薄幸の佳人

江馬 百合子

文字の大きさ
上 下
15 / 63

第十五話 再会

しおりを挟む
「槙」

 平坦で、悲しげで、それでいてしなやかで、すっと通るその声音が、広い倉庫に反響した。

 日向は、閉じていた目を徐々に開いた。蛍光灯の明かりが差し込んでくる。
 バッドを持っている男は、構えたまま、声の主の方へ茫然と視線を注いでいた。

 彼女は、倉庫の奥、一段高くなっている檀の上に立っていた。よく見ると、その檀の奥の扉が開け放されている。
 そこから吹き込んでくる風が、彼女のセーラー服をはためかせ、髪を乱した。赤い目縁は不思議な魅力を匂わせ、その奥の瞳は、一見穏やかだが、燃え滾る熱量を内包していた。
 決して、美しいわけではない。しかし、皆その姿から目を離すことなどできなかった。

 その様子に、満足げに微笑む青年は、そっと一葉を背に庇う。それまで暗がりに紛れていたその男に、またしても皆刮目した。

 色素の薄い黄味寄りの髪は、白々とした明かりの下で、緑がかって見える。すらりとした体躯。滑らかな紺色のスーツ。切れ長の目から覗く茶色い瞳は、金色に光っている。
 そしてその微笑は、槙をいたぶっていた、あの男に向けられていた。

「久しぶりですね。清和さん」

 それまで、口を開けていた男は、その呼びかけにはっとする。

「何故、貴方が此処に」

 彼のこめかみを、一筋の汗が伝った。
 微笑みの男はその問いには答えず、そのまま日向の方を見た。

「日向さん、ご迷惑をおかけしています」

 日向は、「なるほど、そういうことか」と呟くと、向けられていたバッドを掴み取り、そのまま床へと投げた。
 がらんがらん、と大仰な音が響く。

「成宮の家の問題に、俺たちを巻き込まないでくれないか、とおる

 真っ直ぐな視線に射抜かれた透は、苦笑しつつ檀から飛び降りた。手を引かれた一葉も、共に続く。

「返す言葉もありません」

 そう零すと、一葉の手を離した。
 そのままふわりと動く。たんたんと軽やかな足音がこだまする。

 そして、一瞬の後、槙の背に足を乗せていた清和が、宙を舞っていた。
 地面に全身を打ち付けた清和は、小さく呻いた。
 透は、槙の隣に立ち、右足のふくらはぎをさり気なく伸ばしている。

 槙には、何が起こっているのか、殆ど何も分からなかった。
 ただ、泣きながら駆け寄ってくる愛しい妹の姿が、そして彼女に抱きしめられる感覚が、彼の優しげな目尻から涙を溢れさせた。

「一葉…」

 無事か、その一言すら、嗚咽に飲まれてしまう。一葉は、彼の肩に顔を埋めて、肩を震わせた。

「槙」
「ごめんなさい」

 ただそれだけを繰り返す華奢な少女を、槙は抱き返した。こしのある前髪を指先で梳く。脇腹が痛む気がしたがそんなことは気にならなかった。妹を支えながらゆっくりと立ち上がる。

「一葉、俺なら、大丈夫だから」

 そういうと、彼女の目元を親指で拭い、にかりと笑った。
 その目からは、新たに大粒の涙が溢れ出してきたが、それでも一葉は、笑った。

「良かった」

 そして、一葉はまた槙の胴に抱きついた。
 槙は、ぶらぶらと手を振ってみる。まだ使い物になるか、確かめるために。
 それから、隣の透に向き直った。

「礼を、言うべきでしょうか」

 透は、困ったように眉を寄せると、視線を落とした。

「いえ、全て私の落ち度ですから。お詫びのしようもありません」

 そのとき、ゆらゆらと立ち上がった清和が、おろおろと、そしてぼんやりとしていた有象無象に鋭く怒鳴った。

「お前ら、何をぼさっと見てるんだ!さっさとやれ!」

 水を打ったように静まり返る庫内。視線だけで周囲を見回す烏合の衆は、徐々に雄叫びを上げ始めた。此処まで来てしまっては、もはや退くことなど出来ない。そして、人数は比べるべくもないほどに明らかだった。相手が、例え人とは思われない者たちの集まりであったとしても。
 十名以上の輩が、一斉に日向へ向かった。そして、残りの者達が、透と槙へと駆ける。槙は、一葉に囁いた。

「絶対に、俺から手を離さないでくれ」

 そして、透に告げた。

「あいつを、逃さないでください」

 濃茶の瞳の奥にちらつく炎に、透は、内心たじろいだ。絶対に許さない、と自ら告げられた気がした。

「分かりました」

 それだけ返すと、透は清和へと向かう。

 槙は、透を追おうとした男を、しなやかな腕で掴むと、後方へ投げた。そして、一葉の肩を抱くと、ぎゅっと、自分の体へ引き寄せる。背中が、軋んだ気がする。だが、痛みは感じなかった。
 向かってくる者に視界を絞る。そして、神経は、一葉の触れる脇腹に集中した。他の感覚は、今や、足枷にしかならない。
 それにしても、いなしても、退けても、次から次へと湧いてくる。きっと、決定打を与えられないために、数を減らせていないのだろう、と頭では妙に冷静に分析していた。
 聡い一葉は、なるべく弱味とならないように、兄の陰に身をひそめる。感情のままに出張れば、かえって彼を追い込むことになってしまうと、理解していた。

 だが、彼女は、槙の怪我を正しく認識してはいなかった。彼は、今立ち上がっていることが、いや、そもそも、意識を保っていることすら、不思議なほどの出血と打撲を負っていた。
 実際、槙は、ひどく寒く、そして同時に暑かった。頭は驚くほどに澄んでいた。しかし、何も、考えられなかった。ただ、一葉の体温を感じる。それだけだった。
 一葉が側にいる。その事実が、槙をその場に止めていた。今自分が倒れてしまえば、彼女はどうなるのか。考えるまでもなかった。槙はそれを、無意識に恐れていたに違いない。

 相手の首を掴んで転がす。間髪入れずに向かってきた男は蹴り上げるより他なかった。しかし、平衡感覚がおかしい。片膝が緩む。必死に食いしばった。
 踏み止まらなければ。

 ふっと、意識が遠のく。

 駄目だ。今は、まだ、駄目だ。

「…一葉」

 血で乾いた唇から、嗄れた声が溢れた。

 とん。

 そう、自分の肩に手を置かれた感覚が体に走る。

 途端に、また、全身に意識が戻った。

 はっきりとした視野で、手の主を探すと、不安げな黄白色の瞳が揺れていた。

「大丈夫か」

 血痕の飛んだ人形のような顔が、槙を覗き込む。

「日向さん…?」

 槙は、無意識に、日向の立っていた場を見た。そして、息を飲む。そこには、もはや立っている者はいなかった。

 そして今、日向は槙に向かっていた群れを、流れるように薙ぎ倒していく。生成り色のシャツが、赤く染まる。そしてそれが、何故かとても美しく見えた。
 恐れる暇すら与えられない者たちが、片端から倒れていく。

「何故…」

 槙は思わず呟いた。あの細い腕で、あのガラス細工のような脚で、どうやって戦っているのだろう。
 今、眼前で展開されているはずなのに、それは、到底戦闘には見えなかった。
 とうとう、最後の一人が地に沈む。
 日向は、長い息を吐き出すと、槙の元へ戻り、その肩を支えた。

「遅くなった」

 何の感慨も含まない言葉が、かえって、槙を、そして一葉を安心させた。

 一葉は、透を探す。彼は、五メートル程先で、倒れこむ清和を見下ろしていた。

「清和さん、私が何の対策も立てずに、貴方方を野放しにしておくわけがないでしょう」

 ぎりぎりと歯軋りをする清和は、返す言葉もない。

「今回の件、とても看過することはできません。ひかる、そして藤子とうこさんともども、二度と日の目を見ることはないと思ってください」

 その名を聞いた途端、彼の目の色が変わった。
 素早く銃を取り出すと、透へ構える。

「お前達さえいなければ、光様があんな痛ましい思いをすることもなかったんだ!」

 そして、彼は躊躇うことなく引き金を引く。
 その振動は、空気すら揺らした。
 透は咄嗟に目を閉じる。

「兄様!」

 聞き慣れた声が、いつになく張り詰めた声音で、自分を呼ぶのを聞いた。


 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる

Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。 でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。 彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

赤ずきんちゃんと狼獣人の甘々な初夜

真木
ファンタジー
純真な赤ずきんちゃんが狼獣人にみつかって、ぱくっと食べられちゃう、そんな甘々な初夜の物語。

お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~

ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。 2021/3/10 しおりを挟んでくださっている皆様へ。 こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。 しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗) 楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。 申しわけありません。 新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。 お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。 修正していないのと、若かりし頃の作品のため、 甘めに見てくださいm(__)m

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます

結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います <子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。> 両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。 ※ 本編完結済。他視点での話、継続中。 ※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています ※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります

処理中です...