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第二章 北の大地 アルシラ

第三十二話 愛しき君に白花を

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――夢を見ている。終わりのない夢を。
  冷たい湖の底に花が咲くとき。
  笑ってくれるだろうか。
  彼の方は。彼の方は。

「陰気な歌ね」

 スノウが日傘の下から声をかけると、歌の主は弾かれたように顔を上げた。

 正午前の王宮の中庭。
 水やり後の水滴がきらきらと眩しく、遠くから聖歌隊の練習が微かに流れ聞こえてくる。
 どこまでも静かな場所だった。

「邪魔をしたわね。続けてちょうだい」

 そう言うと、木陰に座っていたハルの隣に腰かけた。
 それまで茫然と成り行きを見守っていた彼も、これには目を剥き、上着を脱いで差し出す。

「……敷いて。ドレスが汚れるよ」
「あら、いいのよ。……でもそうね、これは肩に掛けさせてもらうわ。木陰は少し冷えるみたい」

 白地に金の刺繍が入った上着を、何食わぬ顔で羽織る。
 そしてそれきり言葉を発することもなく、まるで本当に彼の歌の続きを待っているかのようだった。

「僕から逃げてるんじゃなかった?」

 そう問えば、彼女は心外だと言わんばかりに眉を上げた。

「まさか。私が逃げるですって? ありえないわ。ただ少し妹の所へ遊びに出ていただけです」

 ハルは愉快そうに、そしてどこか切なげに笑った。

「そう。で、本日は何故ここへ? 僕を追い出す算段でも見つかった?」

 スノウは小さく笑うと、「いいえ、残念ながら」と首を振った。

「ただ、もう一度あなたと話しがしたいと思って」

 ハルは息を詰まらせた。
 何度話を聞いてほしいと願っても、目通りさえ許されなかったというのに。
 万策尽きた今になって、何の前触れもなく、眼前に現れたのだ。
 こうして言葉を交わしていても、幻か白昼夢なのではないかと、疑ってしまう。

「……聞いてもいいかしら」

 いつになく遠慮がちな声。

「あなたは今でも、婚約者のことを想っているの?」

 予想外の質問に、数瞬間固まった。
 その沈黙をどう解釈したのか、スノウは焦ったように言葉を続ける。

「ごめんなさい、無遠慮に。でも、どうしてもこれだけは聞いておきたかったの」
 
 意図が掴めず、答えに詰まったが、かろうじて「何故?」と問い返すことはできた。
 スノウは目を伏せ、しばらく何かを言い澱み、それから、勢いよく顔を上げた。

「そ、れは、あなたのことが知りたいから」

 今度こそ、ハルの思考は完全に奪われてしまった。
 彼女の言葉が頭の中で何度も繰り返され、徐々にその意味が浸透してくる。

――あなたのことが知りたい。

 じわじわと頬が熱くなる。
 彼女のことだから、きっと特別な意味などないのだ。
 そうに決まっている。
 それなのに、頬が赤らんでいくのを止めることができない。
 そしてなお始末が悪いことに、彼女の頬もまた、控えめに紅く染まっていた。
 この空間は、毒だ。
 ハルは息を深く吸い、ゆっくり吐き出すと、ぎゅっと目を閉じた。

「もう、昔のことだから、はっきりと思い出すこともできない。ただ分かっているのは、彼女は僕との結婚を望んでいなかったということ。……あるのは、後悔と罪悪感だ」

 あの日からずっと、胸の奥に沈み続けている澱。
 どれだけの月日を重ねても、どれだけ笑顔の仮面を貼り付けても、それが消えて無くなることはなかった。
 彼女が婚約を望んでいないことに、気づいてあげられていたならば。婚約の解消を申し出ていたならば。
 あんなひどい別れ方をせずに済んだかもしれない。

「あの頃の僕はただ、共に生きてくれる人が欲しかっただけなのかもしれない。その証拠に、僕はもう彼女の顔も覚えていない。何より許せなかったのは、こんな身勝手な自分自身だ」

 何度も胸の内で繰り返した後悔だった。
 何度も、何度も。
 擦り切れるほどに。
 決して忘れてはならないと。
 決して許してはならないと。

「……それなのに、僕はまた懲りもせず、あなたに求婚してしまった」

 想えば必ず不幸にすると、知っていたのに。
 この手は誰かを求めるには、あまりに冷たく、あまりに脆い。
 血の繋がった父にさえ、見放されるような人生だったのだから。

「……ごめん。どうか忘れてほしい」

 かろうじてそう呟くと、目も合わせずに立ち上がった。
 胸が抉られるような痛み。
 そして、喪失感。
 それらに気づかない振りをして、一秒でも早くその場を離れるために、早足で歩き始めた。

 愚かなことだ。
 死を覚悟して敵国に赴いたのに。
 未来などない。
 あるのは祖国の為に殉ずる栄誉のみ。
 それで良いと、諦めていた。

――それなのに、あろうことか、その討つべき王女に、恋をしてしまうとは。

 いつからだったのだろう。
 地下牢での邂逅から、気づけばずっと秘密裏に見守っていた。
 配下に指示を出す冴えた声。
 計画を進める非情な横顔。
 そして、暇乞いの儀――自らの命をいともあっさりと諦めた、凪いだ瞳。
 あれだけ必死に戦っておきながら、この世には何の未練もないと言わんばかりの表情が、悲しかった。

 触れる者を火傷させる氷の姫君。
 頭の大半を、打算と策謀が占めている。
 慈悲はなく、あるのは燃えるような愛国心のみ。
 どこに恋に落ちる要素があったのかと、サイラスは訝しんだ。
 全くその通りだと思う。
 こんな血生臭い恋は、大陸中探しても他にないだろう。

 しかし、これは確かに恋だった。
 押し潰されそうな重圧の中、それでも国のため、前を向き続ける彼女は、誰よりも気高く美しい心を持っていた。

 願わくば、いつの日か、彼女に心からの安寧が訪れますように。
 愛と慈しみに溢れた家庭を、築かれますように。

「ちょっと……待ちなさいよ!」

 ぐいと強く袖を引かれる。
 驚き、何事かと振り返ると、見たことのない表情の彼女が、こちらを見上げていた。
 縋るような、幼い少女のような、頼りない瞳。
 思わず息を飲むと、彼女は赤い顔をさらに赤くして、叫んだ。

「勝手なことを言わないでちょうだい! あなた、もうわたくしのこと……いえ、国がどうなっても宜しいの!? 私と結婚しないと、国が救われないんでしょう!?」

 確かに、彼女の言う通りだ。
 このままではいずれ、あの国は吹雪に飲まれ滅びてしまう。
 しかしもはや、その為に彼女を利用することはできない。
 そもそも、その理屈は、彼女に結婚を申し込むための口実に過ぎなかった。
 何か他の方法を探すより他ないだろう。
 
「心配してくれるんだね。ありがとう。でも、きっと大丈夫だから」

 安心させるようにそう言うと、彼女は鳩が豆鉄砲を食ったような妙な顔をした。

「どうした……」

 どうしたの?
 そう問うはずだった口は、既に塞がれていた。
 彼女の柔らかな唇によって。
 胸元を掴まれ、強制的に屈まされながら、頭の中が真っ白になる。
 どのくらいの間、そうしていたのだろう。
 遠慮がちに唇が離された瞬間、腰が抜けたようにその場にへたり込んでしまった。
 顔が燃えるように熱い。
 確認しなくとも、今自分が誰にも見せられないような情けない顔をしていることくらいは分かった。

 ハルがふらふらと座り込むのと同時に、スノウもまた、精根尽きたかのように膝をついた。
 涙で溶けそうな目をしながら、眉だけを必死で怒らせて怒鳴る。

「鈍いわね! 結婚してあげるって言ってるの!」

 呆然とするハルを睨むように見つめ、言い募る。

「何よ、私と結婚したいのではなかったの?」
「したい! したい……です」

 反射のような返答に、スノウはどこか安心したようにこっそりと息をついた。

「でも……僕と結婚して君が得することは少ないんじゃなかった?」

 スノウはばつが悪そうに顔をしかめると、「それはつまり……」と言葉を濁した。

「あなたの国の天然資源が目当てというか……」
「天然資源なら他の国にもあるだろう?」
「外交上好都合というか……」
「本当に? それだけ?」
「……あなた、いい性格してるわね」
「君みたいな真っ直ぐな女性には、僕みたいな食えない奴がちょうどいいんだろうね」

 ハルは明るく笑うと、少しだけ眉を下げた。

「言って。僕は君が愛しくて求婚したんだ。君は?」

 スノウは唇を噛むと、涙声で口を開いた。

「いいからぐだぐだ言ってないで、私のものになりなさい!」

 その瞬間、ハルはスノウに手を伸ばすと、空高く抱き上げた。
 青い空と逆光に目を細めながら、満面の笑みで告げる。

「喜んで! 運命シェリリ白花フレア!」
「ちょっと! 降ろしなさいよ!」

 楽しげな笑い声がこだまする。
 くるくると回るたびにスカートが翻り、鮮やかに咲く秋の花々が揺れる。

 父王が何事かと窓を開けると、ちょうどそんな情景が目に飛び込んできた。

「誰かに見られたらどうするのよ!」

 そう怒りながらも、どこか幸せそうに頬を緩ませている。
 あんな娘の表情はこれまで一度たりとも見たことがなかった。
 幼い頃から、国の為だけに生きてきたあの子が。
 氷人形とさえ呼ばれてきた哀れな娘が。
 王の頬を涙が濡らした。

「レオ、どうしたんだい……?」

 書き仕事から顔を上げたハントが、戸惑ったように立ち上がる。
 王は急いで窓を閉めた。

「いや、何でもない」

 ハントは何かに勘付きながらも、それ以上の追及はしなかった。

「そうか。嬉し泣きならいいんだ」

 自分が至らないばかりに、全ての重圧が第一王女にかかってきた。
 次第に笑顔を無くし、感情を殺していく娘に、掛ける言葉も見つからなかった。
 今更何をしようと、あの子の繊細な心は戻らない。
 今更父親として、何をしてやることもできない。
 全てが遅すぎた。そう、思っていた。
 しかし、そうではなかったのかもしれない。
 あの子の幸せを、共に祝うこと。
 それは、間違いではないのかもしれない。

「……父親が娘の結婚式に口を出すのは、煙たがられるだろうか?」

 眼前の男に問えば、彼は迷いなく「それは鬱陶しがられるだろう」と頷いた。

「父と娘とは、そういうものさ」

 王は頷く。
 そうか、と。
 それならば、せいぜい煩く口出しして、最高の結婚式にしてやりたい。
 あの子のことだ。きっと対外的な見栄えばかりを気にして、自分の要望は切り捨ててしまうだろうから。

「……私はこれから、あの子たちの父親として、できる限りのことをしたいと、そう思う」
「できるさ」

 歌うような返答に、王は静かに微笑んだ。

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