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5 心労がすごい

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 数日経って頭の怪我が治ると、すぐにグレンは出仕するようになった。混乱を避けるために記憶喪失のことは内密にするらしい。忘れたのはリゼルにまつわる記憶だけだから、仕事には支障がない。

 彼が長を務める王立騎士団の任務は、主に王都の治安維持と魔獣の退治だ。

 魔獣とはこの国に昔から現れる人間に害なす獣で、おぞましい姿を持ち、普通の動物とは異なり体躯も大きく膂力も強い。そのため武技に優れた精鋭達が集まって、騎士団を編成し国民を守っている。

 グレンが怪我を負ったのもこの魔獣と戦っていた時というから、戦場の激しさは察して余りある。リゼルとしては今度は無事に帰ってきますように、と祈るしかないのだが……。

「ただいま戻った、リゼル」

「お、お帰りなさいませ」

 その夜、屋敷の玄関ホールでぱたぱたと出迎えたリゼルを認め、騎士服姿のグレンは眦を和らげた。肩にかけたマントを使用人に渡し、リゼルに向かって右手を差し出す。

 そこには、可憐なローズマリーとゼラニウムの花束が握られていた。

「あ、あの……? これは……?」

 フリルのようなゼラニウムの赤い花を、ローズマリーの葉が控えめに囲んでいる。ローズマリーの清々しい香りが漂い、鼻先をくすぐった。

 可愛らしい花束を前にきょとんとするリゼルに、グレンは照れくさそうに言う。

「今日の見回り先で見つけたんだ。リゼルに似合うと思って」

「は、花……を……私に……?」

 眼前に差し出される花束は、ささやかだけれど凛とした美しさに満ちている。リゼルのどこに似合う要素があるのか全く理解できない。

 受け取ることもできずにその場に立ち尽くしていると、グレンの眉尻が悲しげに下がった。

「あまり花は好みではなかったか」

「い、いえ、そんなことは。嬉しい、です。……ローズマリーもゼラニウムも魔法薬に使いますから親しみ深いですし……」

「では受け取ってくれ」

「は、はい」

 半ば押しつけられるようにして手に取れば、ローズマリーの香りが一層強く立ち上る。つられるように花に顔を近寄せると、知らず微笑が浮かんだ。リゼルは花が好きだった。窓すらない雨漏りばかりの実家の離れで、村人のためにこっそり魔法薬を作りながら、時々ネイが持ってきてくれる花を飾って心を慰めていたものだ。

「ありがとう、ございます。旦那様」

 微笑みの余韻を残したまま礼を言うと、ふっとグレンが片笑んだ。

「やはり似合う。今日一日、リゼルがこれを喜んでくれるかが最も気がかりだった」

「お、大げさでは」

「大げさなものか。俺はリゼルの笑顔を見たいのに、君を喜ばせるのは何より難しい」

「…………そ、そうですか」

 リゼルは絶句した後、花束に顔を隠すようにしてぽしょぽしょ呟いた。頬が熱い。

(本当に、旦那様はどうしてしまわれたのかしら)

 記憶喪失前の彼との寒暖差が激しすぎる。あまりの違いに風邪を引きそうだ。

 当のグレンは、顔を赤くするリゼルを微笑ましそうに眺めている。それからそっと肩を抱いて、リゼルを食堂の方へ誘った。

「では、一緒に夕食を摂るとしよう」

 グレンが記憶を失って以来、一事が万事こうだった。

 今まで出迎えを望まれたことも、食事に誘われたこともない。しかし今のグレンは何かとリゼルをそばに寄せたがり、物を贈りたがり、会話をしたがった。

 食堂でグレンと向かい合って座れば、ネイが複雑そうな顔で給仕をしてくれる。他の使用人達も以前のグレンを知っているだけに、屋敷には妙な緊張感が漂っていた。

 それに気づいているのかいないのか。グレンはしらっとした顔で卓上に並べられた料理を平らげていく。リゼルもスープを飲み、ちまちま食べ進めた。

 騎士であるグレンと日がな一日屋敷で過ごすだけのリゼルでは、食べる量もスピードも違う。大抵グレンの方が早く食べ終える。

 しかし、今の彼は遅々としたリゼルの食事に嫌な顔一つしない。食後のワインを優雅に傾けながら、のんびりとリゼルを眺めているのだった。

「リゼルは今日、どう過ごしていた?」

 やっとデザートの苺タルトに取りかかっていたリゼルは、ぽかんとして手を止める。

 手元の白い皿の上、サクサクのタルト生地に飾られた苺は真っ赤に熟れていた。食卓上に置かれた燭台の光が、ナパージュを塗られた苺の表面を艶やかに照り映えさせる。

 そのさゆらぐ輝きを見つめ、リゼルは少し考え、ゆっくりと頭を振った。

「旦那様にお伝えするような重要なことは、何も……」

「何でもいい、話してくれ。俺はリゼルのことを知りたいし、君の話を聞くことで、記憶が戻るような気がする」

 こちらに向けられた翡翠色の双眸が、甘やかに細められる。リゼルの心臓がドッと跳ね、危うくケーキ皿をひっくり返すところだった。危ない。それは記憶喪失以来、グレンがよくやる目つきだったが、いつまで経っても慣れない。

「ほ、本当に何も、ないのです」

「些細なことで構わない。例えば、昼は何をしていた? 俺は王都に近い街の見回りと、部下の喧嘩の仲裁をしていた」

 何だか物騒な発言に、リゼルは思わず目を丸くする。

「け、喧嘩ですか?」

「ああ。酒場の娘に失恋した団員を、他の奴らが煽ったら殴り合いに発展した。最終的にはその酒場で失恋を慰める会を開催することで落ち着いた。俺の快気祝いも兼ねるらしい。騎士のくせに馬鹿ばかりだ……」

 遠い目をするグレンだが、口調は柔らかい。何となく胸に打ち寄せるものがあって、リゼルは幾度か頷いた。

「旦那様は団員の方々を大切になさっていて、皆様にも慕われている、のですね……」

「共に死線をくぐる仲だからな。否が応でも絆は深まる」

 いいなあ、と素直に思った。リゼルはそんな風に、対等に親しく付き合う関係を築けた経験がない。ネイとは仲が良いし、彼女のことは大好きだけれど、それはやはり主従を前提とした仲だ。

 グレンがグラスを持ち上げ、軽く揺らしてから一口飲む。濡れた唇の端にちらと苦笑が滲んだ。

「リゼルには、もう少し格好のつく話を聞かせたかったんだがな。生憎と手持ちがなかった」

「私に格好をつけてどうするのですか?」

 そうは見えなかったが、割と見栄を張りたい性質なのだろうか。小首を傾げるリゼルに、グレンがむっと口を尖らせる。

「リゼルに俺を好きになってもらいたいから。それ以外にあるか?」

「え、あ、そう、ですか……」

「で、リゼルは今日、何していたんだ。くだらない話で良いから聞きたい」

「え、ええと。では、そうですね……。今日はネイと――」

 フォークを握り直し、緊張で渇く唇を舌で湿しながら、内心リゼルは頭を抱えていた。

(こ、こんな状況、とても受け止めきれないわ!)

 胃がしくしく痛み始める。屋敷の料理人が腕によりをかけた苺タルトは絶品のはずなのに、ちっとも甘さを感じられなかった。

 心労の限界だった。
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