薄幸の佳人

江馬 百合子

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第三十六話 決意と未来

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 結局、翌早朝、茶子は康助に手を引かれて帰って行った。

「毎回姉の我儘に付き合わせてしまってすみません」

 と颯馬が頭を下げると、康助は「いやいや」と首と両手を同時に振った。

「僕が鈍臭いのがいけないんだよ」

 こんないい人を逃したら一生後悔するぞと念を込めて姉を見つめると、茶子は心得ているとばかりに頷いた。
 分かっているなら初めからくだらない喧嘩をふっかけるなと、心底思った。

 いつものように学校へ向かい、朝練をこなす。それから、教室へ向かい、一日の授業に備える。友達が来れば挨拶をして、話をする。
 いつも通りの一日だった。
 それなのに、どこか気持ちが落ち着かないのは、やはり心の奥底で放課後のことを考えてしまっているのだろう。
 どう謝ろう。許してもらえるだろうか。思い悩む時間がいたずらに過ぎていく。こうなってしまえば、一層のこと断罪は早い方がいい。
 夕日の照り映えるグラウンドを周回しながら、颯馬は野球に出会って以来、初めて練習が早く終わってくれないかと願った。

 バスに乗っている間も、歩いているときでさえ、颯馬の意識は成宮の病院に飛んでいた。
 今はもう涙も止まっているはずだ。否、そうであってほしいと切実に思う。彼女の涙は、本当に心臓に悪かった。恐らく寿命が数年は縮まったに違いない。
 女性を泣かせてしまったことが、これほどこたえるとは。
 ぼんやりと自動扉をくぐり、磨き上げられた真っ白い床を進みながら、颯馬はいよいよかと顔をしかめた。
 受付の女性は、言い含められているのか、学生服姿の彼に怪訝な視線一つ向けなかった。
 受付表に何かを記入し、「北棟へどうぞ」とにこやかに促す。

「どうも」

 そう、いつも通り頭を下げたつもりだったのだが、その声は誰の目にも明らかなほどに沈んでいた。

 奥の奥にある病室を目指して歩みを進める。一歩近づく毎に、このまま引き返してしまいたい気持ちが強くなる。
 彼女に出会ってから、本当に自分らしくないことばかりだった。
 とうとう、彼らの病室に至る。深草一葉とだけ書かれているネームプレートを睨むように見つめながら、颯馬は何度目かも分からないため息をついた。
 謝ることが嫌なわけでもなければ、彼女の顔を見たくないわけでもない。それなのに、何故これほど気が重いのだろう。
 とうとう、考えても仕方がないと半ば投げやりにノックをした。

「はーい! 颯馬でしょ? 入って!」

 中から一葉のいつもと変わらない元気な声が聞こえてくる。この様子だと、彼女は昨日のことを何も聞いていないようだ。
 あれだけ泣いていた女性に、庇われてしまったかのようで、少しだけ居心地が悪い。
 これから彼らの前で謝罪することを思えば、余計に決まり悪く感じた。

「失礼します」

 一葉はともかく、蜜華や無月といったそれほど親しくもない人のいる部屋に入るにはそれなりに気を遣う。
 音を立てないようにそっと扉を開くと、ベッドに腰掛けた一葉と、蜜華の姿があった。

「昨日ぶり! もしかして毎日お見舞いに来てくれるつもりなの?」
 
 そう茶化す一葉に、「ごきげんよう」と表情の読めない笑顔で挨拶をする蜜華。
 反射的に「こんにちは」と挨拶をしながら、颯馬は無月の姿を探していた。
 その視線に気づいたのか、蜜華が「無月様なら中庭をお散歩中ですわよ」とやはり真意の読めない表情で告げた。

「そうですか。……実は今日は無月さんに用事があって来たんです」

 隠していても仕方がないと、颯馬も目的を口に出そうとする。しかし一葉は元より蜜華でさえ、それ以上詳しく聞こうとはしなかった。

「今出られたばかりなので、しばらくは中庭にいらっしゃるはずですわ。場所はお分かりかしら?」
「はい、多分」
「それなら案内はいらないわね。行ってらっしゃい」
「は、はい。行ってきます」

 てっきり、無月が戻るまで待てと言われるだろうと思っていたのに、思わぬ展開もあるものだった。
 彼女の意図は分からないが、何にしても二人で話ができるのは有難い。
 重かった足が幾分軽くなったのを感じながら、颯馬は病室を後にした。


――――……


 庭木の揺れる音がする。中庭に通じる道は思いの外狭く、植木の間を半ば縫うように歩かなければならなかった。
 土を踏む音と、服と枝葉の掠る音が、静かな夕方の空気に溶ける。
 彼女はどこにいるのだろう。中庭へはこの道で本当に合っているのだろうか。
 そんなことを考え始めたとき、ふいに、あのガラス玉のような声が、耳に流れ込んで来た。

「――……私には、言えない用事なの?」

 初めて見かけたときと同じ、はっとするような、神聖ささえ感じられる声。しかし、今、その声は確かに、どうしようもない苦しみを抑え付けていた。
 思わず足を止め、息を潜める。
 目的の人の姿は未だ見えなかったが、その様子は、いやにはっきりと脳裏に浮かんだ。

「……分かってる。分かってるのよ、でも……」

 涙を流さず、声を揺らさず、あくまで冷静に、張り裂けそうな胸の痛みを堪え、彼女は言葉を繋ごうとしている。
 通話中なのだろう。少し間を空けて口をつぐみ、また遠慮がちに口を開く。
 立ち聞きは良くない。このまま引き返して、病室で待たせてもらうべきだ。そう分かっているのに、颯馬の足はどうしてもその場から動かなかった。それどころか、両の目は、無月の姿を探し、植木の隙間を彷徨う。
 何がしたいのか、まるで分からなかった。
 彼女がどこでどんな悲しい思いをしていようと、自分には全く関係のない話ではないか。
 それなのに、今、その手を握っていてあげたいと思うだなんて。

「――日向がいないと、私はこの世界に一人ぼっちなのよ……!」

 低く絞り出された叫びが、颯馬の胸を締め付けた。
 全てにおいて恵まれた彼女は、どうしていつも諦めたように笑うのか。悲しげに眉を寄せるのか。困ったようにはにかむのか。
 何より大切な、自分自身を蔑ろにするのか。

「――そんなこと、言うなよ!」

 梅雨の気配を感じるこの季節には、およそ相応しくない雪のような手首を、強く、掴んだ。
 突然、木々の間から現れた颯馬を、無月は信じられないものでも見るかのように凝視した。
 通話の切れた無機質な機械音が、しんとした中庭ではやけに大きく響く。
 機械音だけではなく、耳を撫でる風の音や、彼女の息遣いまで鮮明で、耳を塞ぎたい程だった。

「……一人とか、そういうこと、言うな」

 再び息を飲む気配がしたが、颯馬はそんなことは気にならなかった。
 目線を合わせて、その瞳を強く見つめる。

「一人じゃないだろ。一葉も、槙さんも、夏希も佐月さんも、あんたのこと、心配してるだろ」

 黒く艶やかに光る瞳は、眩しくて、もう、逸らしてしまいたい。しかし、彼女の心に言葉を運ぶには、恐らく、その目に語りかけるしかない。

「あんたたちのことなんて、何も知らない。でも、蜜華さんが、あんたを大事にしてることくらい、どんな阿呆にでも分かる。あんたは、自分で自分の視野も、可能性も、未来も狭めて、勝手に落ち込んでるだけじゃないか」

 もっと言い方を考えるべきなのかもしれない。生まれたてのような彼女は、きっと、ひどく傷つきやすいに違いない。今、自分は赤子の柔肌に爪を立てているようなものだ。
 女性を傷つけるなんて、気分の良いものではない。恐らく最も忌むべきことだ。しかし、彼女に語りかける今このとき、どうしても回りくどい言い方や、婉曲的な表現が出て来ないのだ。

「言いたいことがあるなら、言えばいいだろ。やりたいことがあるならやればいい。どうして全部やる前から諦めるんだよ。言わないと伝わらないし、やらないと一生できないままだ。やってみればいいだろ」

 無月は、これまで流したことのない種類の涙が頬を伝うのを感じた。悲しいわけでも、悔しいわけでもない。切ないわけでもなければ、恨めしいわけでもない。それなのに、涙が溢れて止まらなかった。
 ずっと、この言葉がほしかったのかもしれない。
 「守ってやる」ではなく、「やってみろ、お前ならできる」と、誰かに言ってほしかったのだ。
 安心の代わりに、不安と期待、そしてその先に見える希望に、手を伸ばしたかったのだ。

「……すみません、謝りに来たはずなのに、また泣かせでしまって」

 無月の二度目の涙にはっとしたかのように、颯馬がハンカチを取り出して頭を下げる。眉根が心配そうに寄せられていた。
 あぁ、この少年は、やっぱりとても強くて、優しい子だ。
 無月は心から首を振ると、自然と溢れる笑みを抑えられなかった。

「――いいえ、颯馬さん、ありがとう」

 大粒の涙を流しながら微笑むその姿は、赤い夕陽に包まれて、いっそう鮮やかに映った。
 颯馬は思わず瞬きを止めた。
 そんな自分に驚き、急いで首を振る。
 確かに彼女の顔形は生身の人間とは思えないほど美しい。しかしそんなことはとっくに分かっていたはずだし、これまで全く何とも思っていなかったはずだ。
 では何故、自分は今、彼女を見つめずにはいられないのだろう。無関心でいられないのだろう。
 心からの微笑みに、彼女の真心が滲み出ているからだろうか。嘘偽りのない感謝に、当てられているのだろうか。

「私、昨日から、ずっと考えていたの。この先、自分は何をしたいのか。この先もずっと、人形のままでいいのか」

 周りに合わせたような微笑みでもなく、戸惑うような笑顔でもない。
 彼女は強く、しっかりと颯馬を見つめて言葉を継いだ。

「――颯馬さん、私ね。先生になるわ」

 静かな声だった。一つの決心を言葉にするのには、あまりに静かすぎるほどの、凪いだ声音だった。
 しかし、その静けさの中に、何ものにも侵すことのできない強い思いが込められていた。

「……応援してます」

 彼女は、もう大丈夫だ。
 颯馬には分かった。
 この先、彼女は経験したこともないような苦労や失敗を重ねていくだろう。しかし、その度に起き上がり、時に休みながら、歩みを進めていくに違いない。
 まだ見ぬ未来に向かって。



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