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第一部 三章

ソルライト商会 6 ★

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 アルトがこちらに顔を向けた気配に気付いてか、エルはゆっくりと顔を上げる。

「貴方、も」

 震える声はそのままに、エルが微笑む。

「……俺の傍から、いなくなるんだな」

 どこか無理をしているような、今にも泣き出しそうな、苦しげな笑みだった。

 何よりエルの美しい瞳が潤んでおり、自分よりも薄い色素の水色から大粒の雫が伝い落ちそうだ。

「……なんで、泣くんだよ」

 実際は泣いてなどいないのに、なぜだかそう口をついて出た。

 アルトは少し背伸びをし、エルの頬に触れる。

 突然の事にエルは目を瞠ったもののされるがままで、むしろ自分から頬を押し付けてきた。

「……怖いんだ」

 アルトの手に自分のそれを重ね、エルは小さく呟く。

「貴方が、大事だから」

 ぎゅっとアルトの手を取り、エルはそっと口付ける。

 形のいい唇は火傷しそうなほど熱かった。

「もう……あんな思いはしたくない。──だから、今度は俺が守ってやらないと」

 それは独り言に近く、いつになく弱々しいエルの姿を見るのは初めてで、アルトは戸惑う。

 口を開く度に手の平に伝わる吐息が熱い。

 それ以上に痛々しい声音に、アルトの胸はぎゅうっと締め付けられた。

「貴方は俺を助けてくれたから。今度は、俺が貴方に返す番だ」

「助け、た……?」

 ふと聞こえた言葉の意味が理解できず、しかし問おうとするよりも前にエルの腕に閉じ込められていた。

 やや速い鼓動の音は、エルのものなのか自分のものなのか判別ができない。

 ただ、アルトにはもう抵抗する気力は無かった──否、できなかったというのが正しい。

 普段とは違うエルの姿を見てしまっては、少し抵抗する事にすら罪悪感があったのだ。

(なんだ……? 一体なんの話をしてるんだ)

 エルが何がしかの事をした時に助けた人物が『アルト』というのは分かるが、なぜ今なのだろう。

 何かよからぬ事を今から言われ、される気がしてアルトはエルの腕の中でぐるぐると自問自答していた。

(でも、エルの言葉は本気だ。……それだけは分かる)

 エルがこうだと言えば、相手に一切の拒絶すら許さない人間だ。

 アルトは今のところされた事はないが、少しでも抵抗の色を見せようものなら、力でじ伏せる強引さも持ち合わせていることだろう。

 それに、なんの後ろ盾もない自分と数多の味方が居るであろう王太子とでは、言葉の力に雲泥の差があった。

「──と」

 とくとくと刻まれる心臓の音を聞いて、どれほど経ってだろうか。

 不意にエルが何かを呟き、そろりと顔を上げる。

 少し顔を傾ければ唇が触れ合いそうな距離の中、エルがゆっくりと口角を上げた。

「アルト」

 あくまで優しい手つきで頬に大きな手の平が触れ、アルトはびくりと肩を竦める。

 そんな反応に軽く笑いながら、エルは腕の力を緩めることなく囁いた。

「今から貴方を、もっと……もっと離れられなくしてあげる」

 どくん、と心臓が大きく高鳴る。

 無意識に喉が鳴り、それが合図だったかのようにエルの顔がゆっくりと近付いた。

 唇に温かな熱が触れ、すぐに離れる。

 かと思えばまた塞がれ、小さな音を立てて離れていく。

 触れては離れてを繰り返すだけの口付けを何度も落とされ、アルトの官能が知らず高まった。

 呼吸をする度、花の匂いが鼻腔に広がる。

 だからかエルの唇は甘く感じ、そして自分と同じくらい熱かった。

「ん、ぅ……」

 何度も角度を変えて口付けられ、息継ぎのためにアルトは薄く唇を開いた。

 それを待っていたかのように、エルの舌がゆっくりと侵入してくる。

 歯列を割って入り込んだやや肉厚なそれは、早急にアルトのそれに絡められた。

 くちゅくちゅと淫らな音が響き、ぞくりと背筋が甘く疼く。

「っ……ふぁ」

 口蓋を擽られ、頬の内側まで余すことなく舐め尽くされては堪らない。

 甘い愉悦が背筋を駆け巡り、知らず脚が震える。

 何かに摑まっていないとこのまま力が抜けてしまいそうで、無意識にエルの腕をぎゅうと摑んだ。

 しかしすぐに自身を摑む手を外させ、エルはアルトの手を取って指を絡めさせた。

 隙間なく抱き締められ口付けられながら、霞みつつある思考の中アルトは思う。

(エルにこうされるの……好きだ)

 これから酷い事をするようで、壊れものを扱うように大事にされている。

 昨夜も無理矢理だったとはいえ、アルトの反応を見ながら少し強引に、しかしゆっくりと進めてくれた。

 起きてからもこちらの体調を気遣ってくれ、離れ難いというような素振りをしていた。

(でも)

 それはすべて『アルト』に向けているもので、本来の自分に向けられているものではない。

 しかしそれでもいいと思っている自分に驚き、アルトは──『朔真』はそこで自覚した。

(いつの間にか、エルのことが好きになってたんだ)

 昨日身体を重ねたばかりでしかないが、それ以前もエルの思い遣りに触れていた。

 それまで口調こそ堅かったものの、その眼差しには優しさがあった。

 王宮から逃げるという選択肢以外は、可能な限り『朔真』の願いを叶えてくれていた。

 自分が認めたくなかっただけで、認めてしまえばそこから戻れなくなると思っていた。

 しかし『朔真』は自分でも気付かないうちに、とうにエルの手中に堕ちていたのだ。

 そして、少しでも自覚してしまえば愛おしいという感情が湧き出てくる。

 エルの感情が『アルト』にあったとしても、今はそれで良かった。

 そろりとエルの背に手を回し、ゆっくりと撫で摩った。

 幼子を落ち着かせるためにする優しい手つきは、どうやらエルを煽るには十分過ぎたらしい。

 エルは小さな音を立てて口付けを解くと、きつく絡めていた手も解く。

「……や、っ」

 温もりが一つ一つ離れ、アルトは知らず小さな悲鳴を上げる。

 あれほど離れたいと思っていた温もりが、今はどうして離れていくのかという疑問に変わっていた。

「……っ!」

 すぐさまエルの肩に腕を回され、唐突にやってきた浮遊感にアルトは反射的に瞼を閉じた。

「──ちゃんと摑まってて」

 蜂蜜を煮詰めたような甘さを含んだ声に、ぞくりと身体が震える。

 少し顔を傾ければ口付けられそうな距離が、なぜか酷く扇情的に感じた。

 これから何をされ何を言われるのか、そんな淡い期待で身体の中心に向けて熱が高まるのが分かる。

「落ちるから大人しくしててね」

 アルトの行動を先読みしてか、エルが微笑んで頬に軽く口付けてくる。

「……ん」

 触れられた頬がじんわりと熱を持ち、しかし反論するすべはアルトにはなかった。

 その言葉通りアルトはエルの首にぎゅうと抱き着き、密着する。

「アルトはいい子だね」

 その仕草にエルはくすりと小さく笑い、ゆっくりと足を踏み出した。

 首に腕を回して頭を預けているためエルの表情は見えないが、いやに楽しげな声音は先程までとはまるきり違う。

 普段通りとも言える声に、アルトはわずかな不安を覚える。

(何を、されるんだ)

 今の柔らかい表情から予想しても、きっとそれを上回ることは確かだろう。

(俺……多分、今日も)

 とくりと心臓が甘く高鳴る。

 それは紛れもない期待で、アルトはエルの首に回していた手をそっと握り締めた。

 男にしては細く、けれどしっかりとした体格もあってか少しも落とす素振りはない。

 庭を通り、そのまま正門がある方を通るのかと思ったが、エルは裏手に向けて歩を進めていた。

「エル……?」

 どこに行くんだ、と視線だけで問うと至近距離で微笑まれる。

 どうやら答える気はないらしい。

 やがて、数分もしないうちに小屋らしき建物が見えた。

 王宮の荘厳な景観には遠く及ばないながらも、庶民が住んでも差し支えなさそうな雰囲気だ。

 エルはアルトを横抱きにしたまま器用に扉を開ける。

 小屋の中は部屋だった。

 小さな丸テーブルに椅子が二脚、大人が寝ても大丈夫そうなベッドが窓際にあり、他に扉は二つあるが中は見えない。

 エルの寝室に似た、しかしどこか幼子の使っているような内装だ。

 エルは中に入るとベッドの場所まで行き、アルトを降ろそうとする。

「……っ!」

 アルトは反射的に目を閉じた。

 やってきた衝撃は真綿のように柔らかく、優しく背中を包み込む。

 しかし丁重に降ろされたと思ったのも束の間、エルがアルトの腰に乗り上げてくる。

 昨夜と同じ体勢に驚きつつも、そろりと瞼を押し上げた。

 視界にこちらを見下ろすエルが映り、そっと両手を取られる。

 温かな唇が手の甲に触れたかと思えば、頭上に縫い止められた。

「え……?」

 アルトは己の状況を理解できず、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。

「な、何をしようと……?」

 やや震えてしまった声音に、エルは美しい微笑みを浮かべて答える。

「今から貴方にはここで過ごしてもらう」

「は」

「寝る時は勿論、食事も……風呂やトイレもここにあるから、不自由はないはずだ」

 口を挟む間もなく言われた言葉に、アルトは困惑するしかなかった。

 同時になぜこんな事をするのか、エルの考えに理解が追い付かない。

「ちょ、ちょっと待って──」

「そうそう、人と会うのは許さないから。ここに貴方が居るのは、今のところ俺とだけが知ってる。でも俺がいない間、一人だと逃げられるか。じゃあ口の堅い人間を何人か揃えないと……まずミハルドと──」

 ぶつぶつとエルが俯きがちにごく小さな声で言い、何かを一人で取り決めている。

 さらりとした黒髪がわずかに揺れ動くのを見ながら、アルトは懸命に頭を働かせる。

(ここはエルの隠れ場所みたいなものなんだ。でも埃っぽくないから誰かが掃除してて。いや、最近まで使ってた……?)

 周囲を忙しなく見回してもあまり分からず、漠然とした予想でしかないが、アルトはそう結論付けた。

 ベッドのシーツからは石鹸と太陽の匂いがしており、数日前に洗濯したのが分かる。

 ただ、それ以外に使っていた形跡がある訳ではないため更に疑問が生じるばかりだ。

 エルの言い分は監禁に近く、自由など与えないと言ったふうなのだ。

 窓はあるが、きっとアルトが気付かないうちに使い物にならなくなるだろう。

 唯一の外に繋がる扉は外側から鍵が掛けられる可能性が高く、既に詰んだと言っても等しい。

「──ルシエラには会わせない」

 不意に聞こえた言葉は、しっかりとアルトの耳に入った。

「エル……」

 小さく自分を呼ぶ声に、エルはやおら顔を上げる。
 その表情は冷たく、なんの感情も読み取れない。

 アルトは背筋が寒くなるのを奥歯を噛み締めて耐え、意を決して口を開いた。

「なんでこんな事をするんだ……? 俺はもう」

「さっき俺の前から逃げようとしたでしょ」

 アルトの言葉を遮り、なんの感情も読み取れない声音で言う。

 水色の瞳はどんよりとくらく、まるで元の場所で最後に見た自分が目の前にいるようだった。

 違う、という言葉が喉まで出かかって止めた。

 きっと今のエルには、どんな弁明も言い訳にしか聞こえないだろう。

(逃げないって言っても、傍にいるって言っても……もう信じてくれないんだろうな)

 己の発した言葉と行動を今更後悔しても遅かった。
 同時に、エルをここまでさせたソルライト商会の人間に同情する。

(何があって育ての親──ベアトリスさんが殺されたか、エルは探そうともしない。いや、もう全部やったんだろうけど)

 それでも収穫はなく、ベアトリスの死因も分からずただ『ソルライト商会に所属する誰か』に私怨を抱いている。

 今の今まで、何もしてこなかったというのが不思議だった。

 その気になれば一国の王太子の特権で商会を洗いざらい調べられるものの、エルはそれをしなかったのだ。

(きっと俺の言葉が火を付けた。エルがこうなった理由も、全部俺の……『アルト』のせいなんだ)

 そう思い至った途端、次第にこの身体が恐ろしくなった。

 自分が抵抗すればするほどエルの商会に対する思いは大きくなり、取り返しのつかない事になるのは明白だろう。

 仮に目の前に仇を突き出されれば、エルはどうするだろうか。

(いや、駄目だ。何をするか分からないのに、関係ない人間まで手を出すかもしれない)

 私怨というのがどれほどのものかアルトには分からない。

 しかし、今は目の前のエルのアルトに対する誤解をしっかりと解かなければ、何も始まらない気がした。

「……何を考えてるの」

 アルトが何も言わないのに痺れを切らしたのか、エルが手の平に力を込める。

っ……!」

 頭上で拘束されている手首が軋み、アルトは顔をしかめた。

「俺以外のこと? ルシエラ……だったっけ。あいつがどうしてるのか気になるの?」

 低くやや早口に紡がれた声は怒っているようにも感じ取れ、アルトは力なく首を振った。

 誰のことを考えているかなど、目の前の男以外有り得ない──そう言ってしまいたいのに、エルのぎらついた眼光に喉がカラカラに渇いてしまっていた。

「……そう」

 アルトの行動をどう捉えたのか、エルは手を一纏めにしたまま器用に外套を脱ぎ、ベッドの下に放り投げた。

 どさりと見た目以上に重い音を立てて落ちたそれは、きっと一級品の生地や糸が使われていることだろう。

 しかしエルは何ら気にも留めていないようで、アルトの手首をきつく摑んだ。

「いっ、エル……痛い、離し」

 尚も痛みを訴えようとすると、ぐいとおとがいを摑まれ唇を塞がれた。

「……! っ、や……!」

 半ばぶつかるように口付けられ、アルトは無意識に自由な脚をばたつかせる。

 エルは昨夜よりも酷い事をしようとしている──そう本能的に悟る。

 気休め程度でしかないが、何もしないより遥かにマシだった。

 しかしアルトの反抗など可愛らしいものらしく、エルは一度唇を離すと小さく笑う。

「痛いって言って、もうこんなにしてるのに?」

 顎を摑んでいた手がアルトの下腹部を通り、熱を持ったそこに触れる。

「……っ、ちが」

 自分でも気付かないふりをしていたのに、いざ指摘されると羞恥心に駆られる。

 花の咲き誇る庭で口付けられたその時からずっと、アルトの身体には熱が集まっていたのだ。

「貴方は素直になった方がいい」

 エルはそう耳元で囁くと、そろりと舌で耳の縁を舐める。

 耳が濡れた音を拾ったかと思えば、下腹部をゆっくりと撫で上げられる。

 二つの快楽が一緒になってやってきて、アルトはおかしくなりそうだった。
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