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口づけ
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〈落日の宮〉に帰っても、ユリエルは無言のままだった。イヴは何度も口を開いては、かける言葉が見つからず、結局目を伏せるだけだった。
ジルの言葉は事実だ。もうじきジルは誕生日を迎え、そしてその後ユリエルは——。
「イヴ」
低く名を呼ばれ、イヴは肩を震わせた。
太陽は地平線にわずかに顔を覗かせるだけとなり、窓の外は薄闇に包まれている。燭台に火を灯さなければ、と思った。
「こっちへおいで」
薄暗い部屋の中、ユリエルが一歩近づいてくる。革靴の踵が床を叩く硬い音が、物の少ない部屋に虚ろに反響した。
「寒いのか?」
震える彼女に気遣わしげな声をかけて、ユリエルがそっと腕を広げる。イヴが嫌がらないことを確認すると、強く彼女を抱きしめた。
それで限界だった。
「ユリエル様」
イヴは子供のようにしゃくりあげ、ぼろぼろと涙をこぼした。ユリエルの大きな手のひらが彼女の頭を撫でる。その暖かさにますます目の奥がつんと痛んだ。
痛いくらい囲われた腕の中、彼女は顔を上げた。濡れた瞳で強くユリエルを見つめる。ずっと心の底に秘めていた言葉を言うなら、今しかないと思った。イヴの人生の中で、最も劇的なのは今この瞬間だと。
深く息を吸い込み、はっきり告げた。
「私と、口づけしてください」
イヴは目をそらさなかった。彼女のブラウンの瞳に射竦められたように、ユリエルの手がぴたりと止まった。
彼のシャツの胸元を握りしめて背伸びをし、必死に言い募る。
「どうかユリエル様のために……。わ、私が、運命の乙女、かもしれないでしょう」
「イヴ、それはできない」
ユリエルはきっぱりと首を横に振った。苦しげに顔を歪め、腕をほどく。
急に寒気が忍び寄ってきた気がして、イヴは体を震わせた。
「ど、どうして、ですかっ……」
どんどん濃くなる闇の中、彼の表情は窺えない。ただ声だけが、無慈悲なほど大きく部屋に響いた。
「君は『運命の乙女』にはなり得ない」
■ ■ ■
分かっている。分かっていた。
その夜、イヴは眠るユリエルの顔を眺めながら、唇を噛んだ。
彼はベッドで穏やかな寝息を立てていた。銀の髪が燭台の灯りを鈍く反射している。本物の御伽噺の王子様のようだ。そのかんばせの半分が呪紋の進行を抑える劇薬を浸した呪布に覆われていても、イヴにとっては——。
でも、彼にとっては違うのだ。
ベッドの横で石像のように佇んでいたイヴが、そっと身をかがめた。覆い被さるように寝顔を覗き込んで、垂れ落ちる自分の髪を押さえる。規則正しく呼吸を繰り返す唇に唇を寄せた。
吐息が交じる。
触れたのは一瞬だった。イヴは弾かれたように後ずさり、口元を覆ってユリエルを見下ろす。
静かな寝姿には、何の変化もなかった。
「……ふふ」
喉の奥から笑い声が漏れて、慌てて部屋をあとにした。扉を閉めたところで、ずるずると崩れ落ちる。乾いた笑いが泡のように浮かんでは消えた。うずくまって必死に声を噛み殺す。
どれほど純粋な恋心で飾り立てようと、イヴが振りかざしたのはただの暴力だった。運命の乙女なんてロマンチックな響きに憧れて、ユリエルのためを想って、だなんて綺麗事を言いながら、下心を持って。こんな愚かで醜い女が、運命の乙女になんてなり得るはずがない。
朝日が上るまで、イヴはそうしていた。
ひたすら惨めだった。
ジルの言葉は事実だ。もうじきジルは誕生日を迎え、そしてその後ユリエルは——。
「イヴ」
低く名を呼ばれ、イヴは肩を震わせた。
太陽は地平線にわずかに顔を覗かせるだけとなり、窓の外は薄闇に包まれている。燭台に火を灯さなければ、と思った。
「こっちへおいで」
薄暗い部屋の中、ユリエルが一歩近づいてくる。革靴の踵が床を叩く硬い音が、物の少ない部屋に虚ろに反響した。
「寒いのか?」
震える彼女に気遣わしげな声をかけて、ユリエルがそっと腕を広げる。イヴが嫌がらないことを確認すると、強く彼女を抱きしめた。
それで限界だった。
「ユリエル様」
イヴは子供のようにしゃくりあげ、ぼろぼろと涙をこぼした。ユリエルの大きな手のひらが彼女の頭を撫でる。その暖かさにますます目の奥がつんと痛んだ。
痛いくらい囲われた腕の中、彼女は顔を上げた。濡れた瞳で強くユリエルを見つめる。ずっと心の底に秘めていた言葉を言うなら、今しかないと思った。イヴの人生の中で、最も劇的なのは今この瞬間だと。
深く息を吸い込み、はっきり告げた。
「私と、口づけしてください」
イヴは目をそらさなかった。彼女のブラウンの瞳に射竦められたように、ユリエルの手がぴたりと止まった。
彼のシャツの胸元を握りしめて背伸びをし、必死に言い募る。
「どうかユリエル様のために……。わ、私が、運命の乙女、かもしれないでしょう」
「イヴ、それはできない」
ユリエルはきっぱりと首を横に振った。苦しげに顔を歪め、腕をほどく。
急に寒気が忍び寄ってきた気がして、イヴは体を震わせた。
「ど、どうして、ですかっ……」
どんどん濃くなる闇の中、彼の表情は窺えない。ただ声だけが、無慈悲なほど大きく部屋に響いた。
「君は『運命の乙女』にはなり得ない」
■ ■ ■
分かっている。分かっていた。
その夜、イヴは眠るユリエルの顔を眺めながら、唇を噛んだ。
彼はベッドで穏やかな寝息を立てていた。銀の髪が燭台の灯りを鈍く反射している。本物の御伽噺の王子様のようだ。そのかんばせの半分が呪紋の進行を抑える劇薬を浸した呪布に覆われていても、イヴにとっては——。
でも、彼にとっては違うのだ。
ベッドの横で石像のように佇んでいたイヴが、そっと身をかがめた。覆い被さるように寝顔を覗き込んで、垂れ落ちる自分の髪を押さえる。規則正しく呼吸を繰り返す唇に唇を寄せた。
吐息が交じる。
触れたのは一瞬だった。イヴは弾かれたように後ずさり、口元を覆ってユリエルを見下ろす。
静かな寝姿には、何の変化もなかった。
「……ふふ」
喉の奥から笑い声が漏れて、慌てて部屋をあとにした。扉を閉めたところで、ずるずると崩れ落ちる。乾いた笑いが泡のように浮かんでは消えた。うずくまって必死に声を噛み殺す。
どれほど純粋な恋心で飾り立てようと、イヴが振りかざしたのはただの暴力だった。運命の乙女なんてロマンチックな響きに憧れて、ユリエルのためを想って、だなんて綺麗事を言いながら、下心を持って。こんな愚かで醜い女が、運命の乙女になんてなり得るはずがない。
朝日が上るまで、イヴはそうしていた。
ひたすら惨めだった。
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