19 / 88
第一部 四章
小屋の中で 1
しおりを挟む
ぴぃぴぃと可愛らしい鳥の声が聞こえ、アルトはそろりと瞼を押し上げた。
「ん……」
眩しさから逃れるために顔の前に手を翳し、目を眇める。
唯一明かりを知ることの出来る窓からは光が漏れ、ベッドの傍を照らしていた。
(あのまま眠ったんだっけ)
ぼんやりとした頭はそのままに、昨日よりも身体の節々が痛む。
「いっ……!」
寝返りを打とうとすると、それだけで腰が悲鳴を上げた。
肩もほとんど腕を上げていたため痛く、満足に動かせそうにない。
「痛ぇ……あいつ、加減を知らないのか……」
試しに思ったことを声に出してみたものの、酷く掠れていた。
喉だけでなく身体を酷使してしまった代償というのは分かるが、その事実がなんとも羞恥心を感じてしまう。
アルトは小さく首を振り、頭を切り替える。
隣りで眠っていたらしいエルの姿はどこにもなく、アルトは周囲を見回した。
「エル……?」
小さな囁きが、もの悲しく響く。
エルの寝ていた場所に触れると、ほんのりと温もりがあった。小屋を出てから、そう時間は経っていないのだろう事が伺える。
「よ、……っ、と」
アルトは痛む身体をなんとか起こし、よろけつつベッドから丸テーブルの方に向かった。
そこには一枚の紙があり、流麗な字でこう書かれている。
『朝食を持ってくるから待っていて。一緒に食べよう』
それは一見いつも通りの言葉のようで、ここから逃がさないという意味にも取れた。
アルトは小さく溜め息を吐く。
『今から貴方にはここで過ごしてもらう』
小屋に連れられてすぐにベッドに押し倒された時、エルの言った言葉を頭の中で反芻する。
その言葉はどうやら本気で言っているようだった。
「なんだこれ」
テーブルの近くにあったゴミ箱には棒状の金属片のようなものが捨ててあり、アルトは手が切れる可能性も厭わずそっと摘む。
よく知っているようで何かが足りないそれは、どこかの鍵に見えた。
アルトは身体の痛みもそのままに、ゆっくりと扉や窓へ順番に近付く。
当たり前だが、外に繋がる扉は外側から施錠されていた。
それ以外に二つある扉は風呂とトイレで、そちらには窓があるが何も異常はない。
最後にベッドの傍の窓へ向かった。
先程は気にも留めていなかったが、じっと目を凝らすと鍵を入れる部分が潰された形跡があり、アルトの頬がひくりと引き攣る。
(なにもここまでしなくてもよくないか……!?)
アルトが眠っている時にやったらしく、いっそ呆れてしまう。
「こんなことしなくても……逃げないのに、な」
呟くように言った言葉がやけに大きく響いた。
エルが警戒する気持ちも分からなくはないが、少しやり過ぎだと思う。
最初からずっと、脅しに近い言葉をエル含めミハルドから聞かされてきた。
その時こそ絶対に抗ってやるという気概があったが、今はそんなもの無いに等しい。
それもこれも、エルへの感情に気付いてしまったからだろう。
しかし、アルトがどんなに『逃げない』と言おうと、エルは聞いてくれない。
まるで特定の言葉は信じていないというようで、呆れてものも言えなかった。
アルトはしばらく窓枠に手を掛け、ぼんやりと外を見る。
窓から差し込む日は暖かく、小屋から見える花々が春の陽気を思わせた。
「──あれ、もう起きてたの」
不意に自分以外の声が聞こえ、アルトは声のした方を振り向いた。
エルがトレイを持っており、不思議そうにこちらを見つめていた。
「……ああ、窓のことなら心配しなくても大丈夫だよ。他にも開く所があるからね」
何か思い違いなことを言っているが、しかしエルは普段と変わらない笑みを浮かべて言う。
エルは小屋に足を踏み入れるとトレイをテーブルに置き、未だ窓の前に居るアルトに近付いた。
「食欲はある? 貴方の好きなものを作らせたんだけど、食べられそうかな」
間近で見たエルの顔は艶があり、毛穴一つない。
同性にしては長い睫毛が瞬く度頬に陰を作り、どこか妖艶な色香をまとっていた。
「あ、……うん」
アルトは小さく頷き、エルから目を逸らす。
こうも明るいと顔をしっかりと見れそうになかった。
「……良かった。何か苦手なものがあったら言ってね」
アルトの様子は気にも留めていないのか、にこにこと上機嫌に『おいで』と手を差し出してくる。
アルトは躊躇いつつも、そろりと己のそれを重ねた。
しかし手を握られる気配はおろか、エルが先だって歩き出す気配もない。
「えっ、と」
不審に思い視線を上向かせると、エルがほんのりと頬を染めていた。
「は、なんでお前が照れて……!?」
まさかの反応に、アルトは声が枯れているのも忘れ声を張り上げる。
「これはね、その、……不可抗力というか、ね」
アルトの手を控えめに握ると、エルは反対の手で口元を隠す。
手で隠しても分かるほどエルの顔は赤くなっており、釣られてアルトの身体も熱を持つ。
普通の男よりも肌が白いためか、エルの顔色はとても分かりやすい。
「なんでよりにもよって……なんだ、貴方は」
しかしエルの言葉はしっかりと聞き取れず、アルトは小さく首を傾げた。
(俺、変なことしたか……? いつも手を差し出してくるのはそっちなのに)
エルが予想し得ない行動を取ると、今のように照れてくれるのだろうか。
そうだとすればなんとも可愛らしく、もっと色々な表情を見てみたい気がした。
(もっと、見たい。……いや、俺だけが知る顔を見せてほしい)
むくむくとアルトの中に興味にも似た好奇心が湧き出てくる。
それは紛れもない好意から来るもので、アルトは己の感情の変化に心の中で苦笑した。
(最初は絶対に婚約なんかしない、って思ってたのにな)
いつの世でも人というのは分からないもので、しかし一度自覚してしまってはもう後には引けそうもない。
アルトは未だ固まってブツブツと何かを言っているエルの手を握り、そっと引いた。
「朝食持ってきてくれたんだろ、冷めないうちに食べよう」
な、とやや口元に力を込めて微笑む。
エルは一瞬目を丸くしたものの、すぐにアルトの手を握り返した。
「……そうだね」
にこりとエルはどこか寂しげに笑った。
しかし、アルトはその顔をしっかりと見ていなかった。
エルの持ってきてくれた朝食を食べ終わり、しばらく。
「お茶にしようか」
エルは部屋のどこかからティーポットとカップ、瓶に入った茶葉などを持って姿を現した。
「……はい?」
アルトが理解しようと頭を働かせている間に、にこにこと楽しそうにエルがティーセットの準備を始める。
(王太子自らお茶の準備をしたとか、俺が怒られるんでは!?)
エルを崇拝している節のあるミハルドなどに知られればどうなるか、アルトは背筋が震えるのを抑えられない。
「まだ少し寒いよね。ごめんね、すぐに出来るから」
どこか独り言に近い言葉を聞きながら、エルは終始見事な手さばきで紅茶を作り、ほどなくしてアルトの前にサーブしてくる。
花の香りがふんわりと鼻腔に届き、乱雑な頭の中がすっきりした心地になった。
「……いい匂い」
ふと口を突いて出た言葉に、エルは目を細める。
「貴方の口に合えばいいんだけど」
飲んでみて、と手で促される。
「あ、じゃあ」
アルトはそっとカップを持ち上げ、息を吹きかけてからゆっくりと口を付ける。
柑橘の爽やかな香りが口の中に広がり、その後をクセのある苦味が追ってきた。
普段飲んでいたものとは幾分か違ったが飲めないほどではなく、むしろアルトの好きな味に近かった。
「……おいしい」
ほっと溜め息とともに呟くと、忍び笑いが小さく聞こえる。
「よかった。でも、味はフィアナに比べたらまだまだだよ。あの子は上手だからね」
アルトの言葉に冗談を言うような口調で、エルが続く。
一口紅茶を飲むだけでさまになり、アルトは無意識に真正面に座るエルをじっと見つめていた。
やや伏せられた瞳はそれだけで美しく、上下する喉がなんとも言えない妖しさを思わせる。
男にしては細く長い指先は自分よりも大きく、その手が細やかな動きをするだけで溜め息が零れそうになった。
「……ん? どうかした?」
アルトの視線に気付いたのか、エルがカップを置きながら訊ねてくる。
「い、いや! なんでもない!」
アルトは慌てて頭を振り、残っていた紅茶を一息に飲み干そうとした。
「あっちぃ!?」
冷ますことなく口を付けたからか、カップを取り落としそうになる。
カップが落ちることはなかったが、その代わり服がびっしょりと濡れた。
服が張り付いて気持ちが悪く、しかし人肌より少し高い程度に冷めていたためそれほど熱くはなかった。
「──何をしてるんだ、貴方は」
呆れ声とともにエルが立ち上がり、こちらに回り込んできた。
「ほら、早く脱いで。火傷したら大変だ」
言いながらエルはボタンを外してくれ、脱がせてくれる。
幸いトラウザーズにはそれほど被害はなく、乾いたタオルで拭く程度で済んだ。
「ごめ──」
「口の中は? 痛くない?」
アルトが謝罪しようとするよりも早く、エルの指先が口腔に入ってくる。
「んぅ……っ!?」
アルトは驚きで目を見開き、至近距離にあるエルの顔を見つめた。
その表情は心配している者のそれで、水色の瞳がやや不安そうにを揺れていた。
「……赤くはない、な。駄目だろう、いきなり飲もうとしたら」
エルは幼い子供に言って聞かせるように、しかしその表情とは裏腹に確かな意思を持ってアルトの舌先を弄ぶ。
人差し指と中指で挟み込んだかと思えば、弾力を楽しむようにわざと音を立てて擦り立てる。
「ん、ふ……ぅ」
くちくちと淫猥な音が部屋に響き、アルトは無意識にエルの腕を摑んだ。
ただの触診だと思いたかったが、うっすらとエルの瞳に情欲の色が灯っていた。
それはアルトも同じなようで、身体の奥が甘く疼いて仕方がなかった。
無意識に脚を擦り合わせ、やってくる官能を少しでも逃がそうとする。
「──アルト」
「ん、ぅ」
とろりとした声音で呼ばれ、アルトは鼻にかかった声を出す。
「そろそろ公務に行かないとなんだけど、……俺が昨日言った事は覚えてる?」
そう言い終わると同時に、ちゅ、と小さな音を立てて舌から指先が引き抜かれた。
「へ……?」
口の端に唾液が伝うのもそのままに、アルトは焦点の合わない瞳でエルを見つめる。
ぼんやりとしているアルトの唇をそっと拭い、エルが小さく笑う。
一度アルトの頭を撫でると、足早にベッドへ向かう。
小さなベッドサイドに傍に置いていた自身の外套をアルトに羽織らせ、そっと目線を合わせた。
「シャツは後で届けさせるから。それまで着ていて」
にこりと微笑み、アルトの瞼に軽く口付ける。
「……続きは夜に、ね」
はっきりとしつつある思考の中、艶然とした顔には先程までの情欲の灯火はなく、普段通りだった。
「え、っ」
アルトはそこではたと我に返り、エルを呼び止めようとした時には既に扉が閉まろうとしていた。
「ちょ、エル……!」
パタンと扉が閉まると、すぐに施錠の音が響いた。
それはやけに大きく聞こえ、アルトが名を呼ぶ声だけが虚しくこだました。
「ん……」
眩しさから逃れるために顔の前に手を翳し、目を眇める。
唯一明かりを知ることの出来る窓からは光が漏れ、ベッドの傍を照らしていた。
(あのまま眠ったんだっけ)
ぼんやりとした頭はそのままに、昨日よりも身体の節々が痛む。
「いっ……!」
寝返りを打とうとすると、それだけで腰が悲鳴を上げた。
肩もほとんど腕を上げていたため痛く、満足に動かせそうにない。
「痛ぇ……あいつ、加減を知らないのか……」
試しに思ったことを声に出してみたものの、酷く掠れていた。
喉だけでなく身体を酷使してしまった代償というのは分かるが、その事実がなんとも羞恥心を感じてしまう。
アルトは小さく首を振り、頭を切り替える。
隣りで眠っていたらしいエルの姿はどこにもなく、アルトは周囲を見回した。
「エル……?」
小さな囁きが、もの悲しく響く。
エルの寝ていた場所に触れると、ほんのりと温もりがあった。小屋を出てから、そう時間は経っていないのだろう事が伺える。
「よ、……っ、と」
アルトは痛む身体をなんとか起こし、よろけつつベッドから丸テーブルの方に向かった。
そこには一枚の紙があり、流麗な字でこう書かれている。
『朝食を持ってくるから待っていて。一緒に食べよう』
それは一見いつも通りの言葉のようで、ここから逃がさないという意味にも取れた。
アルトは小さく溜め息を吐く。
『今から貴方にはここで過ごしてもらう』
小屋に連れられてすぐにベッドに押し倒された時、エルの言った言葉を頭の中で反芻する。
その言葉はどうやら本気で言っているようだった。
「なんだこれ」
テーブルの近くにあったゴミ箱には棒状の金属片のようなものが捨ててあり、アルトは手が切れる可能性も厭わずそっと摘む。
よく知っているようで何かが足りないそれは、どこかの鍵に見えた。
アルトは身体の痛みもそのままに、ゆっくりと扉や窓へ順番に近付く。
当たり前だが、外に繋がる扉は外側から施錠されていた。
それ以外に二つある扉は風呂とトイレで、そちらには窓があるが何も異常はない。
最後にベッドの傍の窓へ向かった。
先程は気にも留めていなかったが、じっと目を凝らすと鍵を入れる部分が潰された形跡があり、アルトの頬がひくりと引き攣る。
(なにもここまでしなくてもよくないか……!?)
アルトが眠っている時にやったらしく、いっそ呆れてしまう。
「こんなことしなくても……逃げないのに、な」
呟くように言った言葉がやけに大きく響いた。
エルが警戒する気持ちも分からなくはないが、少しやり過ぎだと思う。
最初からずっと、脅しに近い言葉をエル含めミハルドから聞かされてきた。
その時こそ絶対に抗ってやるという気概があったが、今はそんなもの無いに等しい。
それもこれも、エルへの感情に気付いてしまったからだろう。
しかし、アルトがどんなに『逃げない』と言おうと、エルは聞いてくれない。
まるで特定の言葉は信じていないというようで、呆れてものも言えなかった。
アルトはしばらく窓枠に手を掛け、ぼんやりと外を見る。
窓から差し込む日は暖かく、小屋から見える花々が春の陽気を思わせた。
「──あれ、もう起きてたの」
不意に自分以外の声が聞こえ、アルトは声のした方を振り向いた。
エルがトレイを持っており、不思議そうにこちらを見つめていた。
「……ああ、窓のことなら心配しなくても大丈夫だよ。他にも開く所があるからね」
何か思い違いなことを言っているが、しかしエルは普段と変わらない笑みを浮かべて言う。
エルは小屋に足を踏み入れるとトレイをテーブルに置き、未だ窓の前に居るアルトに近付いた。
「食欲はある? 貴方の好きなものを作らせたんだけど、食べられそうかな」
間近で見たエルの顔は艶があり、毛穴一つない。
同性にしては長い睫毛が瞬く度頬に陰を作り、どこか妖艶な色香をまとっていた。
「あ、……うん」
アルトは小さく頷き、エルから目を逸らす。
こうも明るいと顔をしっかりと見れそうになかった。
「……良かった。何か苦手なものがあったら言ってね」
アルトの様子は気にも留めていないのか、にこにこと上機嫌に『おいで』と手を差し出してくる。
アルトは躊躇いつつも、そろりと己のそれを重ねた。
しかし手を握られる気配はおろか、エルが先だって歩き出す気配もない。
「えっ、と」
不審に思い視線を上向かせると、エルがほんのりと頬を染めていた。
「は、なんでお前が照れて……!?」
まさかの反応に、アルトは声が枯れているのも忘れ声を張り上げる。
「これはね、その、……不可抗力というか、ね」
アルトの手を控えめに握ると、エルは反対の手で口元を隠す。
手で隠しても分かるほどエルの顔は赤くなっており、釣られてアルトの身体も熱を持つ。
普通の男よりも肌が白いためか、エルの顔色はとても分かりやすい。
「なんでよりにもよって……なんだ、貴方は」
しかしエルの言葉はしっかりと聞き取れず、アルトは小さく首を傾げた。
(俺、変なことしたか……? いつも手を差し出してくるのはそっちなのに)
エルが予想し得ない行動を取ると、今のように照れてくれるのだろうか。
そうだとすればなんとも可愛らしく、もっと色々な表情を見てみたい気がした。
(もっと、見たい。……いや、俺だけが知る顔を見せてほしい)
むくむくとアルトの中に興味にも似た好奇心が湧き出てくる。
それは紛れもない好意から来るもので、アルトは己の感情の変化に心の中で苦笑した。
(最初は絶対に婚約なんかしない、って思ってたのにな)
いつの世でも人というのは分からないもので、しかし一度自覚してしまってはもう後には引けそうもない。
アルトは未だ固まってブツブツと何かを言っているエルの手を握り、そっと引いた。
「朝食持ってきてくれたんだろ、冷めないうちに食べよう」
な、とやや口元に力を込めて微笑む。
エルは一瞬目を丸くしたものの、すぐにアルトの手を握り返した。
「……そうだね」
にこりとエルはどこか寂しげに笑った。
しかし、アルトはその顔をしっかりと見ていなかった。
エルの持ってきてくれた朝食を食べ終わり、しばらく。
「お茶にしようか」
エルは部屋のどこかからティーポットとカップ、瓶に入った茶葉などを持って姿を現した。
「……はい?」
アルトが理解しようと頭を働かせている間に、にこにこと楽しそうにエルがティーセットの準備を始める。
(王太子自らお茶の準備をしたとか、俺が怒られるんでは!?)
エルを崇拝している節のあるミハルドなどに知られればどうなるか、アルトは背筋が震えるのを抑えられない。
「まだ少し寒いよね。ごめんね、すぐに出来るから」
どこか独り言に近い言葉を聞きながら、エルは終始見事な手さばきで紅茶を作り、ほどなくしてアルトの前にサーブしてくる。
花の香りがふんわりと鼻腔に届き、乱雑な頭の中がすっきりした心地になった。
「……いい匂い」
ふと口を突いて出た言葉に、エルは目を細める。
「貴方の口に合えばいいんだけど」
飲んでみて、と手で促される。
「あ、じゃあ」
アルトはそっとカップを持ち上げ、息を吹きかけてからゆっくりと口を付ける。
柑橘の爽やかな香りが口の中に広がり、その後をクセのある苦味が追ってきた。
普段飲んでいたものとは幾分か違ったが飲めないほどではなく、むしろアルトの好きな味に近かった。
「……おいしい」
ほっと溜め息とともに呟くと、忍び笑いが小さく聞こえる。
「よかった。でも、味はフィアナに比べたらまだまだだよ。あの子は上手だからね」
アルトの言葉に冗談を言うような口調で、エルが続く。
一口紅茶を飲むだけでさまになり、アルトは無意識に真正面に座るエルをじっと見つめていた。
やや伏せられた瞳はそれだけで美しく、上下する喉がなんとも言えない妖しさを思わせる。
男にしては細く長い指先は自分よりも大きく、その手が細やかな動きをするだけで溜め息が零れそうになった。
「……ん? どうかした?」
アルトの視線に気付いたのか、エルがカップを置きながら訊ねてくる。
「い、いや! なんでもない!」
アルトは慌てて頭を振り、残っていた紅茶を一息に飲み干そうとした。
「あっちぃ!?」
冷ますことなく口を付けたからか、カップを取り落としそうになる。
カップが落ちることはなかったが、その代わり服がびっしょりと濡れた。
服が張り付いて気持ちが悪く、しかし人肌より少し高い程度に冷めていたためそれほど熱くはなかった。
「──何をしてるんだ、貴方は」
呆れ声とともにエルが立ち上がり、こちらに回り込んできた。
「ほら、早く脱いで。火傷したら大変だ」
言いながらエルはボタンを外してくれ、脱がせてくれる。
幸いトラウザーズにはそれほど被害はなく、乾いたタオルで拭く程度で済んだ。
「ごめ──」
「口の中は? 痛くない?」
アルトが謝罪しようとするよりも早く、エルの指先が口腔に入ってくる。
「んぅ……っ!?」
アルトは驚きで目を見開き、至近距離にあるエルの顔を見つめた。
その表情は心配している者のそれで、水色の瞳がやや不安そうにを揺れていた。
「……赤くはない、な。駄目だろう、いきなり飲もうとしたら」
エルは幼い子供に言って聞かせるように、しかしその表情とは裏腹に確かな意思を持ってアルトの舌先を弄ぶ。
人差し指と中指で挟み込んだかと思えば、弾力を楽しむようにわざと音を立てて擦り立てる。
「ん、ふ……ぅ」
くちくちと淫猥な音が部屋に響き、アルトは無意識にエルの腕を摑んだ。
ただの触診だと思いたかったが、うっすらとエルの瞳に情欲の色が灯っていた。
それはアルトも同じなようで、身体の奥が甘く疼いて仕方がなかった。
無意識に脚を擦り合わせ、やってくる官能を少しでも逃がそうとする。
「──アルト」
「ん、ぅ」
とろりとした声音で呼ばれ、アルトは鼻にかかった声を出す。
「そろそろ公務に行かないとなんだけど、……俺が昨日言った事は覚えてる?」
そう言い終わると同時に、ちゅ、と小さな音を立てて舌から指先が引き抜かれた。
「へ……?」
口の端に唾液が伝うのもそのままに、アルトは焦点の合わない瞳でエルを見つめる。
ぼんやりとしているアルトの唇をそっと拭い、エルが小さく笑う。
一度アルトの頭を撫でると、足早にベッドへ向かう。
小さなベッドサイドに傍に置いていた自身の外套をアルトに羽織らせ、そっと目線を合わせた。
「シャツは後で届けさせるから。それまで着ていて」
にこりと微笑み、アルトの瞼に軽く口付ける。
「……続きは夜に、ね」
はっきりとしつつある思考の中、艶然とした顔には先程までの情欲の灯火はなく、普段通りだった。
「え、っ」
アルトはそこではたと我に返り、エルを呼び止めようとした時には既に扉が閉まろうとしていた。
「ちょ、エル……!」
パタンと扉が閉まると、すぐに施錠の音が響いた。
それはやけに大きく聞こえ、アルトが名を呼ぶ声だけが虚しくこだました。
93
お気に入りに追加
444
あなたにおすすめの小説

別れようと彼氏に言ったら泣いて懇願された挙げ句めっちゃ尽くされた
翡翠飾
BL
「い、いやだ、いや……。捨てないでっ、お願いぃ……。な、何でも!何でもするっ!金なら出すしっ、えっと、あ、ぱ、パシリになるから!」
そう言って涙を流しながら足元にすがり付くαである彼氏、霜月慧弥。ノリで告白されノリで了承したこの付き合いに、βである榊原伊織は頃合いかと別れを切り出したが、慧弥は何故か未練があるらしい。
チャライケメンα(尽くし体質)×物静かβ(尽くされ体質)の話。
魔界最強に転生した社畜は、イケメン王子に奪い合われることになりました
タタミ
BL
ブラック企業に務める社畜・佐藤流嘉。
クリスマスも残業確定の非リア人生は、トラックの激突により突然終了する。
死後目覚めると、目の前で見目麗しい天使が微笑んでいた。
「ここは天国ではなく魔界です」
天使に会えたと喜んだのもつかの間、そこは天国などではなく魔法が当たり前にある世界・魔界だと知らされる。そして流嘉は、魔界に君臨する最強の支配者『至上様』に転生していたのだった。
「至上様、私に接吻を」
「あっ。ああ、接吻か……って、接吻!?なんだそれ、まさかキスですか!?」
何が起こっているのかわからないうちに、流嘉の前に現れたのは美しい4人の王子。この4王子にキスをして、結婚相手を選ばなければならないと言われて──!?

買われた悪役令息は攻略対象に異常なくらい愛でられてます
瑳来
BL
元は純日本人の俺は不慮な事故にあい死んでしまった。そんな俺の第2の人生は死ぬ前に姉がやっていた乙女ゲームの悪役令息だった。悪役令息の役割を全うしていた俺はついに天罰がくらい捕らえられて人身売買のオークションに出品されていた。
そこで俺を落札したのは俺を破滅へと追い込んだ王家の第1王子でありゲームの攻略対象だった。
そんな落ちぶれた俺と俺を買った何考えてるかわかんない王子との生活がはじまった。

美少年に転生したらヤンデレ婚約者が出来ました
SEKISUI
BL
ブラック企業に勤めていたOLが寝てそのまま永眠したら美少年に転生していた
見た目は勝ち組
中身は社畜
斜めな思考の持ち主
なのでもう働くのは嫌なので怠惰に生きようと思う
そんな主人公はやばい公爵令息に目を付けられて翻弄される
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。

【完結】愛執 ~愛されたい子供を拾って溺愛したのは邪神でした~
綾雅(ヤンデレ攻略対象、電子書籍化)
BL
「なんだ、お前。鎖で繋がれてるのかよ! ひでぇな」
洞窟の神殿に鎖で繋がれた子供は、愛情も温もりも知らずに育った。
子供が欲しかったのは、自分を抱き締めてくれる腕――誰も与えてくれない温もりをくれたのは、人間ではなくて邪神。人間に害をなすとされた破壊神は、純粋な子供に絆され、子供に名をつけて溺愛し始める。
人のフリを長く続けたが愛情を理解できなかった破壊神と、初めての愛情を貪欲に欲しがる物知らぬ子供。愛を知らぬ者同士が徐々に惹かれ合う、ひたすら甘くて切ない恋物語。
「僕ね、セティのこと大好きだよ」
【注意事項】BL、R15、性的描写あり(※印)
【重複投稿】アルファポリス、カクヨム、小説家になろう、エブリスタ
【完結】2021/9/13
※2020/11/01 エブリスタ BLカテゴリー6位
※2021/09/09 エブリスタ、BLカテゴリー2位
転生したけど赤ちゃんの頃から運命に囲われてて鬱陶しい
翡翠飾
BL
普通に高校生として学校に通っていたはずだが、気が付いたら雨の中道端で動けなくなっていた。寒くて死にかけていたら、通りかかった馬車から降りてきた12歳くらいの美少年に拾われ、何やら大きい屋敷に連れていかれる。
それから温かいご飯食べさせてもらったり、お風呂に入れてもらったり、柔らかいベッドで寝かせてもらったり、撫でてもらったり、ボールとかもらったり、それを投げてもらったり───ん?
「え、俺何か、犬になってない?」
豹獣人の番大好き大公子(12)×ポメラニアン獣人転生者(1)の話。
※どんどん年齢は上がっていきます。
※設定が多く感じたのでオメガバースを無くしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる