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第一部
Prologue 目覚めると変わっていた世界
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──今日もまた、忌々しい日が始まる。
もそりとベッドから起き上がると、朔真はどんよりとした瞳を窓際に向ける。
太陽は眩しいほど輝いて、一日の始まりを嫌というほど告げていた。
時折スズメの声が聞こえ、朝が来てしまったのだと思わせられる。
ここ数日、魘されては飛び起きる毎日だ。
元々不眠に悩まされてはいたものの、ここまで酷くはなかった。
起きられる時は爽快とはいかないながらも、あまり気分は悪くない。
逆に魘された日には全身を脂汗が伝い、心臓がどくどくと嫌な音を立てている。
特にここ連日は悪夢を見てばかりでとんと眠れた気がせず、うっすらとだが思考は未だ夢の中だ。
今も幻聴が聞こえているような心地がする。
(会社、行きたくないな……)
頭の中では嫌だと思っていても、こうして仕事へ行くための準備をするのだから、心と身体は矛盾していると思う。
欠伸を噛み殺し、眠い目を擦りながら『行きたくない』とブツブツ呪いのように言う。
もしもこの場に他人が、居たら即『変人』と渾名されるだろう事は明白だ。
「っ」
のろのろとした足取りで洗面所へ立ち、歯を磨いて顔を洗うと、ふと鏡に映った自分に絶句した。
艶のある黒髪は所々に白髪が目立ち、目の下には濃い隈がある。
その腕や首には、自分でも知らない小さな傷がいくつもあった。
お世辞にも今日は目覚めのいい朝とは言えないが、それ以上に身体は悲鳴を上げているらしかった。
無意識のうちに自傷行為で付いた腕を擦り、朔真はふっと瞼を閉じる。
まだ二十五になったばかりだというのに、ここまで老け込んでいると驚きよりも悲しさの方が強い。
学生時代はお洒落とはいかないながらも、それなりに身なりに気を遣って生きてきた。
なのに、今の現状を過去の朔真が見たらどう思うだろう。
きっと幻滅し、未来に希望を持てないに違いない。
あるいは既にこの世に無いかもしれない、と考えたところで自嘲じみた笑いがおきる。
「……何やってるんだ、昔のことなんか思い出して」
くっくっと喉を震わせ、じとりと黒く澱んだ瞳で鏡を見る。
今の朔真は、どこからどう見ても老人のそれだ。
認めたくないが、身なりに一切頓着していなかったのは事実なのだ。
加えて、今のこの状況が嫌で嫌でたまらない。
「──たい」
ぽつりと呟かれた言葉はあまりに小さすぎて、すぐさま空気に溶けていく。
「死にたい」
どくりどくりと心臓が脈打つ。
せめてもの慰めになれば、と洗面所の前に置いていた熊のキャラクターのフィギュアが落ちる音がした。
「……は?」
朔真はそんな声と共に目を瞬かせる。
「どこだ、ここ」
きょろきょろと辺りを見回してみると、見たこともない豪奢な調度品が視界に入った。
「──聞いておられるのですか、旦那様!」
不意に焦った声が聞こえ、そちらに目を向けると口髭を生やして片眼鏡を掛けた男がいた。
「え、誰……」
ごく小さな声だったが聞こえていたようで、男は盛大な溜め息を吐いた。
「ああ、おいたわしや旦那様。王宮へ参るのが嫌だからと言って爺めの名も忘れてしまうなんて……」
よよよ、と男は懐から取り出したハンカチで眦を拭っている。
当の朔真は疑問ばかりが生じ、脳が理解するのを拒否していた。
「ちょ、泣かないで……ください。ここは」
「こうしてはおられません! 早く王宮への馬車を手配しなくては!」
どこですか、と言おうとした言葉に被せるように男が言うと、先程までの言動が嘘のようにバタバタと部屋を出ていった。
「あの……」
一人ぽつんと椅子に座ったまま、朔真は微動だにできない。
ここはどこで、自分はなぜ煌びやかな部屋に居るのか。
それ以上に朔真を『旦那様』と呼ぶ男は誰なのか。
(いや、爺って言ってたし服装が多分……執事、なのか? 昔そういう本読んでたし)
社会人になってからは読む機会が無くなったが、朔真は小説が好きだった。
好き過ぎて寝る間も惜しむほどハマった作品もあり、その中でも貴族が出る恋愛ものを特に好んだ。
お陰でそういうジャンルに詳しくなり、同級生から引かれてしまうほどになったのも今ではいい思い出だ。
「……誰かいないのか」
広い部屋を物色する気にもなれず、朔真はぽそりと呟く。
「アルト~!」
「っ」
バン、と音を立てて扉が開いたと同時に、長身の男が姿を現した。
「元気がないって聞いたから親友様が来てやったぞ!」
どうだ嬉しいか、とにこにこと肩を組んで聞いてくる。
「え、ちょ、何……?」
はっきり言って今自分が置かれている状況も、知らない人間に続けて会う事も、朔真にはストレスでしかなかった。
アルトとは自分のことなのかという疑問も生じ、朔真はますます混乱する。
「ルシエラ様、旦那様は今から──ああ、もうお会いになられて……本当にいつも脚の早い方だ」
すると先程の執事らしき男の呆れ声が聞こえ、その手に持っているものに朔真は驚く。
(あんな、手本みたいな貴族の服って……あるのか?)
「アルバートさんが遅いだけですって~。俺は普通に歩いてますよ」
ルシエラが何かを言っているが、朔真は執事──アルバートの持つ服に釘付けだった。
金銀糸がふんだんに用いられ、細かい刺繍の施された新緑を思わせる色。
烏の濡れ羽色に近いズボンにも同じくらいの刺繍がなされ、それはひと目で高そうなものだと分かる。
「──さて、旦那様。謁見の時間が迫っておりますので、お着替えてください。馬車を待たせておるのですぞ」
言外に『早くしろ』と迫るアルバートに半ば気圧されるように、朔真はどこからかやってきた使用人らにあれよあれよと着替えさせられた。
(……誰だ)
そう口をついて出てしまいそうな言葉を、朔真は既のところで飲み込む。
姿見に映された自分は何もかもが違っていた。
白髪混じりだった黒髪は、美しい金髪に。
目の下の隈が目立つ黒い瞳は、海を思わせる深い青に。
手入れする必要のない玉のような肌は朔真の知らないもので、服装も相まって貴族のそれでしかなかった。
「──終わったようですね」
頃合いを見計らってアルバートが部屋に入り、部屋を出るように促してくる。
アルバートと共に玄関らしきドアに向かうと、二頭の馬を従えた馬車が一台あった。
「国王陛下が首を長くしてお待ちだ。全速力で……いや、事故を起こさない程度に王宮に着いてくれ」
手網を操る御者に口早に言うと、アルバートは言うが早いかグイグイとこちらの背を押してくる。
「いいですか、くれぐれも粗相無きようにお願いしますぞ。貴方様のこれからが掛かっておるのですから」
アルバートが終始何を言っているのか分からなかったが、朔真は馬車に揺られて少しすると段々と理解した。
(俺のことをアルトと呼ぶルシエラって奴と、旦那様と呼ぶ男……それに、もしかしなくてもこの服は)
朔真は己の身を包む服の裾をつまむ。
間近で見るとやはり高級そうなそれは、手触りがいいだけでなくどこか煌めいている。
(いや、漫画やアニメじゃあるまいし)
小さく首を振り、浮かんできた答えを即座に打ち消す。
何かの間違いだと思い、外を見られるであろう小窓からそっと顔を覗かせる。
「っ……!」
古い建造物郡がどこまでも続き、外に出ている人間らは膝下まであるドレスやタキシードを着て歩いている。
時折子供らの姿も見えたが、大人と同じような洋装だった。
朔真がよく知っているような服装をした者は一人もおらず、かといって現実だと思いたくはなかった。
「いってぇ……!」
試しに頬を思い切り引っ張ってみると痛みを感じ、自分でやった事なのに涙が出てきた。
外を見るのを止めても、馬車の中は狭い。
加えて豪奢な内装で、否が応でも『そう』だと認めざるを得ないのだ。
(まさか……そんなはず)
朔真が居心地悪くなってきた頃、ゆっくりと馬車の動きが止まった。
御者が降りる気配がして、扉を開けてくれる。
「どうぞお降りください」
「……どうも」
御者から杖を差し出され、恐る恐る持った持ち手には青い宝石が象嵌されており、ひと目で高いものだと理解した。
馬車から降り、前方に視線を向けると更に圧倒されてしまう。
映画や漫画でしか見たことがない──あってもそれはどこかの国の王族が住んでいる──建物が、長い道の先にあった。
「ああ、ようやくいらっしゃいましたか」
すると朔真の姿に気付いたらしき人間がこちらに向かって来て、ほっとしたような表情を見せる。
「事故に遭われたのではないかと、恐れ多くも陛下が心配されております。さぁ、こちらです」
「え、あ、はい」
目を白黒させつつも、朔真は男について足早に歩く。
ここがアルバートの言っていた王宮らしく、その景観もさることながらどこに視線を投げても豪華な造りで、くらりと目眩がしそうになった。
(俺、場違いじゃないか……?)
朔真の気持ちに呼応するように、胃がキリキリと痛む。
どこかに薬はないか、と思ったが胃薬があるとはとても思えなかった。
「しばしお待ちください」
やがて大扉の前に着き、男が一礼する。
扉ひとつとっても美しい装飾がされており、重厚そうな両開きのそれは、左右に陣取る屈強な男達の手によりゆっくりと開けられた。
「アルト・ムーンバレイ公爵、ただいまご到着されましてございます」
ここまで先導してくれた男がいつの間にか背後に立っており、先程よりもやや厳かな声でそう言った。
開け放たれた扉の向こうは更に豪華絢爛で、朔真はやや目を眇める。
「……っ」
さぁ、と男が朔真の背を押して中に入れと促す。
馬車を出てすぐに持たされた杖は、いつの間にか男の手に渡っていた。
朔真は慎重に部屋の中へ足を踏み入れ、ややあって膝を突いた。何故かそうしないといけない気がした。
「──来たか」
面を上げろ、と声の主が続ける。
朔真の跪いた位置から距離はあるはずだが、よく通る声は低くどこか掠れている。
朔真はまるで糸に釣られた人形のようにわずかに頭を上げ、小さく息を呑んだ。
その身なりには威圧感があり、朔真は瞬きひとつ出来なくなった。
黒を基調としたウエストコートに身を包み、ひと目見ても分かる豪奢な椅子に初老の男性が脚を組んで座っていた。
あまり華美とはいかないが、服装はどこからどう見ても『国王』のそれだ。
「うぐっ」
朔真は場違いな事を口走りそうになったが、なんとか手で塞いで堪える。
(やべ、めちゃくちゃ『王モテ』の国王様じゃん……)
一時期朔真が読み耽っていた『王太子殿下や公爵様にモテすぎて困っています!』という、乙女系小説のキャラクターによく似ていた。
「まぁそう固くなるな。煩わしい挨拶も要らぬ」
ははは、と笑う初老の男──もとい国王には、朔真が静かに感激している事に気付いていない。
人の良さそうな笑みを口元に浮かべ、国王は傍に居た青年に何事かを耳打ちした。
「アルト・ムーンバレイ殿」
やがて青年がアルト──どうやら朔真のここでの名前らしい──を呼ぶ。
「父上が貴方を呼んだ理由、お分かりか?」
「へ」
図らずも素っ頓狂な声が漏れる。
じっと見つめてくる青年の水色の瞳は、遠目からも分かるほど疑念らしき色が見え隠れしていた。
すっと通った鼻梁に、美しい柳眉がやや寄せられているものの威圧感はまるでない。
肩ほどまである黒髪はすっきりと切り揃えられており、まるで女性のようだった。
(知りませんけど? そもそも俺は会社に行こうとしていたのに、いつの間にかここに居たんですけど)
そう言ってしまいたいが、いきなり支離滅裂なことを言う度胸も思い切りの良さも無い。
しかし馬車の中で頬を抓って確認したから、これは夢では無い事は確実なのだ。
「あ、えっと……」
もごもごと何を言おうか頭を働かせていると、溜め息が聞こえた。
何か粗相をしてしまったかと聞く気力もなく、細かい意匠のされた床を見つめるしか出来ない。
かと言って助け舟を出してくれる人間などいるはずもなく、次第に背中に冷たい汗が流れる。
「貴方と私の式の日取りを決めるためなのだが……忘れてしまわれたのか?」
「──は?」
何を言われたのかすぐには理解出来ず、視線を上げる。
国王の傍に居たはずの青年が、手を伸ばせばすぐ届きそうな距離に跪いていた。
いきなり眼前に美しい顔が現れ、知らず頬が熱くなる。
(え、近……いや、そうじゃなくて! 俺とこの人の式……? 日取り、ってなんだ)
ぐるぐるとその言葉が脳内を駆け巡る。
理解出来ないわけではないが、なぜかこの身体の中の本能が拒否していた。
「……そうか。では」
ぐいと青年が更に顔を近付け、鼻先が触れ合いそうな距離まで迫る。
「『結婚する』と貴方が泣いて頷いてくれるまで、分からせるしかないな」
くすりと小さく笑った美人は、艶やかな声でそう言った。
かくして朔真──改め、アルトの生活はこの時を境に一変した。
もそりとベッドから起き上がると、朔真はどんよりとした瞳を窓際に向ける。
太陽は眩しいほど輝いて、一日の始まりを嫌というほど告げていた。
時折スズメの声が聞こえ、朝が来てしまったのだと思わせられる。
ここ数日、魘されては飛び起きる毎日だ。
元々不眠に悩まされてはいたものの、ここまで酷くはなかった。
起きられる時は爽快とはいかないながらも、あまり気分は悪くない。
逆に魘された日には全身を脂汗が伝い、心臓がどくどくと嫌な音を立てている。
特にここ連日は悪夢を見てばかりでとんと眠れた気がせず、うっすらとだが思考は未だ夢の中だ。
今も幻聴が聞こえているような心地がする。
(会社、行きたくないな……)
頭の中では嫌だと思っていても、こうして仕事へ行くための準備をするのだから、心と身体は矛盾していると思う。
欠伸を噛み殺し、眠い目を擦りながら『行きたくない』とブツブツ呪いのように言う。
もしもこの場に他人が、居たら即『変人』と渾名されるだろう事は明白だ。
「っ」
のろのろとした足取りで洗面所へ立ち、歯を磨いて顔を洗うと、ふと鏡に映った自分に絶句した。
艶のある黒髪は所々に白髪が目立ち、目の下には濃い隈がある。
その腕や首には、自分でも知らない小さな傷がいくつもあった。
お世辞にも今日は目覚めのいい朝とは言えないが、それ以上に身体は悲鳴を上げているらしかった。
無意識のうちに自傷行為で付いた腕を擦り、朔真はふっと瞼を閉じる。
まだ二十五になったばかりだというのに、ここまで老け込んでいると驚きよりも悲しさの方が強い。
学生時代はお洒落とはいかないながらも、それなりに身なりに気を遣って生きてきた。
なのに、今の現状を過去の朔真が見たらどう思うだろう。
きっと幻滅し、未来に希望を持てないに違いない。
あるいは既にこの世に無いかもしれない、と考えたところで自嘲じみた笑いがおきる。
「……何やってるんだ、昔のことなんか思い出して」
くっくっと喉を震わせ、じとりと黒く澱んだ瞳で鏡を見る。
今の朔真は、どこからどう見ても老人のそれだ。
認めたくないが、身なりに一切頓着していなかったのは事実なのだ。
加えて、今のこの状況が嫌で嫌でたまらない。
「──たい」
ぽつりと呟かれた言葉はあまりに小さすぎて、すぐさま空気に溶けていく。
「死にたい」
どくりどくりと心臓が脈打つ。
せめてもの慰めになれば、と洗面所の前に置いていた熊のキャラクターのフィギュアが落ちる音がした。
「……は?」
朔真はそんな声と共に目を瞬かせる。
「どこだ、ここ」
きょろきょろと辺りを見回してみると、見たこともない豪奢な調度品が視界に入った。
「──聞いておられるのですか、旦那様!」
不意に焦った声が聞こえ、そちらに目を向けると口髭を生やして片眼鏡を掛けた男がいた。
「え、誰……」
ごく小さな声だったが聞こえていたようで、男は盛大な溜め息を吐いた。
「ああ、おいたわしや旦那様。王宮へ参るのが嫌だからと言って爺めの名も忘れてしまうなんて……」
よよよ、と男は懐から取り出したハンカチで眦を拭っている。
当の朔真は疑問ばかりが生じ、脳が理解するのを拒否していた。
「ちょ、泣かないで……ください。ここは」
「こうしてはおられません! 早く王宮への馬車を手配しなくては!」
どこですか、と言おうとした言葉に被せるように男が言うと、先程までの言動が嘘のようにバタバタと部屋を出ていった。
「あの……」
一人ぽつんと椅子に座ったまま、朔真は微動だにできない。
ここはどこで、自分はなぜ煌びやかな部屋に居るのか。
それ以上に朔真を『旦那様』と呼ぶ男は誰なのか。
(いや、爺って言ってたし服装が多分……執事、なのか? 昔そういう本読んでたし)
社会人になってからは読む機会が無くなったが、朔真は小説が好きだった。
好き過ぎて寝る間も惜しむほどハマった作品もあり、その中でも貴族が出る恋愛ものを特に好んだ。
お陰でそういうジャンルに詳しくなり、同級生から引かれてしまうほどになったのも今ではいい思い出だ。
「……誰かいないのか」
広い部屋を物色する気にもなれず、朔真はぽそりと呟く。
「アルト~!」
「っ」
バン、と音を立てて扉が開いたと同時に、長身の男が姿を現した。
「元気がないって聞いたから親友様が来てやったぞ!」
どうだ嬉しいか、とにこにこと肩を組んで聞いてくる。
「え、ちょ、何……?」
はっきり言って今自分が置かれている状況も、知らない人間に続けて会う事も、朔真にはストレスでしかなかった。
アルトとは自分のことなのかという疑問も生じ、朔真はますます混乱する。
「ルシエラ様、旦那様は今から──ああ、もうお会いになられて……本当にいつも脚の早い方だ」
すると先程の執事らしき男の呆れ声が聞こえ、その手に持っているものに朔真は驚く。
(あんな、手本みたいな貴族の服って……あるのか?)
「アルバートさんが遅いだけですって~。俺は普通に歩いてますよ」
ルシエラが何かを言っているが、朔真は執事──アルバートの持つ服に釘付けだった。
金銀糸がふんだんに用いられ、細かい刺繍の施された新緑を思わせる色。
烏の濡れ羽色に近いズボンにも同じくらいの刺繍がなされ、それはひと目で高そうなものだと分かる。
「──さて、旦那様。謁見の時間が迫っておりますので、お着替えてください。馬車を待たせておるのですぞ」
言外に『早くしろ』と迫るアルバートに半ば気圧されるように、朔真はどこからかやってきた使用人らにあれよあれよと着替えさせられた。
(……誰だ)
そう口をついて出てしまいそうな言葉を、朔真は既のところで飲み込む。
姿見に映された自分は何もかもが違っていた。
白髪混じりだった黒髪は、美しい金髪に。
目の下の隈が目立つ黒い瞳は、海を思わせる深い青に。
手入れする必要のない玉のような肌は朔真の知らないもので、服装も相まって貴族のそれでしかなかった。
「──終わったようですね」
頃合いを見計らってアルバートが部屋に入り、部屋を出るように促してくる。
アルバートと共に玄関らしきドアに向かうと、二頭の馬を従えた馬車が一台あった。
「国王陛下が首を長くしてお待ちだ。全速力で……いや、事故を起こさない程度に王宮に着いてくれ」
手網を操る御者に口早に言うと、アルバートは言うが早いかグイグイとこちらの背を押してくる。
「いいですか、くれぐれも粗相無きようにお願いしますぞ。貴方様のこれからが掛かっておるのですから」
アルバートが終始何を言っているのか分からなかったが、朔真は馬車に揺られて少しすると段々と理解した。
(俺のことをアルトと呼ぶルシエラって奴と、旦那様と呼ぶ男……それに、もしかしなくてもこの服は)
朔真は己の身を包む服の裾をつまむ。
間近で見るとやはり高級そうなそれは、手触りがいいだけでなくどこか煌めいている。
(いや、漫画やアニメじゃあるまいし)
小さく首を振り、浮かんできた答えを即座に打ち消す。
何かの間違いだと思い、外を見られるであろう小窓からそっと顔を覗かせる。
「っ……!」
古い建造物郡がどこまでも続き、外に出ている人間らは膝下まであるドレスやタキシードを着て歩いている。
時折子供らの姿も見えたが、大人と同じような洋装だった。
朔真がよく知っているような服装をした者は一人もおらず、かといって現実だと思いたくはなかった。
「いってぇ……!」
試しに頬を思い切り引っ張ってみると痛みを感じ、自分でやった事なのに涙が出てきた。
外を見るのを止めても、馬車の中は狭い。
加えて豪奢な内装で、否が応でも『そう』だと認めざるを得ないのだ。
(まさか……そんなはず)
朔真が居心地悪くなってきた頃、ゆっくりと馬車の動きが止まった。
御者が降りる気配がして、扉を開けてくれる。
「どうぞお降りください」
「……どうも」
御者から杖を差し出され、恐る恐る持った持ち手には青い宝石が象嵌されており、ひと目で高いものだと理解した。
馬車から降り、前方に視線を向けると更に圧倒されてしまう。
映画や漫画でしか見たことがない──あってもそれはどこかの国の王族が住んでいる──建物が、長い道の先にあった。
「ああ、ようやくいらっしゃいましたか」
すると朔真の姿に気付いたらしき人間がこちらに向かって来て、ほっとしたような表情を見せる。
「事故に遭われたのではないかと、恐れ多くも陛下が心配されております。さぁ、こちらです」
「え、あ、はい」
目を白黒させつつも、朔真は男について足早に歩く。
ここがアルバートの言っていた王宮らしく、その景観もさることながらどこに視線を投げても豪華な造りで、くらりと目眩がしそうになった。
(俺、場違いじゃないか……?)
朔真の気持ちに呼応するように、胃がキリキリと痛む。
どこかに薬はないか、と思ったが胃薬があるとはとても思えなかった。
「しばしお待ちください」
やがて大扉の前に着き、男が一礼する。
扉ひとつとっても美しい装飾がされており、重厚そうな両開きのそれは、左右に陣取る屈強な男達の手によりゆっくりと開けられた。
「アルト・ムーンバレイ公爵、ただいまご到着されましてございます」
ここまで先導してくれた男がいつの間にか背後に立っており、先程よりもやや厳かな声でそう言った。
開け放たれた扉の向こうは更に豪華絢爛で、朔真はやや目を眇める。
「……っ」
さぁ、と男が朔真の背を押して中に入れと促す。
馬車を出てすぐに持たされた杖は、いつの間にか男の手に渡っていた。
朔真は慎重に部屋の中へ足を踏み入れ、ややあって膝を突いた。何故かそうしないといけない気がした。
「──来たか」
面を上げろ、と声の主が続ける。
朔真の跪いた位置から距離はあるはずだが、よく通る声は低くどこか掠れている。
朔真はまるで糸に釣られた人形のようにわずかに頭を上げ、小さく息を呑んだ。
その身なりには威圧感があり、朔真は瞬きひとつ出来なくなった。
黒を基調としたウエストコートに身を包み、ひと目見ても分かる豪奢な椅子に初老の男性が脚を組んで座っていた。
あまり華美とはいかないが、服装はどこからどう見ても『国王』のそれだ。
「うぐっ」
朔真は場違いな事を口走りそうになったが、なんとか手で塞いで堪える。
(やべ、めちゃくちゃ『王モテ』の国王様じゃん……)
一時期朔真が読み耽っていた『王太子殿下や公爵様にモテすぎて困っています!』という、乙女系小説のキャラクターによく似ていた。
「まぁそう固くなるな。煩わしい挨拶も要らぬ」
ははは、と笑う初老の男──もとい国王には、朔真が静かに感激している事に気付いていない。
人の良さそうな笑みを口元に浮かべ、国王は傍に居た青年に何事かを耳打ちした。
「アルト・ムーンバレイ殿」
やがて青年がアルト──どうやら朔真のここでの名前らしい──を呼ぶ。
「父上が貴方を呼んだ理由、お分かりか?」
「へ」
図らずも素っ頓狂な声が漏れる。
じっと見つめてくる青年の水色の瞳は、遠目からも分かるほど疑念らしき色が見え隠れしていた。
すっと通った鼻梁に、美しい柳眉がやや寄せられているものの威圧感はまるでない。
肩ほどまである黒髪はすっきりと切り揃えられており、まるで女性のようだった。
(知りませんけど? そもそも俺は会社に行こうとしていたのに、いつの間にかここに居たんですけど)
そう言ってしまいたいが、いきなり支離滅裂なことを言う度胸も思い切りの良さも無い。
しかし馬車の中で頬を抓って確認したから、これは夢では無い事は確実なのだ。
「あ、えっと……」
もごもごと何を言おうか頭を働かせていると、溜め息が聞こえた。
何か粗相をしてしまったかと聞く気力もなく、細かい意匠のされた床を見つめるしか出来ない。
かと言って助け舟を出してくれる人間などいるはずもなく、次第に背中に冷たい汗が流れる。
「貴方と私の式の日取りを決めるためなのだが……忘れてしまわれたのか?」
「──は?」
何を言われたのかすぐには理解出来ず、視線を上げる。
国王の傍に居たはずの青年が、手を伸ばせばすぐ届きそうな距離に跪いていた。
いきなり眼前に美しい顔が現れ、知らず頬が熱くなる。
(え、近……いや、そうじゃなくて! 俺とこの人の式……? 日取り、ってなんだ)
ぐるぐるとその言葉が脳内を駆け巡る。
理解出来ないわけではないが、なぜかこの身体の中の本能が拒否していた。
「……そうか。では」
ぐいと青年が更に顔を近付け、鼻先が触れ合いそうな距離まで迫る。
「『結婚する』と貴方が泣いて頷いてくれるまで、分からせるしかないな」
くすりと小さく笑った美人は、艶やかな声でそう言った。
かくして朔真──改め、アルトの生活はこの時を境に一変した。
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