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第一部 四章

小屋の中で 5

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 ◆◆◆



 何か温かなものに包まれている感覚に、アルトの意識がぼんやりと覚醒する。

「ん……」

 もそりと寝返りを打とうとすると、それとほぼ同時にぐいと背後に引き寄せられた。

「う、ん……?」

 気怠い身体をなんとか背後に向けて動かすと、彫刻のように美しい顔が間近にあった。

「な、なん……っ!?」

 アルトは大声で叫びそうになるのをすんでのところで堪え、声にならない声を上げる。

 アルトの眠っていたすぐ隣りにはエルがおり、その瞼は固く閉ざされていた。

 伏せられた睫毛が頬にやわらかな影を落とし、うっすらと赤く色付いた唇からは規則正しい呼吸が聞こえる。

 こちらを逃がすまいとでもいうように、がっちりと身体に二本の腕が巻き付いていた。

(な、なんでエルが……!? いや、ここで眠るのは間違ってないけど……!)

 アルトをこの小屋に監禁している以上、エルが隣りで眠っていてもなんら不思議ではない。

 ただ、エルが自分よりも寝てる事は今までなかったのだ。

 エルが先に起きている時の方が多く、こうしてアルトが起きている方が珍しかった。

 ゆっくりと上下する胸はもちろん、伏せられた瞼はエルが眠っている事を分からせられた。

 アルトはこの状況を処理するため懸命に頭をはたらかせ、しばらくの間身動ぎ一つせずエルを見つめる。

(と、とりあえず起こさないように……)

 ここまでどれほど時間が経ったのか分からないが、ぐっすりと眠るエルを起こしたくはなかった。

 それに、アルトは一度起きてしまえばそこからあまり眠れない。

 それもこれも元の世界で社畜だった時のサガらしく、今となっては悪い意味で習慣付いてしまっていた。

 そっとエルの腕を解こうとしたが思っていた以上に力があり、腕一本動かそうとするだけでも一苦労だ。

 女性のように美しい見た目に反して、ここまで腕力があるとは思わなかった。

(そりゃあ俺なんか軽々抱き上げるよな……)

 この身体の非力さを自覚すると同時に、鍛えてこなかった『アルト』にも怒りが湧いてくる。

 もう少し力があれば、エルの腕などすぐに剥がせたかもしれない可能性があるのだから。

「ある、と……?」

 不意に睫毛が震え、ゆっくりとエルの瞳が開かれる。

 空を閉じ込めた瞳がじっとアルトを捉えたものの、ぱちぱちと瞬きを繰り返すだけで未だエルは眠そうにしている。

「ご、ごめん、起こして──っ!?」
 謝罪の言葉を言い終わるよりも早く、エルの腕が起きようとしたアルトのそれに絡み付いた。

「も、少し……寝よう……?」

 エルには似つかわしくない舌っ足らずな口調に、アルトの中の庇護欲が高まる。

 そして幼い子供がするようにアルトの胸に顔を埋め、先程とは違ってきゅうっと優しく抱き締められた。

「っ」

 すり、と頬を擦り寄せられたかと思うと、エルはそのまま瞼を閉じる。

 やがて小さな寝息が聞こえ、アルトは無意識に詰めていた息を吐き出す。

(なんか、新鮮だ)

 思えばエルの寝顔を見たのはおろか、こうして甘えられる事など一切なかった。

 アルトが逃げ出さないように気を張っていたからなのか、ごくわずかに目の下に隈が出来ている。

 そんなエルに対して申し訳なさが募り、そっと頭を撫でる。

(でも、こんなになるまで気にしなくてもいいのに)

 どんなに言っても聞いてくれないためそのままにしていたが、アルトの中ですべてが落ち着けば、しっかりと自分の気持ちを話さなければいけないだろう。

 アルトはエルを起こさないようスラックスのポケットに手を入れ、昨日見つけた『それ』を確認する。

 硬い感触に触れ、わずかに揺れていた意思が強固になっていく。

(ミハルドさんが来てくれて、渡してくれたら一番いいけど)

 エルが許した人間以外は小屋に近付いてはならない、と触れを出しているらしく昨日はミハルドと言葉を交わしただけだ。

 今日も変わらずミハルドが来てくれ、扉の隙間から『それ』を渡す事は可能性だが、国王に届けてくれるかどうかは望み薄になるだろう。

 それでも、何もしないより遥かにマシだと思う。

 このまま行動せずにいてはどれほど掛かるか分からず、最悪の場合エルの気が済むまで監禁される事も十二分に有り得るのだ。

「ん、っ……」

 もそりとエルが身動ぎ、しかし腕の力はそのままでアルトを離す気配はない。

 窓の外から見えるであろう太陽はまだ昇っておらず、薄暗かった。

 エルの言う通り、このままもう少し眠ってしまうのも手だろう。

 エルの仕草にふっとアルトは小さく笑い、そのまま瞼を閉じる。

 実際のところあまり眠くなかったが、不思議とエルに抱き締められていると、やがて穏やかな眠気が襲ってきた。

 少し苦しいが、この男の腕に包まれて眠るのは悪くない。

 いつの間にかアルトはそう思うようになっていた。



「おはよう、アルト」

 目覚めてすぐ、エルの柔らかな笑みが視界いっぱいに広がった。

「あ……?」

 眠い目を擦りながら、低い声を上げつつまじまじとエルを見る。

「ん?」

 美しい微笑みを浮かべてこちらを見ている男は、つい数時間前まで寝惚けて甘えていたとは到底思えなかった。

「眠かったらまだ寝ててもいいよ」

 ぽんぽんと頭を撫でられ、慈愛に満ちた瞳を寄越される。

「……いや、起きる」

 まだ少しぼやける視界の中、アルトはエルの手を借りて起き上がった。

「よく眠れた?」

「へ、あ、ああ……」

 エルの問いに反射的に頷くと更に笑みを深められ、頭を撫でられる。

 その手はやがて頬に手を添えられ、じっと目を合わせてくる。

「そう。顔色もいいね、身体はなんともない? 食欲はあるかな」

 アルトが答える前に矢継ぎ早に訊ねられ、こくこくと頷くしかできない。

「良かった。じゃあ朝食にしようか、さっき持ってきたんだ」

 言いながらアルトの手を取り、立ち上がらせる。

 テーブルにはバスケットに入った焼きたてのパンを始め、温かいスープやフルーツの盛り合わせがあった。

「あ……」

 食後の茶請けなのか、クッキーやシフォンケーキが別の皿に盛られていた。

 テーブルはアルトの好きなもので形成されており、図らずも声が上擦る。

「これ、食べていいのか?」

「もちろん。あ、でもクッキーは食べ終わってからね」

 アルトがどれのことを言っているのか分かっているらしく、くすくすとエルが小さく笑いながら乱れた髪を手で梳いてくれる。

「ん」

 やや羞恥心が集まりつつも、エルに促されて席に着く。

 しかし好きなもので埋め尽くされていても、今日の朝食は昨日に比べて少し味気なかった。



 朝食を摂り終え、アルトが夢中で甘い菓子を頬張っているのを見ていたエルが、ふと思い出したように言う。

「じゃあ行ってくるね」

 エルが席を立とうとした事で、公務の時間が迫っているのだと理解した。

 時計が無いのになぜ分かるのかと疑問に思ったが、そこは慣れというやつなのだろうか。

 アルトは無意識にエルの手を摑む。

「……うん? どうしたの?」

 不意に手を摑まれたからか、エルは目に見えて困惑した表情を見せた。

 それと同じくらい、アルトも心の中で動揺する。

(な、なんで引き止めた……? 早く行って欲しいんじゃないのか、俺は!?)

 アルトの意思とは裏腹に、理性ではエルの傍を離れたくないらしかった。

 それが身体に出てしまった理由が分からないまま、段々とアルトは顔を俯かせる。

「あ、えっと……」

 早く離さなければと思うのに、焦れば焦るほど手に力が込められる。

「──大丈夫だよ」

「っ」

 そんなアルトを安心させるように、摑まれていない方の手で手の甲をゆっくりと撫でられる。

 努めて優しく何度も撫で摩られ、じんわりと身体の力が抜けていく。

 いつも通りのエルの態度はもちろんのこと、こんなにも自分の感情を言葉にできないのがもどかしかった。

「……行ってらっしゃい」

 半ば口の中で呟いた言葉は、しっかりとエルの耳に届いたようだ。

「行ってきます」

 ふっと小さく笑ったかと思えば腰を屈められ、触れるだけの口付けを唇に落とされる。

 すぐに甘い微笑みが視界いっぱいに広がり、きゅうと胸が音を立てる。

「今日、いい子で待っててね」

 ちゅ、とわざと音を立てて鼻にキスをされ、エルが小さく囁いた。

「へ……」

 その言葉の意味を理解した時には、扉の閉まる音と施錠する音が遅れて聞こえてきた。

 やがてアルトはテーブルに突っ伏す。

 周囲には自身が食べていたクッキーやケーキがまだ残っており、甘い香りが鼻孔に入る。

 それに少し心が落ち着いたが、頭の中はぐるぐると荒れ狂っていた。

(なんでキスした。いや、それよりもなんであんなことを言うんだ!? 何がいい子で、だ! 子供扱いしやがって……!)

 ぎり、と奥歯を強く噛み締める。

 エルとは同い年か一つ二つ上なのかと予想するが、前者であればこれほど屈辱的なことはなかった。

 対等に話してくれればどんなにいいかと思いこそすれ、こちらばかり心乱されている状況が嫌で堪らない。

 ただ、大事にされているという自覚はこの数日で十二分に知ってしまった。

 自身の置かれている状況を強く言えない反面、代わりにどこまでも優しくなったように思う。

 それは嬉しく少し恥ずかしいが、満たされてしまっている自分に驚いた。

(でも、行ってらっしゃいって言えた)

 今の今まで顔を見て言うことはおろか、公務に向かうエルに言葉を投げた試しはなかった。

 あ、とそこまで考えてかっと頬が熱くなる。

(これじゃあこのままでもいいみたいだろ……! 実際ああいう事されるのは嬉しいけど、けどさぁ……)

 エルとのこの関係が新婚みたいだ、などと考えてしまう自分もどうかしている。

 それ以前に、今アルトがおかれているこの状況は新婚と言うには程遠かった。

 仮にも婚約者だが結婚式はまだ行われておらず、そもそも今はエルの許しがなければ満足に出歩けない身の上なのだ。

『新婚みたい』などと思うこと自体が時期尚早で、本来のアルトであれば笑い飛ばしているところなのだが。

「あーーーー!」

 ガシガシと頭を掻き、それだけでは飽き足らず左右に首を振る。

 仕草や自分に向けられた言葉がまざまざと思い出され、もうしばらくは頭の中がエルのことでいっぱいだった。
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