薄幸の佳人

江馬 百合子

文字の大きさ
上 下
52 / 63

第五十二話 成宮邸会―幕引―

しおりを挟む

 無月は両手をぎゅっと握りしめた。
 この期に及んで迷うわけではないけれど、足がすくんでいるのもまた事実だった。
 何を恐れているのだろう。
 批判だろうか。反発だろうか。
 それとも、自らが選ぼうとしている先の見えない未来だろうか。
 真実に気づくことがなければ、あのまま、安穏と暮らしていけたのだろうか。
 無知なまま、皆に守られ安全に。

「……そんなのは、ごめんだわ」

 呆れたように笑いながら、無月は小さく呟いた。
 透、藤子と目が合う。
 二人は力強く頷いた。
 無月もまた、しっかりと頷き返す。
 見たい未来はそんなものではない。
 自らの足で進んだ先の景色が見たいのだ。

「……次の、お知らせは」
 
 視線の先にジュリアが手を振っている。
 いつになく穏やかな目をして。
 根底に確かな覚悟の色を携えながら。

「日向のお母様、ジュリアさんが戻ってくれました」

 その瞬間、堂内が水を打ったように静まり返った。
 皆がその名を知っていた。
 ジュリエッタ=デュボア
 かつてあの光のような少女と並び立っていた異国の娘。
 あの頃は、国籍が違う、見目が違うというだけで、まるで自分たちとは全く違った存在に見えていた。
 受け入れ難い存在だと、思っていたのだ。
 だが誰もが知っていた。
 例え生まれがこの国でなかろうと、金色の髪を持っていようと、彼女は自分たちと何ら変わるところのない、真面目で直向きな少女だった。
 彼女がこの地を去り、春乃宮の当主が開かずの間に籠るようになってから、後悔しなかった者は一人としていなかったのだ。
 日向を「ワケあり」と揶揄し続けたのも、そんな自らの後悔から目を背ける為の逃げ道だった。
 その言葉がどれ程幼い日向を傷つけてきたことか、自らを正当化するに必死な人々は気づくことさえできなかった。
 その子を認めないと口に出すことで、我々の過去の行いは過ちではないのだと、思い込みたかったのだ。

「皆様」

 最後列でジュリアは口を開く。
 無月に気を取られていた人々は肩を揺らし、一斉に振り返った。
 そこには、歳を経て歳月の重みを身に纏ったかつての少女と、周囲を明るく照らす気さくな当主が、変わらず寄り添い合っていた。
 
「かつての私は若く、彼の隣で生きることが、どれ程の覚悟を要することなのか、どれ程の責任が伴うものなのか、分かってはいませんでした。ただ彼と共にいたい。それだけを力にして、我武者羅にもがいていた私は、皆様の目にとても頼りなく、また危うく映ったことと思います。私自身、最後まで自分を信じることができませんでした」

 優しい声の響きは、かつてのまま。
 そこに、積み重ねられてきた日々の苦悩と勇気を思わせる、思慮深さや聡明さが確かに滲み出ていた。

「そうして私は、海を隔てた向こう側に逃げました。これで良いのだと、全てがあるべきところに帰るのだと自分に言い聞かせて。でも、いくら遠くへ離れても、何をしていても、彼を、我が子を、忘れることはできませんでした」

 永久のような長い時間を過ごしました。
 そう小さく呟かれた声は、何より彼女の過ごした孤独を肌身に感じさせた。

「そして気づいたのです。安らかな生活などいらない。安全な環境なんて、必要ないのだと。ただ彼の笑顔をもう一度見たい。我が子をもう一度この腕に抱きたい」

 ジュリアは十数年前に練習した完璧な笑顔ではなく、持って生まれた人好きのする笑顔で笑った。

「そして結局、戻って来てしまいました。彼らと共にいたい。それだけを力にして」

 軽く発せられたこの言葉が、どれ程の勇気の元に固められた決意なのか。
 当時を知る者は勿論のこと、知らぬ若者もまた、穏やかな中にも込められた声の震えに、自ずと悟った。
 
「奇しくもかつてと同じ理由で、私はここへ飛び込みました。でも、今の私は何も知らなかったあの頃とは違います。この道の険しさも理解しています。皆様の御心配も分かっているつもりです。それでも、私は彼らと共にいたいのです」

 ジュリアは願いを込めて膝を折った。

「私はもう、逃げません。どうか、皆様のお力をお貸しください」

 その瞬間、一斉に紳士は腰を折り、淑女は深く屈んだ。頭を下げる音だけが静かな堂内にこだましている。
 迷う者は一人もいなかった。
 当時を知る者の中には、後悔に胸を潰されそうな者もいた。
 何故あそこまで意固地になって、愚にも付かぬ嫌がらせを重ねていたのだろう。
 確かに彼らにとって家柄は大切なものだった。場合によっては本人の性質以上に重要視されていた。
 しかし、それにこだわり続けた挙句、あの底抜けに明るかった時成から笑顔が消えた。
 姿さえ見せなくなった。
 そして公平な慈悲の心さえ、失わせてしまった。
 この冷たい社交界で、最も温かな体温を備えていた彼が、人であることをやめてしまったのだ。
 そしてそんな彼の隣にはもう、あの青空のような少女はいない。
 神に見放されたかのようだった。
 しかしいくら悔やんだところで、少女の行方は知れない。当主が屋敷を出ることはない。息子であるはずの日向は取りつく島もない。

 全て自業自得だった。
 もう二度と、彼らの幸せは戻らぬのだと思っていた。
 そんな彼らの線が再び交わろうとしている。
 縺れたその細い糸を今、解いていくことができるなら。

「ジュリア嬢に任せきりで、あやつは隣で泣いているばかりではないか。喋らなくて良いときは騒がしいくせをして」

 会場の端から清宗が毒づく。
 どれ程の月日が経とうと、変わらずジュリアはしっかり者で、時成はどこか頼りない。
 眉間に皺を寄せながらも、隠しきれない喜色を滲ませた声で呟く。
 その言葉に、薫はくすりと笑った。
 

――――……


「それから、次のお知らせですが……」

 再び無月の方へ皆の視線が移る。
 こんな驚きがいつまで続くのかと、誰もが手に汗を握っていた。
 しかし信じ難いことに、誰もがまた、この状況に胸を躍らせていた。
 何故なのだろう。
 本来変化は決して受け入れられないものである。
 伝統、格式こそが全て。
 継続、永続、不変。
 それだけを求め、皆自らの家を、そして社交界を保つ努力を重ねてきたのだ。
 誰もが、永遠に終わらない今日を生きてきた。
 そして変わらない日々に、確かに安心していたのに。
 変化に変化を告げられる今このときが、何故かとても面白いのだ。
 これからの予測できない未来を思うと、不安以上の期待に胸が膨らむ。
 変わり続ける一瞬の連続。
 それが過去を作り、今を構成し、未来を紡いでいく。
 そんなことにも気づかなかったなんて。

「日向と、蜜華の婚約が決まりました」

 無月の落ち着いた、それでいて心から喜ばしげな声。
 自分のことのように幸せそうな表情。
 朝日に照らされた桃の花のような横顔に、皆しばし見惚れた。
 しかし、それも一瞬のこと。
 その言葉の意味が頭に入るや否や、会場中に激震が走った。

「そんな、ばかな」

 一人の紳士の呟きを皮切りに、周囲の紳士淑女も言葉にならない声を零した。
 信じられなかった。どう考えても冗談以外にありえない。
 幼い頃から、自分たちだけの世界を作り上げてきた二人。
 互いのことだけを見つめ、その世界の中だけで生きてきた二人。
 日向は無月を無二の存在として愛し、無月もまた、確かに日向を愛していたはずだ。
 互い以外の有象無象など、一切目に入らないとでもいうかのように。
 そんな無礼な振る舞いも、あの二人だからこそ、許されてきたのだ。
 霞の上の世界に住む、不幸な少女と、不幸な少年。
 体を寄せ合い、温め合うかのような姿は、寂しくも幻想的だった。
 そして、その後の未来は、確かに決まっていたのだ。
 二人が生涯の伴侶として生きていくことは、確定していた。
 それ以外の未来など、存在しなかった。
 それは周囲の者の思い込みなどではなかった。
 もしあの日、無月が一葉に出会わなければ。
 何か一つでも歯車が違っていたならば。
 きっと、ここで発表されていたのは、無月と日向の婚約であっただろう。

 しかし、二人は知ってしまった。
 寂しさを埋める絆と、恋は別物だということ。
 そして、互いに寄りかからずとも、自分の足で立てるのだということを。
 そうして歩く道のりは、険しくも充足感に満ち、その先にある景色は、見たこともない美しさで迎えてくれる。
 だからこそ、互いに互いを見送ることができたのだ。
 寂しさは確かにある。
 欠けた空白は、すぐに埋められはしない。
 しかし、すぐに埋めたいとも思わない。
 その場所は、これからゆっくり積み重ねていくもので、満たしていけば良いのだから。
 無月が再び口を開こうとしたところで、一人の令嬢の口からぽつりと言葉が漏れ出た。

「……無月様を残して、他の方を選ばれるなんて」

 思わずといった呟きだった。
 しかしそれが、彼らの本音だった。
 二人が結ばれないこと以上に、日向が無月を残していくことに、皆驚いていたのだ。
 もし二人が袂を別つときが来るとするならば、それは無月が別の相手を選ぶときだと考えられていた。
 並び立つ二つの名家、藤泉院家と春乃宮家。
 しかしその優位性はいつも藤泉院家にあった。
 例え春乃宮家の長子といえども、藤泉院家の娘を袖にするなんて、許されることではない。
 しかし無月は、はっきりと首を振った。

「いいえ、そうではありません」

 視線の先にいる日向と蜜華。
 無月が微笑みかけると、蜜華もまた微笑んだ。
 そんな彼女の小さな手を、日向がすくい、しっかりと握る。
 その瞬間、蜜華の顔が真っ赤に染まった。
 こっそり離せと睨みつけるも、日向はどこ吹く風とばかりに視線を合わせようとはしない。
 思わずぐいと手を引くと、ようやく彼は蜜華の顔を見た。
 眉を下げ、申し訳なさそうな、困ったような、しかしとても幸せそうな笑顔。
 その表情に、蜜華の頬が更に熱くなる。
 彼の耳が僅かに赤いことに気づいたときには、その手を引いたことを心底後悔した。
 こんな笑顔を見てしまったら、彼の心が真実だと認めざるをえないではないか。
 同じ心を返したくなってしまうではないか。

 その様子を見守っていた人々は、得心した。
 浮いていたパズルのピースが、ぴったりはまったかのような感覚だった。
 そうだったのか、と。
 確かに無月と日向は似合いの二人だった。
 しかし、決して二人に「お幸せに」と声を掛けることはできなかっただろう。
 何故なら、二人が共にいて幸せになることは無いと、感覚的に知っていたから。
 強いて言葉を掛けるとするならば、「少しでも互いの孤独を埋め合えますように」ただそれだけ。
 そんな二人に慣れた人々は、すっかり忘れていた。
 本来、生涯を誓い合う二人は、祝福のもとに旅立つものなのだ。

 無月は、二人の方へ一歩足を進めた。
 人波が分かれ、その先で寄り添い合う親友が手を振っている。
 無月は手を振り返すと、駆け足で二人の元へ飛び込んだ。
 しっかりと受け止めた二人は、呆れたように無月を抱きしめ返す。
 彼らはもう、人形でも、女神でも、妖精でもなかった。
 
「私たちはずっと、ずっと友達です。ただ歩んでいく方向が違うだけ」

 無月の言葉に答えるかのように、薄雲が途切れ、いっそう眩しい日の光が彼らを照らした。
 堂内全体が温かな空気で満たされる。
 もはや、この結末に異を唱える者はいなかった。
 今なら皆が胸を張って言えた。
「おめでとう、お幸せに」と。

 無月は窓から太陽を見上げた。
 深緑の庭。鮮やかな花々。
 真夏の光は、この世界をいっそう鮮やかに見せ、庭師の撒く水が、青々とした芝生を濡らす。
 外へ一歩踏み出せば、足にひんやりと心地良いに違いない。
 無月は最後に、と口を開いた。

「私は、教師になります」
 
 もうこれ以上驚くまいと決めていた人々も、これには天を仰ぐより他なかった。




しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

義妹が大事だと優先するので私も義兄を優先する事にしました

さこの
恋愛
婚約者のラウロ様は義妹を優先する。 私との約束なんかなかったかのように… それをやんわり注意すると、君は家族を大事にしないのか?冷たい女だな。と言われました。 そうですか…あなたの目にはそのように映るのですね… 分かりました。それでは私も義兄を優先する事にしますね!大事な家族なので!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

冷遇する婚約者に、冷たさをそのままお返しします。

ねむたん
恋愛
貴族の娘、ミーシャは婚約者ヴィクターの冷酷な仕打ちによって自信と感情を失い、無感情な仮面を被ることで自分を守るようになった。エステラ家の屋敷と庭園の中で静かに過ごす彼女の心には、怒りも悲しみも埋もれたまま、何も感じない日々が続いていた。 事なかれ主義の両親の影響で、エステラ家の警備はガバガバですw

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

処理中です...