薄幸の佳人

江馬 百合子

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第五十七話 おしゃれ

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「本当に、本当のほんっとうに……いいんですね?」

 鋏を持つ女性が声を低くして、もう一度、「本当にやりますよ?」と念を押す。
 隣にいる若いアシスタントはもはや涙目だ。
 初めは彼女が担当だったのだが、いざ鋏を入れる段になると、「やっぱり私にはできません……!」と逃げ出してしまったのだ。
 お陰でこうしてベテランの女性が、執刀役を買って出ることになったのだが、彼女は肝が座っているようで、恐れる様子は微塵も見せない。

「それじゃあ、いきますよ」

 そう言って、ざくりと、無月の傷一つない艶やかな髪に、鋏が入れられた。


――――……


「ありがとうございました」

 ショーウィンドウに映る、肩よりも短くなった髪を見て、無月は微笑む。
 切りたての髪が首に当たって、少しくすぐったい。
 しかし、清々しくなった首元に比例するように、心も軽くなっていた。
 先程の若い女性も、切り終えるまでは始終涙目だったのだが、完成してしまえば逆に目を輝かせて「とってもお似合いです!」と太鼓判を押してくれた。

「さて」

 小さく呟いて、今度は若い女性の行き交う百貨店に足を進めた。


――――……


「いらっしゃいませ」

 広い店内にずらりと並んだ服。
 女性の楽しげな談笑と落ち着いた音楽が満ちた、雰囲気の良い店だった。
 服の系統も、決して派手ではなく、とはいえ大人し過ぎず、無月のイメージしていたものにぴったりだった。

「適当に入ってみたけれど、正解だったわ」
 
 そう呟いて、店内を見回す。
 周囲一円の視線を感じたが、そんなことは気にならなくなっていた。
 思うままに、ある棚からタイトスカートを数着選ぶ。この種類のスカートを着るのは初めてのことだった。
 それから、シンプルなノースリーブのサマーニットとリブニット、着回しのしやすそうなアンサンブル、透け感のあるストライプのシャツなどを見て回る。
 これも今まで身につけたことのないものばかりだった。
 最後に、パンツを数点選ぶ。
 生まれて初めて、脚の形が丸わかりなパンツを履くのは、少しだけ恥ずかしく抵抗もあったが、全て勢いに任せてしまった。
 ここでまごついても仕方がないではないか。
 そんな風に自然に思える。
 自分はここまで思い切りの良い人間だっただろうかと可笑しくなった。
 失恋をすると、ある種の勇気が生まれてくるらしい。
 そのまま試着室へ向かい、青いノースリーブのシャツと、細身の黒いパンツに着替えた。
 まじまじと、鏡の中の自分を見つめる。
 まるで別人だった。
 ショートカットにしたのは初めてのことであったし、これほどシンプルで中性的な、肌に密着した服を着るのもまた初めてのこと。
 しかしずっと、やってみたい、着てみたいと思っていたものでもあった。
 鏡の中の自分は、少しだけ恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに笑っていた。
 思わず背筋も伸びる。
 また同時に、のびのびと自然体でいられる気がした。

「このまま着て帰りたいのだけれど」

 試着室を出てそう言うと、待ち構えていた店員はこくこくと頷き、「失礼致します」と、そっと値札を外した。
 靴は、手持ちの中で一番シンプルなものを選んできたつもりだったが、やはり近々自分で探しに行こうと決意する。
 そのときは、小ぶりのイヤリングや、ブレスレットも見て回ろう。
 そんなことを考えていると、気持ちも少しだけ前向きになった。


――――……


「初任給をこんな風に使うことになるなんて」

 苦笑いしながら、さんざめく街並みを歩いた。
 昨夜は、もっと重い足取りになると思っていたのだが、想像よりずっと軽快に足が動く。
 確かに辛いのだ。
 槙との別れを決意したあのときとも、日向との別離を覚悟したあのときとも違う痛み。
 胸がぎゅっと切なく、油断するとこの場でさえ涙が溢れてしまいそうなほど。
 悲しくて、寂しくて、仕方がない。
 出会ってまだ数ヶ月も経たないのに、いつの間にこんなに好きになっていたのだろう。
 出会わなければ良かったなんて、ありがちな一節だけれど、そんな風に思えるのも、この痛みを知ってしまえば分かる気がした。
 それでも、この痛みを、痛みのまま終わらせたくなかった。
 この恋は終わってしまったけれど、同時に何かの始まりにしたかった。
 あんな素敵な人に恋した自分を誇りたかったし、それを自信に変えたかった。

 待ち合わせのカフェに入る。
 店中の視線が視線を呼ぶ。
 店員の腫れ物に触れるような声色もいつものこと。
 一つだけ常と違うのは、一葉と夏希の表情が、驚愕に固まったこと。
 出会ったときでさえそんな顔はしなかったじゃない、と可笑しくなってしまう。
 
「そんなに驚くことないのに」

 無月が席に着くと、二人は口をぱくぱくさせた。

「か、髪が」
「ど、どど」

 どうしたと問いたいのだろうと、無月は「似合う?」と笑った。
 それでようやく本人であると確信が持てたかのように、二人は一斉に口火を切った。

「え、かつらですか!?」
「違うわ、地毛よ」
「服は!? その服どうしたんですか!?」
「さっき買ったのよ」

 ほら、と先程の紙袋を掲げる。

「有名な店ではありますね……」

 若い女性が手軽に購入できる価格帯の中では、大手のブランドの紙袋だった。

「え、ちょっと待ってください! 地毛ってことは、髪は!?」
「切ったのよ。もう、二人とも驚き過ぎよ」

 無月は呑気にはにかんでいるが、二人はそれどころではない。
 本人を前にしてなお信じられないと、口をあんぐり開けている。
 
「だって別人じゃないですか!」
「入ってきたとき誰かと思いましたよ! 目立ち具合で分かりましたけど!」

 こんな目立つ人物がこの世に二人といてたまるかという理屈で判断したらしかった。
 複雑だったが、他人だと思われるよりは良かったのだろうかと、無月は苦笑する。

「変かしら?」

 正直なところまだ、世間の「おしゃれ」はよく分かっていなかった。
 だから髪型も、長さだけ指定してあとは任せてしまったし、服も、似合うかどうかは二の次で、着てみたいものを選んでしまった。
 もしかしたら、それが二人の目にずれて映っているのかもしれない。
 しかし二人は、すぐさまそれを否定した。

「いや、似合ってますよ。不安にさせちゃってすみません」
「そうですよ、むしろ個人的には、今の方が親しみやすくて好きです」

 世辞は言わない二人である。
 無月はほっと胸を撫で下ろした。

「親しみやすい?」
「はい、前よりずっと。長い髪も綺麗でしたし、素敵だったんですけど、なんか幻想的だったっていうか」
「今の方が、俗世で生きてる感じがします」
「なぁにそれ」
「しゃきっと見えてかっこいい女性って感じです」

 思わず、声を立てて笑った。
 以前の髪型に、特にこだわりがあったわけではない。ただ、「髪型を変えよう」という発想がなかったのだ。
 そんなあやふやに生きてきた女が、今や「かっこいい女性」である。
 破格の出世ではないか。

「私も今の方が楽なのよ。肩の力が抜けた感じ」

 二人は、その無理のない笑顔に、少しばかり安心した。
 こうして髪を切ってきたということは、颯馬と上手くいかなかったのだろうと大凡察していた為だ。
 そして案の定、無月は自らその話題に触れた。

「颯馬さんには、私の心は伝わらなかったわ」

 先程までの穏やかな表情に、少しだけ影が差した。
 目元に少しだけ皺が寄る。
 しかし、彼女は何とか、その傷に折り合いをつけようとしているようだった。

「でもね、初めて二人で出かけられて、楽しかった。悲しいけれど、彼はやっぱり素敵だったわ」

 その瞬間、じんわりと目尻に涙が滲んだ。

「あれ……どうしたのかしら」

 昨夜あれ程泣きはらしたのに。
 今涙が流れる理由なんて、何もないのに。
 戸惑い、慌てて涙を抑えようとする無月の手を、夏希が掴んだ。その手に、ハンカチを握らせる。

「泣きましょう! とことん付き合いますから! 今日はうちでお泊まり会です! ね、一葉」
「そうですよ! ぱーっと騒ぎましょう!」

 その瞬間、昨日の夜よりずっと温かい涙が、とめどなく溢れ出た。

 好きだった。確かに好きだったの。
 彼も同じ気持ちでいてくれたらって、そんな奇跡みたいなことを願っていたの。
 少しだけでもいいから、振り向いてほしかったの。
 
 ぽろぽろと、金平糖のような言葉が、静かに零れ出る。
 それはかろうじて二人の鼓膜を揺らすほどの、密やかな切なさだった。
 恋をすれば誰もが抱く、美しい願いだった。


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