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第六十話 失恋カフェ
しおりを挟む「ねぇ店長は失恋ってしたことある?」
またその話かと男はため息をついた。
誰だこいつと休憩時間がかぶるようなシフトにしたのは、と心底恨めしい気持ちになったが、自分以外の何者でもない。
そもそも人手が足りていないのだから、かなりの確率で昼時が重なるのは不可抗力だった。
初めこそ、気の毒だと思いもした。
さっさと告白してしまえ、と投げやりにけしかけた負い目があるから尚更だ。
しかしこうも長い間うじうじされれば、いい加減立ち直れと言いたくもなってしまう。
「休憩室はてめえの失恋カフェじゃねぇんだよ」
そう吐き捨てれば、無月は「ひどいわ!」と憤慨する。
余計にうるさくなったと眉をひそめる他ない。
「少しくらい話を聞いてくれたっていいじゃない!」
「うるせぇ! 一体何度同じ話を聞かされてると思ってんだ」
「店長の方がうるさいですよ」
同じく休憩中だったチーフに指摘され、男はぐっと苛立ちを抑える。
「いいじゃないですか、話くらい聞いてあげたら」
「……さっさと次の恋すりゃいいんだ、若いんだから」
「それは店長には言われたくないんじゃないですか?」
さらりと発された言葉に、無月は微かに首を傾げた。
どういう意味なのだろう。
店長は既婚者なのに。
左手に光る控えめな指輪は、どこからどう見ても結婚指輪だ。
無月の疑問を察した男は、何でもないことのようにコーヒーを啜った。
「あぁ、そうか、藤泉院は知らなかったか。嫁さん亡くなってんだ」
特に悲しげな声でもなかった。
無理をしている様子でもなかった。
彼の中ではもう全てが、納得のいく場所に収まっているようだった。
だからこそ、その事実は、すとんと無月の胸に落ちてきた。
気を使う必要はないのだと、伝わってくる。
「お前も驚くような美人だ。写真見るか?」
懐かしんでいるのだろう。
声の響きがいつになく柔らかい。
「見たいわ」
そう言うと、どこか嬉しそうに彼は液晶の画面を差し出した。
写真に写る彼女は、緩やかにウェーブした髪をなびかせた、背の低い女性だった。
瞳は慈愛に満ちており、腕には小さな女の子が抱かれている。
「本当、綺麗な人ね」
心の底から無月はそう思った。
世界中の誰よりも幸せそうな笑顔だった。
「そうだろ」
そして眼前の男もまた、全く同じ顔をしている。
きっと彼は今でも、誰より彼女を愛していて、それが何より幸せなのだろう。
「ねぇ店長、そんな素敵な恋ができる秘訣ってあるの?」
若い悩みだと思った。
苦くて爽やかで、眩しい悩みだ。
「とりあえず笑っとけ。女は笑ってさえいれば数百倍は可愛く見える。おら、休憩終わりだ。フロアに出ろ」
言葉尻は素っ気なかったが、無月はその言葉に確かに勇気付けられた。
そうだった。
どんなときも笑顔を忘れてはいけない。
一瞬一瞬の楽しさを蔑ろにしてしまうから。
笑って、日々を慌ただしく過ごしていれば、この胸の痛みもじきに引いていくのだろう。
いつか、他の誰かと愛し合うこともあるかもしれない。
それは少し、寂しい気もするけれど。
少なくとも、このまま前にも後ろにも進めないよりはずっと良い。
「ありがとう店長! とりあえず、目の前のことに打ち込んでみるわ」
そう言って、無月は慌ただしく部屋を出て行った。
「……バックヤードでばたばたすんなって言ってんだろ、まったく」
男は大きくため息をつくと、自分もそろそろ業務に戻るかと席を立つ。
そうして扉に手をかけたところで、その扉が勢いよく開いた。
「うおっ、何だ」
思わず肩を揺らし、突然眼前に舞い戻ってきた人物に、不審げに眉をひそめる。
「忘れ物か?」
そこには、先程までの威勢が嘘のように、おどおどと戸惑った無月がいた。
思わずチーフも立ち上がり、「どうしたの?」と駆け寄る。
無月は、二人を交互に見つめ、「……どうしよう」と口を開いた。
「彼が、いるの、フロアに一人で」
――――……
運の悪いことに、今日は特に人手が足りていない日だった。
キッチンは場立ちのような騒ぎであるし、フロアはチーフ、無月、そしてベテランアルバイトの三人で何とか回すことになっている。
無月がフロアに戻れば、今立ち働いている女性は休憩に入ってしまう。
そしてチーフは、あと三十分は休まなければならない。
つまり必然的に三十分間、無月は一人で接客を行うことになる。
勿論、店長もフォローに入るつもりではいたが、特定の客を避けている余裕はない。
要するに、必死の訴えも虚しく、彼女は今一番会いたくない人物の接客をすべく、バックヤードから放り出されたのである。
「……ご注文をお伺い致します」
まさに戦々恐々といった様子の無月が現れると、颯馬もまた、どこか戸惑ったように瞳を揺らした。
一瞬、何か言いたげに口が開かれる。
しかし結局、彼はその口で定食を注文すると、「以上です」と締めくくってしまった。
二人の間に気まずい沈黙が流れる。
しかしそれも瞬間的なことで、
「すみませーん!」
と無月を呼ばわる声で、すぐに現実に引き戻された。
「はい! 少々お待ちくださいませ」
振り向きそう返答すると、素早く注文を復唱する。
その間にも颯馬は何かを逡巡しているようだったが、今の無月にはそれを気にする余裕もなかった。
とうとう時間にして二分も経たないうちに、彼女は次の接客をすべく、その場を離れた。
――――……
無月にとって想定外だったことは二つある。
一つ目は、あれから約三週間、数日と開けずに颯馬が店に来るようになったことである。
「今日も来てるわねぇ」
しみじみと呟くチーフの様子からも明らかなように、彼はすっかりお馴染みの客になってしまった。
そしてもう一点。
あれから幾度となく店内で会話をしているにも関わらず、彼は依然として注文以外のことを口にしていないのだ。
てっきり、何かを言いたくて店に来たのだと思っていたのだが、そういうわけではないのだろうか、と首をひねらずにはいられない。
いや、もしかしたら、そんなこととは一切関係なく、近くで習い事でも始めたのかもしれない。
本人に尋ねてみれば良いのだろうが、そんなこと、今の無月にはとてもできなかった。
聞きようによってはまるで期待しているようではないか。まだ諦めていなかったのかと呆れられては、耐えられるはずがない。
しかし、忘れると決意したにも関わらず、こうして毎日のように顔を見ていては、忘れるどころか胸がときめく一方だった。
これではいけないと思いながらも、顔が火照るのを止める術などない。
どうしようもなく胸が苦しい。
せっかく忘れようとしているのに、それさえ許してくれないのかと、理不尽な怒りさえ湧いてくる。
無月のあまりの憔悴ぶりに、チーフも店長でさえ、接客を代わると申し出たほどだ。
現在それだけは固辞しているが、この調子で通われては、いつか客である彼を詰ってしまうかもしれない。
そうならないためにも、なるべく素早く淡々と注文を取ることを心がけていた。
友人に対してあまりに冷たいのではないかとも思ったが、動揺して、他の客に違和感を与えるよりは余程ましだと思い直す。
今日も今日とて自らを鼓舞し、注文を取りに行く。
彼の表情は、今日も晴れない。
――――
颯馬が無月に会いにファミレスに顔を出したのは、言ってしまえば消去法に他ならなかった。
部外者が無断で大学に入り、彼女を探すのは躊躇われる。
自宅に押しかけるのも、気まずい距離が開いてしまった今、何となく気が咎めた。
それならばメールを送り、待ち合わせでもすれば良いのだろうが、これまで送ったメールは悉く遠回しに断られていた。
直接会って話したいならば、ここしか残っていなかったのだ。
しかし、実際来てみれば、仕事中に押しかけるなんて、迷惑以外の何ものでもない。
そんなことにも気づかなかった自分の想像力に呆れたが、席に着き、注文を取りに来た彼女と向かい合えば、退路は断たれたも同然だった。
何か言わねばと思ったが、忙しない店内だ。
とても長く引き留めることなどできない。
頭の中を様々な言葉が巡った。
――驚かせてすみません。
――元気そうで安心しました。
――無月さんのことがとても気にかかっていて。
――少しお時間を割いていただけませんか。
――終わる頃に、迎えに来てもいいですか。
しかし結局、このうちの一つも口をついて出ることはなかった。
「焼き鮭定食一つ」
という他人のような声が、耳に響いた。
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