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第一部 一章

王太子殿下と逃げたい俺 1

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 その後、別室で待つように言われてから早一時間。

 目の前に広がる甘い香りを放つ菓子をじっと見つめ、アルトは独り言ちる。

 椅子に座っていても落ち着かず、かといって歩き回る訳にもいかず、時折紅茶を飲みつつテーブルクロスの刺繍をただ見つめていた。

「……なんのつもりなんだ、あいつは」

 ──『結婚する』と貴方が泣いて頷いてくれるまで、分からせるしかないな。

 いきなり宣戦布告かのように放たれた言葉は、あまりにも自分勝手なものだ。

 そもそも今のこの状況すらしっかりと理解出来ておらず、こちらの気など知るはずもないことは明白と言ってもいい。

 アルトは少しずつ飲んでいた紅茶をぐいと一息に飲み干す。

 甘い香りが鼻から抜け、心が少し落ち着いた気がした。

 するとそれを見計らっていたように、部屋の端に控えていた使用人らしき女性が紅茶を注いでくれる。

「あ、すみません……」

 身体に染み付いた言葉を反射的に言うと、恐縮しきった表情で給仕してくれた同じ年ほどの女性が、早口に捲し立てた。

「アルト様が謝られる必要は万に一つもありません。殿下に貴方様から謝罪されたと知られては、私どもがきつく怒られてしまいます……!」

 だから気にせずとも良いのです、とぎこちなく微笑む。

「そう、ですか」

 よく考えれば小説などで何もされてないのに謝る、というのはない。

 アルトは己の身に染み付いた口癖を恥じた。

 本来であれば口癖になるほどではないそれは、ブラック企業に就職してしまったから付いたものだ。

 己の運の無さを呪った事もあったが、今となってはもう過ぎた事。

 アルトは女性を見上げ、口を開く。

「あの、名前はなんと呼べばいいですか?」

 このまま名を知らないのも何か駄目な気がして、アルトはじっとメイドを見た。

 すると女性は声にならない悲鳴を上げ、即座に両手を振る。

「おやめください、使用人ごときにそのような……! 貴方様は普通にして頂いていいのです、普段通りに命じてくだされば!」

「あ、すみ……、悪い」

 少し会話がすれ違っているとも思ったが、あまりに恐縮しきっている様子にアルトは口調を改める。

 人と話すのは慣れていないが、どうやらこの砕けた口調でいいらしい。

「いいえ。──ああ、申し遅れました。アルト様の身の回りのお世話を王太子殿下直々にお任せされました、フィアナでございます」

 よろしくお願い致します、と手本のようなお辞儀をすると、フィアナは遠慮がちに問い掛けた。

「あの。アルト様さえよろしければ、お部屋へご案内致しますが……どうなされますか?」

「部屋? ここで待ってるんじゃないのか?」

「……え、私は頃合を見てご案内しろ、と仰せつかったのですが」

 アルトは飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。

「な、なんで……!?」

 そんなこと聞いてない、と小さく首を振る。

 言われた通り待っていたが、自分の知らないうちにここに住処を移す事になっていたらしい。

 アルバートの言っていた『くれぐれも粗相をするな』というのはこれか、と今更ながらアルトは合点する。

 王との謁見後そのまま王宮に住むなど、今まで読んできた小説の中でも知らない事なのだが。

「あら……? す、すみません、私の聞き違いでしょうか……確認してきますね」

 見る見るうちに焦った様子になったフィアナは、今すぐにでも部屋を飛び出して行ってしまいそうな勢いだ。

「いや、いい。大丈夫だから、案内してくれないか」

「で、でも」

 傍から見ても顔面蒼白のフィアナを、このままにさせるのはこちらの気が引けた。

 しかしフィアナは終始弱々しい声で続ける。

「間違っていては殿下に叱られてしまいます。そうでなくても──」

「多分合ってる。合ってるから案内してくれ!」

 アルトは半ば強制的にフィアナの言葉を遮り、立ち上がる。

 きっと本来の『アルト』は王宮に来たら最後、帰れないと分かっていたのだ。

 あのアルバートの焦りように、なぜか顔を『見せにきた』ルシエラ。

 それに加えて王太子のあの言葉は、王宮に留まらせるには十分過ぎる理由だった。

 だから限界まで渋っていたところに自分とは違う人間に変わり、きっと今頃苦虫を噛み潰した表情をしているだろう。

(この身体の持ち主がどうしてるのかは知らないけど)

 小説では本来の人格が無くなり、新しい人格に成り代わると聞く。

 今となっては確かめるすべは無いが、もしもそうならばアルトは一人で耐えなければならないのではないか。

(絶対、絶対男となんか結婚してやるもんか!)

 王太子ははっきりと『結婚する』と言ったのだ。

 その後の言葉からして、拒否権というものは無い。

 あくまでアルトの口から言わせる、というのが本音なのだろう。

(結婚するなら可愛くて小さくて、守ってやりたくなる子がいい)

 そもそもアルトは普通に異性が好きなのだ。

 いきなり同性に求婚されても、どういうことだと聞きたいのが普通だろう。

 しかし、王太子はアルトが今まで知る同性の誰よりも顔がよかった。

 女性的な顔立ちには一瞬ドキリとしたが、その体躯はアルトよりも幾分か大きいのだ。

 アルトは平均身長を少し超える程度だが、それよりも頭一つ分飛び抜けた王太子。

 やや甘さを含んだ声しか聞いていないが、ほっそりとした指先に長い手足は写真映えする事は確実だった。

「こちらです」

 やがてフィアナがある部屋の前で立ち止まり、こちらを振り向いた。

「貴方様のために準備した、と殿下から仰せつかっております」

 どうぞお開けください、とフィアナがにこやかに言う。

 アルトは意を決してドアノブを回すと、無数の煌めきが目に飛び込んできた。

「ここ、が……?」

 恐る恐る部屋に足を踏み入れ、アルトはじっくりと全体を見回す。

「っ」

 アルトは小さく息を呑む。

 深い青を基調とした部屋は、淡いランプの光もあってか無数の星が瞬いてるように見え、アルトの少年心を刺激した。

 キャビネットには年季の入った調度品が置かれており、どれもが美しい装飾がされている。

 どうやらここがアルトの自室となるらしい。

 ドアを開けた先には小さなテーブルと椅子があり、テーブルの上には紙に何かが書かれていた。

「えっと」

 読めない、と背後に控えるフィアナに言おうとしたが、アルトの脳はしっかりと文字を理解していた。

『貴方がここに来たら訪ねるから、くつろいで待っていて』

 エル、と末尾に書かれた名前は王太子のことだろう。

 アルトは紙を丸めそうになるのを、すんでのところで堪える。

(俺の捉え方だけど、もしかしなくても……。いや、確実に逃げるなって言ってるよな!?)

 この国の文字が読めることに驚いたが、それ以上に先程会った王太子──エルの顔が浮かんでくる。

(何、されるんだろう……)

 謁見の時にも思ったが、女性的な男は同性であってもそういない。

 やや胡乱うろんげにこちらを見下ろしてくる瞳には、どこか妖艶な色香があった。

 ほんのりと艶のある声は、思い返せばアルトの名を呼んだ時わずかに高くなっていた。

 それは恋をする人間が相手を呼ぶ時のそれで、今になってどくりと心臓が跳ねる。

 長身痩躯で、けれど服の上からでも引き締まっているのが分かるほど。

 長い手足はアルトのそれよりも大きく、きっと顔を包み込めてしまえるだろう。

(いや。いやいやいや! 何を考えてるんだ、俺は!)

 それ以上の事を想像しそうになり、アルトは何事もなかったように紙をテーブルに置いた。

 これは見なかったことにしておく方が賢明だろう。

 しかしエルが訪ねて来たら何を言い、何をされるのか身構えた方が良さそうだった。

 気を取り直して部屋を見回していると、もう一つ扉があった。

 どうやらここは続き間らしく、アルトが近寄ろうとするとフィアナが慌てたように割って入ってくる。

「フィアナ?」

「あ、えっと、その……お茶を持って来るので、座って待っていてくれますか?」

 どこか焦った様子のフィアナに疑問に思いつつも、あまり歩き回るのは良くないだろう。

 アルトは言われるまま椅子に座り、改めて周囲を見回した。

(ここってリビングみたいなものだよな。物はそんなにないけど、本とか高そうな壺がある……何より広いし)

 元居た部屋の五倍はあるのではないか、と考えたところでアルトはある事に気付く。

「……ちょっと待ってくれ」

「はい?」

 退出しようとするフィアナを呼び止め、アルトはもつれそうになる唇を懸命に動かす。

「王太子、殿下が来たら……フィアナは仕事に戻るのか?」

「はい、お茶を作って持って参りますのでその後に。どうかなさいましたか?」

 恐る恐る問うと、フィアナはあっけらかんと言った。

 当たり前だが、アルトが元の場所で仕事があったようにフィアナとて仕事がある。

「いや。……聞いてみただけだから気にしないでくれ」

 これ以上引き止めてしまうのも悪い気がして、アルトはぎこちなく笑みを浮かべた。

「そうですか? あ、何かありましたらそちらに呼び鈴があるのでお呼びください。すぐにお部屋に向かいますので」

 フィアナはアルトの背後──続き間の扉のほど近くを指し示した。

 小さなベルが五つつらなっており、傍から見れば可愛らしいオーナメントにも見えるが、呼び鈴の役割をするらしい。

 では、とフィアナは一礼して部屋を出て行った。

「なんか……疲れた」

 椅子にもたれ掛かり、アルトはぼんやりと灯るランプを見上げる。

 エルが訪ねてくるのがどれくらいか分からないが、考えれば考えるほど身体が小刻みに震えた。

 というのも、エルと二人きりだと何をされるか分かったものではない──アルトの本能がそう告げているのだ。

「何も……何も、されませんように!」

 この身体が『エルは危険だ』と教えてくれているのを有難く思いつつ、アルトは祈るように手を組む。

 元居た場所ではそうした経験はおろか、付き合った事もない陰キャなのだ。

 まして同性となど、未知の世界すぎて武者震いが止まらない。

(あ、でも俺があっちになる可能性……いや、考えるのは止めよう)

 同性とどちらの経験も皆無だが、そうした小説をよく読んでいたため知識だけはある己を恨む。

 ただ、エルの顔立ちは性別を問わずモテることは確かだろうというのは理解できた。

「綺麗、だもんなぁ……」

「──何を一人で百面相しているんだ?」

「うわ!?」

 ぽそりと呟くと同時にドアが開き、くだんの男が微笑んで立っていた。

 図らずもアルトは飛び跳ね、素早くテーブルの下に隠れる。

「子供でも隠れんぼはもっと上手くやると思うんだが」

「っ!」

 すぐさまテーブルの下を覗き込まれて、アルトはいたたまれなくなる。

 聞かれていたかもしれないという恥ずかしさは勿論、どうしてかエルの顔を見られない自分がいた。

「っふ、早く出ておいで。ふふ、大丈夫。何も……多分何もしないから」

「なんで言い直した……いてぇ!」

 忍び笑うエルに抗議するためアルトは立ち上がろうとしたが、ゴツンと鈍い音を立てて後頭部とテーブルとがぶつかる。

「普通出てきてから立つでしょうに……本当に何をしているんだ、貴方は」

 口調こそ丁寧さを取り繕っているが、言葉の節々からは笑いを堪えきれていない。

「俺も聞きたいよ……」

 自分の不甲斐なさにエルを怒る気力も失せ、テーブルから這い出でるとアルトはそのまま項垂うなだれる。

 いつも大事なところで自分は鈍臭く、周りに迷惑を掛けるのはいつもの事だったが、笑われてしまうとますます惨めだった。

「ふぅ……笑ってすまなかった」

 やっと落ち着いたのか、無言でエルがこちらに向けて手を差し出してくる。

 手を取れと言っているのだろうが、そんなものに頼るほど自分は弱くないのだ。

 せめてもの抵抗でアルトは無言で立つと、改めて椅子に座った。

 エルも向かいに座り、互いを見つめ合う形になる。

 どこかから秒針の音が聞こえ、ほどなくして沈黙が部屋の中を支配した。

 間近で見るエルはやはり美しく、整った顔立ちはいささか眩しい。

 無言は堪えきれないほどではないが、エルが黙っていると女性にしか見えなかった。

「──フィアナから」

 やがてエルが小さな声で切り出す。

「何をどこまで聞いたのか、教えてくれるか?」

 間近でじっと青い虹彩に見つめられ、アルトは小さく息を詰める。

 それを言ってどうするのか、漠然とながら理解出来た。

(俺を逃がさないつもりだ)

 当たり障りない言葉ではぐらかしたとて、それはきっとエルには通用しない。

「何を、って何も聞いてません。俺は……っ!」

 不意に唇に人差し指をあてられ、自分とは違う体温に一瞬戸惑う。

「敬語は無しだ。遠慮せずに普通に話して」

 ね、とエルは淡く微笑むと指を離す。

 口調こそ優しいが、どこか有無を言わさない圧があった。

 アルトはきゅっと唇を噛み締め、ゆっくりと言う。

「本当に必要な事以外言ってない。それよりも……教えてくれ」

「ん?」

 エルはテーブルに肘を突き、こてりと首を傾げる。

 本来であれば行儀が悪いはずの仕草も、エルがすると絵画のようにさまになっていた。

 なに、とエルが唇だけを動かす。

 どうやらアルトの話を聞いてくれるようで、少しの勇気をもらえた気がした。

「もう王宮から出られないのか? もう……俺は、ずっとここで暮らさないといけないのか?」

 わざわざ自室になるであろう部屋に連れて来られたが、今の『アルト』がどんな人間で、どんな事をしているのか分からないままなのだ。

 この世界がアルトの知る国であるのかという事すら怪しく、それも自分の目で調べたかった。

 ここに留まれと言われれば、満足に出歩けないのは確実なのだから。

「──あれば」

 エルはわずかに目を見開いた後、ごく小さな声で囁いた。

「貴方が逃げないのであれば、公爵邸へ戻っても構わない」

「逃げない……? それってどういう」

「言葉通りの意味だ」

 ああ、とエルは思い出したように両手を打つ。

「そろそろフィアナが紅茶を持って来るし、この話はまたいずれ」

 アルトが尚も聞こうとしたのを悟ったのか、エルが話題を逸らすようににこやかに問い掛ける。

「それよりも貴方の好きなものを教えてくれないか」

 何が好きなのか知りたいんだ、とエルは続ける。

 アルトは話題を逸らされた事よりも、目の前の男の変化に着いて行けなかった。

(一瞬……殺されるのかと思った)

 もしかしなくても、『アルト』はとんでもない男に好かれたのかもしれない。

 そう思わざるを得ないほどの眼力がエルにはあった。

 ほどなくしてフィアナが紅茶を運んで来たが、味は少しも分からなかった。
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