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第一部 四章

小屋の中で 1

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 ぴぃぴぃと可愛らしい鳥の声が聞こえ、アルトはそろりと瞼を押し上げた。

「ん……」

 眩しさから逃れるために顔の前に手をかざし、目をすがめる。

 唯一明かりを知ることの出来る窓からは光が漏れ、ベッドの傍を照らしていた。

(あのまま眠ったんだっけ)

 ぼんやりとした頭はそのままに、昨日よりも身体の節々が痛む。

「いっ……!」

 寝返りを打とうとすると、それだけで腰が悲鳴を上げた。

 肩もほとんど腕を上げていたため痛く、満足に動かせそうにない。

いてぇ……あいつ、加減を知らないのか……」

 試しに思ったことを声に出してみたものの、酷く掠れていた。

 喉だけでなく身体を酷使してしまった代償というのは分かるが、その事実がなんとも羞恥心を感じてしまう。

 アルトは小さく首を振り、頭を切り替える。

 隣りで眠っていたらしいエルの姿はどこにもなく、アルトは周囲を見回した。

「エル……?」

 小さな囁きが、もの悲しく響く。

 エルの寝ていた場所に触れると、ほんのりと温もりがあった。小屋を出てから、そう時間は経っていないのだろう事が伺える。

「よ、……っ、と」

 アルトは痛む身体をなんとか起こし、よろけつつベッドから丸テーブルの方に向かった。

 そこには一枚の紙があり、流麗な字でこう書かれている。

『朝食を持ってくるから待っていて。一緒に食べよう』

 それは一見いつも通りの言葉のようで、ここから逃がさないという意味にも取れた。

 アルトは小さく溜め息を吐く。

『今から貴方にはここで過ごしてもらう』

 小屋に連れられてすぐにベッドに押し倒された時、エルの言った言葉を頭の中で反芻する。

 その言葉はどうやら本気で言っているようだった。
「なんだこれ」

 テーブルの近くにあったゴミ箱には棒状の金属片のようなものが捨ててあり、アルトは手が切れる可能性もいとわずそっと摘む。

 よく知っているようで何かが足りないそれは、どこかの鍵に見えた。

 アルトは身体の痛みもそのままに、ゆっくりと扉や窓へ順番に近付く。

 当たり前だが、外に繋がる扉は外側から施錠されていた。

 それ以外に二つある扉は風呂とトイレで、そちらには窓があるが何も異常はない。

 最後にベッドの傍の窓へ向かった。

 先程は気にも留めていなかったが、じっと目を凝らすと鍵を入れる部分が潰された形跡があり、アルトの頬がひくりと引き攣る。

(なにもここまでしなくてもよくないか……!?)

 アルトが眠っている時にやったらしく、いっそ呆れてしまう。

「こんなことしなくても……逃げないのに、な」

 呟くように言った言葉がやけに大きく響いた。

 エルが警戒する気持ちも分からなくはないが、少しやり過ぎだと思う。

 最初からずっと、脅しに近い言葉をエル含めミハルドから聞かされてきた。

 その時こそ絶対に抗ってやるという気概があったが、今はそんなもの無いに等しい。

 それもこれも、エルへの感情に気付いてしまったからだろう。

 しかし、アルトがどんなに『逃げない』と言おうと、エルは聞いてくれない。

 まるで特定の言葉は信じていないというようで、呆れてものも言えなかった。

 アルトはしばらく窓枠に手を掛け、ぼんやりと外を見る。

 窓から差し込む日は暖かく、小屋から見える花々が春の陽気を思わせた。

「──あれ、もう起きてたの」

 不意に自分以外の声が聞こえ、アルトは声のした方を振り向いた。

 エルがトレイを持っており、不思議そうにこちらを見つめていた。

「……ああ、窓のことなら心配しなくても大丈夫だよ。他にも開く所があるからね」

 何か思い違いなことを言っているが、しかしエルは普段と変わらない笑みを浮かべて言う。

 エルは小屋に足を踏み入れるとトレイをテーブルに置き、未だ窓の前に居るアルトに近付いた。

「食欲はある? 貴方の好きなものを作らせたんだけど、食べられそうかな」

 間近で見たエルの顔は艶があり、毛穴一つない。

 同性にしては長い睫毛が瞬く度頬に陰を作り、どこか妖艶な色香をまとっていた。

「あ、……うん」

 アルトは小さく頷き、エルから目を逸らす。

 こうも明るいと顔をしっかりと見れそうになかった。

「……良かった。何か苦手なものがあったら言ってね」

 アルトの様子は気にも留めていないのか、にこにこと上機嫌に『おいで』と手を差し出してくる。

 アルトは躊躇いつつも、そろりと己のそれを重ねた。

 しかし手を握られる気配はおろか、エルが先だって歩き出す気配もない。

「えっ、と」

 不審に思い視線を上向かせると、エルがほんのりと頬を染めていた。

「は、なんでお前が照れて……!?」

 まさかの反応に、アルトは声が枯れているのも忘れ声を張り上げる。

「これはね、その、……不可抗力というか、ね」

 アルトの手を控えめに握ると、エルは反対の手で口元を隠す。

 手で隠しても分かるほどエルの顔は赤くなっており、釣られてアルトの身体も熱を持つ。

 普通の男よりも肌が白いためか、エルの顔色はとても分かりやすい。

「なんでよりにもよって……なんだ、貴方は」

 しかしエルの言葉はしっかりと聞き取れず、アルトは小さく首を傾げた。

(俺、変なことしたか……? いつも手を差し出してくるのはそっちなのに)

 エルが予想し得ない行動を取ると、今のように照れてくれるのだろうか。

 そうだとすればなんとも可愛らしく、もっと色々な表情を見てみたい気がした。

(もっと、見たい。……いや、俺だけが知る顔を見せてほしい)

 むくむくとアルトの中に興味にも似た好奇心が湧き出てくる。

 それは紛れもない好意から来るもので、アルトは己の感情の変化に心の中で苦笑した。

(最初は絶対に婚約なんかしない、って思ってたのにな)

 いつの世でも人というのは分からないもので、しかし一度自覚してしまってはもう後には引けそうもない。

 アルトは未だ固まってブツブツと何かを言っているエルの手を握り、そっと引いた。

「朝食持ってきてくれたんだろ、冷めないうちに食べよう」

 な、とやや口元に力を込めて微笑む。

 エルは一瞬目を丸くしたものの、すぐにアルトの手を握り返した。

「……そうだね」

 にこりとエルはどこか寂しげに笑った。
 しかし、アルトはその顔をしっかりと見ていなかった。



 エルの持ってきてくれた朝食を食べ終わり、しばらく。

「お茶にしようか」

 エルは部屋のどこかからティーポットとカップ、瓶に入った茶葉などを持って姿を現した。

「……はい?」

 アルトが理解しようと頭を働かせている間に、にこにこと楽しそうにエルがティーセットの準備を始める。

(王太子自らお茶の準備をしたとか、俺が怒られるんでは!?)

 エルを崇拝している節のあるミハルドなどに知られればどうなるか、アルトは背筋が震えるのを抑えられない。

「まだ少し寒いよね。ごめんね、すぐに出来るから」

 どこか独り言に近い言葉を聞きながら、エルは終始見事な手さばきで紅茶を作り、ほどなくしてアルトの前にサーブしてくる。

 花の香りがふんわりと鼻腔に届き、乱雑な頭の中がすっきりした心地になった。

「……いい匂い」

 ふと口を突いて出た言葉に、エルは目を細める。

「貴方の口に合えばいいんだけど」

 飲んでみて、と手で促される。

「あ、じゃあ」

 アルトはそっとカップを持ち上げ、息を吹きかけてからゆっくりと口を付ける。

 柑橘の爽やかな香りが口の中に広がり、その後をクセのある苦味が追ってきた。

 普段飲んでいたものとは幾分か違ったが飲めないほどではなく、むしろアルトの好きな味に近かった。

「……おいしい」

 ほっと溜め息とともに呟くと、忍び笑いが小さく聞こえる。

「よかった。でも、味はフィアナに比べたらまだまだだよ。あの子は上手だからね」

 アルトの言葉に冗談を言うような口調で、エルが続く。

 一口紅茶を飲むだけでさまになり、アルトは無意識に真正面に座るエルをじっと見つめていた。

 やや伏せられた瞳はそれだけで美しく、上下する喉がなんとも言えない妖しさを思わせる。

 男にしては細く長い指先は自分よりも大きく、その手が細やかな動きをするだけで溜め息が零れそうになった。

「……ん? どうかした?」

 アルトの視線に気付いたのか、エルがカップを置きながら訊ねてくる。

「い、いや! なんでもない!」

 アルトは慌ててかぶりを振り、残っていた紅茶を一息に飲み干そうとした。

「あっちぃ!?」

 冷ますことなく口を付けたからか、カップを取り落としそうになる。

 カップが落ちることはなかったが、その代わり服がびっしょりと濡れた。

 服が張り付いて気持ちが悪く、しかし人肌より少し高い程度に冷めていたためそれほど熱くはなかった。

「──何をしてるんだ、貴方は」

 呆れ声とともにエルが立ち上がり、こちらに回り込んできた。

「ほら、早く脱いで。火傷したら大変だ」

 言いながらエルはボタンを外してくれ、脱がせてくれる。

 幸いトラウザーズにはそれほど被害はなく、乾いたタオルで拭く程度で済んだ。

「ごめ──」

「口の中は? 痛くない?」

 アルトが謝罪しようとするよりも早く、エルの指先が口腔に入ってくる。

「んぅ……っ!?」

 アルトは驚きで目を見開き、至近距離にあるエルの顔を見つめた。

 その表情は心配している者のそれで、水色の瞳がやや不安そうにを揺れていた。

「……赤くはない、な。駄目だろう、いきなり飲もうとしたら」

 エルは幼い子供に言って聞かせるように、しかしその表情とは裏腹に確かな意思を持ってアルトの舌先を弄ぶ。

 人差し指と中指で挟み込んだかと思えば、弾力を楽しむようにわざと音を立てて擦り立てる。

「ん、ふ……ぅ」

 くちくちと淫猥な音が部屋に響き、アルトは無意識にエルの腕を摑んだ。

 ただの触診だと思いたかったが、うっすらとエルの瞳に情欲の色が灯っていた。

 それはアルトも同じなようで、身体の奥が甘く疼いて仕方がなかった。

 無意識に脚を擦り合わせ、やってくる官能を少しでも逃がそうとする。

「──アルト」

「ん、ぅ」

 とろりとした声音で呼ばれ、アルトは鼻にかかった声を出す。

「そろそろ公務に行かないとなんだけど、……俺が昨日言った事は覚えてる?」

 そう言い終わると同時に、ちゅ、と小さな音を立てて舌から指先が引き抜かれた。

「へ……?」

 口の端に唾液が伝うのもそのままに、アルトは焦点の合わない瞳でエルを見つめる。

 ぼんやりとしているアルトの唇をそっと拭い、エルが小さく笑う。

 一度アルトの頭を撫でると、足早にベッドへ向かう。

 小さなベッドサイドに傍に置いていた自身の外套をアルトに羽織らせ、そっと目線を合わせた。

「シャツは後で届けさせるから。それまで着ていて」

 にこりと微笑み、アルトの瞼に軽く口付ける。

「……続きは夜に、ね」

 はっきりとしつつある思考の中、艶然とした顔には先程までの情欲の灯火はなく、普段通りだった。

「え、っ」

 アルトはそこではたと我に返り、エルを呼び止めようとした時には既に扉が閉まろうとしていた。

「ちょ、エル……!」

 パタンと扉が閉まると、すぐに施錠の音が響いた。

 それはやけに大きく聞こえ、アルトが名を呼ぶ声だけがむなしくこだました。
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