呪われ公爵様は偏執的に花嫁を溺愛する

香月文香

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キス

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 なぜか呆然としているのはユージンの方だった。
 信じられないという顔でイリーシャを凝視している。

「なんでしょう、その顔は。やっぱりやめますか?」
「やめない。……いいのか?」
「はい」

 イリーシャはぎゅっと目をつむり、薄く唇を開いた。
 ユージンの手が肩を掴む。火傷しそうなほど熱かった。

「……好きにするぞ」

 低くなされた宣言に、イリーシャはうっすら瞼を上げた。

「キスだけですよ。だいたい、ジーンは怪我を負っているのをお忘れですか?」
「大したことはない。医師にも驚かれるくらい傷は浅かった」
「頑丈なんですね」
「もういい、黙っていてくれ」

 イリーシャはまた目を閉ざした。

 暗闇の中、ユージンの気配が近づいてくる。ぐっと肩を引き寄せられ、逃すまいとするように頭の後ろを抱えられる。甘やかな吐息が唇に触れた。

 ちゅ、と唇に柔らかなものが押しつけられた。

 それはすぐに離れていった。イリーシャは冷静に状況を把握できた。意外とあっさりしたものだな、と拍子抜けしていた。

 けれど、ユージンの離れる様子がない。不審に思っていると、気配がもう一度近づいてきて、今度は唇を軽く食まれた。甘噛みされて、ぴり、と軽い痛みが走る。

「……んっ」

 思わず吐息を漏らす。ふ、と笑声がして、顔中に口付けられた。額、まぶた、頬、鼻の頭、顎……。すべてに触れないと気が済まないというようだった。イリーシャは体をこわばらせて、じっと耐えていた。これはいつ終わるのだろう。

「まだ足りない」

 突然耳元で囁かれて、イリーシャはびくっと目を開けた。瞳を蕩けさせたユージンが、唇を舌で舐めて笑っていた。

 ここに来て、イリーシャの背中に冷や汗が伝った。
 これは、当初の予想と違うかもしれない。

 イリーシャは震える声で申告した。

「あの、ジーン」
「どうした? 怖くなったか?」
「いえ、その……はい、少し怖いです」

 イリーシャは瞳を揺らし、切なげに眉を寄せた。彼女自身は気づいていないが、無意識のうちに彼のシャツの胸元にしがみついてしまう。温もりが彼女の緊張を和らげた。

 ユージンは無言でイリーシャの頭を撫でていた。子どもにするような、優しい手つきだった。

 そのうえで、綺麗に笑った。

「そうか、我慢しろ」
「えっ」

 ひょいと抱えられ、ベッドに横たえられる。イリーシャの白銀の髪が、星の洪水のようにシーツに広がった。

 イリーシャに覆いかぶさるユージンはいつになく楽しそうだ。ご機嫌で彼女の耳たぶを食んだり、鎖骨に口付けたりしている。イリーシャが思わず腕で押しのけようとすると、邪魔だというようにベッドに縫いとめられた。剣で貫かれ、包帯を巻いている方の手だったので、乱暴に振り放すのを躊躇ってしまった。

 押さえつけられたまま悲鳴をあげる。

「キスだけだと!」
「分かっている。キスしかしない」
「ちょ、待って、待ってください」
「待たない。噛みつく許可を与えたのはイルだ」

 口の開いた隙を狙って、ユージンの舌が口内を犯した。上顎を撫でられるたび、ぴくぴくと肩が跳ねる。まったく未知の感覚だった。頭の中がふわふわとして、上手くものを考えられなくなる。歯列を丁寧になぞられて、イリーシャは危うくユージンの舌を噛んでしまうところだった。

「は、あっ……」

 散々好き勝手されたあとにやっと解放されて、イリーシャは大きく息を吸った。顔全体が熱い。それだけじゃない。激しく心臓が脈打ち、胸がぎゅうっと苦しくなる。鼓動の音がユージンに聞こえてしまうのではないかと心配になるほどだ。

 イリーシャはちら、と彼を上目遣いに見た。ユージンは薄く笑い、熱っぽい目つきでイリーシャを眺め下ろしている。真っ赤になった彼女の頬の輪郭を人差し指で撫でながら、

「……溶けそうだな。俺で感じてるか?」
「っ」

 イリーシャはキッとユージンを睨めつけた。けれど、ただ撫でられるだけでもこそばゆくて、イリーシャのまつ毛の先がふるふると揺れる。瞬きした拍子に、涙の粒が目尻に転がった。上手に回らなくなった舌で、たどたどしく主張する。

「ちが、います。こわいんです。がまん、なんかできません。この、ばかっ」

 公爵令嬢としてあるまじき罵倒を投げる。使用人がときどきそう言っているのを聞いたことがあった。本当はもっと威厳をもって拒みたいのに、今のイリーシャには全然できない。

 怖いのは本当だった。情熱をぶつけてくるユージンも怖いし、どんどん自分の思考がぽわぽわしていくのも怖い。こんなのは私じゃない、とイリーシャは思った。鏡を見れば、自分と同じ顔をした、見知らぬ表情をした女と目が合いそうで恐ろしかった。

 ユージンは目を細め、無言でイリーシャを見下ろし、重々しく息を吐く。

 罵倒に傷ついたのだろうか、と考えた矢先、こめかみに伝った涙をユージンが舐めとった。イリーシャはきゅっと目をつむり、ちいさくふるえる。瞼の裏、ユージンが吐息だけで笑うのが分かった。

「……なら、とびっきり甘やかしてやろうな」

 ユージンが、耳のすぐそばで囁く。熱にかすれた声だった。そのまま耳殻に唇を触れさせる。ちゅっと音を立ててキスされて、反射的に目を開けようとすると、ユージンの手のひらが目元に押しつけられた。

「俺が全部教えてやるから……俺だけを感じていてくれ」

 視界を奪われた状態で、ユージンから蜜のような熱を与えられる。耳朶を何回も甘く食まれ、そのたびに熱い息が耳をくすぐる。それだけでは飽き足らず、耳の奥にまで舌が這う。目も耳もユージンの熱でいっぱいで、脳をぐちゃぐちゃとかき混ぜられているような気分だった。

「ひ、ぅ……」

 耐えきれなくなって新たな涙がにじんだところで、慰撫するようにまた唇にキスを落とされる。さっきされたのと同じことなのに、ただ見えない、というだけで、イリーシャの体は敏感に何もかもを拾い上げた。

 イリーシャはとうとう根を上げた。顔を背け、視界を遮る手を振り払った。

「こんなの、や……っ」

 イリーシャの上で、ユージンが意地悪く目を細める。唇同士が触れるか触れないか、というところで囁いた。

「それなら、イルはどこにどうキスされるのが好きなんだ? 教えてくれ」
「知り、ませんっ……」

 息も絶え絶えにイリーシャは答えた。白い頬が真っ赤に張りつめ、金の瞳は黄金を溶かしたように潤んでいた。

「も、むりです……っ」

 イリーシャは身をよじり、ユージンから逃がれようとした。

 長い髪が乱れ、うなじがあらわになる。ユージンはそこにふうっと息を吹きかけ、キスを落とした。たまらない、というように軽く噛みつく。

 瞬間、甘い痺れが走って、イリーシャの背中が弓なりに反った。

「……ぁんっ」

 イリーシャの唇から、信じられないほど甘い鳴き声が漏れた。ユージンが動きを止める。イリーシャも愕然とした。

 ……今のは、なんだ。

「……イル」

 しばしの沈黙のあと、ユージンが名を呼んだ。静かな声音の底に、隠しようもなく欲情の熱が流れているのを感じ取り、イリーシャは震えた。

 ベッドに押さえつけられていた手が自由になる。ユージンはイリーシャの頭の横に両手をつき、何かに耐えるように苦しげに言った。

「……いいか?」

 この先に進んでも。

 その意味を理解した瞬間、イリーシャの瞳に理性が戻った。

 腕を振り回してもがき、ほとんどベッドから転げ落ちながら絶叫した。

「これでおしまいです! 今日は自分の部屋で眠ります。おやすみなさい。ジーンは安静にしてくださいね」
「イル」
「それではさようなら!」

 ユージンの呼び声を振りほどき、イリーシャはもつれる足で寝室を飛び出した。暗い廊下を駆け抜け、自室に転がり込んだ。

 イリーシャはベッドに座り込み、頭を抱えた。ものすごい自己嫌悪だった。
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