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第三話 雨に出会い雪に祈る
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蜜華は、無月が日向の車に乗り込むのを見届けると、ふわりと微笑んだ。
「それでは、無月様はこちらで日向様をお待ちください。私はこれで…」
二人の時間を邪魔してはならないという明らかな配慮が透けて見え、何だかきまりが悪いと感じてしまう。
蜜華はいつも、無月と日向の間に遠慮していた。無月はその度に、もし三人で仲良くできれば、と考えずにはいられないのだが、それを言うといつも、蜜華は苦しげに笑いながら「そればかりは、できない相談ですわ」と頭を下げた。
無月は、ぼんやりと外を眺めて、思わずため息をつく。日向の眩いばかりの容姿も、その声、視線が、まるで麻薬のように人々を溺れさせるのも、無月には分かっていた。
幼い頃から、日向は多くの女性に囲まれていたし、日向もまた彼らを無碍には扱わなかった。
勿論、無月が側にいるときは、何人たりとも二人の間に割り込もうとはしない。まして、無月に嫉妬心を剥き出しにするような輩はいなかった。
けれど、無月のいない僅かな隙間に、彼らはするりと入り込もうとする。それが、無月の胸をざわつかせた。
だが、無月には言えなかった。
「他の子と仲良くしないで」
もし、そう言えたなら、この胸のざわつきも、綺麗に治るのかもしれない。
そのとき、無月の手の中で所在なく弄ばれていた携帯が鳴った。ふと何の気なく、無月は画面を開く。
そこには、一葉からのメールが表示されていた。
無月さん、先程はありがとうございました。
それから、八つ当たりをしてしまって、すみません。
いつかまた、お話できたら嬉しいです。
深草一葉
無月は、複雑に微笑んだ。
初めて槙と出会ったときのことを思い出しながら。
あの日、無月は珍しく大学に出た。たまには一緒に授業に出たいとせがむ、蜜華の愛らしさに負けたのだ。
彼女たちが受けねばならない授業は、ほとんどがマナーに関するものばかりで、正直、無月にとっては退屈だったのだが、くるくると表情を変えながら可憐に話す蜜華を見ているだけで、来た価値があったと思えた。
しかし、無月の晴れ晴れとした気持ちとは対照的に、授業が終わる頃には、厚い雲が広がり始め、学舎を出るころには、細かな雨がぽつぽつと降り始めた。
それほど激しく降るとも思われなかったので、蜜華には学舎で家の者を待たせ、無月は「伊勢を待たせても悪いから」とその場で別れることにした。
蜜華は「私もご一緒に参りますわ」と食い下がったのだが、それは何とか押し留めた。彼女が風邪をひきやすいことを知っていたためである。
予想に反し、門へ向かうころには、雨は本降りとなり、早足で歩く無月を容赦なく濡らした。
「このまま車に座れば、車の中に水溜りができてしまうわ」
内心青くなるであろう伊勢の仏頂面を思い描き、くすりと笑う。もう、門は目の前だった。
すると突然、横手から、「あの!」と大声で呼び止められた。
無月は、驚きが隠せなかった。そんな風に不躾に声をかけられたのは始めてだったのだ。思わず声の主を見やる。
流れるような視線に射抜かれた男は、はっと息を飲んだ。
夏の終わりのあの切ない空気の中、流れる髪を体に張り付かせ佇む彼女の、なんと神秘的なことか。
睫毛に溜まった雫が止めどなく頬へ流れていく。まるで、泣いているかのようだった。
二人を、滝のような雨が包む。視界も烟るほどの雨の中、世界から切り取られた二人は、ただ互いを見つけ続けるより他なかった。
雨が、さらに強まる。
打ち付けるような雨音が、彼の傘を揺らした。容赦なく降り注ぐ雨水が、無月の体温を次第に奪っていき、真白の肌を、より白く塗り替える。
その様子を見て、男は、ようやく我に帰った。すぐに無月の元へ駆け寄り、傘をさしかける。
「突然呼び止めてしまってすみません。あの…」
次の言葉を探そうと思うのに、無月の潤んだ瞳に見つめられ、うまく頭が働かない。それでも、何とか言葉を続ける。
「藤泉院無月さん…ですよね?俺、深草槙といいます。あの、決して怪しい者ではありません」
無月は改めて槙と名乗る男を見つめた。
日に焼けた肌に、同じく日に焼けて茶色くなった短髪。背丈が高い上に、筋肉質なので、少々迫力があるものの、何故か威圧感は感じない。
おまけに、明らかに緊張しているのが伝わってきて、それがかえって、無月の警戒心を溶かした。
「それで、何かご用?」
小鳥が歌っているかのような無邪気な声が、槙の鼓膜を揺らす。
眩暈を覚えながらも、槙は何とか理性を掻き集めた。
「お頼みしたいことがあるんです。ご迷惑なのは承知しています。それでも、どうか、お話だけでも聞いていただけませんか?」
緊張で掠れた声が、雨音に混じる。彼女を見つめれば見つめるほどに、正常ではいられなくなるのが分かった。
一方無月は、何度か目をぱちぱちと瞬かせると、まるで何でもないことのように「いいわ」と微笑んだ。
そのあまりの安請け合いに、槙は暫くの間、茫然としてしまった。それから、質問の意味が分かっているのか、本当に良いのかと何度も確認する羽目になる。
その度に、無月はころころと笑った。
そういえば、と無月は当時の記憶を手繰り寄せる。
あのときの頼みごととは、一体何だったのだろう。
槙は結局最後まで、無月に頼みごとなどしなかった。無月が尋ねても、「あんなのはただの口実だよ」と躱されてしまい、結局、彼の最初の目的を知ることはできなかったのだ。
しかしそれも、全て今更だ。
槙は頼みごとこそ打ち明けなかったものの、事あるごとに無月を呼び出すようになった。大学の文化祭、地域の展覧会、何気ない放課後。
それから、クリスマスにも。
白い雪が舞い上がり、駅前の巨大なツリーがざわざわと揺れる。
急に立ち止まった彼。
あの日、雨の中で見つめ合った二人は、再び、純白の雪の世界で視線を交わした。
舞い踊る雪の合間から、イルミネーションの明かりがちらちらと瞬く。まるで、夢の中にいるかのようだった。
思わず、無月は願った。
どうか、この夢のようなひと時が、永遠になりますうに。
途方もない願いだと分かっていた。藤泉院家に囚われた自分に、そんな未来はあり得ない。
しかし、槙の笑顔を見るたびに、無月は自分の世界の人々の笑みがいかに空虚か思い知らされた。
そして、その海のような優しさに触れるたび、無月はもっと深く彼の心に触れたくなった。
身の程知らずの願いでも、今宵は聖夜なのだから。
思うだけなら、許してほしい。
無月は潤んだ目を細めて、槙の真っ直ぐな視線を見つめた。
会うのは今日で最後にしようと言われるのかもしれない。何故なら、槙は常々、「大切な人がいるんだ」と愛しげに話していたから。
だから、彼が発した言葉を、無月は瞬時に理解することができなかった。
「無月、俺と付き合ってくれないか」
無月の頭を「付き合う」という単語が駆け巡る。しかし、彼女の頭が追いつく前に、その瞳からは、堪えきれなくなった涙がぽろぽろと溢れ出した。
槙の瞳に、強い覚悟が滲む。それは、何かと引き換えに、何かを捨てた者の目だった。
思わず、無月は問うてしまった。
「大切な人がいるのでしょう?」
すると槙は、「あぁ」と何でもないことのように笑った。
「妹だよ。俺にとっては、世界にただ一人だけの家族だから」
無月は思わず、彼の胸に飛び込んでしまった。やはりここは夢の中なのかもしれない。
しかし、頬には確かに、彼の体温が伝わってくる。
「私の家のことは知ってるんでしょう?」
涙混じりのくぐもった声。
槙は、無月を、きつく抱きしめた。
「知ってる。俺なんかじゃ釣り合わないってことも」
無月が「そういう意味じゃないわ」と顔を上げると、槙はその頬を撫でた。そして、緩く頭を振る。
「釣り合わないんだ。俺に何ができるのか、不安じゃないって言えば嘘になる。それでも俺は、無月をそこから助けたい」
冬の澄んだ星空の下、無月は再び祈った。
神様、どうか、この人をあの家の災いから守って。そして、もしできることならば、私からこの人を奪わないで。
結果として、無月の祈りは聞き入れられていたのかもしれない。少なくとも、槙に危険が及ぶことはなかった。
しかし、結局、無月は彼の側にはいられなかった。槙の気持ちを知りながら、見て見ぬ振りなどできなかったのだ。
「私に近づいたのも、妹さんのため。私の家のことを細かく聞いたのも、私を助けるためなんかじゃない。私の側にいるのも、私と親しくなろうとするのも、全部、全部妹さんのため。気づいているの。…もう、ここへは来ないで」
別れ際に発した言葉が、今でも鮮明に、無月の胸を締め付ける。
無月の方へ伸ばされ、そして、空を掴んで降ろされた手も、歯を食い縛り、俯いた表情も、全て。
「…せめて、言い訳ぐらい、してほしかったわ」
無月の視線は、遠い日の彼に向けられていた。
あの日の彼は、「ごめん」とだけ言い残して、そのまま姿を消してしまった。
無月は、開きっぱなしにしていた携帯に、再び視線を落とした。
何故、一葉と離れがたいのか、無月にははっきりとは分からなかった。しかし、恐らく蜜華なら、その感情に「未練」と名前をつけるに違いない。
実際、蜜華は不安げに無月を見ていた。その目は恐らくこう問うていたのだろう。
「一葉のせいで、槙と一緒にいられなくなったのではないのですか?そうまでして、槙との繋がりが欲しいのですか?」と。
確かに、彼女を見ていると、彼を思い出さずにはいられなかった。強い光を放つ瞳、凜とした声音、そして、真っ直ぐに向けられる視線は、否が応でも彼を思わせた。
正直なところ、無月は一葉に出会うまで、彼女を恨んでいた。理不尽な恨みだと分かっていた。それでも、もし、彼らが普通の兄妹だったなら、と願わずにはいられなかった。
だが今、そんな気持ちは、不思議なほど綺麗に拭い去られている。槙と再び繋がるために彼女を利用するつもりなど、一切ない。
それでは、何故、と問われれば、無月は黙るより他ない。
そのとき、前方の扉が開かれ、一瞬、周囲の歓声が車内にまで流れ込んできた。
それと同時に、約半年ぶりに会う日向が、後部座席に座る無月に一瞥すらせず車に乗り込み、外の人々へ軽く手を振る。
無月は、その様子をぼんやりと見守っていた。
外の世界で自由に羽ばたける日向。いつ籠へ戻らなくなるかも知れない彼。
そのときが来れば、きっと、彼を引き留めることなんてできない。引き留めようとも、思えない。
ちくり、とまた胸が痛む。無月はそっと胸元を押さえた。
――――……
車が動き出す。
あれから、すぐ大股で後部座席までやってきた日向は、にこりともせず、また何の言葉をかけることもなく、突然無月を抱きしめた。
見た目よりずっと力強い腕の中で、無月は戸惑うことしかできない。これまで、こんなふうに抱きしめられたことなど、一度もなかった。それどころか、大人になった今では、手と手が触れ合うことすら滅多にない。思えば、彼と触れ合うのは、夜の間だけになっていた。
無月の体は、否が応でも強張る。
「日向…?」
おずおずとした問いかけが、静かな車内にやけに大きく聞こえた。抱きすくめられた体は確かに温かいのに、自分の感覚がまるで他人のものになってしまったかのようだ。息が詰まるほどの強さに、無月は更に身を硬くする。
すると、何の前触れもなく日向はするりと腕の力を緩めた。
「無月、久しぶり」
そして、彼は、少しだけ決まり悪そうに笑った。
「それでは、無月様はこちらで日向様をお待ちください。私はこれで…」
二人の時間を邪魔してはならないという明らかな配慮が透けて見え、何だかきまりが悪いと感じてしまう。
蜜華はいつも、無月と日向の間に遠慮していた。無月はその度に、もし三人で仲良くできれば、と考えずにはいられないのだが、それを言うといつも、蜜華は苦しげに笑いながら「そればかりは、できない相談ですわ」と頭を下げた。
無月は、ぼんやりと外を眺めて、思わずため息をつく。日向の眩いばかりの容姿も、その声、視線が、まるで麻薬のように人々を溺れさせるのも、無月には分かっていた。
幼い頃から、日向は多くの女性に囲まれていたし、日向もまた彼らを無碍には扱わなかった。
勿論、無月が側にいるときは、何人たりとも二人の間に割り込もうとはしない。まして、無月に嫉妬心を剥き出しにするような輩はいなかった。
けれど、無月のいない僅かな隙間に、彼らはするりと入り込もうとする。それが、無月の胸をざわつかせた。
だが、無月には言えなかった。
「他の子と仲良くしないで」
もし、そう言えたなら、この胸のざわつきも、綺麗に治るのかもしれない。
そのとき、無月の手の中で所在なく弄ばれていた携帯が鳴った。ふと何の気なく、無月は画面を開く。
そこには、一葉からのメールが表示されていた。
無月さん、先程はありがとうございました。
それから、八つ当たりをしてしまって、すみません。
いつかまた、お話できたら嬉しいです。
深草一葉
無月は、複雑に微笑んだ。
初めて槙と出会ったときのことを思い出しながら。
あの日、無月は珍しく大学に出た。たまには一緒に授業に出たいとせがむ、蜜華の愛らしさに負けたのだ。
彼女たちが受けねばならない授業は、ほとんどがマナーに関するものばかりで、正直、無月にとっては退屈だったのだが、くるくると表情を変えながら可憐に話す蜜華を見ているだけで、来た価値があったと思えた。
しかし、無月の晴れ晴れとした気持ちとは対照的に、授業が終わる頃には、厚い雲が広がり始め、学舎を出るころには、細かな雨がぽつぽつと降り始めた。
それほど激しく降るとも思われなかったので、蜜華には学舎で家の者を待たせ、無月は「伊勢を待たせても悪いから」とその場で別れることにした。
蜜華は「私もご一緒に参りますわ」と食い下がったのだが、それは何とか押し留めた。彼女が風邪をひきやすいことを知っていたためである。
予想に反し、門へ向かうころには、雨は本降りとなり、早足で歩く無月を容赦なく濡らした。
「このまま車に座れば、車の中に水溜りができてしまうわ」
内心青くなるであろう伊勢の仏頂面を思い描き、くすりと笑う。もう、門は目の前だった。
すると突然、横手から、「あの!」と大声で呼び止められた。
無月は、驚きが隠せなかった。そんな風に不躾に声をかけられたのは始めてだったのだ。思わず声の主を見やる。
流れるような視線に射抜かれた男は、はっと息を飲んだ。
夏の終わりのあの切ない空気の中、流れる髪を体に張り付かせ佇む彼女の、なんと神秘的なことか。
睫毛に溜まった雫が止めどなく頬へ流れていく。まるで、泣いているかのようだった。
二人を、滝のような雨が包む。視界も烟るほどの雨の中、世界から切り取られた二人は、ただ互いを見つけ続けるより他なかった。
雨が、さらに強まる。
打ち付けるような雨音が、彼の傘を揺らした。容赦なく降り注ぐ雨水が、無月の体温を次第に奪っていき、真白の肌を、より白く塗り替える。
その様子を見て、男は、ようやく我に帰った。すぐに無月の元へ駆け寄り、傘をさしかける。
「突然呼び止めてしまってすみません。あの…」
次の言葉を探そうと思うのに、無月の潤んだ瞳に見つめられ、うまく頭が働かない。それでも、何とか言葉を続ける。
「藤泉院無月さん…ですよね?俺、深草槙といいます。あの、決して怪しい者ではありません」
無月は改めて槙と名乗る男を見つめた。
日に焼けた肌に、同じく日に焼けて茶色くなった短髪。背丈が高い上に、筋肉質なので、少々迫力があるものの、何故か威圧感は感じない。
おまけに、明らかに緊張しているのが伝わってきて、それがかえって、無月の警戒心を溶かした。
「それで、何かご用?」
小鳥が歌っているかのような無邪気な声が、槙の鼓膜を揺らす。
眩暈を覚えながらも、槙は何とか理性を掻き集めた。
「お頼みしたいことがあるんです。ご迷惑なのは承知しています。それでも、どうか、お話だけでも聞いていただけませんか?」
緊張で掠れた声が、雨音に混じる。彼女を見つめれば見つめるほどに、正常ではいられなくなるのが分かった。
一方無月は、何度か目をぱちぱちと瞬かせると、まるで何でもないことのように「いいわ」と微笑んだ。
そのあまりの安請け合いに、槙は暫くの間、茫然としてしまった。それから、質問の意味が分かっているのか、本当に良いのかと何度も確認する羽目になる。
その度に、無月はころころと笑った。
そういえば、と無月は当時の記憶を手繰り寄せる。
あのときの頼みごととは、一体何だったのだろう。
槙は結局最後まで、無月に頼みごとなどしなかった。無月が尋ねても、「あんなのはただの口実だよ」と躱されてしまい、結局、彼の最初の目的を知ることはできなかったのだ。
しかしそれも、全て今更だ。
槙は頼みごとこそ打ち明けなかったものの、事あるごとに無月を呼び出すようになった。大学の文化祭、地域の展覧会、何気ない放課後。
それから、クリスマスにも。
白い雪が舞い上がり、駅前の巨大なツリーがざわざわと揺れる。
急に立ち止まった彼。
あの日、雨の中で見つめ合った二人は、再び、純白の雪の世界で視線を交わした。
舞い踊る雪の合間から、イルミネーションの明かりがちらちらと瞬く。まるで、夢の中にいるかのようだった。
思わず、無月は願った。
どうか、この夢のようなひと時が、永遠になりますうに。
途方もない願いだと分かっていた。藤泉院家に囚われた自分に、そんな未来はあり得ない。
しかし、槙の笑顔を見るたびに、無月は自分の世界の人々の笑みがいかに空虚か思い知らされた。
そして、その海のような優しさに触れるたび、無月はもっと深く彼の心に触れたくなった。
身の程知らずの願いでも、今宵は聖夜なのだから。
思うだけなら、許してほしい。
無月は潤んだ目を細めて、槙の真っ直ぐな視線を見つめた。
会うのは今日で最後にしようと言われるのかもしれない。何故なら、槙は常々、「大切な人がいるんだ」と愛しげに話していたから。
だから、彼が発した言葉を、無月は瞬時に理解することができなかった。
「無月、俺と付き合ってくれないか」
無月の頭を「付き合う」という単語が駆け巡る。しかし、彼女の頭が追いつく前に、その瞳からは、堪えきれなくなった涙がぽろぽろと溢れ出した。
槙の瞳に、強い覚悟が滲む。それは、何かと引き換えに、何かを捨てた者の目だった。
思わず、無月は問うてしまった。
「大切な人がいるのでしょう?」
すると槙は、「あぁ」と何でもないことのように笑った。
「妹だよ。俺にとっては、世界にただ一人だけの家族だから」
無月は思わず、彼の胸に飛び込んでしまった。やはりここは夢の中なのかもしれない。
しかし、頬には確かに、彼の体温が伝わってくる。
「私の家のことは知ってるんでしょう?」
涙混じりのくぐもった声。
槙は、無月を、きつく抱きしめた。
「知ってる。俺なんかじゃ釣り合わないってことも」
無月が「そういう意味じゃないわ」と顔を上げると、槙はその頬を撫でた。そして、緩く頭を振る。
「釣り合わないんだ。俺に何ができるのか、不安じゃないって言えば嘘になる。それでも俺は、無月をそこから助けたい」
冬の澄んだ星空の下、無月は再び祈った。
神様、どうか、この人をあの家の災いから守って。そして、もしできることならば、私からこの人を奪わないで。
結果として、無月の祈りは聞き入れられていたのかもしれない。少なくとも、槙に危険が及ぶことはなかった。
しかし、結局、無月は彼の側にはいられなかった。槙の気持ちを知りながら、見て見ぬ振りなどできなかったのだ。
「私に近づいたのも、妹さんのため。私の家のことを細かく聞いたのも、私を助けるためなんかじゃない。私の側にいるのも、私と親しくなろうとするのも、全部、全部妹さんのため。気づいているの。…もう、ここへは来ないで」
別れ際に発した言葉が、今でも鮮明に、無月の胸を締め付ける。
無月の方へ伸ばされ、そして、空を掴んで降ろされた手も、歯を食い縛り、俯いた表情も、全て。
「…せめて、言い訳ぐらい、してほしかったわ」
無月の視線は、遠い日の彼に向けられていた。
あの日の彼は、「ごめん」とだけ言い残して、そのまま姿を消してしまった。
無月は、開きっぱなしにしていた携帯に、再び視線を落とした。
何故、一葉と離れがたいのか、無月にははっきりとは分からなかった。しかし、恐らく蜜華なら、その感情に「未練」と名前をつけるに違いない。
実際、蜜華は不安げに無月を見ていた。その目は恐らくこう問うていたのだろう。
「一葉のせいで、槙と一緒にいられなくなったのではないのですか?そうまでして、槙との繋がりが欲しいのですか?」と。
確かに、彼女を見ていると、彼を思い出さずにはいられなかった。強い光を放つ瞳、凜とした声音、そして、真っ直ぐに向けられる視線は、否が応でも彼を思わせた。
正直なところ、無月は一葉に出会うまで、彼女を恨んでいた。理不尽な恨みだと分かっていた。それでも、もし、彼らが普通の兄妹だったなら、と願わずにはいられなかった。
だが今、そんな気持ちは、不思議なほど綺麗に拭い去られている。槙と再び繋がるために彼女を利用するつもりなど、一切ない。
それでは、何故、と問われれば、無月は黙るより他ない。
そのとき、前方の扉が開かれ、一瞬、周囲の歓声が車内にまで流れ込んできた。
それと同時に、約半年ぶりに会う日向が、後部座席に座る無月に一瞥すらせず車に乗り込み、外の人々へ軽く手を振る。
無月は、その様子をぼんやりと見守っていた。
外の世界で自由に羽ばたける日向。いつ籠へ戻らなくなるかも知れない彼。
そのときが来れば、きっと、彼を引き留めることなんてできない。引き留めようとも、思えない。
ちくり、とまた胸が痛む。無月はそっと胸元を押さえた。
――――……
車が動き出す。
あれから、すぐ大股で後部座席までやってきた日向は、にこりともせず、また何の言葉をかけることもなく、突然無月を抱きしめた。
見た目よりずっと力強い腕の中で、無月は戸惑うことしかできない。これまで、こんなふうに抱きしめられたことなど、一度もなかった。それどころか、大人になった今では、手と手が触れ合うことすら滅多にない。思えば、彼と触れ合うのは、夜の間だけになっていた。
無月の体は、否が応でも強張る。
「日向…?」
おずおずとした問いかけが、静かな車内にやけに大きく聞こえた。抱きすくめられた体は確かに温かいのに、自分の感覚がまるで他人のものになってしまったかのようだ。息が詰まるほどの強さに、無月は更に身を硬くする。
すると、何の前触れもなく日向はするりと腕の力を緩めた。
「無月、久しぶり」
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