呪われた王子様と脇役の私

香月文香

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脇役の私

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 ユリエルの呪いを解いた運命の乙女は、実は亡国の皇女だったという。正統に王位継承権を取り戻したユリエルの周りはにわかに騒がしくなった。〈落日の宮〉には宰相や大臣が足繁く通う。ユリエルの隣には皇女がいて、いつでも麗しく微笑んでいる。世話役もたくさん送り込まれてきて、イヴはもう、ユリエルのそばに近づくことはできなかった。
 これでいい、とイヴは自分を納得させる。


(私は運命の乙女にはなれなかった。王子様の隣には、清廉可憐なお姫様がお似合い。ただそれだけのことよ)


 それでも、と心のどこかが軋みをあげる。先に恋したのは、ずっとそばにいたのは、他の誰でもない、イヴ・コートニーなのだ!
 ユリエルが呪われてしばらく、いやしくも王族なのだから周囲に下賤な者を置くわけにはいかぬ、と男爵令嬢のイヴが世話役として抜擢された。下働きが〈落日の宮〉からどんどんいなくなって、貴族なら決してやらないような水仕事もイヴは喜んでやった。ユリエルの話し相手を務めるために、語学、地理学、歴史学を修め、様々な本を読んだ。彼の呪いを解く方法がないかと、魔術も勉強した。公の場で絶対に彼が侮られないよう、貴族の相関図や人柄を完璧に頭に叩き込んだ。礼儀作法も淑女としての振る舞いも、文句なしにこなせるようにした。

 全部、全部、好きなひとのためだ。

 でもそんなことには意味がない。イヴの努力も、積み重ねた時間も、運命の前には等しく無力だ。
 イヴは時々、皇女とすれ違う。皇女は本当に、可憐な少女だった。さらりとした金の髪。森の奥深くに湛える湖のような翠の瞳。華奢な体を、フリルとリボンのたっぷりあしらわれたドレスで包んでころころと笑う。非の打ちどころのない、人形のように愛らしいお姫様。
 彼女はすれ違ったイヴが頭を下げても見向きもしない。脇役が主人公の目に入らないのは当然のこと。イヴを個として認識しているかも怪しかった。
 仕方がないと分かっていても。そのたびに、肩に重い石でもくくりつけられている気持ちになった。


(もう、世話役を辞めよう)


 コートニーの実家に戻っても、居場所はないだろう。ジルの愛人なんかは論外として、きっと報償金が支払われるだろうからそれを元手に商売でも始めようか。隣国へ行くのもいいかもしれない。幸い、周辺国の言語は一通り修めている。下働きも慣れたものだから、自分一人くらいの食い扶持は稼げるだろう。それで、それで——もう、叶わない恋は捨てるのだ。呼び声も聞こえないほど遠くへ行けば、心の奥深くに根を張った恋心も、やがて枯れていくに違いない。
 誕生日パーティ以来初めてユリエルに話しかけられたのは、イヴがそうひっそりと決意した日だった。
 ユリエルはいつもと変わらない距離でイヴを見つめていた。
 だからイヴも世話役らしく頭を垂れた。


「イヴ、悪いが紅茶を淹れてくれるか」

「かしこまりました」

「彼女の紅茶にはこれを一滴垂らしてくれ。彼女の国の香りづけらしい」

「かしこまりました」


 ユリエルは小さなガラス瓶をイヴの手のひらに乗せた。透き通った青色で、少し揺らすと、中の液体がとろりと揺れた。
 彼と別れ、厨房の隅でイヴは湯を沸かす。紅茶を淹れるのは久しぶりだったが、彼女の手はすらすら動いた。てきぱきと茶葉を取り出し、ユリエルの好み通りに計量する。
 茶器を取り出そうと棚の扉を開けたとき、埃を被った薬瓶が目に入った。呪紋の侵食を抑える薬だ。かつては毎晩、これを呪布に浸していた。少し触れただけでも筋肉が痺れ、一滴でも舐めれば死に至る劇薬だから、気をつけるようにと言い含められていた。

 ——ガラス瓶を握りしめる。ユリエルから渡された、運命の乙女のための美しい小瓶を。

 迷いは刹那。イヴの手は淀みなく、薬瓶を取り上げた。ティーカップ一つにひと垂らし。それでおしまいだった。
 いつも通りに紅茶を淹れ、いつも通りにユリエルの元に運ぶ。彼は皇女とともに、中庭のテーブルで待っていた。
 よく躾けられた世話役の動きで、皇女の前にティーカップを置く。香りづけされていないことに、彼女は気づくだろうか。それともユリエルが?
 皇女が華やいだ声をあげて、ティーカップを持ち上げる。ユリエルは微笑みながら、その様子を見つめていた。心底愛おしいというように、柔らかく目元を緩めて、頬を染めて。
 その瞬間、イヴは思わず手を伸ばしていた。


「待っ——」


 けれど最後まで言うことは叶わなかった。
 身を乗り出したイヴを遮るように、ユリエルが彼女の腕を掴んだ。ぐいと引っ張られて、彼の胸元に倒れ込む。
 次にイヴの耳に届いたのは、令嬢のしゃがれた呻き声と、えずく音だった。
 周囲が騒然となる。メイドが悲鳴をあげ、どこかの大臣が喚く。その全てが音程の狂った音楽のように鼓膜を突き刺した。
 イヴを包む腕に力がこもる。力の抜けた体を引き上げられ、ユリエルの隣に立たされた。
 ユリエルが四囲を睥睨し、口を開く。


「騒ぐな」


 それだけで、しんと辺りは静まり返る。
 彼は虫でも見るかのような眼差しで、倒れ伏す皇女を見下ろす。


「よく見ろ。そいつは魔女だ」


 ハッとしてイヴも皇女を凝視する。瑞々しい肌はしわくちゃに、苦悶に見開かれた目は黄色く濁り、華奢な腕は枯れ枝のようだった。


「何が呪いだ。初めから運命の乙女として俺に近づき、王妃の座に座るのが目的だったのだ。とっくに調べはついている。……そして」


 ユリエルがイヴの肩を抱き寄せた。人々の視線が突き刺さり、彼女は体を縮める。


「この策にはイヴ・コートニーが協力してくれた。俺の指示通り、魔女に薬を盛った。おかげで怪しまれずに正体を暴くことができた」

「わ、私は——」


 イヴは言葉を失った。違う、違う、私はそんなつもりではなかった。
 ユリエルを振り仰ぐ。その瞬間、自分が何に捕まったのかを悟った。
 底光りする蒼の瞳。その奥で熾火のように揺らめく執着。
 ユリエルは白い頬を染め、うっそりと微笑む。イヴの肩に、彼の指が食い込んだ。
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