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第二章 北の大地 アルシラ

第五十一話 一日一包の薬草

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「ハントさま!」

 王宮薬草園内の温室。
 そこで水路の見回りをしていたハントは、驚いたようなほっとしたような、それでいて不機嫌そうな妙な表情をした。
 
「……また君か」

 言葉の割に、語勢は優しい。

「もう来ないと思っていたんだが」
「諦めが悪いんです」

 フュナが笑いかけると、ハントもまた苦笑した。

「先日は、すまなかったね」
「いいえ、私の方こそ、あまりに無遠慮でした。お許しください」

 暫し沈黙が落ちる。
 水路の水音が、穏やかな秋の日差しの中に溶け、遠くに鳥のさえずりが聞こえる。
 先に沈黙を破ったのはフュナの方だった。

「……以前、ハントさまはご自身を『人ではない』と仰いましたが、あなたは間違いなく人ですわ」

 迷いのない断定。
 ハントは内心戸惑ったが、強いてそれと悟られぬように答えた。

「人の一生には終わりがあるものだ。しかし私にはそれがない。何たって不死の身だからね」

 茶化すような物言いに、しかしフュナは目を逸らさない。落ち着いて首を振った。

「いいえ、それでもあなたは人ですわ」

 ハントは微かに眉を寄せ、フュナを見返す。
 
「人が人たる所以は、『優しさ』を持っているか否か。命の長短とは無関係です」
「優しさ?」

 ハントはどこか皮肉げに笑った。

「それはまたひどく抽象的だ」
「はい、優しさの形はそれぞれですから」

 フュナはなお静かに頷く。

「ですが、それは人しか持ち得ないものです」
「ばかばかしい」
 
 ハントは首を振り視線を逸らした。

「仮にそうだとしても、私にそんなものは備わっていない」
「いいえ」

 朝露のように清々しく澄んだ声。
 その瞳もまた、朝日のような輝きを放つ。

「あなたは優しい人ですわ」

 あの日、刃を翻し向かうフュナとシスに、ハントは防戦一方だった。
 聖堂内は魔法が使えないから、他に手がなかった。
 当時はフュナもそう思っていた。
 しかし、今ならわかる。
 そうではなかったのだと。

「あなたほどの方が、魔法が使えないだけで手も足も出ないなんて、ありえません。方法はいくらでもあったはずです。それでもあなたは、自分だけが傷つく方法を選んだ」

 向かい来る敵さえ、傷つけようとはしなかったのだ。
 全てを薙ぎ払えるだけの力を持ちながら。
 それが優しさでなくて何だというのか。

「何度でも言います。他の誰が否定したって、あなた自身が信じられなくたって。あなたは人です。ですから、私はその傷を放っておくことはできません」

 ハントは茫然とフュナの言葉を聞いていた。
 確かに、あのとき方法はいくらでもあった。

(それでもこの身を盾にしたのは、それが被害を最小限に抑えられる方法だったからだ)

 魔術師特有の割り切った考え方だと思っていた。
 しかし眼前の彼女はそれを「優しい人」の考え方だと言う。

「……だが、君も見ただろう? 私にはもう傷は残っていない。一体何を治すと言うんだい?」

 傷一つないハントの腕。
 確かに彼の体は治療を必要としていないのかもしれない。それでも――

「……それでも、私はあなたの傷を放っておけません」

 理屈ではなかった。
 独りよがりな自己満足だとわかっていた。
 それでもフュナは、ハントを放っておくことができなかったのだ。

(初めて見る目だ)

 フュナの瞳に、ハントは釘付けになる。
 
(憐憫でも同情でもない。かといって安い恋慕とも違う。あの眼差しは何だ)

 逃げ出したいほどに眩しいのに、どうしようもないほど惹きつけられる。
 とうとう、ハントは一つ諦めのため息をついた。

「……わかったよ、お嬢さん。お言葉に従おう。ただし、薬は一日一回にしておくれ。苦味はあまり好きではないからね」

 フュナははっと息を飲むと、じわじわと花がほころぶように笑った。

「えぇ、えぇ! 薬は日に一度にするわ」

 無邪気に喜ぶフュナに、胸のあたりがざわざわと落ち着かなくなる。

(……これは答えを早まったかもしれない)

 ハントは早くも後悔したが、今更撤回などできるはずもない。
 せいぜいほだされないように努めようと、こっそりため息をついた。


* * *


 結果として、「ほだされないように」というのは無理だった。
 毎日「今日のお薬です」とやって来ては、「調子はどうですか」と後をついてくる。
 情が移らないはずがなかった。

(いやいや、女の子としてじゃなくてね、懐いてくれる小動物のような……)

 内心の言い訳に、ハントは通算何度目かもわからないため息をついた。

「……誰に言い訳をしているんだか」

 天井を見上げ、独りごちる。
 不要な言い訳だ。そんなの、言うまでもないことではないか。

「愉快な顔をするようになったわね、ハント」

 執務中のスノウが淡く笑う。
 彼女はハルとのことを散々からかわれたので、いまだに根に持っているのだろう。

「アスラくんにも同じようなことを言われたよ」

 否定しても仕方がない。
 確かに自分はあの無邪気なフュナ姫にペースを乱されていた。
 書き仕事にさえ、集中できない。こんなこと、この数千年の間に一度でもあっただろうか。

「全知全能のハントさまが、こんなことで取り乱すなんてね」
「……取り乱してはいないさ」

 そこまでは落ちていないと首を振るも、スノウは「そうかしら?」と首をかしげるばかりだった。

「でも、今のあなたの方が私は好きよ。ねぇ、あなたもそう思うんじゃない?」

 ハントは面食らったように口をつぐんだが、しばらく考えたのち、深く息をついた。

「……そうだね」

 確かに、かつての自分と今の自分は決定的に違う気がした。そしてもはや、かつての自分に戻りたいとは、思えなかった。

「彼女が言うに私は『優しい人』なんだとか」

 根無し草の孤高の魔術師を捕まえて。
 そう笑うと、スノウは見たこともない穏やかな顔をした。

「そう――私もその通りだと思うわ」

 居心地の悪くなったハントは、いそいそと席を立つ。
 ちょうど彼女フュナがやって来る時間だった。

 約束通り、苦い薬を一包携えて。

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