手は可能な限り使い、早ければ早いほどいい──エルも知らないベアトリスの真相に近付き、この小屋から出るためにも。
その日の夜。
アルトはフィアナが持ってきてくれた夕食もそこそこに、落ち着かない様子で椅子に座っては立ち、部屋の中をあてもなく歩き回っていた。
考えるのはミハルドに頼んだ事だ。
国王に伝えると約束してくれたが、いつミハルドがやってくるのか定かではない。
夕食を持ってきてくれた人間もフィアナだったためか、そう関わりのないミハルドのことを聞くのも憚られてしまっていた。
早くて今夜、遅くても日が変わる前にはやってくるだろう。
しかし、エルとミハルドが鉢合わせる可能性があった。
なぜミハルドが用もないのに来たのか、エルは聞いてくるだろう。
エルが納得するような返しをする自信はなく、どれほど考えても悪い方向にいく気がしてならない。
(エルには口じゃ絶対に勝てないし、なんとかミハルドさんが早く来てくれれば……)
待っている事しかできない自分がもどかしく、じっとしている方が難しかった。
内心気が気ではないこの状況に、胃の中のものが出てしまいそうな錯覚に陥った。
「……今、何時なんだろう」
アルトは心を落ち着けるため、別のことに思考を移す。
小屋には時計がないからか窓の外を見る以外、それも漠然とした時間しか分からず、他に分かるものはない。
アルトはそっと窓に近付き、空を見上げた。
宵闇の空にはやや丸い月がこちらを見下ろしており、煌々と輝いていた。
「エルが歌ってくれた歌、なんだったっけ」
ゆっくりと沈み行く意識の中、これ以上ないほど優しい声で歌を歌ってくれたのは覚えている。
誰に教えてもらったのか聞く前に寝てしまい、朝起きてから聞こうと思っていたが聞けず終いだったのだ。
「──歌くらいなら教えてくれるよな」
ぽそりとアルトは誰にともなく呟く。
こちらが知りたい事は何度言っても教えてくれず、エルは何かを必死に隠そうとしていた。
教えない理由がなんなのか今なら少しだけ分かるが、それでも一人で抱え込むのは違うと思う。
状況が状況とはいえ、仮にもエルとは婚約している身なのだ。
エルのことを『アルト』は何も知ろうとせず、今の自分も少し前までは知る気がなかった。
これから長い時を共に過ごすのであれば、多少なりとエルの過去を知る権利がある。
そして、この身に起きた状況もエルにだけは伝えなければいけない気がした。
(とりあえず、今は俺が出来ることをやらないと。じゃないと俺はまた……)
そこまで考えると、不意に解錠音が大きく響いた。
「っ」
沈黙が痛いほどの部屋の中へ突然入ってきた音に、アルトは小さく肩を竦める。
(エルが戻ってきた……!? いや、それとも)
ミハルドが刻限通りに来てくれたかもしれない安堵と、エルがひと足早く戻ってきたかもしれない恐怖とで、どくどくと心臓がうるさく音を立てる。
開けるのを躊躇って棒立ちなっているうちに、外側からゆっくりと扉が開くのが視界に入った。
「──久しいな、ムーンバレイ公爵」
低く、やや艶を含んだ声だった。
その声には得も言われぬ圧があり、知らず背筋が伸びる心地がする。
「あ……」
扉を開けて姿を現した人物は白いシャツと黒いスラックスという簡素な服装に身を包んでおり、やや長い前髪は額に垂らされている。
初めて見た時と面差しは違うが、柔らかく微笑む初老の男──リネスト現国王・ライアンはアルトの姿を目に留め、ゆっくりと続けた。
「入っても構わないかな?」
優しい声はどこかエルの口調を思わせ、けれど圧倒的な権力を持っている男が問うてくる。
背後にはミハルドが視線を伏せ、ライアンに付き従っているのが見えた。
まさか国王自らやってくるとは思わず、かといってこのままミハルドに問うのも気が引ける。
「大丈夫、です……あの、どうぞ」
ライアンを不快にさせない言葉を選びつつ、アルトは懸命に頭を働かせ、震えそうな喉を叱咤して声を絞り出した。
椅子を指し示すと、ライアンは緩く首を振って微笑む。
「私はすぐに出ていくから、君が座っていなさい」
「え、でも……」
ちらりと背後に控えるミハルドを見ると、小さく頷き『そうしてくれ』という眼差しを向けてくる。
「……失礼、します」
アルトは一言断り、椅子に浅く腰掛けた。
アルトが座ったのを見届けると、ライアンは丸テーブルの前まで歩き立ち止まる。
この国を統べる王が真正面に、加えて普通ならば許されない距離にいる状況はそうないだろう。
「──ミハルドから話は聞いた。あれが戻る前に手短に話そう」
ゆっくりとした声音は優しい中に形容し難い深みがあり、知らず背筋が伸びる。
緊張感から冷や汗が後から後からやってきて、このまま水分がなくなってしまうのではないかと錯覚さえする。
「あれの育ての母のことを知りたいんだろう」
言いながらライアンは懐から何かを取り出し、テーブルに置いた。
赤い宝石が嵌め込まれたブローチが、照明の光を反射して鈍く輝いていた。
「さて、どこから話すか。──そうだな、あの時のベアトリスの状況は……知っているか?」
「少し、本当に少しだけですが」
エルが言っていた言葉を思い出しながら、アルトは曖昧に頷く。
「そうか。……悲惨なものでな、忘れたいほど酷いものだった」
アルトの言葉にやんわりと微笑むと、ライアンはぽつぽつと語り出す。
当時、ベアトリスの亡骸を王宮に連れ戻すために数人の騎士が店の中に入っていったという。
本来であればライアンは王宮でじっと待つべきだったが、第三王妃をことの他寵愛していたため、騎士の装いをして紛れ込んでいた。
「私が好きだった美しい髪は血に塗れ、着ていた洋服もどす黒い赤で染まっていた。私とて戦地に赴く事はあったが、やはり……愛する者の変わり果てた姿はさすがに堪えたよ」
はは、と小さくライアンが苦笑する。
誰であっても憔悴してしまう状況を思い、アルトの胸が鈍く痛む。
どれほど前に起こったのか予想でしかないが、ライアンはきっと今の自分と同じか、少し上の年齢だっただろう。
当時王太子だったというライアンは、お忍びの供をしていた騎士から、直前までベアトリスがエルと共に居たという事を聞いた。
その後、ベアトリスが何者かに刺されたのとほぼ同時に、エルが店の外から顔を覗かせていたという。
「幼いながら気丈に振舞っていてな、よもやあの光景を見ているとは思わなかった」
それほど酷い有様を、幼い時のエルは父王に泣き顔一つ見せなかったというのだ。
本来であればあまりに大き過ぎる衝撃に、泣き喚いてもおかしくないというのに。
アルトはベッドの縁に腰掛けながら、窓から射し込む太陽にブローチをかざす。
周りは精緻な金細工が施され、中央に嵌め込まれている赤い宝石がキラキラと輝いている。
昨日見つけ、バレないようにポケットの中に隠し持っていたものだ。
ベッドのすぐそばには本棚があり、その中の二冊が他の本に比べてわずかに背表紙が出ていたのだ。
不審に思ったアルトがそれを出してみると、その奥からブローチが出てきたというのが昨日の顛末だった。
(ベアトリスさんのものなら、国王陛下はきっと『どこで見つけた』って聞いてくるはず)
エルは普段から装飾品を付けておらず、むしろ簡素な服装が多い。
本人が華美なものを好まないというのもあるが、仮にこのブローチがベアトリスの身に付けていたものだったとして、幼い時のエルが何を思ってブローチをここに隠したのか想像に難くなかった。
(生きていた思い出、か……)
エルのベアトリスに対する口振りからは、親愛よりもずっと強い感情が見え隠れしていた。
どれほど共に過ごしたのかは予想でしかないが、エルにとってはブローチ一つとっても数少ない大切なものなのだろう。
(気付かれないように回収して、今の今までここに置いていたんだ)
そう年端もいかない中で、ベアトリスの死を受け入れざるを得なかったエルを思うと胸が痛む。
小屋に半ば無理矢理連れられた時、最近まで人の過ごしていた空気があった。
一人になりたい時、ベアトリスの生きた証を感じたい時に来ていたから清潔で、埃一つなかったのだと予想する。
(そりゃあ商会を恨んでも仕方ないよな)
育ての母が目の前で動かなくなった瞬間を見てしまえば、誰だって気に病むどころではない。
アルトはブローチをポケットに入れ、目を閉じてごろりと横になる。
(エルには手を汚してほしくない。……夏輝みたいには絶対、俺がさせない)
元の世界で幼馴染みだった男の顔を思い浮かべる。
幼い時からずっと一緒で、大人になってからも交流が続いていた。
しかしそんなある日、夏輝から『人を殺した』とたった一言電話があったのだ。
最初こそ冗談だと思おうとしたものの、それは大々的にニュースに取り上げられて瞬く間に広がり、その後堕ちていった。
原因としては当時付き合っていた恋人を殺され、その報復として殺人に手を染めたという事だった。
誰にも相談する事はなく、夏輝は自ら罪を犯してしまったのだ。
のうのうと生きていた自分を恥ずかしく思い、これが今生の別れになるとその時の自分は思っていなかった。
今となっては夏輝が生きているのかも定かではないが、自分の目が届く範囲で大切な存在が汚れていくなど許せなかった。
思い出しても頭が痛くなる光景を、元の世界だけでなくここでも見る事になるなどまっぴらなのだ。
「──なんて、きっと分かってくれないだろうけど」
それでも、このまま見過ごせるほど人間ができていないのだ。
エルには悪いが、今自分が出来得る限りの手を尽くさせてもらう他なかった。
「どうにかして止めさせないと」
ここから出るためにも、と心の中で付け足す。
今頃エルはこの国の民のために、身を粉にして務めを果たしていることだろう。
その内心に燻る熱を押し隠して。
「──さま。アルト様」
不意にかすかなノックとともに自分を呼ぶ声が耳に届く。
すぐに扉が解錠音が響き、アルトはベッドから半ば跳ね起きるようにして立ち上がる。
「ミハルドさん」
そっとこちら側から扉を開けると、ミハルドが立っていた。
その手には分厚い本を何冊も持っており、見るからに重そうだ。
「これを」
「え、おっ……とと」
アルトの胸に押し付けるように渡され、慌ててすべての本を受け取る。
「これ、誰が……?」
「殿下が退屈だろうから、と」
ミハルドは手短に要件を伝え終わると、では、と小さく会釈して扉を閉めようとする。
「ちょ、ちょっと待って!」
あと少しで閉まろうとしたところに、アルトはすんでのところで爪先を入れた。
いち早くアルトが何をするか気付いてくれたため、足に痛みはやって来なかったが、それでも素早く反応した身体に反して頭の中はぐるぐると渦巻いている。
「あ、開けといてくれ、な!?」
「はぁ……?」
ミハルドに一言断り、素早く本をテーブルに置いて戻る。
扉にはしっかりと脚を掛け、改めて勝手に閉めないように固定する。
「これ、国王陛下に渡してくれないか?」
そっと小声で言い、ポケットからブローチを取り出した。
ミハルドは最初こそまじまじと見たものの、首を傾げるばかりだ。
「なぜ陛下に……? あの方が落として行かれたのですか?」
とんと分からないといったふうで、ミハルドはアルトの手を押し返そうとする。
けれど、それに負けじとアルトは更に言い募った。
「いや、正確には違う。けど、国王陛下にとって大事なものなんだ。何も言わずに渡してくれるか?」
ミハルドは一瞬考え込んだものの、小さく溜め息を吐くとアルトに向けて手を伸ばす。
「……お預かりします」
ブローチを手に取り、懐から取り出した白いハンカチでそれを包んだ。
丁重に懐へ入れられたのを見届けると、アルトは小さく付け加えた。
「それでな、何か伝言があれば教えてほしいんだ。早ければ早いほどありがたいけど……」
「貴方が何をしようとしているのか、私には知る権利はございませんが──陛下に危害を加える気は無いのですね?」
アルトの言葉を半ば遮り、ミハルドがこちらを見つめる顔が鋭利なものになった。
ゆっくりと開かれた赤い瞳と目が合い、背中に冷や汗が伝う。
「あ、ああ。もちろん」
これまで以上の剣呑な雰囲気を悟り、アルトは反射的に頷いた。
国王の側近としての本能なのか、目の前の男は今にも瞳だけで射殺してしまいそうなほどだ。
「……分かりました」
アルトの言葉に満足したのかミハルドはにこりと微笑み、そっと肩に手を置いてくる。
「ならば本日中に、殿下へは内密に伝えに参ります」
構いませんか、とミハルドが囁くように続ける。
「ああ、頼む」
ミハルドを見つめ、アルトははっきりと声に出した。
使える手は可能な限り使い、早ければ早いほどいい──エルも知らないベアトリスの真相に近付き、この小屋から出るためにも。
その日の夜。
アルトはフィアナが持ってきてくれた夕食もそこそこに、落ち着かない様子で椅子に座っては立ち、部屋の中をあてもなく歩き回っていた。
考えるのはミハルドに頼んだ事だ。
国王に伝えると約束してくれたが、いつミハルドがやってくるのか定かではない。
夕食を持ってきてくれた人間もフィアナだったためか、そう関わりのないミハルドのことを聞くのも憚られてしまっていた。
早くて今夜、遅くても日が変わる前にはやってくるだろう。
しかし、エルとミハルドが鉢合わせる可能性があった。
なぜミハルドが用もないのに来たのか、エルは聞いてくるだろう。
エルが納得するような返しをする自信はなく、どれほど考えても悪い方向にいく気がしてならない。
(エルには口じゃ絶対に勝てないし、なんとかミハルドさんが早く来てくれれば……)
待っている事しかできない自分がもどかしく、じっとしている方が難しかった。
内心気が気ではないこの状況に、胃の中のものが出てしまいそうな錯覚に陥った。
「……今、何時なんだろう」
アルトは心を落ち着けるため、別のことに思考を移す。
小屋には時計がないからか窓の外を見る以外、それも漠然とした時間しか分からず、他に分かるものはない。
アルトはそっと窓に近付き、空を見上げた。
宵闇の空にはやや丸い月がこちらを見下ろしており、煌々と輝いていた。
「エルが歌ってくれた歌、なんだったっけ」
ゆっくりと沈み行く意識の中、これ以上ないほど優しい声で歌を歌ってくれたのは覚えている。
誰に教えてもらったのか聞く前に寝てしまい、朝起きてから聞こうと思っていたが聞けず終いだったのだ。
「──歌くらいなら教えてくれるよな」
ぽそりとアルトは誰にともなく呟く。
こちらが知りたい事は何度言っても教えてくれず、エルは何かを必死に隠そうとしていた。
教えない理由がなんなのか今なら少しだけ分かるが、それでも一人で抱え込むのは違うと思う。
状況が状況とはいえ、仮にもエルとは婚約している身なのだ。
エルのことを『アルト』は何も知ろうとせず、今の自分も少し前までは知る気がなかった。
これから長い時を共に過ごすのであれば、多少なりとエルの過去を知る権利がある。
そして、この身に起きた状況もエルにだけは伝えなければいけない気がした。
(とりあえず、今は俺が出来ることをやらないと。じゃないと俺はまた……)
そこまで考えると、不意に解錠音が大きく響いた。
「っ」
沈黙が痛いほどの部屋の中へ突然入ってきた音に、アルトは小さく肩を竦める。
(エルが戻ってきた……!? いや、それとも)
ミハルドが刻限通りに来てくれたかもしれない安堵と、エルがひと足早く戻ってきたかもしれない恐怖とで、どくどくと心臓がうるさく音を立てる。
開けるのを躊躇って棒立ちなっているうちに、外側からゆっくりと扉が開くのが視界に入った。
「──久しいな、ムーンバレイ公爵」
低く、やや艶を含んだ声だった。
その声には得も言われぬ圧があり、知らず背筋が伸びる心地がする。
「あ……」
扉を開けて姿を現した人物は白いシャツと黒いスラックスという簡素な服装に身を包んでおり、やや長い前髪は額に垂らされている。
初めて見た時と面差しは違うが、柔らかく微笑む初老の男──リネスト現国王・ライアンはアルトの姿を目に留め、ゆっくりと続けた。
「入っても構わないかな?」
優しい声はどこかエルの口調を思わせ、けれど圧倒的な権力を持っている男が問うてくる。
背後にはミハルドが視線を伏せ、ライアンに付き従っているのが見えた。
まさか国王自らやってくるとは思わず、かといってこのままミハルドに問うのも気が引ける。
「大丈夫、です……あの、どうぞ」
ライアンを不快にさせない言葉を選びつつ、アルトは懸命に頭を働かせ、震えそうな喉を叱咤して声を絞り出した。
椅子を指し示すと、ライアンは緩く首を振って微笑む。
「私はすぐに出ていくから、君が座っていなさい」
「え、でも……」
ちらりと背後に控えるミハルドを見ると、小さく頷き『そうしてくれ』という眼差しを向けてくる。
「……失礼、します」
アルトは一言断り、椅子に浅く腰掛けた。
アルトが座ったのを見届けると、ライアンは丸テーブルの前まで歩き立ち止まる。
この国を統べる王が真正面に、加えて普通ならば許されない距離にいる状況はそうないだろう。
「──ミハルドから話は聞いた。あれが戻る前に手短に話そう」
ゆっくりとした声音は優しい中に形容し難い深みがあり、知らず背筋が伸びる。
緊張感から冷や汗が後から後からやってきて、このまま水分がなくなってしまうのではないかと錯覚さえする。
「あれの育ての母のことを知りたいんだろう」
言いながらライアンは懐から何かを取り出し、テーブルに置いた。
赤い宝石が嵌め込まれたブローチが、照明の光を反射して鈍く輝いていた。
「さて、どこから話すか。──そうだな、あの時のベアトリスの状況は……知っているか?」
「少し、本当に少しだけですが」
エルが言っていた言葉を思い出しながら、アルトは曖昧に頷く。
「そうか。……悲惨なものでな、忘れたいほど酷いものだった」
アルトの言葉にやんわりと微笑むと、ライアンはぽつぽつと語り出す。
当時、ベアトリスの亡骸を王宮に連れ戻すために数人の騎士が店の中に入っていったという。
本来であればライアンは王宮でじっと待つべきだったが、第三王妃をことの他寵愛していたため、騎士の装いをして紛れ込んでいた。
「私が好きだった美しい髪は血に塗れ、着ていた洋服もどす黒い赤で染まっていた。私とて戦地に赴く事はあったが、やはり……愛する者の変わり果てた姿はさすがに堪えたよ」
はは、と小さくライアンが苦笑する。
誰であっても憔悴してしまう状況を思い、アルトの胸が鈍く痛む。
どれほど前に起こったのか予想でしかないが、ライアンはきっと今の自分と同じか、少し上の年齢だっただろう。
当時王太子だったというライアンは、お忍びの供をしていた騎士から、直前までベアトリスがエルと共に居たという事を聞いた。
その後、ベアトリスが何者かに刺されたのとほぼ同時に、エルが店の外から顔を覗かせていたという。
「幼いながら気丈に振舞っていてな、よもやあの光景を見ているとは思わなかった」
それほど酷い有様を、幼い時のエルは父王に泣き顔一つ見せなかったというのだ。
本来であればあまりに大き過ぎる衝撃に、泣き喚いてもおかしくないというのに。
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