薄幸の佳人

江馬 百合子

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第六話 父と継母

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 無月は階段を降りると、右手に折れ、静々と廊下を進む。そして、そっとため息をついた。
 この家に来ること、早五年。未だに食事の時間は憂鬱だった。
 無月に殆ど何の関心をも示さず、ただ、放任主義を貫いている当主が、唯一彼女に命じたこと。

「食事は食堂でとるのだ。分かったな」

 その言葉に、無月が首を横に振れるはずなどなかった。これは、彼女の様子を見張るという意味合いの含まれた食事だとすぐに察したからだ。
 勿論、無月とてこの憂鬱な時間を何とかしたいとは思っている。あえて食事に遅れもしたし、逆に三十分以上早く向かったこともあった。
 しかし、それでも、父と継母は静かに無月を待っていたのだ。

「…きっと、伊勢が内通しているのね」

 ぼそりと不満そうに呟かれた声は、誰に聞かれることもない、微かな声音。
 伊勢と言えば、彼もまた無月にとっては謎の多い人物であった。
 白髪の六十歳前後と思われる執事。無月は本名すら知らない。整った顔立ちに優しげな双眸。落ち着いた物腰にすらりとした佇まい。
 思えば、物心着いた頃から常に隣に控えていた。ということは、少なくともこの家の執事ではない。何故、自分などに付き従ってこの家に来たのだろう。無月には、分からなかった。
 無月がこの家に移される際、伊勢は当然のようにその運転手役を買って出た。当時はさほど深く考えはしなかったが、あれは明らかにおかしいことだった。前の家に仕えていたということは、彼の主は無月の祖父母だったということなのだから。いくら藤泉院家が優良物件だからと言って、主をそうやすやすと替えてしまえるような男だとは思えなかった。
 そして、いつの間にか、我が物顔で藤泉院の家に馴染んでいる。今や執事にまで上り詰めているらしい。
 無月には、分からないことばかりだった。

「まぁ、どうでも良いのだけれど」

 そう、無月にとって、そんなことはどうでも良かった。被害を被っているわけでもない。むしろ、助けてもらってばかりだった。
 いつだったか日向に、どうやってここに辿り着いたのかと尋ねたことがある。いくら春乃宮家の者であるとは言えど、日向のようなワケありが、当時の無月に堂々と会いに来られたのは何故なのか、と。
 日向はただ、「…あの爺さん、侮れないね」と答え、意味ありげに笑った。
 敵なのか、味方なのか。それすら定かではない。しかし、そんなものだろう。

 無月は突き当たりの食堂の前に辿り着いた。この家にはいくつか食堂が設けられているのだが、無月の父が指定したのは、その中で最も小さな部屋だった。その様は、何と無く、無月に以前の家を思い出させた。
 控えていた男が、扉を開ける。無月は頭を下げて足を踏み入れた。

「おはようございます」

 そして、すっと視線を上げる。
 それほど大きくもないが重厚なダイニングテーブル。そこに、左右に二つずつと、両端に一つずつ、計六つの椅子が並べられている。
 卓上には、カゴに丸パンが積み上げられており、卵料理やサラダ、スープなど、比較的軽めのものが湯気を上げていた。

「あぁ、おはよう」

 そして、上座に座り、無月を一瞥した人物は、この屋敷の主、藤泉院とうせんいん清宗きよむねである。
 現在四十八歳という、壮年の男性だが、氷のような双眸に、すっと通った鼻筋、白く肌理の整った肌、すらりとした佇まいは、まるで絵画のようだ。白髪も混じらぬ漆黒の髪は、上品に整えられている。

「おはようございます、無月さん」

 その清宗の左手の席には、無月の継母にあたる、藤泉院とうせんいんかおるが座していた。
 人好きのする笑顔を浮かべている様は、とても三十七歳には見えない。下手をすれば無月の妹でも通用してしまいそうだった。
 波打つブラウンの髪はセミロング。黄味がかった白い肌に、大きな茶色の瞳。両頬のえくぼ。全てが彼女の愛らしさを際立たせていた。どこか、蜜華みつかを彷彿とさせる彼女は、声音までもが穏やかで優しい。
 そんな彼女に、無月は一瞥すらしない。清宗に一礼をすると、洗練された動作で薫の向かい側の席に座った。それもまた、いつものことなので、誰が咎めることもない。
 清宗の「では、いただこう」という言葉とともに、静かな朝食が始まった。

「えっと…無月さんは、今日からしばらく日向様と旅行に行くのでしょう?」

 いつものように、薫は口火を切った。可愛らしい笑顔を浮かべているが、無月には仮面にしか見えなかった。

「…えぇ、しばらく留守にします」

 無月の慇懃無礼な返答。だが、薫は気にしたそぶりも見せずに果敢に言葉を繋ぐ。

「まぁ!羨ましいわ!どちらへ行かれるのかしら?」

 その言葉に、心なしか清宗も反応する。しかし、無月の返答はやはり素っ気ないものだった。

「…何も聞かされていないので、私にも分かりません」

 それは、事実だった。ただ、事実だけを簡潔に伝える会話。
 それでも薫は、温かなパンを千切りながら微笑んだ。

「それはきっと、サプライズというものね!若いっていいわねぇ…」

 無月は適当に相槌を打つと、スープを一口、口に含んだ。

「無月さんはどこか行きたい場所はないのかしら?」
「…はい、特には」

 取りつく島もないが、やはり薫は笑っている。

「そうなの?実はね、近々家族旅行に行きたいわねぇって、清宗さんと話していたのよ。出来れば無月さんの行きたい場所へと思っていたのだけれど…」
「…私に構わずどうぞお二人で。留守を守る者も必要でしょうから」

 薫の表情が僅かに陰った。一瞬伏せられた瞳に、僅かに噛まれた唇。その様は悲しげにも、また悔しげにも見えた。
 しかし、それは本当に一瞬のことで、彼女は、すぐにまたいつもの笑顔に戻った。

「そう…でも、出来れば無月さんにも来ていただきたいわ!考え直してもらえるように、素敵なプランを練っておくわね!」

 その表情の変化に、無月は内心眉を顰める。だが、それを顔に出す程、無月は愚かではなかった。「そうですか」と気のない返事をすると、サラダのラディッシュを口へ運ぶ。みずみずしさが口中に広がり、僅かながらに爽やかな気分になった。しかし、それも束の間。

「え、えっと…あ、そうだったわ!無月さん、旅行から帰ったら私とドレスを仕立てに行かない?ほら、成宮さんのパーティーに着ていく…」

 無月はやはり「遠慮します」と返してしまいたかった。しかし、経験上知っている。これ以上邪険な態度を取れば確実に場の空気が持たない。下手をすれば、それまで黙っていた清宗が口を出し始めかねないのだ。それは、得策とは言えなかった。故に、この場における模範解答を口にした。

「…お心遣い、感謝します」

 その瞬間、薫の表情が輝いた。

「まぁ!あなた、聞きました?」

 「あぁ」と頷く清宗の表情も、どことなく柔らかい。

「楽しみだわ、本当に…今から待ちきれないくらい!」

 大げさなくらいに喜びを露わにする薫に、無月は「私もです」と至極冷静に返し、自分の皿のものを全て食べ切った。
 ナイフとフォークを揃え、果実水を口に含む。ちらりと時計を確認すると、既に九時半を少し回ったところだった。
 無月は、「そろそろ時間ですので」と申告すると、すっと立ち上がった。
 清宗は、やはり果実水を煽りながら「あぁ、行ってきなさい」と返し、薫は気遣わしげに「気をつけてね」と付け足した。
 無月は一礼をすると、そのまま振り返ることなく扉へ向かう。そして扉が開かれると、迷いなくその向こう側へと消えていった。

 無月は来た道を引き返し、そのままホールへと向かった。パンプスのチャームがシャラシャラと音を立てる。
 この気疲れした顔を日向には見せたくないわ、などと考えながら歩いていたら、すぐに、荷物を持って控える使用人が目に入った。
 そして、その奥で微笑んでいたのは。

「…っ、日向っ!」

 無月は思わず駆け出し、その勢いのまま日向に抱きついた。細いがしっかりとした体が無月を抱きとめる。

「無月、危ないだろ」

 そう苦笑する日向に、無月はこの上なく安心した。

「無月の荷物はもう車に乗せてある。行こうか」

 日向の陽だまりのような微笑みに笑み返しながら、無月は侍女からバッグを受け取り、日向の隣に並んだ。

「私ね、本当に楽しみだったの」

 その晴れ晴れとした表情がどれほど眩しいものか、無月は気づいていないに違いない。

「…確かに、今日はいつもよりずっと綺麗だ」

 輝く朝日を受けながら、玄関へと向かう二人を、侍女は目を細めて見守っていた。


 
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