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第四十九話 成宮邸会―出立―
しおりを挟む「それじゃあ、そういう手筈でいきましょう」
無月が顔を上げ周囲を見回すと、皆異存はないと頷いた。
「あの幼かった無月ちゃんに任せきりじゃないか。歳ばかり取って、我々は全く立つ瀬がない! そう思わないかい? 清宗」
時成が小突くと、清宗は迷惑そうに顔をしかめた。
「それなら貴様が指揮を取ればいいだろう」
「僕はそんな器じゃないさ」
そう言って、からからと笑う時成。それを遠目から見守るジュリア。
壁に背を預け、無月と並び立つ日向の表情はどこか柔らかく、薫の目には活気が光っている。
伊勢はその様子を静かに観察し、僅かに口角を上げた。
くるくると表情を変える氷の当主の、何と面白いことか。娘の方を向くときのあの慈雨のような視線。時成に向ける含みも飾り気もない言葉。深い笑顔が込められたそれらの表情を、生きているうちにまた目にすることがあろうとは。
何より一等可笑しいのは、時折薫の方を盗み見るあの目だ。天下の藤泉院家の当主ともあろうものが、あれ程遠慮がちな目線を送る相手が、一人の小柄な女性なのだから、世の中分からないものである。
さっさと話し合うきっかけを掴んでしこりをなくしておけと、心の内で密かに念じていると、当主と目が合ってしまった。
伊勢らしくない失態だったが、それすら嬉しく感じられた。
彼女のおかげで人になれた自分が、再び春の日和に浮き足立つような人らしい喜びを、こうして感じているのだから。
「ここからは別行動になる。伝達は基本的に無しだ。藤泉院夫妻、親父とお袋、俺と蜜華はペア。無月は一人で会場に向かう。成宮の家には全て伝わっている。何か質問は」
日向が淡々と作戦を繰り返していると、清宗がごく小さな声でぽつりと呟いた。
「トンビが鷹を生んだとはこのことか。いや、ジュリア嬢に似たのか。幸いなことだ」
勿論聞こえていた時成は、心外だと憤慨し、こっそり清宗の横足を蹴る。
「確かにあの子はジュリア似だけれど、僕だってやればできるのだからね」
「そうだな。少々温存期間が長かったようだが」
清宗が何食わぬ顔で答えると、時成は「まだ怒っているのかい!?」と目を剥いた。
「許してくれてもいいだろう! こうして戻ってきたのだから!」
清宗は微かに笑うと、肩に手を回し組んだ。
「あぁ、そうだな。お前無しで生きるには、人生は少々長過ぎた」
あれから一人で生きてきた訳ではない。
隣には薫がいた。
後ろには伊勢がいた。
胸の奥には愛しい妻が笑っていた。
そして、視線の先にはいつも、愛娘と親友の子が健やかに暮らしていた。
それでも、どうしても期待してしまった。
またあの扉が騒がしい音を立てて開かれはしないかと。
またあの能天気な笑顔を見せてくれはしないかと。
否、笑顔でなくてもいい、せめて、一言だけでも言葉を交わしてくれないかと。
「……もっと俺を、頼れば良かったのだ、馬鹿者」
時成は息を飲んだ。
陽子がこの地を去り、全ての希望が散ってしまったかのように思っていた。
ジュリアを傷つけた何もかもが、許せなくなった。
孤独を抱えた息子への罪悪感。
それ故に正面から抱きしめることのできない歯がゆさ、情けなさ。
全てが縺れに縺れて、もう身じろぎひとつできないと思っていたのだ。
忘れていた。
季節は何度だって巡る。
夏に育って、秋に遊び、冬に見惚れて、春に眠る。
変わらぬものなど一つもなく、だからこそ、一瞬一瞬がたまらなく愛おしく、名残惜しいのだ。
どんな幸せもいずれは形を変えていく。
どんな苦しみも、いつかは懐かしい思い出へと変わっていく。
もし、変わらないものがあるとするならば、それは人の想いだけなのだろう。
その想いを抱えている限り、何度でも立ち上がることができる。
「……僕は、こんなにもたくさんの宝物を持っていたんだね」
もう二度と忘れはしない。
どれほど打ちひしがれることがあろうとも、悲しみに惑うことがあろうとも。
前を見つめ続けるための理由を、失うことはない。
「弟分に諭される日が来ようとはね」
泣き出しそうな笑顔で時成は呟く。
清宗は、呆れたように肩をすくめた。
「本当に、日頃悩まぬ者の悩みほど、厄介なものはないな」
――――……
塵一つない藤泉院家の廊下を、日向はぼんやりと眺めた。
ここでまだ物心もつかないうちから、無月と共に過ごしてきたのか。
微塵も思い出せない記憶。けれど、例え思い出せなくとも、それは二人にとってかけがえのない時だった。ただ、そんな気がした。
並び歩く彼女もきっと、何も覚えてはいない。
それなのに、互いの根底にあるのは何よりも深い信頼だ。
名の付けられないその感情に苦しんだあの日々も、それ故に犯してしまった過ちも、今更取り返せるものではない。
それを今になって蒸し返すつもりもない。
それでいい。
しかしただ一度だけ、全てが始まるその前に、謝っておきたかった。
あの日躊躇いながらも全てを受け入れてくれた、あどけなさの残る少女に。
この感情は恋ではない。
それに気づいていながら、拙くて身勝手な表現を拒まなかった彼女に。
「無月、すまなかった」
足音が止まる。
彼女は困ったように笑った。
「日向はいつも私に謝るのね」
それも全然謝る必要なんてないのに。
そう言うと、無月は眉を下げた。
「私たちは、あれで良かったのよ」
予想もしてしなかった返答に、日向は戸惑う。
彼女の心には後悔も後ろめたさもなかった。
「今こうして気づくことができたのだから。私の運命の相手は日向じゃない。それに、日向の愛すべき人は、私じゃない」
それでいいのよ。
もう一度、無月は微笑んだ。
その微笑みは昔から一つも変わらない。
きっと、記憶に残らない幼い彼女も、同じ顔をして笑っていたのだろう。
「……妬けるな。どこの男に惚れたんだ」
こんないい男に惚れなかったくせに。
そう照れ隠しに俯くと、無月は無邪気に首を傾げた。
「あら、内緒よ、内緒。日向こそ、蜜華とは仲直りできたの?」
からかうようにはにかむ無月。
誰に聞いたのか、否、気づかれていたのか。
彼女は本当に勘がいい。
どうせ隠してもはぐらかしても、全てを見透かした上で「あらそう」と笑うのだ。
「……連絡がつかなかった」
「あら、そんな状態で今日、大丈夫なの?」
「……分からん」
「珍しく弱気じゃない」
多少気の毒になったのか、無月は声から揶揄いの色を消した。
「あんなに分かりやすいのに、本人には伝わらないものね」
ぽつりと呟いた無月に、日向は怪訝な目を向ける。
「何の話だ?」
その様子に、無月は驚いたように目を丸くした。
「だって日向、初めから蜜華の目は正面から見ようとしなかったじゃない」
無自覚だったの?
無月は信じられないとばかりに首を振った。
「あんなに意識していながら自覚はなかったなんて、日向もやっぱり人の子だったのね」
「……初めから?」
無月の言葉をなぞる。
驚きのあまり頭が真っ白だった。
初めから、意識していた?誰が?誰を?
「ちょっと、しっかりしなさいよ、幼馴染殿!」
ふわりと正面に踊り立ち、無月は腰に手を当てる。
「蜜華を泣かせたら、許さないわよ」
もう既に泣かせているなんて口が裂けても言えるものか。
日向は壊れかけのカラクリのように、何度も何度も頷いた。
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