薄幸の佳人

江馬 百合子

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第十一話 それぞれの願い

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 呼び鈴を鳴らしながら、日向は考えていた。問うて何になるのかも知れないことを、今から問おうというのだ。そもそも、彼が答えを持っているのか、それすら分からない。だが、日向自身、彼に幾分興味があったというのも事実だ。無月のかつての想い人を、この目で直接確かめておきたかった。
 日向が二度目の呼び出し音を鳴らそうと、インターフォンに指をかけたとき、中から「はい!」と声がした。はっきりとした、芯の強そうな声。それから、何の警戒心もなく、大きく扉が開かれた。
 そして眼前に現れた深草槙は、開口一番、「ごめん!一葉!俺が悪かった!」と叫んだ。


――――……


 無月は、橙色の光に照らされた蜜華を眺めている。草原を吹き抜ける風が、彼女のふわふわとした髪をそよがせる。
 昼食後、蜜華に花を摘みに出ようとせがまれ、結局二人は宿から歩いて二、三十分程の草原まで来てしまった。
 当初は無月を気遣ってのことであったのだろうが、恐らく今や、蜜華自身、花の世界に夢中になっているに違いない。現に、彼女は随分と遠くへと行ってしまった。お互いに姿の見える範疇を超えることはなかったけれど。
 無月も、足元の花を摘んでみた。桃色の細かい花がいくつも付いている。この花は何なのだろう。
 そんなことを考えながら、香りを楽しんでいると、蜜華が戻ってきた。

「此処には野草だけではなくて、園芸種まで咲いているので驚きましたわ!私、無月様に花飾りを作ってきましたの」

 よく見ると、彼女の手には、色とりどりの花々が握られていた。それを無月の髪に挿す蜜華。

「思った通り、よくお似合いですわ」

 彼女はそう言うと、可憐なえくぼを作ってはにかんだ。
 無月もつられて微笑む。蜜華といると、自分の中の毒が溶けて無くなってしまったかのような気持ちになる。そのことに、無月は初めて気がついた。
 無月はそっと、自らの髪から、数本の花を抜き取った。蜜華は急いで、「申し訳ありません無月様、お気に召しませんでしたか」と、無月の髪に残った花に手を伸ばした。しかし、無月は僅かに首を振り、その花を蜜華の髪に挿した。目を見開く蜜華に、無月は苦笑する。

「蜜華、目が溢れてしまいそうだわ」

 その言葉にはっとした蜜華は、途端に頬を染めた。一度、視線を落とす。それから、無月の髪で神秘的に揺れる、柔らかな白色の花を見つめた。

 辺りは夜のベールに包まれ、淡い橙色と薄桃色の世界に、濃紺の気配が忍び寄っていた。

「無月様、月見草の花言葉をご存知ですか?」

 蜜華は、努めて何気なく問いかけた。
 無月は、沈んでしまった太陽を惜しむかのように山の端を見つめながら、「いえ、私、花言葉はよく分からないのよ」と正直に答えた。
 無月の手の中では、桃色の花がくるくると弄ばれている。
 蜜華は、寂しいような、安心したかのような、妙な表情をした。それから、無月の手元の花を見つめ、刮目した。

「ねぇ、蜜華、その花言葉って」

 何なのかしら。そう問おうと蜜華に視線を向けた無月は、彼女の様子に気がついた。

「蜜華?どうかしたの?」

 無月自身無意識のうちに、不安げな声で問いかけた。
 蜜華は、静かに無月を見つめる。

「『運命を開く』」

「え?」と無月が聞き返す前に、蜜華は無月の手元の花を示した。
「無月様のお持ちになっている花の花言葉ですわ」

 そう言うと、蜜華は涙で滲んだ瞳で、嬉しげに笑った。
 蜜華は無月の事情など、何も知らない。無月が藤泉院家の令嬢であること、そして、忘れもしない、彼女を救ってくれたこと。蜜華の持ち得る無月に関する情報は、たったこれだけ。しかし、それが、蜜華の全てであった。
 蜜華は願う。無月が、心の底から笑える日が来ることを。そのためなら、比喩ではなく、事実、何を犠牲にしても怖くはない。

『密やかな愛』

 この世で最も愛する人のためならば。


――――……


 日向は、右手の仏壇をちらりと見た。その視線に気づいたのか、机の向かいの座布団の上に正座している槙が苦笑する。

「どこまでお調べになられたのでしょうか?」

 その台詞に、今度は日向が苦笑した。

「自己紹介は必要ないみたいだな」

 槙は苦笑したまま頷いた。

「春さんを知らない人はなかなかいないと思いますよ。日向さんが春さんだということは無月さんに聞いていたので。こうしていらっしゃるとは思っていなかったので、正直驚きましたが」

 そう言うと、槙は人好きのする笑顔を浮かべた。
 無月は、彼のこのような笑顔に惹かれたのかもしれない、と日向は考えた。この屈託のなさは、ひとえに彼の人柄から滲み出るものなのだろう。
 焦げ茶色の短髪は、日に焼けているのだろうか。すらりとした日向と比べると、細身ながらもかなりがっしりとした体格をしている。
 日向は、彼はもっと憔悴していると聞いていたので、予想との差異に内心違和感を感じた。服装も身綺麗に整えられており、髭も綺麗に剃られている。

 そういえば、日曜の夕方だというのに、他人の気配が全くしなかった。

「妹さんは、留守か?」

 その質問を聞くと、槙は視線を落とした。それから、握っていた手を更にきつく握り、日向の目を見た。

「今から、探しに行くところだったんです」

 その思い詰めた様子に、日向も一瞬たじろぐ。しかし、不在なら、その方が日向にとっては都合が良かった。

「その妹さんの件なんだが」

 日向は槙を見据える。

「彼女の母親について聞かせて欲しい」

 槙は、少しだけ息を呑んだが、柔らかく頷いた。どうやら予想の範疇だったらしい。

「この話は一葉には絶対に秘密にしておいてください」

 そう断ってから、槙は訥々と話し始めた。

「俺と一葉は、お互い連れ子なんです。だから、俺たちの間に血の繋がりは一切ありません。俺が五歳くらいのとき、父が咲さんと再婚しました。当時、一葉は生まれて間もない赤ん坊だったので、このことを知らないはずです」

 日向は頷いた。約束する、という意思を込めて。それを確認すると、槙はまた口を開いた。

「これは、母方の祖父母、つまり一葉の実の祖父母に聞いた話から自分で調べた結果なので、断言することはできないのですが、俺は、間違いないと感じました。無月さんの御母堂陽子さんは、一葉の母親の咲さんの、姉に当たるはずです」

 予想していたこととは言え、日向は暫く言葉を発することができなかった。その間に、また槙が続ける。

「父方の祖父母はとっくに他界していますし、母方の祖父母も去年一昨年のうちに他界してしまいました。俺たちは天涯孤独ということになってしまいます。俺はそれでも何とかやっていけるでしょう。ただ、一葉は俺とは勝手が違うはずです。女性にしか相談できないようなこともこの先きっと出てくる。だから」
「血縁のものを探したというわけか」

 槙は首肯した。

「彼女を初めて見たとき、一葉との血の繋がりを確信しました。勿論、顔が似ているわけではありません。ただ、長年一葉から感じていた何かを、彼女からも感じたんです。しかし、俺は、そのときふと気づいたんです。無月さんと血の繋がりを持つ一般人は、危険なのではないかと」

 日向は考える。それは、そうだろう。ただの従姉妹であるとはいえ、どんな計略に巻き込まれるか、予想すらできない。あの世界は、そういうところだ。

「だから、このことは墓まで持って行こうと思っていたんですけど…日向さんにばれてしまいましたね」

 槙は困ったように頭をかいた。日向は、そんな呑気な槙を、ふいにからかってやりたくなった。

「もし俺が、あんたの妹を何かに巻き込んだらどうするんだ」

 すると、槙の瞳から、温度がすっと引いた。

「俺は、誰が相手でも、容赦はしません。どんな手段を使ってでも、何を捨てる羽目になっても、彼女だけは、守ります」

 そして、そっと付け加えた。

「彼女は、たった一人の、妹ですから」

 日向は、その目の光が再び柔らかくなったのを見て、ふっと笑った。

「無月は、『彼女』の代わりだったということか」

 槙は、それには答えず、仏壇に視線を投げた。

「今朝、一葉が泣きながら家を飛び出したんです。『そんなに無月さんが恋しいなら、やっぱり一度連れてくる』と。そんなこと、できるはずもないのに。ただ、そのとき気づいたんです。これじゃあ本末転倒じゃないかと」

 日向にとって、それは十分な答えとなった。 

「あんたの妹は、無月の友人なんだが、知らなかったのか?」

 それを聞くと、槙は大きく目を見開いた。

「それじゃあ、一葉は彼女のところに…?」
「まぁ、無月は今不在なんだが」

 そのとき、日向も違和感を感じた。今朝家を出て、無月に会えなければそろそろ帰っても良さそうなものではないか。窓から差し込む夕日は、既に消え、夜の香りが立ち込め始めている。

 そのとき、居間の電話が鳴り出した。会釈をして立ち上がる槙を、日向は無意識に追った。
 画面には、一葉の携帯番号が表示されている。槙はほっとして、受話器を持ち上げた。すると、受話器から、「槙、ごめん」という一葉の声がした。
 その緊迫した声音に、槙の背中に嫌な汗が伝った。そして、受話器の向こうで、がさがさと音がした後、見知らぬ男の声がした。

「深草槙だな。妹は預かった。藤泉院家の娘を連れて、錦港の五番倉庫に来い」


 
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