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円満解決
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「目指していた所って…まさか、ここですか…?」
私は、咄嗟に、怪訝な顔つきで晴明様の顔を覗き込んだ。
「そのようだな」
一方晴明様は、そのような視線など、どこ吹く風。
腕を組みながら、悠々と問題のその場所を眺めている。
因みに、私から握った手は、晴明様の発した、
「…ん?あれは、どこの牛車だ…?」
という一言によって、私のほうから離してしまった。
辺りを見回し、それが晴明様の策であったということには、すぐに気がついた。
しかし、一度気恥ずかしさを感じてしまうと、もう一度握ってやろうという程の勇気は、どうしても湧いてこなかったのだ。
『…我が師匠のことながら、なんと人の悪い方だろう…』
思わずそのようなことを考えてしまったが、その考えも、晴明様には読まれてしまっているような気がして、「とりあえず、中に入ってみませんか?」と、この状況においては、至極妥当な提案をしたのだった。
私達の辿り着いた場所というのは、端的に言えば、廃屋であった。
元は、それは大きくて立派な御屋敷であったのであろうということは、安易に想像出来るのだが…。
かつて、屋敷を守っていたであろう土塀は、大方朽ち果て、もはやその役割を果たしてはいない。
庭園には尾花が生い茂り、庭石は土に埋れてしまっている。
渡り廊下は抜け落ちてしまっており、見る限り、あそこを渡るのは不可能そうだ。
屋敷の屋根などは、殆どあってないような有様であった。
そのような中、私達は、埋れた庭石の上を堂々と歩きながら、本邸らしき建物を目指している。
「なんだか、気味が悪いですね…晴明様、ここに、一体何があるというのですか?」
見た所、単なる廃屋に他ならず、変わったものは目につかない。
ただ、私にしてみれば、人の住まない廃屋は、やはり少し気味が悪かった。
それに対し、私を先導するように歩いていた晴明様は、悠々と微笑みながら、
「珍しく弱気だな。まるで女子のようだ。しかし、その割には、堂々と歩いているように見えるが…?
何があるのかは、私にもわからぬな。ただ、紅葉の調べが正しければ、今夜中に事は終わるだろう」
と、返した。
…なんというお方だ…
「大っ変!お言葉ですが!私は女子でございます。そのような戯言をおっしゃるなら、此方にも考えがございますよ…?」
私は、殆ど反射的に、そのような言葉を返していた。
勿論、考えも何もあったものではない。
『売り言葉に買い言葉のこの癖は、早いうちになんとかしなければ…』
早々に反省せざるを得なかった。
しかし、そんな私の考えとは裏腹に、晴明様の口から、思いもよらぬ言葉が飛び出した。
「いや、其方はそれで良い。そのままでいてくれ」
心を読まれたということよりも、むしろ、その内容と、その表情に、開いた口が塞がらなかった。
『…このようなお顔、初めて見た…それに、このままで良いとは……』
何故か私は照れてしまって、
「はい、それでは、そのように…」
と返すのがやっとであった。
なんだか頬が熱く、視線も合わせることが出来ない。
それを見た晴明様は、何を勘違いしたのか、
「何か勘違いをしているようだが、私には人の心などはわからぬよ」
「……はい?」
あまりに突拍子もないことを言い出すものだから、私はそんな、間の抜けた返答をしてしまった。
しかし、晴明様は私が何に動揺しているのか気づいておられないようで、なお、このように続けた。
「私には、人の心など、わからぬ。故に、最も恐ろしい」
本人にしてみれば、本当に些細な、何の気無しの言葉だったのだろう。
月並みの表現であるし、それは当たり前のことだとも思う。
しかし…晴明様の発したその言葉は、私に、なんだかよくわからない違和感を与えた。
なんだかよくわからないが、何かが引っかかる…まさにそのような感じで、明確に説明することはできないのだが…。
ただ、その言葉の発する匂いは、いつも浮かべている微笑の匂いに、非常によく似たものだと、そのように感じられた。
私の性分からすると、本来なら、そのような曖昧模糊の問題は、なんだか気分が良くないので、すぐさま本人に問いかけるのだが、それも憚られた。
それに、その問題については、いずれ明らかになるような、そのような確信めいたものが、私の中にはあったのである。
しかし、それではまた気になることが出来てしまった。
「しかし、先程もそうですが、度々私が口には出していないことに、晴明様は返事をなさっていますよね…?心がわからぬのなら、あれはどうやって…?」
まさか、弟子である私に術をかけて…ということは無いだろうが…いや、晴明様ならあるいは………何だか不安になってきた…。
すると、こちらの考えをよそに、晴明様はからからと笑った。
その笑顔に、私はまた釘付けになってしまったのだが、いや、この笑顔に惹かれぬ人などいるはずがない。
それ程までに、艶やかで、晴れやかで、それでいて美しい、こちらまで何だか嬉しくなってしまうような笑顔だった。
しかし、この状況で、笑われる意味がわからない。何かおかしなことを言っただろうか…?
すると、晴明様はその笑顔のまま、
「鏡を貸してやろう」
と、懐から取り出した鏡を、私に差し出した。
顔を見てみろということだろうか……とりあえず、私は顔を覗き込んでみた。しかし、別段変わった所は見当たらない。そこには、見慣れた自分の顔が映っているだけだった。
…まさか、私のこの顔が可笑しくて笑ったのか…?
確かに、私は美人とは言い難い顔立ちをしている。
一方晴明様は、男性でありながら、この世のものとは思われないような美貌をお持ちだ。
…無礼な方だが、詮方無きことかもしれない…
「…鏡を、お返しします」
とりあえず、私は鏡を返した。しかし、これでは私の問いの答えにはなっていない。
「どうして、鏡を?」
ちょうどそのとき、私達は屋敷の一番奥にあたる部屋の前に辿り着いた。
その障子の前で立ち止まった晴明様は、こちらを振り向いて、
「私には、人の心など、わからぬ。しかし…其方の考えは、その表情から安易に読み取れるのだ。それが、私には、嬉しくてならない」
…よく、意味がわからなかった。考えが顔に出やすいということだろうか…?嬉しい…?
聞き返そうかとも思ったが、やめておいた。
障子の隙間から、なんだか、異様な気配がしたためである。
「晴明様…」
きっと、私の顔は不安でいっぱいだっただろう。
天崎の者とはいえ、このようなこの世ならざるものに慣れているというわけではない。
むしろ、これまではそのようなものからは遠ざけられて育ってきたのだ。
家の者たちに隠れて書庫にあった書物はあらかた読んでいたので、知識だけはそれなりにあるが、現場に立つのは初めてかもしれない。
晴明様にお会いする前に、鬼には遭ってしまったのだが。
私の表情が強張っているのを、晴明様は、流し目で見ていた。
『…どうせ、また馬鹿にしておられるのだろう…』
これまで散々私を馬鹿にしてきた晴明様だ。
「仮にも天崎の家の者が…」などと、言い出すに決まっている。
そこまで考えたところで、ふと、頭の上にふわりと何かがのった気がした。
いや、確かにのっていた。
「…!晴明様…!?」
いつの間にか、私の頭の上には、晴明様の白く、細い御手がのせられていた。
「…心配するな。大丈夫だ。私に任せておけ」
それだけ言うと、晴明様は、二、三度私の頭を軽く叩いて、障子の窪みに手をかけた。
…もう、恐ろしさも、不安も、何もなかった。
少しでも、お役に立ちたい。
不思議なことに、そのようなことさえ考えていた。
元々、恩返しをするつもりで弟子入りしたので、あながち間違った考えではないのだろうが、それとは別の次元でそう思えたのだ。
「…ゆくぞ」
「……はい!」
固く閉ざされていた障子が、ゆっくりと、晴明様の御手によって開かれていった。
そこは、廃屋となったこの地とは不釣合いな程に、美しい一室だった。
絢爛豪華とも言うべき調度品に、部屋中に飾られた花々。
そして、その部屋の中央には、これまた場違いな程に麗しい着物を着た女性が、うずくまっていた。
よく見れば、袖で顔を覆いながら、震えている。
…涙を流しているのか…?
確かに、意識してみれば、袖からは、衣が吸いきれなかったのであろう涙が滴り、それは畳に染み入り、部屋中に広がっていた。
明らかに、一朝一夕にできた染みではなかった。
そして、明らかに、人の流せる涙の量ではなかった。
しかし、泣いているばかりで、その女性はこちらを振り向きもしなかった。
敵意も害意も向けられはしない。
これは、予想外のことだった。
これからどうするのかと晴明様の方を見やれば、
「…何故、そこまで泣いているのだ?」
既に、その女性の目の前で、悠然と微笑んでいた。
『…!いつの間に…』
早速置いてけぼりをくらい、何だか肩の力が抜けてしまったが、とりあえず、晴明様の元へ駆け寄る。
すると、ゆっくりとその女性は顔を上げ、その瞳が、私達を、捉えた。
『……!』
思わず、息を飲んでしまった。
その、例えようもない、美しさに。
彼女の周囲の空気まで、何だか芳しい香りがするような、まばゆい真珠玉が輝いているような…いくら言葉を尽くしても、表現することはかなわないだろう。
そして、その瞳は、私達を捉えた瞬間、更に大きく見開かれた。
「……あなた方は…?」
細く、しかし妙なる声で、そう聞かれて、私は何と答えたら良いかわからなかった。
しかし、晴明様は、全く動じることなく、
「私達は、藍とその父親に頼まれ、その子の母親を探しているのだが…。言っている意味が分かりますね…恋姫…?」
その瞬間、彼女の顔色が、変わった。
「何を言い出すかと思えば!そのようなこと!妾は何も存じませぬ!!」
目から涙を流しながら、必死の形相で訴えた。
その血気迫る形相に、私は一瞬たじろいでしまったが、やはり晴明様は全く動じることなく続けた。
「戯言を仰らないで下さい。貴女は自決するその時に、自らの女房、ひいては、彼女の母親に呪いを…「違う!違う!妾はそのようなことはしておらぬ!!」
髪を振り乱し、叫ぶ彼女に、私は何と声をかければよいのか、見当もつかなかった。
「戯言を言っているのはお主の方だ!知っているぞ、お主は安倍晴明であろう!妾を誰だと心得る!かの噂に名高い恋姫であるぞ!!狐の子の分際で!!賀茂忠行に拾われなければ、野垂れ死んでいた賤しい身の分際で!!お主に恋姫たる妾の何がわかるのだ!!!」
「…恋に狂ったか、恋姫の分際で」
その声は、あの悲しみのこもった冷たい声より、更に冷たく、まるで、一切の感情を遮断してしまったかのような声音であった。
私は、この状況そのものよりも、遥かに、その声音を恐れた。
それは恋姫も同じだったようで、彼女は、晴明様から少しでも距離を取ろうと、後ろに後ずさった。
晴明様は、その距離を再び埋めるように、恋姫との距離を詰める。
「貴女は、貴女のことを誰より愛していた、貴女自身の女房に、貴女自身の手によって呪いをかけた。それも、この状況においては、最も残酷だとも言える呪いだ。貴女は、貴女の愛した女房も、貴女の愛した薬屋も、そして、彼らの愛するその娘までも、不幸のどん底に突き落とした………満足か?」
恋姫の目からは、途端、先程とは比較にならない程の涙が溢れ出した。
逆立っていた髪も、徐々にパサパサと落ちてくる。
「…妾には、どうすることもできなかったのだ…」
既に、彼女の纏う異様な空気は、薄れてしまっていた。
――――……
「姫様!」
いつだって、彼女は、明るい笑顔を見せてくれた。
彼女が負った火傷にしても、妾を庇って、できたものだった。
「……!?姫様!!」
そう叫んで、妾を押しのけ、降ってきた火鉢を肩からかぶった彼女。
つまづいて、火鉢を投げてしまった童の驚いた顔。
全てが、今となっても忘れられない。
彼女は、もう、助からないだろうと思った。
勿論、京中の医者を呼び寄せた。
しかし、誰一人として、彼女を救う手立てをもつ者はいなかった。
三日経ち、彼女が生きることを諦めかけていた、そのとき、
「お願いします!私に診せてください!必ず治します!お願いします!!」
その男は、門の前で、見張りの者たちに蹴られ、うずくまりながらも、必死でそう訴えていた。
迷うことは、なかった。
彼女を、救ってくれるというなら。
彼は、どんな医者も匙を投げた治療を根気強く続け、そして、彼女は、傷痕は深く残ったものの、何とか一命を取り留めることができた。
――…嬉しかった。
彼女が、まだ、妾の側にいてくれる。
…そして、あの、心優しい薬屋に出会うことができた。
やっと、妾の求める殿方が、見つかった。
上っ面だけの殿方ではない、まことに優しい心根を持った、そのような御方が…。
だが…
「姫様、私は、近々嫁に行くことと相成りました。…このような見てくれとなってしまった私ですが、それでも良いと、そう、言っていただきました」
……そう言って、これ以上ない程に嬉しげに微笑む彼女に、妾が何と言えただろう。
「そう、それでは、達者で」
そう言って、微笑み返すのが、やっとだった。
どうすることもできなかった。
妾の入内も、もう、既に決まっていた。
「姫様も、天子様と、どうか、御幸せに」
屈託のない笑顔が、痛かった。
――――……
「…それで、呪い、か」
晴明様の表情は、相変わらず、何の変化もしていなかった。
…彼女の話は、少なからず同情を誘うものだった。
全く、残酷な運命だとしか言いようがない。
しかし、
「それでも、他に、方法はありませんでしたか…?」
私は、思わずそう尋ねてしまった。
「え…?」
突然の私の言葉に、恋姫は唖然としてしまったようだ。目を丸くして、こちらを見ている。
「呪いをかけて、死ぬしか、方法はなかったのでしょうか…?
貴女は、その運命を、自分で変えることができたのではありませんか…?
入内が嫌なら、逃げ出すこともできたでしょう。
二人に相談すれば、きっと貴女を救ってくれたはずです。
その方と結ばれなくても、他に貴女の運命の御相手が、いたかもしれないではありませんか…」
いつの間にか、私は静かに涙を流していた。
そして、その代わりに、恋姫の涙が、止まっていた。
「…その通りです」
ややあって、ぽつり、と恋姫が呟いた。
「妾は、己の人生を、自ら諦め、その責任を、全てあの二人に押し付けました。そうして、それをずっと嘆き続けてきたのです」
そのとき、ふわっと、彼女は微笑んだ。
「その言葉が、ずっと、聞きたかったのかもしれません。運命は、自ら変えられたのだと。手遅れになる前に、救ってくれたのは、貴女の言の葉です。…礼を言います」
その言葉を聞いた瞬間、私達は、元の廃屋の門の前に、戻ってきていた。
何が彼女を救ったのか…。
晴明様が、何らかの術をお使いになったのか…。
そんなことは、私にとってはどうでも良いことだった。
ただ…
「…よくやった」
大きな大きな月を背に、こちらに微笑みかける晴明様は、どこまでも美しかった。
――――……
帰り道、私は、少し気になることを尋ねてみた。
「そう言えば、あの方が『手遅れ』がどうとか言ってましたよね?
あれはどういう意味だったのですか…?」
すると、晴明様は、先程まで背負っておられた月を見つめながら、
「…人は、恨み辛みに執着し過ぎると、鬼になるそうだ」
そう、静かに呟いた。
「恨みを持つのも人、辛さを感じるのもまた人……人とは、まことに、難儀な生き物だ」
私は、そのとき、恋姫の言葉を思い出していた。
『狐の子の分際で!!』
本当は、尋ねたかった。
しかし、私には、それはとてもできなかった。
「藍さんの母上様は、無事に戻ってくるでしょうか…?」
晴明様は、また、例のごとく、
「…さぁな。いずれは、わかることだ」
そう言って、またすたすたと歩きだした。
私もまた、例のごとく、遅れないようにと、その後を追ったのだった。
――後日、晴明様の屋敷を訪れた三人の家族は、本当に、幸せそうだった。
失踪していた間の記憶が一切なくなってしまっていた母親は、事の顛末を聞くと、はらはらと涙を流し、
「それでも、私の愛する姫様ですから」
そう言って、静かに、微笑んだ。
私は、咄嗟に、怪訝な顔つきで晴明様の顔を覗き込んだ。
「そのようだな」
一方晴明様は、そのような視線など、どこ吹く風。
腕を組みながら、悠々と問題のその場所を眺めている。
因みに、私から握った手は、晴明様の発した、
「…ん?あれは、どこの牛車だ…?」
という一言によって、私のほうから離してしまった。
辺りを見回し、それが晴明様の策であったということには、すぐに気がついた。
しかし、一度気恥ずかしさを感じてしまうと、もう一度握ってやろうという程の勇気は、どうしても湧いてこなかったのだ。
『…我が師匠のことながら、なんと人の悪い方だろう…』
思わずそのようなことを考えてしまったが、その考えも、晴明様には読まれてしまっているような気がして、「とりあえず、中に入ってみませんか?」と、この状況においては、至極妥当な提案をしたのだった。
私達の辿り着いた場所というのは、端的に言えば、廃屋であった。
元は、それは大きくて立派な御屋敷であったのであろうということは、安易に想像出来るのだが…。
かつて、屋敷を守っていたであろう土塀は、大方朽ち果て、もはやその役割を果たしてはいない。
庭園には尾花が生い茂り、庭石は土に埋れてしまっている。
渡り廊下は抜け落ちてしまっており、見る限り、あそこを渡るのは不可能そうだ。
屋敷の屋根などは、殆どあってないような有様であった。
そのような中、私達は、埋れた庭石の上を堂々と歩きながら、本邸らしき建物を目指している。
「なんだか、気味が悪いですね…晴明様、ここに、一体何があるというのですか?」
見た所、単なる廃屋に他ならず、変わったものは目につかない。
ただ、私にしてみれば、人の住まない廃屋は、やはり少し気味が悪かった。
それに対し、私を先導するように歩いていた晴明様は、悠々と微笑みながら、
「珍しく弱気だな。まるで女子のようだ。しかし、その割には、堂々と歩いているように見えるが…?
何があるのかは、私にもわからぬな。ただ、紅葉の調べが正しければ、今夜中に事は終わるだろう」
と、返した。
…なんというお方だ…
「大っ変!お言葉ですが!私は女子でございます。そのような戯言をおっしゃるなら、此方にも考えがございますよ…?」
私は、殆ど反射的に、そのような言葉を返していた。
勿論、考えも何もあったものではない。
『売り言葉に買い言葉のこの癖は、早いうちになんとかしなければ…』
早々に反省せざるを得なかった。
しかし、そんな私の考えとは裏腹に、晴明様の口から、思いもよらぬ言葉が飛び出した。
「いや、其方はそれで良い。そのままでいてくれ」
心を読まれたということよりも、むしろ、その内容と、その表情に、開いた口が塞がらなかった。
『…このようなお顔、初めて見た…それに、このままで良いとは……』
何故か私は照れてしまって、
「はい、それでは、そのように…」
と返すのがやっとであった。
なんだか頬が熱く、視線も合わせることが出来ない。
それを見た晴明様は、何を勘違いしたのか、
「何か勘違いをしているようだが、私には人の心などはわからぬよ」
「……はい?」
あまりに突拍子もないことを言い出すものだから、私はそんな、間の抜けた返答をしてしまった。
しかし、晴明様は私が何に動揺しているのか気づいておられないようで、なお、このように続けた。
「私には、人の心など、わからぬ。故に、最も恐ろしい」
本人にしてみれば、本当に些細な、何の気無しの言葉だったのだろう。
月並みの表現であるし、それは当たり前のことだとも思う。
しかし…晴明様の発したその言葉は、私に、なんだかよくわからない違和感を与えた。
なんだかよくわからないが、何かが引っかかる…まさにそのような感じで、明確に説明することはできないのだが…。
ただ、その言葉の発する匂いは、いつも浮かべている微笑の匂いに、非常によく似たものだと、そのように感じられた。
私の性分からすると、本来なら、そのような曖昧模糊の問題は、なんだか気分が良くないので、すぐさま本人に問いかけるのだが、それも憚られた。
それに、その問題については、いずれ明らかになるような、そのような確信めいたものが、私の中にはあったのである。
しかし、それではまた気になることが出来てしまった。
「しかし、先程もそうですが、度々私が口には出していないことに、晴明様は返事をなさっていますよね…?心がわからぬのなら、あれはどうやって…?」
まさか、弟子である私に術をかけて…ということは無いだろうが…いや、晴明様ならあるいは………何だか不安になってきた…。
すると、こちらの考えをよそに、晴明様はからからと笑った。
その笑顔に、私はまた釘付けになってしまったのだが、いや、この笑顔に惹かれぬ人などいるはずがない。
それ程までに、艶やかで、晴れやかで、それでいて美しい、こちらまで何だか嬉しくなってしまうような笑顔だった。
しかし、この状況で、笑われる意味がわからない。何かおかしなことを言っただろうか…?
すると、晴明様はその笑顔のまま、
「鏡を貸してやろう」
と、懐から取り出した鏡を、私に差し出した。
顔を見てみろということだろうか……とりあえず、私は顔を覗き込んでみた。しかし、別段変わった所は見当たらない。そこには、見慣れた自分の顔が映っているだけだった。
…まさか、私のこの顔が可笑しくて笑ったのか…?
確かに、私は美人とは言い難い顔立ちをしている。
一方晴明様は、男性でありながら、この世のものとは思われないような美貌をお持ちだ。
…無礼な方だが、詮方無きことかもしれない…
「…鏡を、お返しします」
とりあえず、私は鏡を返した。しかし、これでは私の問いの答えにはなっていない。
「どうして、鏡を?」
ちょうどそのとき、私達は屋敷の一番奥にあたる部屋の前に辿り着いた。
その障子の前で立ち止まった晴明様は、こちらを振り向いて、
「私には、人の心など、わからぬ。しかし…其方の考えは、その表情から安易に読み取れるのだ。それが、私には、嬉しくてならない」
…よく、意味がわからなかった。考えが顔に出やすいということだろうか…?嬉しい…?
聞き返そうかとも思ったが、やめておいた。
障子の隙間から、なんだか、異様な気配がしたためである。
「晴明様…」
きっと、私の顔は不安でいっぱいだっただろう。
天崎の者とはいえ、このようなこの世ならざるものに慣れているというわけではない。
むしろ、これまではそのようなものからは遠ざけられて育ってきたのだ。
家の者たちに隠れて書庫にあった書物はあらかた読んでいたので、知識だけはそれなりにあるが、現場に立つのは初めてかもしれない。
晴明様にお会いする前に、鬼には遭ってしまったのだが。
私の表情が強張っているのを、晴明様は、流し目で見ていた。
『…どうせ、また馬鹿にしておられるのだろう…』
これまで散々私を馬鹿にしてきた晴明様だ。
「仮にも天崎の家の者が…」などと、言い出すに決まっている。
そこまで考えたところで、ふと、頭の上にふわりと何かがのった気がした。
いや、確かにのっていた。
「…!晴明様…!?」
いつの間にか、私の頭の上には、晴明様の白く、細い御手がのせられていた。
「…心配するな。大丈夫だ。私に任せておけ」
それだけ言うと、晴明様は、二、三度私の頭を軽く叩いて、障子の窪みに手をかけた。
…もう、恐ろしさも、不安も、何もなかった。
少しでも、お役に立ちたい。
不思議なことに、そのようなことさえ考えていた。
元々、恩返しをするつもりで弟子入りしたので、あながち間違った考えではないのだろうが、それとは別の次元でそう思えたのだ。
「…ゆくぞ」
「……はい!」
固く閉ざされていた障子が、ゆっくりと、晴明様の御手によって開かれていった。
そこは、廃屋となったこの地とは不釣合いな程に、美しい一室だった。
絢爛豪華とも言うべき調度品に、部屋中に飾られた花々。
そして、その部屋の中央には、これまた場違いな程に麗しい着物を着た女性が、うずくまっていた。
よく見れば、袖で顔を覆いながら、震えている。
…涙を流しているのか…?
確かに、意識してみれば、袖からは、衣が吸いきれなかったのであろう涙が滴り、それは畳に染み入り、部屋中に広がっていた。
明らかに、一朝一夕にできた染みではなかった。
そして、明らかに、人の流せる涙の量ではなかった。
しかし、泣いているばかりで、その女性はこちらを振り向きもしなかった。
敵意も害意も向けられはしない。
これは、予想外のことだった。
これからどうするのかと晴明様の方を見やれば、
「…何故、そこまで泣いているのだ?」
既に、その女性の目の前で、悠然と微笑んでいた。
『…!いつの間に…』
早速置いてけぼりをくらい、何だか肩の力が抜けてしまったが、とりあえず、晴明様の元へ駆け寄る。
すると、ゆっくりとその女性は顔を上げ、その瞳が、私達を、捉えた。
『……!』
思わず、息を飲んでしまった。
その、例えようもない、美しさに。
彼女の周囲の空気まで、何だか芳しい香りがするような、まばゆい真珠玉が輝いているような…いくら言葉を尽くしても、表現することはかなわないだろう。
そして、その瞳は、私達を捉えた瞬間、更に大きく見開かれた。
「……あなた方は…?」
細く、しかし妙なる声で、そう聞かれて、私は何と答えたら良いかわからなかった。
しかし、晴明様は、全く動じることなく、
「私達は、藍とその父親に頼まれ、その子の母親を探しているのだが…。言っている意味が分かりますね…恋姫…?」
その瞬間、彼女の顔色が、変わった。
「何を言い出すかと思えば!そのようなこと!妾は何も存じませぬ!!」
目から涙を流しながら、必死の形相で訴えた。
その血気迫る形相に、私は一瞬たじろいでしまったが、やはり晴明様は全く動じることなく続けた。
「戯言を仰らないで下さい。貴女は自決するその時に、自らの女房、ひいては、彼女の母親に呪いを…「違う!違う!妾はそのようなことはしておらぬ!!」
髪を振り乱し、叫ぶ彼女に、私は何と声をかければよいのか、見当もつかなかった。
「戯言を言っているのはお主の方だ!知っているぞ、お主は安倍晴明であろう!妾を誰だと心得る!かの噂に名高い恋姫であるぞ!!狐の子の分際で!!賀茂忠行に拾われなければ、野垂れ死んでいた賤しい身の分際で!!お主に恋姫たる妾の何がわかるのだ!!!」
「…恋に狂ったか、恋姫の分際で」
その声は、あの悲しみのこもった冷たい声より、更に冷たく、まるで、一切の感情を遮断してしまったかのような声音であった。
私は、この状況そのものよりも、遥かに、その声音を恐れた。
それは恋姫も同じだったようで、彼女は、晴明様から少しでも距離を取ろうと、後ろに後ずさった。
晴明様は、その距離を再び埋めるように、恋姫との距離を詰める。
「貴女は、貴女のことを誰より愛していた、貴女自身の女房に、貴女自身の手によって呪いをかけた。それも、この状況においては、最も残酷だとも言える呪いだ。貴女は、貴女の愛した女房も、貴女の愛した薬屋も、そして、彼らの愛するその娘までも、不幸のどん底に突き落とした………満足か?」
恋姫の目からは、途端、先程とは比較にならない程の涙が溢れ出した。
逆立っていた髪も、徐々にパサパサと落ちてくる。
「…妾には、どうすることもできなかったのだ…」
既に、彼女の纏う異様な空気は、薄れてしまっていた。
――――……
「姫様!」
いつだって、彼女は、明るい笑顔を見せてくれた。
彼女が負った火傷にしても、妾を庇って、できたものだった。
「……!?姫様!!」
そう叫んで、妾を押しのけ、降ってきた火鉢を肩からかぶった彼女。
つまづいて、火鉢を投げてしまった童の驚いた顔。
全てが、今となっても忘れられない。
彼女は、もう、助からないだろうと思った。
勿論、京中の医者を呼び寄せた。
しかし、誰一人として、彼女を救う手立てをもつ者はいなかった。
三日経ち、彼女が生きることを諦めかけていた、そのとき、
「お願いします!私に診せてください!必ず治します!お願いします!!」
その男は、門の前で、見張りの者たちに蹴られ、うずくまりながらも、必死でそう訴えていた。
迷うことは、なかった。
彼女を、救ってくれるというなら。
彼は、どんな医者も匙を投げた治療を根気強く続け、そして、彼女は、傷痕は深く残ったものの、何とか一命を取り留めることができた。
――…嬉しかった。
彼女が、まだ、妾の側にいてくれる。
…そして、あの、心優しい薬屋に出会うことができた。
やっと、妾の求める殿方が、見つかった。
上っ面だけの殿方ではない、まことに優しい心根を持った、そのような御方が…。
だが…
「姫様、私は、近々嫁に行くことと相成りました。…このような見てくれとなってしまった私ですが、それでも良いと、そう、言っていただきました」
……そう言って、これ以上ない程に嬉しげに微笑む彼女に、妾が何と言えただろう。
「そう、それでは、達者で」
そう言って、微笑み返すのが、やっとだった。
どうすることもできなかった。
妾の入内も、もう、既に決まっていた。
「姫様も、天子様と、どうか、御幸せに」
屈託のない笑顔が、痛かった。
――――……
「…それで、呪い、か」
晴明様の表情は、相変わらず、何の変化もしていなかった。
…彼女の話は、少なからず同情を誘うものだった。
全く、残酷な運命だとしか言いようがない。
しかし、
「それでも、他に、方法はありませんでしたか…?」
私は、思わずそう尋ねてしまった。
「え…?」
突然の私の言葉に、恋姫は唖然としてしまったようだ。目を丸くして、こちらを見ている。
「呪いをかけて、死ぬしか、方法はなかったのでしょうか…?
貴女は、その運命を、自分で変えることができたのではありませんか…?
入内が嫌なら、逃げ出すこともできたでしょう。
二人に相談すれば、きっと貴女を救ってくれたはずです。
その方と結ばれなくても、他に貴女の運命の御相手が、いたかもしれないではありませんか…」
いつの間にか、私は静かに涙を流していた。
そして、その代わりに、恋姫の涙が、止まっていた。
「…その通りです」
ややあって、ぽつり、と恋姫が呟いた。
「妾は、己の人生を、自ら諦め、その責任を、全てあの二人に押し付けました。そうして、それをずっと嘆き続けてきたのです」
そのとき、ふわっと、彼女は微笑んだ。
「その言葉が、ずっと、聞きたかったのかもしれません。運命は、自ら変えられたのだと。手遅れになる前に、救ってくれたのは、貴女の言の葉です。…礼を言います」
その言葉を聞いた瞬間、私達は、元の廃屋の門の前に、戻ってきていた。
何が彼女を救ったのか…。
晴明様が、何らかの術をお使いになったのか…。
そんなことは、私にとってはどうでも良いことだった。
ただ…
「…よくやった」
大きな大きな月を背に、こちらに微笑みかける晴明様は、どこまでも美しかった。
――――……
帰り道、私は、少し気になることを尋ねてみた。
「そう言えば、あの方が『手遅れ』がどうとか言ってましたよね?
あれはどういう意味だったのですか…?」
すると、晴明様は、先程まで背負っておられた月を見つめながら、
「…人は、恨み辛みに執着し過ぎると、鬼になるそうだ」
そう、静かに呟いた。
「恨みを持つのも人、辛さを感じるのもまた人……人とは、まことに、難儀な生き物だ」
私は、そのとき、恋姫の言葉を思い出していた。
『狐の子の分際で!!』
本当は、尋ねたかった。
しかし、私には、それはとてもできなかった。
「藍さんの母上様は、無事に戻ってくるでしょうか…?」
晴明様は、また、例のごとく、
「…さぁな。いずれは、わかることだ」
そう言って、またすたすたと歩きだした。
私もまた、例のごとく、遅れないようにと、その後を追ったのだった。
――後日、晴明様の屋敷を訪れた三人の家族は、本当に、幸せそうだった。
失踪していた間の記憶が一切なくなってしまっていた母親は、事の顛末を聞くと、はらはらと涙を流し、
「それでも、私の愛する姫様ですから」
そう言って、静かに、微笑んだ。
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