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第一部 一章

王太子殿下と逃げたい俺 3

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 翌日、アルバートが朝の支度を手伝ってくれている時を同じくして、邸に来客があった。

「よ、来たか」

 その人は軽く手を上げ、シャツとズボンという簡素な服装のアルトを迎え入れる。

「……人の家でくつろぎ過ぎでは?」

 取り急ぎ応接室に通されていたらしい人物に、アルトはそんな声と共に脱力した。

 この男の顔はアルバートの次に見た、と言っても過言ではないほどだった。

「そう言うなって。本当は嬉しいくせに照れ屋だなぁ」

 二人掛けソファの真ん中で、長い脚を組んで座っている男──ルシエラがさも上機嫌に笑う。

「アルバートがまた許可なく来たって泣いてたぞ」

 向かいの一人掛けソファに座り、アルトは小さく息を吐く。

 ルシエラの来訪を知った時、アルバートはこの世の終わりのような形相をしていた。

『なぜいつもいつもあの方は……! 旦那様が懇意にしていなければ、この手ですぐに追い出したものを!』

 どうやらルシエラは不定期に邸を訪れ、アルトの顔を見に来るらしい。

 アルトがほとんど執務室に籠っていた時ですら、ノック一つなく『愛しの親友様が来たぞ!』と言って、こちらが鬱陶しそうにしてもなんら気にしていなかったのだから。

「いや、あの偏屈男が泣くなんて」

 ないない、とルシエラは大袈裟に手を振った。

 実際アルバートは泣いていなかったのだが、アルトであっても泣きたくなるほど面倒だと思ったのは事実だ。

 しかし、ルシエラが悪い人間ではない事は既に理解しているため、アルバートに同情すると同時にアルトは苦笑する。

(確かに泣くところなんか想像出来ないな……)

 いつも厳格な態度を崩さず、しかしアルトがこうだと言えば可能な限り叶えてくれる、そんな男の泣き顔を拝んでみたいと思った。

「──ルシエラ様」

「うお!? アルバートさん、気配消すの止めてくれます?」

 心臓に悪過ぎますよ、とルシエラは己を抱き締めながら言った。

 アルバートはそんなルシエラを華麗に無視し、朝食が載っているワゴンをアルトの前まで転がし、給仕してくれる。

 一口サイズのスコーンが皿いっぱいに盛られており、ブルーベリージャムや蜂蜜に付けて食べるのがアルトの最近のお気に入りだ。

「お熱いのでお気を付けて」

「ん、ありがとう」

 ポットからサーブされた紅茶は、これまたアルトの気に入っている茶葉だ。

 爽やかな香りが段々と脳を目覚めさせ、午前中は勿論のこと午後もしっかりと仕事に取り掛かれる。

 アルトがそれを一口飲んだのを見計らうと、アルバートが静かに言った。

「本日旦那様は王宮へ参りますので、長居はなさいませんよう。良いですか、くれぐれもですぞ。くれぐれも長居を」

「あー、分かってるから凄むの止めてくれます!? 一応俺、客人ですよ」

 アルバートが二度同じ言葉を続ける前に、ルシエラが食い気味にさえぎる。

「お客様はお客様らしくして頂きたいものですが……」

 アルバートはブツブツと悪態を吐きつつも、アルトに甲斐甲斐しく世話を焼く姿は、傍から見れば雛鳥に餌を与える親のそれだ。

「けど早くないか? 前行ったばかりだろ」

 しかしルシエラはとんと分からないというように、アルトに問い掛ける。

「あー……ちょっと用事があって」

 あれから日数が経っているが、そろそろ出向かなければ王宮から手紙が来るかもしれない、とアルバートが朝の支度の時に言っていた。

『あまりこういう事は言いたくありませんが、王太子殿下には困ったものです』

 深い溜め息と共に放たれた言葉は一理あるが、アルトにはなんだか分かる気がする。

(スマホがあったらずっと催促されるんだろうな……そういう相手には出会わなかったけど)

 つくづくこの時代で良かったと思う。

 そうでなければ、きっとアルトはすべてがわずらわしくなってしまうから。

(ここでも時間に追われるなんてまっぴらだし)

 元の世界でも納期という名の締切に追われ、休む間もなく仕事をしていたのだ。

 それに比べて人からの催促など可愛いものだが、少し体験してみたい気持ちになる。

(エル、と)

 未だに一国の王太子になぜ好かれているのか分からないが、アルトは向き合わなければならない。

(今の『俺』がどうしたいかはっきりさせないと、ずっとこのままだ)

 エルには悪いが、こちらとしては相手の事をほとんど知らないままなのだ。

 仮にどんな理由であれ、結婚を迫ってくる男と一緒になる事はできない。

 この国の法が許していようと、アルトはどうしても許せなかった。

「ほのはほはほうふふんは?」

「は? ……って俺のスコーンが!? 馬鹿ルシエラ、勝手に食べるな!」

 不意に聞き取れない言葉が聞こえ、アルトが顔を上げるとルシエラがもぐもぐと口を動かしていた。

 皿を見ればスコーンが二つしかなく、それ以外はすべてルシエラの胃の中だった。

「いいはろ、……ちょっとくらい。あ、俺にも紅茶くださーい」

 ごくりと口の中のものを飲み込むと、アルバートに向けてルシエラがにこにこと手を上げる。

 そんな客人に呆れつつも、アルバートは予備らしいカップに紅茶を注ぐ。

「これを飲んだらお帰りください。……旦那様、すぐに作らせますので落ち着いて。お怒りになってはいけません」

 怒りをあらわにするアルトを諭し、アルバートは足早に応接室を出ていく。

 どうやらアルトの分のスコーンを追加で持ってきてくれるらしい。

(なんだ、なんなんだこいつは……! こっちが黙ってたら人のもの食べるか、普通!?)

 殴り掛かりたい気持ちを拳に力を込めて耐え、アルトは心を落ち着けるために何度も呼吸を繰り返す。

「それでさ、王宮から帰ったらどうするんだ? 一緒に街の視察に行くか?」

 ルシエラは先程と同じ問い掛けらしい言葉を改めて問うた。

「視察?」

「ん? いつもやってたろ、俺を連れてさ」

 あんまり執務室に籠りすぎて忘れたのか、とルシエラが茶化す。

「そう、かもしれない」

 知らない、と言ってしまえば怪しまれる事は必須だ。

 アルトはなんとか誤魔化すと、ルシエラに言った。

「最近ずっと外に出てないし、行かないとな」

 本心ではなんなのか分からないが、『アルト』は定期的に領地である街を見回っていると予想した。

「仕方ない、着いて行ってやるかぁ。あんまり無茶振りするのも止めてほしいけど」

 ルシエラが残り少ない紅茶を飲み干し、やむを得ないというふうに笑う。

「よし飲んだな。要件が終わったら帰ってくれ」

 言うが早いかアルトは立ち上がると、ルシエラの背後に回り込んだ。

 先程のアルバートの言葉を聞き逃すほど、アルトとてぼんやりしていない。

「え、ちょ、アルト? まだ話の途中で……」

「俺はない。じゃあな」

 間髪入れずに言い、腕を摑んで立たせようとするもルシエラとて譲る気はないようだ。

「いやいやいや、謝るからもうちょっと居させて!」

「……うん?」

(これ以上何の用があるんだよ)

 そう言いたいのをぐっと堪え、アルトは摑んでいた腕を離すとソファに座り直した。

「ったく、追い返そうとするなよ。傷付くだろ」

 嘘か本当か分からないことを言いながら、ルシエラは懐から一枚の封筒を取り出した。

「やっと尻尾を摑んでな、ほら」

 テーブルに置かれたそれはどこにでもありそうな封筒で、どこかの家の紋章で封がされている。

 アルトはそっと手に取り、眺める。

 封の下には『ソルライト商会』とあり、裏にはアルトの名前が丁寧な字で書かれてあった。

「まぁ開けてみろよ。返事は、そうだな……手紙でくれればいいから」

「なぁ、これって」

「お待たせ致しました」

 なんなんだ、とアルトが重ねて訊ねようとした時、丁度よくアルバートが応接室のドアを開けた。

 それを見てルシエラはゆっくりと腰を上げる。

「んじゃ、帰るよ。アルバートさん、紅茶とスコーンご馳走様」

 にこりと微笑んでアルトに手を振り、アルバートに会釈するとルシエラは応接室を出て行く。

「……なんなんだよ」

 アルトはルシエラに言えなかった言葉をぽそりと呟く。

 嵐のような男が去ってからしばらくして、アルトは王宮に向けて公爵邸の馬車に乗り込んだ。


 
 王宮に着くと少しその場で待たされた後、中に入る事を許された。

 前を先導してくれるのは、先日王宮の外で待っていてくれた男だった。

 遠回しな理由を付けて名を聞くと、ミハルドというらしい。

 国王の側近でありエルの護衛でもあるというミハルドは王宮外の警備をしていたのだが、アルトの姿を見つけると一つ返事で快く案内してくれた。

「──ムーンバレイ公爵」

 回廊を歩く足音に紛れ、ミハルドの声が静かに響く。

 長い銀髪を後ろで束ねており、アルトよりも頭一つ分以上ある長身は後ろ姿だけでも気品があった。

「は、はい!」

 図らずも上擦った声で返事をしてしまい、アルトは知らず耳が赤くなる。

(ミハルドさんには前も会っただろ、しっかりしろ……!)

 人見知りはしない性格のはずが、ミハルドの声は国王以上におごそかで、ぴんと背筋が伸びる心地がする。

「……そう警戒なされるな。それよりも、貴方のご来訪には私もやや驚きました」

 聞けば『アルト』が自ら王宮に足を運ぶ事は一度もなく、すべてこちらから呼び寄せるのがほとんどだったという。

「きっと殿下が血相を変えて、お部屋に入る事になりましょう。どうかお覚悟を」

「あ、えっと……」

 どういう反応したものか困り、アルトは当たり障りない返事をするだけで精一杯だ。

(お覚悟を、と言われましても困るんですが!?)

 それ即ち『結婚しろ』ということで、その二文字がアルトの脳裏に浮かんでは消える。

 断りに来たとはとても言えず、アルトは押し黙るしか出来なかった。

 するとミハルドが振り返り、視線が交わる。

 改めて真正面から対峙してみると、ミハルドもエルに負けず劣らず整った顔立ちをしていた。

 簡素な服装をすれば、街行く乙女が離さないだろう事は想像に難くない。

 しかし今は護衛騎士の装いをしているため、それ以上の威圧感があるのだが。

 そんなアルトを安心させるように、黄褐色の瞳が優しげに細められた。

「殿下は貴方が来るのを、連日の公務をこなしながら首を長くして待っておりました。……どうか、色良いお返事をお願い致します」

「っ」

 小さく頭を下げられ、そこでミハルドの言葉の意味を理解する。

 エルはあれからアルトだけを想い、日々を過ごしていたというのか。

 それほど好かれていたのに、『アルト』は一度も自ら王宮に訪れなかったのか。

(そんな事聞いたら……エルが可哀想じゃないか)

 段々とこの身体の持ち主に怒りが混み上がってきたが、それだけでアルトの決心が揺らぐ事はない。

 自分のためにも相手のためにも、考えに考え抜いた末のものだ。

 簡単に一度決めたことをすげ替えるほど、アルトとて白状ではなかった。

「こちらで殿下をお待ちください」

 ミハルドが扉を開けてくれ、部屋に通される。

 そこは先日アルトが案内された自室、のようで家具や装飾が大きく違っていた。

「ここは……」

 黒を基調としているのは同じだが、アルトの覚えている限りテーブルや椅子がその時よりもずっと豪奢だ。

 キャビネットは無く、その代わり大の男二人が寝ても大丈夫であろうベッドがあった。

「あ、ふかふか」

 そっとベッドを触ってみると、それだけでゆっくりと手が沈み込んでしまうほど。

 ここがもし自分の部屋であれば、アルトは脇目も振らずにダイブしてベッドの端から端まで転がっているはずだ。

「とりあえず待っておくか」

 またタイミング悪くエルに見られる可能性が大いにあったため、アルトは椅子を引いて浅く腰掛けた。

 ゆっくりとした時が流れ、どこかで秒針を刻む時計の音も相俟ってアルトの瞼は意思に反して重くなる。

(そういえば……あんまり寝てないんだった)

 ここ数日、十分に睡眠を取っていないためか段々と睡魔に襲われ、気付けばアルトは小さく寝息を立てていた。



 ◆◆◆


 
「……ト。アルト」

 優しく肩を揺すられ、低く艶を帯びた声にアルトはそろりと瞼を開ける。

 頭はまだぼんやりとしていたが、アルトはその人物の姿を見た瞬間、文字通り飛び起きた。

「っ!」

「良かった、起きてくれて」

 にこりと微笑んだその人は、紛れもないエルだった。

 まだ状況を理解していないアルトの頬をそっと撫でると、エルは囁くように言う。

「待たせてすまなかった。いつになく公務が長引いてしまって」

「え、俺、そんなに寝て……?」

 エルの口振りからキョロキョロと時計を探すと、この部屋に通されてから二時間は優に超えていた。

「ああ、よく眠っていた。起こすのも悪いと思ったんだが、あまり寝かせては貴方と話す時間が減るからな」

 本当はもっと寝させてやりたかったが、とエルは付け加えた。

「えっと、俺がここに来た理由……聞いてない、か?」

 アルトは小さく呟き、エルをじっと見る。

 公務で着ていたらしい王家の服装に身を包み、少しくつろげられた胸元から、男にしては白い首筋が見え隠れしていた。

「いいや」

 教えてくれ、とエルは緩く首を傾げる。

 どうやら使用人から何も聞いていないらしく、不思議そうな表情だ。

 そのさまは少し子供っぽく見え、なぜか胸が苦しくなった。

「──れ」

「ん?」


 アルトは昨夜何度も反芻した言葉を言おうとするも、喉に何かが詰まったような違和感を感じ、ぼそぼそとしか声が出ない。

 加えて先程まで眠っていたのもあるのか、単純に喉が渇いて仕方なかった。

(落ち着け、落ち着け……! ただ言うだけだ)

 背筋に冷たい汗が伝う。

 知らずテーブルに置いていた手が震え、カタカタと小さくテーブルが揺れた。

「あ、の……俺と」

 震える声を叱咤し、懸命に言葉を紡ごうとすると、エルの手がアルトのそれに重ねられる。

「ゆっくりでいい。時間は沢山あるから」

 思ったよりもずっと温かい手の平の熱が、アルトの手を伝ってじんわりと広がっていく。

 震えは不思議と止まり、その代わり勇気を貰えた。

 アルトはぐっと一度奥歯を噛み締め、エルの顔を見つめながら言う。

「俺と、婚約を解消してくれ」

 しんと痛いほどの静寂が部屋に満ちた。

 時計の秒針がやけに大きく響き、次第に呼吸することさえ苦しくなる。

(なんで、ずっと黙ってるんだ……?)

 微動だにしないエルを不審に思い、アルトは顔を覗き込む。

「え」

 どくん、と心臓が大きく跳ねた。

 それと同時に荒々しく手首を摑まれ、突然の事に驚いたのも束の間、唇に温かなものが触れる。

(な……)

 キスをされている、と理解するまでに時間が掛かった。

 同性の唇はこんなに柔らかいものなのか、と頭の片隅で思いつつアルトは状況が理解出来ない。

「──して」

 唇はすぐに離れていき、ぽつりとエルが呟く。

「どうして貴方はいつもいつも、の前から逃げようとするんだ!?」
 
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