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第一部 三章
ソルライト商会 1
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翌日、アルトの姿は馬車の中にあった。
(……一応部屋から出られた。出られた、けど)
真正面に座る人物をそっと見つめ、すぐに逸らす。
「どうなさったのですか、アルト様?」
極わずかな視線に気付いた男──ミハルドに微笑み掛けられ、アルトは曖昧に返した。
「あ、えっと……いつもそういう格好をするのか?」
普段の騎士の軽装とは打って変わって、ミハルドは簡素なシャツとズボンに身を包んでいる。
髪は珍しく三つ編みにして背に垂らしており、傍目から見れば女性にも見えた。
「ええ。と言っても、あまり休みはありませんが」
ミハルドは苦笑して三つ編みの毛先を弄る。
「そう、か……」
その表情がどこか恥ずかしそうに見えて、アルトは窓の外に視線を移した。
今日、アルトは王宮からムーンバレイ公爵邸に向かっていた。
王宮の紋章は隠されており、完全に『お忍び』という形の馬車に乗っているのだが。
(辻馬車でも良かった、と思うんだけど……)
自分の邸に帰るだけなのに、こうも隠すようにされては逆に恐縮してしまう。
(そんなに俺が……『アルト』がいなくなるのが怖いのか)
朝日の眩しさで目覚めたアルトは、じっと寝顔を見つめていたらしいエルに開口一番こう言われた。
『邸に帰ってもいいよ』
寝惚けているのかと言えば、エルは苦笑して続けた。
『いや、起きてるから。ただ、今から俺の言うことを絶対に守ること』
『言うこと……?』
アルトの疑問ににこりと微笑み、エルはゆっくりと唇を開いた。
その後、アルトはエルの手を借りてベッドから起き上がると、エル自らの手で身支度を手伝われた。
朝食も寝室で一緒に摂り、公務があるぎりぎりまでエルが離れてくれず、未だに温もりが背中に残っている。
(ミハルドさんを護衛に付ける、はまだいいとしても……今日中に王宮に戻れ、なんて無理に決まってる)
エルから提示された『約束』は三つあり、最後の一つは『何があっても惑わされないように』という、何がなんなのか分からないことだった。
(逃げない、ってしっかり言えば良かったのかな)
笑っているのに瞳だけは少しも笑っていない、そんな顔をしたエルは空恐ろしくもあったが、すべてはアルトのためだと言われれば愛おしさもあった。
昨夜の激しくもどこか優しいひとときは、アルトを知らない場所に誘った。
何を口走ったのかは覚えていないが、エルの唇や手は想像以上に優しいと知ってから、怖いとは思わなくなっていた。
(って、俺は何を考えてるんだ……! 今から邸に帰るんだぞ!)
無意識に昨夜の情事を思い出しそうになり、アルトはぎしりと座る位置を変えた。
「……どうされた?」
しかしミハルドはエル以上に目敏いようで、アルトは図らずも肩を竦める。
「あ、えっと……なんでもない。うん、なんでもないから!」
はは、と曖昧に微笑んで言うと、ミハルドはほんの少し瞳を開いた。
「……本当ですか?」
赤い虹彩が見え、頬に冷たい汗が伝う。
「先程からずっと、座ったかと思えば腰を浮かせている。いささか言葉は悪いですが……落ち着きが無い、とでも言いましょうか……」
じっと見つめられたまま言われ、アルトは身体を小さくさせる。
ミハルドなりに心配してくれているらしく、やや眉尻を下げて続けた。
「私に言えぬならば結構ですが、隠そうものなら怒られてしまいますよ」
それが誰なのか検討がつき、アルトは口を閉じては開いてを繰り返し、視線をさ迷わせつつ唇を動かした。
「き、昨日、その……」
そこから先の言葉はどうしても言えず、もごもごと口の中で呟くしかできない。
身体が熱を出した時のように熱くなり、ミハルドの顔すら満足に見れず、そのままアルトは俯いた。
「──ああ、これは不躾なことを聞いてしまったようだ」
ぽそりとミハルドが低く呟き、そっとアルトの手に己のそれを重ねてきた。
「しかし、何も今日でなくても良かったはずです。別日では駄目だったのでしょうか」
「……だよな」
俺もそう思うよ、とアルトは囁くように言う。
「でも、今日じゃないと間に合わないかもしれないんだ。それに、きっとこれは俺にしかできない」
「はぁ……?」
ミハルドは疑問に満ちた顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
つかの間、馬車が揺れる音を聞きながら窓の外を見ると、薄汚れた服に身を包んだ子供が路地裏に入っていくのが見えた。
(多分、ああいう子達のために『アルト』は頑張ってきたんだ)
それが自分に課された使命とでもいうように、気心の知れた男と奔走している──少なくとも、アルトはルシエラから渡された手紙をそう捉えた。
一度ルシエラに会い、これからの事を直接話し合わなければならない。
そして時間が許すのならば、ルシエラの言う『例の場所』に出向きたかった。
(遅くなったら遅くなったでそれでもいい。まずは俺に出来る事をしないと)
王宮に戻ってから何が待ち受けているか、エルの口振りから理解している。
エルからの小言や『お仕置き』を承知でも、今は『アルト』が遺したであろう目の前の事に向き合う──それが今出来る精一杯の事なのだ。
馬車は王宮からずっと離れ、街の中を通ってとある邸の前で停まる。
草木の生い茂る景観はアルトの記憶の中よりも緑の色が多くなっていたが、紛れもないムーンバレイ邸だった。
アルトはここまで連れてきてくれた御者に礼を言い、馬車から降りる。
痛む腰を軽く伸ばしつつ、短い木々の間を縫って扉の前に立つ。
後ろからはミハルドが一定の距離を保って着いて来ていた。
(何も変わってませんように……)
少しの不安を覚え、アルトは己を落ち着かせるために一度深呼吸した後、ゆっくりと扉を開けた。
「ただい──」
「あ、兄さん!」
「うぐっ!?」
誰かがいきなり飛び付いてきて、びきりと腰が有り得ない音を立てた。
アルトは声にならない悲鳴を上げ、バランスを崩しそうになったが、すんでのところをミハルドが支えてくれる。
「……大丈夫ですか」
「あ、ありがとう、ミハルドさん」
小声でミハルドに言われ、アルトも小さく礼を述べた。
アルトは腰の痛みを堪えつつ、こちらを痛いほど抱き締めてくる人物の背中を叩く。
「……ウィル、力が強い。あと、いきなり抱き着くなって言ってるだろ」
努めて冷静に言うと、ふわふわとした金髪の青年と目が合う。
「す、すみません!」
かと思えばすぐさまアルトから離れ、その場で手本のような土下座をする。
「兄さんにお会い出来て嬉しくて……つい、興奮してしまいました」
文字通り興奮を抑え切れていない声音に、アルトは目眩がしそうになった。
「頭は下げなくていいから早く立て……! 今日は客も居るんだ、みっともないから止めなさい!」
ミハルドが背後で支えてくれているからなんとか保っているが、後ろに誰もいなければ気絶してしまいそうな勢いだ。
「はい、兄さん!」
そう言うと立ち上がり、こちらに弾けんばかりの笑みを向けてくる。
「本当に返事だけはいいよな……」
はは、とアルトは苦笑した。
『アルト』の弟で名をウィリアムという青年とは、王宮から帰宅して少しした後に出会った。
最初こそ『こんなに可愛い弟がいたのか』と思ったが、中身は兄が大好きでその感情を制御できない、という暴れ馬にも近い人間だったのだ。
『兄さん、遊びに来ました! 何か手伝うことはありませんか!』
アルトがリネスト国や公爵邸について調べ物をしていると、満面の笑みで執務室に入ってきたのは鮮明に記憶に刻み込まれている。
(一応会うのは二回目だけど、なんていうかまぁ……個性的でいらっしゃる)
ウィルは普段、ムーンバレイ邸から少し離れた邸宅で暮らしている。
陰ながらアルトの仕事を支えてくれているようだが、性格が明るいためかやや苦手な部類に入っていた。
下手をすればルシエラよりも厄介だな、とアルトは心で呟きつつ周囲を見回した。
さすがに邸の中は清掃が行き渡っており、久しぶりに踏んだ白い床が眩しく感じた。
「俺がいきなりいなくなって、変わった事とか足りないものとか……何もなかったか?」
アルトは改めてウィルに向き直り、問うた。
王宮を出る前、エルから邸に宛てて手紙を送ったらしい。
『ムーンバレイ公爵はしばらくこちらに滞在させる。主のいなくなった邸が立ち行かなくなる旨、公爵の弟に伝えて頂きたい』
一国の王太子からというのは勿論、主の婚約者というのもあり、そう時を空ける事なくウィルがムーンバレイ邸を守るようになったという。
『だから本当はもう少し居て欲しいんだけど……貴方に嫌われたくないし』
エルはそこで言葉を切ると、にこりと微笑んでこうも言っていた。
『でも今日だけだよ。遅くなったら俺が邸まで迎えに行くからね?』
その時アルトは頷くしかできなかったが、エルならやりかねない──そうした行動力があると知っている。
(早いとこ予定を済ませないと、あいつが来る)
仮にも王太子自らが婚約者の邸に来るなど、大事になるのは明白なのだ。
「はい、何事もなく。兄さんこそお変わりはありませんか? 風邪など引かれていたら仰ってくださいね、オレが街に行って栄養のつくものを沢山買ってきますので」
ウィルは捲し立てるように言い、ぎゅっとアルトの手を両手で握ってくる。
「風邪は引いてないし大丈夫だ……と思う」
ウィルに気付かれないように空いた方の手で腰を摩り、アルトは思う。
(帰ったら覚えてろよ……!)
尻から始まり、背中や身体の節々が痛むのを堪え、邸まで来たのだ。
なるべく今日中にすべてを終わらせなければ、今度はいつ帰って来られるのか分からない。
「だ、旦那様……!?」
すると、玄関にほど近い応接室からアルバートが姿を現した。
手には箒を持っており、どうやら掃除をしていたらしい。
アルトの姿を見つけると大慌てでこちらまでやってきて、ウィルに負けず劣らず感極まった声音で言った。
「よくぞ、よくぞご無事で……! 爺めは貴方様が突然いなくなられ、今日この日まで一睡もできませんでした……!」
右手はウィルに握られたまま、もう片方はどこにそんな力があったのか、アルバートに文字通り痛いほど握り締められた。
「いて、痛い! 痛いってアルバート!」
声を荒らげてアルバートの名を呼ぶと、ぱっと離される。
「ああ、申し訳ございません……! 旦那様はお疲れだというのに」
「びっくりした……けど、これくらい大丈夫だ。その、心配掛けてごめんな」
アルトは小さく頭を下げる。
どうやらアルバートには、あまり詳細を知らせていなかったらしい。
箒を応接室の扉の前に投げ捨てるようにして来た慌てようを見れば、大体の見当がついた。
「……お疲れでしょう。温かい飲み物と軽食を持ってきます故、しばし応接室でお待ちください」
しかしアルバートはにこりと微笑むだけで、それ以上はなにも言わない。
(あれ……?)
アルトは少しの猜疑心を覚えつつ、箒を回収してから厨房の方向へ早歩きしていくアルバートに手を伸ばす。
「兄さん、行きましょう」
背後から声を掛けようとすると、ぐいとウィルに手を引かれた。
「お前は仕事があるんじゃ……?」
大丈夫なのか、という意味で問うとウィルは少し胸を張って言った。
「午後の視察以外はすべて終わらせています。なので、兄さんとお話したいんですが……駄目ですか?」
兄さんに聞いて欲しい事が沢山あるんです、と弾んだ声音で続ける。
「……そんな目で俺を見るな」
元の世界では一人っ子だったためか、アルトは年下に弱い。
まだどこか幼さの残るウィルの顔立ちは、アルトの中にある庇護欲を刺激した。
柔らかな紫色の瞳は自分とは違うものだが、今ばかりは少し潤んでいる。
このままでは泣かれてしまうのも時間の問題だった。
「ね、兄さん」
「う……」
くいくいと袖を引かれ、アルトの頭の中にある天秤が『ルシエラと話す』よりも『ウィルと話す』方向に傾きかける。
「──アルト様」
不意に名前を呼ばれ、アルトだけでなくウィルも声のした方を振り向いた。
「弟君とのお話中に水を差すようで申し訳ないが、こちらに来た理由があるのでは……?」
今の今まで背後で静観していたミハルドが、やんわりと助け舟を出してくれた。
(ミハルドさん……!)
そこでアルトは正気に戻り、ウィルの手を握り返す。
「そう、そうなんだ。ウィル」
「……は、はい?」
紫色の瞳は疑問を浮かべており、しかしアルトだけを瞳に映している。
申し訳なさも感じつつ、小さく息を整える。
「すぐにルシエラを呼んでくれ」
あいつに大事な話があるんだ、とアルトははっきりと言葉にした。
(……一応部屋から出られた。出られた、けど)
真正面に座る人物をそっと見つめ、すぐに逸らす。
「どうなさったのですか、アルト様?」
極わずかな視線に気付いた男──ミハルドに微笑み掛けられ、アルトは曖昧に返した。
「あ、えっと……いつもそういう格好をするのか?」
普段の騎士の軽装とは打って変わって、ミハルドは簡素なシャツとズボンに身を包んでいる。
髪は珍しく三つ編みにして背に垂らしており、傍目から見れば女性にも見えた。
「ええ。と言っても、あまり休みはありませんが」
ミハルドは苦笑して三つ編みの毛先を弄る。
「そう、か……」
その表情がどこか恥ずかしそうに見えて、アルトは窓の外に視線を移した。
今日、アルトは王宮からムーンバレイ公爵邸に向かっていた。
王宮の紋章は隠されており、完全に『お忍び』という形の馬車に乗っているのだが。
(辻馬車でも良かった、と思うんだけど……)
自分の邸に帰るだけなのに、こうも隠すようにされては逆に恐縮してしまう。
(そんなに俺が……『アルト』がいなくなるのが怖いのか)
朝日の眩しさで目覚めたアルトは、じっと寝顔を見つめていたらしいエルに開口一番こう言われた。
『邸に帰ってもいいよ』
寝惚けているのかと言えば、エルは苦笑して続けた。
『いや、起きてるから。ただ、今から俺の言うことを絶対に守ること』
『言うこと……?』
アルトの疑問ににこりと微笑み、エルはゆっくりと唇を開いた。
その後、アルトはエルの手を借りてベッドから起き上がると、エル自らの手で身支度を手伝われた。
朝食も寝室で一緒に摂り、公務があるぎりぎりまでエルが離れてくれず、未だに温もりが背中に残っている。
(ミハルドさんを護衛に付ける、はまだいいとしても……今日中に王宮に戻れ、なんて無理に決まってる)
エルから提示された『約束』は三つあり、最後の一つは『何があっても惑わされないように』という、何がなんなのか分からないことだった。
(逃げない、ってしっかり言えば良かったのかな)
笑っているのに瞳だけは少しも笑っていない、そんな顔をしたエルは空恐ろしくもあったが、すべてはアルトのためだと言われれば愛おしさもあった。
昨夜の激しくもどこか優しいひとときは、アルトを知らない場所に誘った。
何を口走ったのかは覚えていないが、エルの唇や手は想像以上に優しいと知ってから、怖いとは思わなくなっていた。
(って、俺は何を考えてるんだ……! 今から邸に帰るんだぞ!)
無意識に昨夜の情事を思い出しそうになり、アルトはぎしりと座る位置を変えた。
「……どうされた?」
しかしミハルドはエル以上に目敏いようで、アルトは図らずも肩を竦める。
「あ、えっと……なんでもない。うん、なんでもないから!」
はは、と曖昧に微笑んで言うと、ミハルドはほんの少し瞳を開いた。
「……本当ですか?」
赤い虹彩が見え、頬に冷たい汗が伝う。
「先程からずっと、座ったかと思えば腰を浮かせている。いささか言葉は悪いですが……落ち着きが無い、とでも言いましょうか……」
じっと見つめられたまま言われ、アルトは身体を小さくさせる。
ミハルドなりに心配してくれているらしく、やや眉尻を下げて続けた。
「私に言えぬならば結構ですが、隠そうものなら怒られてしまいますよ」
それが誰なのか検討がつき、アルトは口を閉じては開いてを繰り返し、視線をさ迷わせつつ唇を動かした。
「き、昨日、その……」
そこから先の言葉はどうしても言えず、もごもごと口の中で呟くしかできない。
身体が熱を出した時のように熱くなり、ミハルドの顔すら満足に見れず、そのままアルトは俯いた。
「──ああ、これは不躾なことを聞いてしまったようだ」
ぽそりとミハルドが低く呟き、そっとアルトの手に己のそれを重ねてきた。
「しかし、何も今日でなくても良かったはずです。別日では駄目だったのでしょうか」
「……だよな」
俺もそう思うよ、とアルトは囁くように言う。
「でも、今日じゃないと間に合わないかもしれないんだ。それに、きっとこれは俺にしかできない」
「はぁ……?」
ミハルドは疑問に満ちた顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
つかの間、馬車が揺れる音を聞きながら窓の外を見ると、薄汚れた服に身を包んだ子供が路地裏に入っていくのが見えた。
(多分、ああいう子達のために『アルト』は頑張ってきたんだ)
それが自分に課された使命とでもいうように、気心の知れた男と奔走している──少なくとも、アルトはルシエラから渡された手紙をそう捉えた。
一度ルシエラに会い、これからの事を直接話し合わなければならない。
そして時間が許すのならば、ルシエラの言う『例の場所』に出向きたかった。
(遅くなったら遅くなったでそれでもいい。まずは俺に出来る事をしないと)
王宮に戻ってから何が待ち受けているか、エルの口振りから理解している。
エルからの小言や『お仕置き』を承知でも、今は『アルト』が遺したであろう目の前の事に向き合う──それが今出来る精一杯の事なのだ。
馬車は王宮からずっと離れ、街の中を通ってとある邸の前で停まる。
草木の生い茂る景観はアルトの記憶の中よりも緑の色が多くなっていたが、紛れもないムーンバレイ邸だった。
アルトはここまで連れてきてくれた御者に礼を言い、馬車から降りる。
痛む腰を軽く伸ばしつつ、短い木々の間を縫って扉の前に立つ。
後ろからはミハルドが一定の距離を保って着いて来ていた。
(何も変わってませんように……)
少しの不安を覚え、アルトは己を落ち着かせるために一度深呼吸した後、ゆっくりと扉を開けた。
「ただい──」
「あ、兄さん!」
「うぐっ!?」
誰かがいきなり飛び付いてきて、びきりと腰が有り得ない音を立てた。
アルトは声にならない悲鳴を上げ、バランスを崩しそうになったが、すんでのところをミハルドが支えてくれる。
「……大丈夫ですか」
「あ、ありがとう、ミハルドさん」
小声でミハルドに言われ、アルトも小さく礼を述べた。
アルトは腰の痛みを堪えつつ、こちらを痛いほど抱き締めてくる人物の背中を叩く。
「……ウィル、力が強い。あと、いきなり抱き着くなって言ってるだろ」
努めて冷静に言うと、ふわふわとした金髪の青年と目が合う。
「す、すみません!」
かと思えばすぐさまアルトから離れ、その場で手本のような土下座をする。
「兄さんにお会い出来て嬉しくて……つい、興奮してしまいました」
文字通り興奮を抑え切れていない声音に、アルトは目眩がしそうになった。
「頭は下げなくていいから早く立て……! 今日は客も居るんだ、みっともないから止めなさい!」
ミハルドが背後で支えてくれているからなんとか保っているが、後ろに誰もいなければ気絶してしまいそうな勢いだ。
「はい、兄さん!」
そう言うと立ち上がり、こちらに弾けんばかりの笑みを向けてくる。
「本当に返事だけはいいよな……」
はは、とアルトは苦笑した。
『アルト』の弟で名をウィリアムという青年とは、王宮から帰宅して少しした後に出会った。
最初こそ『こんなに可愛い弟がいたのか』と思ったが、中身は兄が大好きでその感情を制御できない、という暴れ馬にも近い人間だったのだ。
『兄さん、遊びに来ました! 何か手伝うことはありませんか!』
アルトがリネスト国や公爵邸について調べ物をしていると、満面の笑みで執務室に入ってきたのは鮮明に記憶に刻み込まれている。
(一応会うのは二回目だけど、なんていうかまぁ……個性的でいらっしゃる)
ウィルは普段、ムーンバレイ邸から少し離れた邸宅で暮らしている。
陰ながらアルトの仕事を支えてくれているようだが、性格が明るいためかやや苦手な部類に入っていた。
下手をすればルシエラよりも厄介だな、とアルトは心で呟きつつ周囲を見回した。
さすがに邸の中は清掃が行き渡っており、久しぶりに踏んだ白い床が眩しく感じた。
「俺がいきなりいなくなって、変わった事とか足りないものとか……何もなかったか?」
アルトは改めてウィルに向き直り、問うた。
王宮を出る前、エルから邸に宛てて手紙を送ったらしい。
『ムーンバレイ公爵はしばらくこちらに滞在させる。主のいなくなった邸が立ち行かなくなる旨、公爵の弟に伝えて頂きたい』
一国の王太子からというのは勿論、主の婚約者というのもあり、そう時を空ける事なくウィルがムーンバレイ邸を守るようになったという。
『だから本当はもう少し居て欲しいんだけど……貴方に嫌われたくないし』
エルはそこで言葉を切ると、にこりと微笑んでこうも言っていた。
『でも今日だけだよ。遅くなったら俺が邸まで迎えに行くからね?』
その時アルトは頷くしかできなかったが、エルならやりかねない──そうした行動力があると知っている。
(早いとこ予定を済ませないと、あいつが来る)
仮にも王太子自らが婚約者の邸に来るなど、大事になるのは明白なのだ。
「はい、何事もなく。兄さんこそお変わりはありませんか? 風邪など引かれていたら仰ってくださいね、オレが街に行って栄養のつくものを沢山買ってきますので」
ウィルは捲し立てるように言い、ぎゅっとアルトの手を両手で握ってくる。
「風邪は引いてないし大丈夫だ……と思う」
ウィルに気付かれないように空いた方の手で腰を摩り、アルトは思う。
(帰ったら覚えてろよ……!)
尻から始まり、背中や身体の節々が痛むのを堪え、邸まで来たのだ。
なるべく今日中にすべてを終わらせなければ、今度はいつ帰って来られるのか分からない。
「だ、旦那様……!?」
すると、玄関にほど近い応接室からアルバートが姿を現した。
手には箒を持っており、どうやら掃除をしていたらしい。
アルトの姿を見つけると大慌てでこちらまでやってきて、ウィルに負けず劣らず感極まった声音で言った。
「よくぞ、よくぞご無事で……! 爺めは貴方様が突然いなくなられ、今日この日まで一睡もできませんでした……!」
右手はウィルに握られたまま、もう片方はどこにそんな力があったのか、アルバートに文字通り痛いほど握り締められた。
「いて、痛い! 痛いってアルバート!」
声を荒らげてアルバートの名を呼ぶと、ぱっと離される。
「ああ、申し訳ございません……! 旦那様はお疲れだというのに」
「びっくりした……けど、これくらい大丈夫だ。その、心配掛けてごめんな」
アルトは小さく頭を下げる。
どうやらアルバートには、あまり詳細を知らせていなかったらしい。
箒を応接室の扉の前に投げ捨てるようにして来た慌てようを見れば、大体の見当がついた。
「……お疲れでしょう。温かい飲み物と軽食を持ってきます故、しばし応接室でお待ちください」
しかしアルバートはにこりと微笑むだけで、それ以上はなにも言わない。
(あれ……?)
アルトは少しの猜疑心を覚えつつ、箒を回収してから厨房の方向へ早歩きしていくアルバートに手を伸ばす。
「兄さん、行きましょう」
背後から声を掛けようとすると、ぐいとウィルに手を引かれた。
「お前は仕事があるんじゃ……?」
大丈夫なのか、という意味で問うとウィルは少し胸を張って言った。
「午後の視察以外はすべて終わらせています。なので、兄さんとお話したいんですが……駄目ですか?」
兄さんに聞いて欲しい事が沢山あるんです、と弾んだ声音で続ける。
「……そんな目で俺を見るな」
元の世界では一人っ子だったためか、アルトは年下に弱い。
まだどこか幼さの残るウィルの顔立ちは、アルトの中にある庇護欲を刺激した。
柔らかな紫色の瞳は自分とは違うものだが、今ばかりは少し潤んでいる。
このままでは泣かれてしまうのも時間の問題だった。
「ね、兄さん」
「う……」
くいくいと袖を引かれ、アルトの頭の中にある天秤が『ルシエラと話す』よりも『ウィルと話す』方向に傾きかける。
「──アルト様」
不意に名前を呼ばれ、アルトだけでなくウィルも声のした方を振り向いた。
「弟君とのお話中に水を差すようで申し訳ないが、こちらに来た理由があるのでは……?」
今の今まで背後で静観していたミハルドが、やんわりと助け舟を出してくれた。
(ミハルドさん……!)
そこでアルトは正気に戻り、ウィルの手を握り返す。
「そう、そうなんだ。ウィル」
「……は、はい?」
紫色の瞳は疑問を浮かべており、しかしアルトだけを瞳に映している。
申し訳なさも感じつつ、小さく息を整える。
「すぐにルシエラを呼んでくれ」
あいつに大事な話があるんだ、とアルトははっきりと言葉にした。
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BL
普通に高校生として学校に通っていたはずだが、気が付いたら雨の中道端で動けなくなっていた。寒くて死にかけていたら、通りかかった馬車から降りてきた12歳くらいの美少年に拾われ、何やら大きい屋敷に連れていかれる。
それから温かいご飯食べさせてもらったり、お風呂に入れてもらったり、柔らかいベッドで寝かせてもらったり、撫でてもらったり、ボールとかもらったり、それを投げてもらったり───ん?
「え、俺何か、犬になってない?」
豹獣人の番大好き大公子(12)×ポメラニアン獣人転生者(1)の話。
※どんどん年齢は上がっていきます。
※設定が多く感じたのでオメガバースを無くしました。
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