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第三章 新しい日々
第六十六話 北極星と彗星
しおりを挟む明け方、私たちは無言で屋敷を後にしました。
日頃明るく良く喋るばあやもヘレンさんも、ずっと下を向いて地面を見つめています。
唯一平時と変わりない様子だったのは、屋敷内で最もホルガーさまと過ごす時間の長かったエドワードさんでした。
迎えに来られたリリアンヌさまと、今回の訪問についてお話しをされているようです。
私も同席するべきなのでしょうが、とてもそんな気にはなれず、手早く挨拶を済ませると、ぼんやりと馬車に乗り込みました。
(とうとう、ホルガーさまにお別れは言えなかった)
彼の部屋の窓を見ながら、ずきずきと疼く胸を押さえます。
もう二度と会えないのに。
ホルガーさまは、清々されるでしょうか。
それとも、黙って出て行く無礼に眉をひそめられるでしょうか。
本当は最後くらい、明るく笑ってお礼を言いたかったのです。
「ちょっとお友達の家にお泊まりに行ってきます」
そう言って、自然に手を振るつもりでした。
しかしきっと、彼の顔を見た瞬間、私は泣き崩れてしまうでしょう。
さようなら、ありがとう。
そんな言葉は、たとえ小声でも呟くことはできませんでした。
もし、別れの言葉を口にしてしまえば、本当に縁が切れてしまうような気がして。
彼と私をかろうじて結んでいた細い糸が、ぷつりと断たれてしまうような気がして。
自分で選んだ道なのに。もう二度とお会いすることはないと、わかっているのに。この未練は一生消えることはありません。
愛する我が家、眩しかった、夢のような日々、そして、とても、とても大切な人。
動き出した馬車の中で、私は見えなくなってもずっと、霧の中の美しい屋敷を見つめ続けました。
* * *
王宮にある転移施設を目指して廊下を歩いていると、朝焼けの光を浴びたハントさまが仁王立ちで腕を組まれていました。
「来ると知っていたよ、ルコットちゃん」
「……ハントさま」
隣を無言で歩かれていたリリアンヌさまは、その様子を一瞥されると、「先に行っているわ」と歩いて行かれました。
そういえば、今日のリリアンヌさまは以前お会いしたときよりずっと物静かで、何かを思案されているようでした。
「行くんだね」
「……はい」
胸は痛くて、寝不足の頭は重く、泣きはらした瞼はひりひりと赤くなっています。
きっとこの先何度も、愛しさと恋しさでこんな朝を迎えることになるのでしょう。
それでも不思議と、迷いはありませんでした。
「私は、遠くから、あの方の守るこの国を、お守りします」
それが、役立たずの自分に生まれた唯一の矜持でした。
彼に誇れる自分であり続けたい。
そのためなら、私は何度だって前を向いて歩いていけるのです。
ハントさまは、エメラルドグリーンの瞳を細めて微笑まれると、一つ頷かれました。
「それが君の選ぶ道なら、私は止めないよ。君の姉君たちには、私から伝えておこう。彼には……」
「いずれ、私から手紙を書きます」
ハントさまは「あぁ、それがいい」と仰いましたが、声色はどこか寂しげでした。
その沈んだ空気を打ち消されるように、「さて」と快活に両手を広げられます。
「それじゃあ今日は、君の魔力の特性について伝えておこうか」
「私の魔力の、特性?」
思ってもみなかったお言葉にきょとんとしていると、ハントさまはどこか嬉しげにこう仰いました。
「あぁ。君の魔力にこの特性があるから、私は君を送り出す決心がついたんだ」
王家の誰よりも少なく、弱々しいと言われた私の魔力。幼い頃、その検査をしてくださったのは、他でもないハントさまのはずです。
それでもそんなお話はこれまで一度も聞いたことがありませんでした。
私の怪訝な表情に、ハントさまは「言うべき時が来ただけのことさ」と気の進まない様子で苦笑されました。
「端的に言うとね、ルコットちゃん。君の魔力は北極星であり、彗星なんだ」
「北極星……彗星……?」
天体に詳しくない私でも、その違和感にはすぐに気づきます。
北の空から動かず、船乗りたちの目印になるという北極星。
そして、予期せぬ動きで飛び遊ぶ彗星。
動かざるものと動くもの。両者は相反する概念です。
私の混乱を正確に感じ取られたハントさまは、どこか楽しげに笑われました。
「そう、この二つは似て非なるものだ。しかし、君はこの二つの特性を同時に併せ持っているのさ」
「どういうことでしょうか」
完全にお手上げ状態の私の前に、ハントさまは光る指を差し出されました。
そして空中に光の線を描かれます。
どうやら図で説明してくださるようです。
「つまりね、君がここにいるとしよう。そして、君が誰かに『会いたい』と願うとき、君は北極星になって、その人を君の元まで呼び寄せることができるんだ。いや、何も人でなくても構わない。物だって、引き寄せられる。アルシラで、女神ノヴィレアの仲間を喚び戻せたのは、君のこの力のおかげだ」
空中に光の文字でさらさらと、可愛らしい女の子の上に「北極星」と書かれました。
「そしてもし、君がここから誰かに『会いに行きたい』と願うとき、君は意思を持った彗星になる。その人の元まで自由に飛んで行くことができるんだ。これも理論上は人でなくても構わない。物でも場所でも。目指すところがあれば、君はいつでもどこへでも飛んで行ける」
今度は、笑顔で空を飛ぶ女の子の上に、ハントさまは「彗星」と書かれました。
「で、ですが、私はそんなこと、一度も……」
「まぁ、訓練次第だよ。力というのは磨けば磨くほど精度が上がるからね」
信じられないお話でした。
それでも、自信たっぷりに話されるハントさまを見ていると、自然と「そんなこともあるのか」と納得してしまいます。
「この力があれば、君の旅路も少しは楽なものになるだろう」
「だから、今このタイミングで教えてくださったのですね」
「そういうことさ」
本当は、生涯言うつもりはなかったのだとハントさまは仰いました。
「まさか君が、こんな険しい道を選んで行くなんて、思ってもみなかったからね。使う必要がないなら、気づく必要もない。便利な力は同時に扱いが難しいものだから」
確かに、悪用しようとすれば、どこまでも悪事に使えそうな特性でした。
それでも教えてくださったということは、きっと、私をとても心配してくださっていて――そして、信じてくださっているのでしょう。
「落ち着いたら、君の元へ通ってその力の使い方を教えてあげよう」
「ありがとうございます」
「礼なんていいよ」
ハントさまはひらひらと手を振られると、くしゃりと笑われました。
「私たちはいつも、君の幸いを願っているんだから」
私たち――それがどなたのことを指しているのか。
それを考える間も無く、ハントさまに「行っておいで」と背を押され、私は一歩を踏み出しました。
ふと振り返ると、既にそこに彼の姿はなく、空中の光文字さえ夢のように消えていました。
* * *
「遅いわ! 何を話し込んでいましたの!?」
「すみません!」
光り始めていた転移陣に、私はさっと飛び乗りました。
この状態のまま待機してくださっていたのでしょう。当番の魔術師の方に「揃われましたか?」と問いかけられました。
「お待たせしてしまってすみません! 揃いました!」
魔力を浪費して疲れさせてしまっていたらどうしよう。そんな申し訳なさから頭を下げると、その方は「いいんですよ」と穏やかに微笑まれました。
「良い旅を」
周囲の光が徐々に濃くなって、遂には何も見えなくなります。
その刹那、魔術師の方の髪が、茶色から緑色に変わった気がしました。
「ルコットちゃん、どうか幸せに」
その声の主を確かめる間も無く、私たちはまだ見ぬリヒシュータへと旅立ったのでした。
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