呪われ公爵様は偏執的に花嫁を溺愛する

香月文香

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初夜・準備編

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 結婚式を終えたあと、公爵邸に戻ったイリーシャは自室に引きこもった。ユージンは執務のため出かけている。公爵家当主として忙しいらしかったが、彼女にとっては顔を合わせずに済むので助かった。

 ベッドに腰かけ、日の暮れかかった景色を眺める。窓から臨む庭は綺麗に整えられ、夕陽を浴びてオレンジ色に染まっていた。

 ドアがノックされて、侍女のアンナが夕食を運んでくる。銀盆に乗せられているのは、温かな野菜スープと焼きたての白パンだ。ここ最近、イリーシャは食欲というものを失っていたので、自室で一人、黙々とこういったものを食べている。アンナが心配そうに視線を向けたが、イリーシャがしょんぼりとパンを食べ始めると、何も言わずに部屋から出ていった。

 悪いことをしてしまったな、とイリーシャは思う。アンナはずっとイリーシャに付いてくれている侍女で、今までなら何くれと雑談に興じたものだった。だが、ロビンを失って以来、イリーシャは沈鬱に黙り込んで、ただ生命維持に必要な活動だけを行うのに精一杯だった。この食事だって、その様子を見たアンナが食べやすいように気遣って調えてくれたものだ。それなのに、イリーシャはお礼の一つも言えていない。

 パンをちぎる左手に、指輪が輝いている。もう戻れないのだ、と唐突に思った。しゃくりあげそうになる喉に無理やりパンを詰め込み、嗚咽を飲み下す。熱くなった目元をぐいと擦り、上を向いた。イリーシャはもはや、ユージンの妻として生きていくしかないのだ。

 明日はアンナに感謝を伝えよう、と決めて、野菜スープを口に運ぶ。よく煮込まれて、優しい味わいだった。
 そこでふと気づく。

(今夜が初夜になるのでは……?)

 結婚式を終えたので、そうなるのは自然なことだった。
 銀盆の上にスプーンを落とし、両腕で身体を抱きしめる。がちがちと歯が鳴った。せっかくの食事が、胃から逆流しそうだった。

 イリーシャとて公爵令嬢、閨房のなんたるかくらいは知っている。だがそれは、もう少し先の未来の話で、すぐに自身に降りかかってくるものとは思ってもみなかった。

(でも、ジーンは忙しいのだから、今夜は帰ってこないかもしれないし)

 その希望的観測は容易く打ち砕かれることになった。

 夕食後、入浴しようとすると侍女たちが待ち構えていて、「当主のご命令です」と言いながら、イリーシャを徹底的に磨き上げたのだ。抵抗するも多勢に無勢、というかその中にアンナもいて、イリーシャは思わず「裏切りもの!」叫ぶところだった。

 全身余すところなく何やらいい匂いのする石鹸で洗われ、高価な香油などを肌にすり込まれ、イリーシャはぴかぴかになった。そのまま新しい寝衣を着せ掛けられ、当主の寝室に案内される。広々とした部屋の真ん中に大きなベッドが鎮座しているの目の当たりにして、くらりと目眩がした。柔らかそうな枕が二個ある。二個も!

 ここは、一年前にユージンの両親が亡くなってからは、ずっと使われていない部屋だった。クロッセル公爵家の当主の寝室なのでロビンが使うべきだったが、彼はまだ妻帯しておらず、一人で使うには広すぎて落ち着かない、慣れた部屋の方がいい、などと言って放置していたのだ。

 それが今、室内は隅々まで掃除され、角灯には火が灯り、暖かな空気が満ち満ちている。準備万端、といった様子だった。

 イリーシャはおそるおそるベッドに腰かけた。新たに用意された寝衣は白いシルクのネグリジェで、特に露出が多いわけではないのは安心だった。肩はしっかり覆われており、レースのあしらわれた裾も足首まで広がっている。とはいえ、生地が薄くて落ち着かない。イリーシャはそわそわと足を組み替えたり、胸元のサテンのリボンを引っ張ったりしてやり過ごした。

(私はちゃんとやれるのかしら)

 寝室で一人待っていると、とりとめもなく思考が浮かんでくる。イリーシャは俯き、隙なく磨かれたつま先に視線をやった。

 弟を殺した男に、身体を許すことができるのか?

 イリーシャは目を閉じる。そうすれば、意識は容易にあの月の明るい夜に引き戻される。

 あのとき差し伸べられた手には、ロビンの血が点々と飛び散っていた。その形まで正確に、彼女は思い出すことができる。

 それと同じ手で触れられて、イリーシャは耐えられるのか?

 そもそも、とイリーシャは思う。ユージンのあの異常な執着は何なのだ。彼はどうも、イリーシャのことを愛している……らしい。あの夜、彼はそう言っていたし、そのせいでロビンを殺めたのだと。

 けれどもそれは、イリーシャの知っている愛とはまったく別物だった。

 イリーシャにとって愛とは、もっとやわらかで優しいものだった。ロビンへの愛、かつてユージンに向けた愛、そして二人から受け取る愛……そのどれも、誰かを傷つけるものではなく、純粋に相手の幸福を祈るだけの、真綿に包むようなものだった。


 あんな激情を、ぶつけられたことはなかった。
 イリーシャはぽすんとベッドに倒れ込む。ユージンはいつからあれを抱えていたのだろう。ずっとあの熱をひた隠して、イリーシャに接していたのだろうか。優しい兄の顔をして。

 かつてのことを思い出す。一度だけ、ユージンにキスされそうになったことがある。

 茹だるように暑い、夏の日だった。イリーシャは十四を迎えたばかりで、急激に伸びた手足や、丸みを帯びる体つきに無頓着だった。いつもと同じように、授業の合間に庭に出て、大木にのぼって遊んでいた。庭の真ん中に生えたその大木はがっしりと幹が太く、張り出した枝もしっかりしていた。そこに腰かけると遠くまで見渡せて、その頃のイリーシャの一番のお気に入りだった。

 その日もイリーシャは枝に座り、抜けるような青空に湧く入道雲や、陽炎にぼやけた街を眺めていた。

 そこへやってきたのがユージンだった。彼は暑さに顔をしかめながら、イリーシャに声をかけた。

「イル! 家庭教師が探していたぞ」
「ええ? まだ休憩時間中なのに」

 イリーシャはぷうっと頬を膨らませる。ユージンが眩げに瞳をすがめた。

「もうすぐ社交界デビューだろ。ダンスの特訓をすると言っていた」

 それを聞いて、イリーシャはますます唇を尖らせた。彼女はその頃、ダンスが下手だったのである。ずっと軽やかに動いていた手足が、成長するにしたがって思い通りに動かなくなって、苦しかった。幹にしがみつき大げさに嘆いてみせる。

「嫌です。私はずっとここにいて、木の精霊ドライアドになります」

 ユージンが困ったように笑って、イリーシャに向かって両腕を広げた。

「そうしたら俺は二度とイルに会えないわけか? 寂しいことを言わないで、降りてこい。危ないぞ」

「平気ですよ。ほら、見ててください!」

 イリーシャはふざけて両手を離した。枝の上でバランスを取るくらい、簡単なはずだった。だが、成長期を迎えて間もない身体は思ったよりも重く、イリーシャは均衡を崩した。

 あ、と思ったときにはもう、地面に向かって真っ逆さまに落ちていた。澄んだ青空に、イリーシャの白銀の髪が流星の尾のように流れる。遠ざかる枝も、近づいてくる地面も、何もかもがゆっくりと視界を過ぎていった。その中で、必死の形相をしたユージンが駆け寄ってくるのがはっきり見えた。

「イリーシャ!」

 ほとんど悲鳴のような声が響く。ぶつかる、と覚悟を決めたイリーシャはしかし、何かにしっかりと抱きとめられて、地面に激突することはなかった。おそるおそる顔を上げると、イリーシャはユージンの腕の中に固く閉じ込められていた。

 ユージンの体が小さく震えているのを感じて、イリーシャはつい彼の顔を覗き込んだ。彼は今までに見たことのないほど悲痛な表情で、イリーシャを凝視していた。その場に崩れ落ち、強く抱きしめる。耳元に低く掠れた声が触れた。

「イル……この、馬鹿」
「ごめんなさい、ジーン」

 イリーシャもさすがに反省した。落下の感覚が抜けず、まだ胸がドキドキしている。覚えず縋るようにユージンに身をもたせかけた。軽やかさを失い、柔らかさを帯びた彼女の身体は、ユージンに隙間なく寄り添う。彼の腕にますます強く力がこめられた。

「ジーン、腕を擦りむいています」

 自分を囲う腕に傷口を見つけ、イリーシャは声をあげた。ユージンはうるさそうに腕を見て、「大したことないさ」とうそぶいた。

「ダメです。ちゃんと手当てしないと」

 イリーシャはハンカチを取り出し、傷口に当てた。治りますように、と念じて手をかざす。昔からイリーシャが手当てをすると治りが早いと言われていて、そうするのが癖になっていた。

「ほら、ちゃんと洗いにいきましょう?」

 イリーシャは微笑んで顔を上げ、呼吸を飲み込んだ。思ったよりもずっと近く、ユージンの顔があった。まつ毛の一本一本が数えられる距離だった。長いまつ毛の下、赤い瞳が熱っぽくイリーシャに向けられていた。イリーシャの背に回されていた手がそっと移動し、彼女の後頭部を支えるようにした。

 ユージンの額から汗が流れ、こめかみを伝って地面に落ちた。

 端正な顔が近づいてくる。吊り込まれるように、イリーシャは瞼を下ろした。そうするのが自然な気がした。

 薄く開いた唇に、甘やかな吐息がかかる。瞼の作った暗闇の中、間近にユージンの気配を感じて、イリーシャの鼓動が乱れた。自分を抱く腕のしなやかさや、逃すまいとする大きな手のひらの熱さが肌を暴き、ぞくぞくとしたものが背筋を走った。

 けれど、それより近くに、ユージンが触れることはなかった。

 彼はパッと腕を離し、立ち上がった。イリーシャには顔を見せず、「悪い、頭を冷やしてくる」と口中で呟くと屋敷の方へ駆けていった。黒髪の合間から覗く耳が、真っ赤になっているのが見えた。

 一人取り残されたイリーシャは、ぼうっとして頬に手を当てた。今のがなんだったのか、あのまま先に進んだらどうなっていたのか、彼女には分からなかった。けれど、嫌ではなかった。知らないことばかりだけれど、ユージンが教えてくれるなら、きっと受け入れられる、とイリーシャは顔を赤くした。

 その後、庭の大木は切り取られ、イリーシャはお気に入りの場所を失った。そのうちに成長した体の取り扱いに慣れ、ダンスもこなせるようになった。
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