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第五章 南国 エメラルド

第九十六話 ダンラス王とホルガー

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 馬が、青い草を駆る。
 全身を撫でる風と、遠く聞こえる水路の音。
 頭上の太陽は中天にかかり、眩しい日差しが降り注ぐ。

 馬を走らせていたホルガーは、思わず前方のダンラス王に呼びかけた。

「良い国ですね、ダンラス王」

 ダンラス王は馬の速度を落とし、「なんだ突然」と振り返った。
 ホルガーは馬を並べ、周囲を見渡す。
 豊かに茂った自然と、共存するかのように広がる畑。収穫に励む楽しげな民の声。
 
「こうして各地を見て回り、ようやく確信したのです。この国が、いかに良き国であるかを」

 ダンラス王が驚いたように眉を上げると、ホルガーがくしゃりと飾り気のない笑みを浮かべた。

「あなたは民にとても慕われている。それは、王が民を誰より大切に想っているからなのでしょう」

 ダンラス王は否定しなかった。どこか居心地悪そうに、気難しい顔で視線をそらす。
 目線の先の村で、若い男衆が昼食をとっている。洗濯中の女性たちが談笑し、子どもたちは元気に駆け回り、老人はその様子に目を細めていた。

「先ほどの村で聞きました。あなたは、民のために長年愛した女性との結婚を諦められたのだと」

 ダンラス王は表情を変えず、「そんなこともあったな」と呟いた。特に何の感慨も伺えない。

「……もう、昔の話だ。余に見る目が備わっていなかった。それだけの話よ」
「……詳しく伺っても?」

 食い下がったホルガーに、ダンラス王は意外そうに目を見開き、「お前のような男も色恋に興味があるのだな」と笑った。

「許そう。何の面白みもない話だが」


* * *


 それは、政略結婚だった。
 当時フレイローズとの争いが絶えず、政情が不安定だったエメラルドは、他国との関係を強化しておきたかった。
 そこで目を付けたのは、フレイローズと反対側に位置するタスカナン国。
 人口およそ数万人の小国だったが、鉱山が多く、中でも魔水晶がよく取れたため、経済的に豊かな土地だった。
 そしてその地には、諸国でも有名になるほど愛らしい、幼姫がいた。

「必然だった。タスカナンは防衛力を、我が国は経済的支援を求め、余とその姫は婚約した。齢十の頃だった」

 そして顔合わせの日。
 一目会ったその瞬間から、二人の恋は始まった。

「有り体に言えば一目惚れだったのだろう。彼女は噂にたがわず美しい姫だった。そして自惚れでなければ、彼女もまた、余を憎からず想ってくれていた」

 幼い美姫は、蝶よ花よと育てられたためか、少々わがままで、底抜けに素直な少女だった。
 そこがまた、たまらなく愛らしく思えた。

 ダンラスは彼女を喜ばせようと、会うたびに高価なドレス、宝飾品、希少な宝石を贈り続けた。
 彼女はそれを見ると瞳を輝かせ、花のような笑顔で大げさなほどに喜んだ。
 それがまた、幼いダンラスの自尊心をくすぐった。

 彼女を喜ばせるために、プレゼントの質と頻度は次第にエスカレートしていった。
 しかしそれはあくまでダンラスが自由に使える金額内でのこと。
 間違っても国庫に手をつけるようなことはなかった。
 恋に溺れようとも、ダンラスは時期王としての自覚を忘れなかったのである。

 徐々に姫は不満を口にするようになった。

――今月のプレゼントは先月より少ないわ。

――このネックレスよりあっちのブレスレットがよかったのに。

――プレゼントがないなら会いたくない!

「……たしなめるべきだったのだろう。しかし、あの頃はただ、初恋の相手に嫌われまいと必死だったのだ」

 それからも、騙しだまし関係は続いていった。
 とうとう父王が崩御し、即位の日取りも決まると、ダンラスはいっそう悩みに沈んだ。

 その頃にはもう気づいていた。
 彼女はエメラルドの国母にはなりえないと。
 あれが欲しい。これが欲しい。
 勉強は嫌。公務は嫌。

――ねえ、水路が完成したら、各地からこの城に、もっともっとたくさんの宝石が集められるんでしょう?

 そうではない。そんなことのための水路ではない。
 そう説明すると、まるで子どものようにヒステリックに癇癪を起こした。
 日ごとにダンラスのため息は増えていった。

 そこにはもう、愛情など残っていなかったのかもしれない。
 かつての楽しかった思い出に縋り、疲労に耐えながら、現実から目をそらしていた。

 そしてとうとう、その日はやってきた。

――ラム鉱山で宝石の発掘をさせてちょうだい。民はちょっと危険だろうけど、私そこの宝石がどうしても欲しいの!

 ダンラスは固く目を閉じ、しばらく沈黙したのち、ゆっくりと口を開いた。

――すまない。余はそなたと結婚することはできない。

 それから、ヒステリックに怒り喚く姫を丁重に送り返し、正当な手続きを踏んで婚約を解消した。
 求めに応じ、多額の賠償金を支払い、他の嫁ぎ先まで手配して、ようやく彼女は満足気に「今までありがとう」と去って行った。
 あっさりしたものだった。

 それはダンラスも同様で、後に残ったのは「ようやく民を守りきれた」という冷静な安堵だけだった。


* * *


「まぁ、若気の至りだな。彼女が悪かったわけでもない。しかしあれ以来、どうにも妻を娶る気にはなれぬ」

 世継ぎのためにも、国のためにも、妃は必要。
 それはわかっていた。
 しかし、もしその女性が、民を害するような本性を隠していたら?

「余はこの国の王だ。そうあるべく教育を受け、幼い頃から国の未来だけを思い生きてきた」

 この国に暮らす人、一人ひとりが、ダンラス王の全てだった。

「故に、妃にも民を心から慈しんでほしい。そう願ってしまう。……宰相には、そんな女性がいるものかと、言われてしまったが」

 苦笑する王に、ホルガーは首を振った。

「いますよ」

 例えば、あまねく民を救わんと、戦場を駆け続けた女魔術師のように。
 父王を支え、国のあり方を模索する銀色の王女のように。

 そして――人々の未来のため、血の滲むような努力の末、歴史、文化、物理、天文、語学、あらゆる学問を修め、魔術さえ身につけた、優しい彼女のように。

 ホルガーの表情が変わる。
 愛おしむような、慈しむような、懐かしむような、儚くも温かな眼差しで、遥か彼方の「彼女」を見つめていた。

「その『彼女』は国に……フレイローズにいるのか?」

 ダンラス王はどこか遠慮がちに問いかける。
 ホルガーは力なく「ええ」と頷いた。
 暫しの沈黙。
 躊躇いの後、王はもう一度、静かに問いかけた。

「そなたは、『彼女』を愛しているのか」

 ホルガーはその質問に、心底優しい笑顔を見せた。
 
「はい。幸いなことに」

 まるで、彼女に出会えたことが生涯最大の果報であるかのように。
 その笑顔は、ダンラス王の心を、じりじりと刺激した。

「……もしそなたが国に帰りたいのなら」

 そのとき、国境沿いの山の端が、じわりと赤く光った。光は次第に大きく広がっていく。

 呆然とする二人の耳に、斥候の報告と号令が流れ込んできた。

「敵襲! 敵襲!」
「大変です! フレイローズの民が、攻め込んで来ました!」
「第一班から第七班、ただちに迎撃に向かいます!」
「王よ、ご指示を!」

 二人は緊迫した表情で頷き合うと、馬の手綱を握った。


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