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第二十話 蜜華と藤子―前編―
しおりを挟むその日は、朝からずっと、霧のような雨が降り続いていた。おかげで、満開だった桜がほとほとと落ち、煉瓦敷きの小道が白桃色に染まっている。
蜜華は、白いレースの傘をさしながら、蔓薔薇のアーチを潜り、門を目指していた。さらさらと、傘にかかる雨音が、柔らかく耳に入る。こんな日には、蜜華はそっと屋敷を抜け出していた。
雨の日ほど、隠れて歩くのに適した空模様の日はない。雨音は足音を消し、斜めに引く糸は彼女の姿を霞ませる。そして、雨は、多かれ少なかれ人を怠惰にさせる。こんな雨の中、是が非でも彼女を連れ戻そうと躍起になる者など、そういない。
一人きりで眺める外の景色は、まるで魔法の世界だった。行き交う人々。賑わう商店。閑散とした公園に、笑顔で走り込む子供たち。大通りに出れば、傷一つないショーケースの向こうに、マネキンがポーズを取っている。
蜜華は、そんな世界を、ぼんやりと眺めた。そちら側へ行きたいなんて、そんな愚かな望みを抱いているわけではない。ただ、想いを馳せているだけ。決して触れられないもの。だからこそ、彼女は外を思うだけで、満たされた。それは、彼女の内面があまりに空虚であったがためなのかもしれない。
時折、この美しい外の世界を誰かと分かち合いたいと願うことがあった。目の眩むような世界で、彼女はいつもひとりだった。
そのようなとき、まず最初に浮かぶのは、柔らかな兄の笑顔。蜜華はあと五日で高校生になるというのに、透は今なお、まるで幼子に接するように妹を可愛がっていた。蜜華はそれに、僅かな違和感を感じてはいた。しかし、何よりただ、単純に嬉しかった。
幼い頃から、透は常に穏やかで、優しかった。蜜華が風邪をひけば、何日でも側に居続け、寂しがれば、どんなときでも手を差し出した。常に背に庇い、どんなものからも守り続けてきた。初等部を卒業するまで、蜜華は半ば本気で、将来は兄と結婚するのだと信じ込んでいた。それほどまでに、透は蜜華へ深い愛情を示し、蜜華もまた、自慢の兄として、透をひたむきに慕っていた。
それから浮かんでくるのは、両親の姿。チョコレート色のくせ毛を丁寧に撫でつけ、細い瞳をさらに細めて笑う父。
そしてその隣に佇む、ふわふわとした、透明な蜂蜜色の髪を風に梳かせる母。柔らかいその腕に抱かれながら、蜜華はよく母の祖国の話を聞いた。今でも、二人で留守番をしなければならない日には、暖炉の前の長椅子で寄り添い合う。そんなとき、母の口をついて出るのは、大抵日本語ではなかった。蜜華はそれを聞くと何だか、母を少し遠い存在のように感じてしまう。しかし、その感情だけは、決して母に悟られてはならないと分かっていた。
蜜華が、美しい外の世界を、誰かと共有することはない。何故なら彼女の内面は、たったこれだけの存在で完結してしまっているのだから。とても大切で、だからこそ、慎重に扱わなければならない家族。
友達がいないわけではない。彼女の明るく朗らかな性格と、可憐な容姿、そして堂々とした家柄は、いつでも周囲の者を惹き付けた。そんな人々に常に囲まれながら、蜜華は笑う。埋まらない胸の穴を意識しながら。高等科でもきっと、新しい友人はできるだろう。だが、それらの人々に、蜜華は期待することができない。
蜜華にとって、外の世界はただの幻。触れることもできなければ、語ることもできない。しかしそこでは、自由になれる。少なくとも、気持ちだけは。蜜華の足取りは、自然と軽くなった。
ようやく、門が見えてきた。石造りの厳しい柱の間に、黒い鉄扉が揺れている。鎹が錆びているのか、ぎいぎいと耳障りな音が、雨音に溶けていた。柱の石には、赤い苔がへばりついている。そう、この門は、今やもう使われていない。ちょうど屋敷の東奥にあるこの門は、忘れ去られた出入り口だった。
成宮家は、屋敷を二重の塀が囲んでいる。内側の塀には門が四つあり、そのうちの半数は、成宮家の者の指紋で自動的に解除することができる。蜜華はごく小さい、家族が内密に出入りするときに使う、裏手の門を利用していた。その代わり、使用人等が出入りする残りの二つには、厳重な警備が付いている。よって、この外側の門を通過できたとしても、部外者は内側の垣に阻まれ、中に侵入することはできない。
だから、蜜華はこのままにしておいた。外側も、ゴルフ場の延長の深い森に覆われ、常人がこの門を発見するのを妨げてくれている。きっと、誰にも見つからない。
そのとき、蜜華の鼓膜を、何かが揺らした。雨音でも、錆びた音でもない、何か。
それは確かに声だった。しかし、言葉ではない。柔らかな笑い声に近い、意味をなさない声。
蜜華は目を細める。門の側に、人影が見えた。鼓動が、否応なしに大きくなる。雨音が、消えた。代わりに、あの声がやけにはっきり聞こえるようになる。そして、霞む視線の先にいたのは、透明の雨合羽を着た女と、彼女に抱かれた赤ん坊だった。
彼女は、口に指を当てて、赤ん坊を静かにさせようとする。それから、門の内側を伺うように、辺りをうろうろと落ち着きなく歩き回った。どうやら、蜜華には気づいていないようだ。
蜜華は、眉を寄せる。
どういうことだろう。何故、あんな若い女が赤ん坊を抱いてゴルフ場の裏手にいるのだろう。うちに、用があるように見える。それも、公にはできない用が。
蜜華は、歩みを進めた。
恐れる気持ちは、全くなかった。相手が女だということもあるだろう。赤ん坊を抱いているというのも大きいかもしれない。しかし何より、女の仕草や挙動、そして雰囲気が、蜜華の警戒心を完全に取り除いてしまった。恐れるに足りないということなのか、それとも、他に理由があるのか、そんなことは、どうでもよかった。
とうとう、足音が聞こえたようで、彼女は弾かれたように顔を上げる。その顔には、驚きと恐怖がありありと浮かんでいた。
表情を取り繕うことすらできずに固まる彼女の前に、蜜華は堂々と構える。
「ここで、何をしているの」
女の額は、水滴に濡れていた。雨か、汗か、分からない。その下の貧相な目は茫然と惚け、皮の剥けたしまりのない唇が、言葉を発することはない。
赤ん坊は、腕の中で、ぼんやりと彼女を見上げていた。
蜜華は、退く気はなかった。この場に自分しかいない以上、これは、課せられた義務であり、この出入り口を守るための試練でもあった。決然とした静かな声で繰り返す。
「貴女は何者なの。名乗りなさい。どうやってここを見つけたの。そして、何のためにここへ来たの」
その声音には、万人を従わせるだけの力があった。
上に立つ者として施されてきた教育、そして、何より彼女の中に流れる血が、瞬いては消え、そしてまた浮かび上がる。どう見ても、ただの十代の娘ではなかった。
女は短く息を飲む。その目は、ゆっくりと蜜華の瞳を見つめ、それから、湿気を纏ってゆらゆらと艶めく髪に向けられた。そしてその瞳は、更なる驚きに見開かれた。
「蜜華さん……?」
無意識にだろう。口の中で呟かれた声は、決して他人へ聞かせるためのものではなかった。しかし、その声は、かろうじて蜜華の耳に届く。そして初めて、蜜華の瞳は困惑に揺れた。
「何故私の名を知っているの! 早く説明しなさい!」
女の泣き出しそうな目に、後悔の色が浮かんだのを、蜜華は確かに認めた。そこには依然として、かけらも害意は見られない。それに気づくと、蜜華の頭は急速に冷えていった。
「今すぐ、話しなさい。でないと私は家の者を呼ばなければならないわ。その子がどうなっても宜しいの?」
女の腕の力が強まったのが、合羽の上からでも分かった。開こうとした唇が、何かに阻まれ閉ざされ、そしてまた、何かを伝えようと開かれる。
蜜華は、厳しい目でそれを見つめていた。見逃すつもりはなかった。
女の荒れた頬を、一筋の涙が伝う。その涙は転がることなく頬にしみを作った。
それでも、蜜華は、黙って女を見据える。
とうとう、女は涙に震える声で、嘆願した。その声は低く掠れ、ひどく聞き取りにくいものだった。
「どうか、このことは、誰にもお告げにならないでください。私にできることならば、どんなことでも致します。どうか、今日、ここで私を見たことは、忘れてしまってください……」
蜜華は、僅かに片眉を上げる。
赤ん坊が、目を丸くして蜜華を見ていた。その赤ん坊に、蜜華もまた、訝しげな視線を返す。
「……お話しなさい。正直に」
そこで女は、隠すことを諦めた。少なくとも、蜜華にはそう見えた。
それほど大事にしているということは、この赤ん坊は、彼女の子なのだろう。一歳には確実になっていない。しかし、少なくとも八ヶ月は過ぎている。白い布で頭まで包まれたその子を、蜜華は見るともなしに眺めた。
「私は、山内、藤子と申します」
蜜華の目は、自然と見開かれた。何故、父の愛人が、こんな所へ。
そんな様子にすら、追い詰められた藤子は気づかない。必死で、次の言葉を探す。
「わ、私は、本来なら、決してこのお屋敷には近づいてはならない存在です。私も、この子も、あの与えられた屋敷を離れては、生きていけません。あそこに隠していただいているからこそ、私たちは、平和に暮らしていくことができています。ですが……」
そこで、藤子はぎゅっと両目を瞑って、涙を絞った。赤ん坊を抱え込むように下を向く。
「……ですが……私は、弱かった。一人でも、大丈夫だと思っていました。いえ、今でも……そう思っています。ただ、こんな雨の日には……」
大粒の涙が、ふっくらとした白くて丸い頬にぱたぱたと落ちる。赤ん坊は、不思議そうな声を出した。
「こんな、雨の日には、胸が苦しくて仕方がなくなるんです。一瞬も忘れられないあの人の面影が、とても綺麗に浮かび上がってくるんです。……この子の父親を……透様を……一目でも、幻でもいいから、見たい……」
女は、膝から座り込んだ。くしゃくしゃになった顔は、涙と雨で見られたものではなかった。これまで溜め込んできたもの全てを吐き出すかのように、女は泣き続けた。
蜜華は、傘からふわり、と手を離した。それから、音もなく藤子の前に両膝をつく。
「兄様の恋人は、貴女だったのね」
蜜華は、真実を知らされてはいなかった。だが、兄に恋人ができたことには、薄々感づいていた。
心なしか、口調が穏やかになった兄。まるで、張り詰めていた何かが、徐々に溶け出しているかのようだった。
毎日決まった時刻になると、部屋へ下り、あるときからは夕食にすら顔を出さなくなった。
蜜華はそれを、当然のことながら、寂しく思った。だが、それ以上に、心底安心した。全ての重責を抱え込もうとする透の危うさを感じていたためである。具体的に、彼の何かが変わってしまったわけではない。しかし、蜜華は確信した。兄はもう、大丈夫だと。
そのため、否が応でも気づいてしまった。ここ一年半ほど、兄の様子が、おかしくなってしまったことに。
以前と変わらず、微笑む兄。しかし、蜜華はたまに、その瞳の空虚さにぞっとすることがあった。兄が恐ろしいのではない。ただ、美しい兄が、そのままきらきらと粉になって消えてしまうのではないか、とそんなありもしない考えが自然と浮かび上がってくるのだ。それが、恐ろしかった。そして、歯痒かった。兄の心に空いた穴の深淵さに、立ち竦むことしかできないのだから。
蜜華は、精一杯の微笑みを、彼に向けてきた。「兄様は、一人になったわけではない。私も、父様も母様も、兄様の側にいる」そんな想いを込めて。その笑みを向けられると、透は申し訳なさそうに笑い返した。その顔を見ると、蜜華は泣きそうになった。
失恋の痛手など、誰もが通る道だろう。だから蜜華も、兄はすぐに持ち直すと信じていた。そして、思った通り、三ヶ月ほど経った辺りから、透の様子は変化した。以前のように、がむしゃらに仕事をすることがなくなった。適度に断る術も身につけ、以前より遥かに強かに要領良くなった。初めのうちは、蜜華もほっとしていた。ようやく、自分の体を顧みるようになったのだと思った。
事実、透は、働ける自分の体を維持しようとしていた。もう、彼一人の体ではないのだから。自身が落ち目を見れば、藤子も光も無事ではいられないかもしれない。透はそのことを糧にした。しかし勿論、蜜華はそんなことは知らない。
蜜華は次第に、以前より体は休めているはずなのに、何故か危うげな兄の存在に、気を揉むようになった。一年半以上経過した現在でも、それは変わらない。そして、気づいた。きっと兄は、この先も変わることはない。
兄の恋は、きっと、生涯に一度のものだった。
それから蜜華は、兄のかつての恋人を探し始めた。両親も問い詰めた。使用人を脅しもした。しかし、得られた情報は、纏めてしまえば、「垢抜けない女性だった」たったこれだけ。両親は知らぬ存ぜぬの一点張り。使用人も誰一人としてその女の情報は持っていなかった。
今、蜜華は納得する。きっとこの女性は、自分たちとは違う世界に生きていた。家格など、存在しない世界。そんな世界の住人の情報など、使用人が持ち得るはずがない。彼女は、ただの一人の女性だった。
蜜華はそっと腕を伸ばして、藤子を抱きしめた。細くとも大柄な藤子を、蜜華はぎゅっと包み込む。
藤子は、はっと息を飲んだ。だが、その行動に誰より驚いたのは、他ならぬ蜜華自身だった。
蜜華ほど、選民意識の高い令嬢はなかなかいない。勿論世間一般を無条件に蔑視しているわけではない。ただ、彼らと自分たちとが対等だとは考えていなかった。それは、彼女の家や教育を考えれば当然のこと。むしろ、そうでなければ多くの者に付け入る隙を与えてしまう。
だが、蜜華は、こうせずにはいられなかった。彼女の絞り出すような声に、そして、なりふり構わず泣き噦る姿に、まるで心が締め上げられるようだった。それはきっと、蜜華が気づいてしまったからだ。
この彼女の姿こそ、透が笑顔の仮面の下に隠し続けている本当の感情なのだということに。
蜜華は、合羽の上から藤子の背を撫でた。安っぽいビニールと、指に絡みつく雨水。そしてその下の硬い角張った背中の感触。
藤子の嗚咽は、次第に治まっていった。
僅かにしゃくり上げながら、「すみません」と繰り返す藤子の肩を、蜜華は突然掴んだ。そして、体を起こさせると、その顔を真っ直ぐ見据える。
「そんなに泣くくらいなら、早く兄様のところへ戻りなさいよ」
冗談のようなことを、あまりに真剣な目で言うものだから、藤子は少し笑ってしまった。蜜華は怪訝な顔をしていたが、かえってそれで気が楽になって、藤子は先ほどよりかなり落ち着いて話せるようになった。
「それは、できません。私の存在は、透様の足枷にしかならないのですから。あんなに努力されている透様の未来を踏みにじる存在にはなりたくありません。父の思惑に従えば、きっとお優しい透様は私を受け入れてくださるでしょう。しかし私は、父に逆らってでも、透様の未来を願うことに決めたんです」
気の弱そうな、おどおどした女の声は、微塵も残っていなかった。青ざめた頬には赤みがさし、瞳の奥には何人たりとも折ることのできない決意を感じた。
それでも蜜華は、兄の様子を話した。兄を救うことができるのは、きっとこの女性だけ。頭を下げて、頼みもした。しかし、藤子は、苦しげに眉を寄せながらも、首を縦にはふらなかった。
「もし、透様が本当に私を望んでくださっていたとしても、それでも、きっとそれは一時のことです。まだお若い透様の将来を、こんなことで潰してしまってはいけません」
それから、藤子は微笑んだ。
「私がこんなことを言うのは間違っているのかもしれません。それでも、どうか、透様を、支えてください」
それは、他ならぬ、兄の浮かべる笑みと同じものだった。
蜜華は、怯んだ。こんな真っ直ぐな決意は、見たことがない。打算も下心もない、こんな純粋な想いを、蜜華はまだ知らない。
知らず、蜜華は肩に置いてあった手を、彼女の腕へ移した。それから、きちんと伝わるように、必死に、言葉を重ねた。
「それなら……それなら、貴女は、兄様に見つからないように、私に会いに来たらいいわ。私が、兄様の様子を教えてあげる。それから、そっと兄様の様子を眺めることもできてよ。別邸からは、兄様の部屋の様子がよく見えますもの。ここからなら、本邸に近寄らずに入ることができるわ。この出入り口のことは私しか知らないと思っていたのだけれど……この門のこと、兄様から聞いたんでしょう?だったらきっと兄様はここには近寄らないはずよ。藤子さん……」
困惑と迷いに揺れる藤子の目を、蜜華はしっかりと捉えた。
「貴女が兄様を見守っているというだけで、何故か私は救われた気持ちになりますの」
結局、藤子は頷いてしまった。彼女にそこまで言われては断れないという大義名分のもと、言葉を交わすことはできなくとも、姿を見ていたいという誘惑に克つことは、できなかった。
藤子の目から、涙が溢れる。再び彼を、この目に映せる。そして、愛する息子に伝えることができる。「あの方があなたのお父さんなのよ」と。それが、どれほど嬉しいことか。
蹲る藤子を、蜜華はまた、そっと抱きしめた。
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