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第五章 南国 エメラルド

第百十九話 白紙の物語

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 扉の向こうは、一面の青空だった。
 うららかな春の日差しが暖かく、足元の雲は、真珠のような輝きを放っている。

「おじゃまします」

 ひかえめにそう声をかけて、後ろ手に扉を閉めると、扉は徐々に透けていき、ついには跡形もなく消えてしまった。
 そして、すぐ傍から、穏やかな声が聞こえてきた。

「いらっしゃい」

 驚いてそちらを振り向くと、先ほどまで一面の雲原だったところに、ぽつんとかわいらしいティーテーブルが置かれていた。
 そして、向かい合わせに置かれた布張りの椅子には、一人の老人が腰かけていた。
 彼は微笑むと、「待っていたよ」とルコットに椅子をすすめた。
 ルコットは少々驚いたものの、逆らうことなく彼の正面に座った。
 目の前には既にカップとソーサーが準備され、宝石のようなお菓子が並んでいた。

「さて、お嬢さん、コーヒーと紅茶とどちらにするかね」

 戸惑いながら「紅茶を」と返答すると、老人は手ずから赤い紅茶をなみなみと注ぎ、砂糖とミルクを添えてくれた。
 それから、スコーンとクロテッドクリームをたっぷりすすめてくれる。
 しかし、ルコットは柄にもなく焦っていた。

「ありがとうございます。でも、私、早く戻らないと……」

 召喚は上手くいったのだろうが、まだ全てが解決したわけではない。
 こうしている間にも、ホルガーは一人で女神サーリの猛攻を防いでいるかもしれない。
 しかし、老人はのんびりと「心配することはない」と言った。

「地上の時は止めてある。そなたと話しがしたいと思っての」

 そうしてほけほけと彼は笑った。
 ルコットは迷いを見せたが、結局おずおずとカップをとった。
 美味しい紅茶は、少しだけ気持ちを落ち着けてくれた。

「さてと、どこから話そう。わしが何者か、わかるかの?」
「天空神アランテスラさま、でしょうか」

 ルコットが答えると、老人は「ばれておったか」とおどけた表情を見せた。

「驚かせようと思ったのだが」

 ルコットは「十分驚きましたわ」と苦笑した。

「まさかアランテスラさまが助けてくださるなんて」

 すると老人は、「よせよせ」と手を振った。

「わしはただの傍観者じゃ。もはや未来を変える力は備えておらぬ。それは人の子だけに与えられた特権じゃからの」

 そう言うと、アランテスラは、ルコットに微笑みかけた。
 彼のブルーグレーの瞳は、まるで旧友と対話するかのように親しげだった。
 思わずルコットは問いかけた。

「私をご存知なのですか?」

 するとアランテスラは満面の笑みで「もちろん」と頷いた。
 まるでなにか、胸のすくような愉快なものを思い返しているようだった。

「そなたの行く路は、全てを見通すわしの目にも、まったく予想がつかぬ」

 アランテスラの瞳は、過去、現在、そして未来、全てを映すといわれている。それ故に「全てを知る者」と呼ばれているのだ。
 その彼に、「予想がつかない」ものなど、本来あるはずがない。何せ、全てを知っているのだから。
 しかし彼は、「そうではないのだ」と首を振った。

「確かに、わしは世界の流れを知っておる。人の一生から、木の葉の落ちる瞬間まで、全て。……しかし、その流れは一瞬ごとに変化しておるのだ」

 まぁ、少しずつだがの、と彼は言い足した。

「大きな流れの中ではそのような変化など些細なものだ。どれほど枝葉末節が変わろうと大筋は変わらぬ。……そのはずだった。そなたが現れるまではの」

 興味深げな視線に射抜かれ、ルコットはたじろいだ。
 確かに努力はした。国を救おうと必死になっていたのは事実だ。しかし、努力していたのは何も自分だけではない。

「私にだけ『世界の大筋を変える力がある』なんて、とても信じられませんわ」

 正直な感想を口にすると、老人は「まぁ、そうじゃろうな」と笑った。

「しかし、事実なのだ。そもそもな、わしの視てきた歴史では、かの陸軍大将はそなたとの婚姻を断るはずじゃった 」

 これには、ルコットも言葉を失った。
 彼との婚姻は必然だった。
 そのはずだ。
 なぜならそれは王命で、自分も彼も、それに逆らうことはできなかったのだから。
 そこまで考えたところで、ふとルコットは気づいた。
 本当に、そうだったのだろうか、と。

 確かに末の王女に婚姻を断る資格はなかっただろう。
 しかし、彼なら?
 救国の英雄たる彼なら、褒美の婚姻に意見することくらい許されたのではないか。
 どうしてこれまで気がつかなかったのだろう。
 呆然とするルコットに、アランテスラは頷いた。

「さよう。あやつはそなたとの婚姻を断り、生涯独身を貫くはずだった。強大な力が災いの元になることをよく承知しておったが故の。あやつは軍と王家の結びつきを、内心誰より恐れておった」

 ルコットは、アランテスラの言葉を否定できなかった。
 いかにも彼らしい考え方だと思った。

「そしてそなたは、王家の縁者に降嫁し、それなりに幸せな生涯を終えるはずじゃった。それが、どうしたことか……」

 この世界の命運を変える婚姻は、何故か履行されてしまった。
 そうして、これまで白紙だった場所に、新たな物語が紡がれ始めたのである。





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