月と闇夜の渡り方

江馬 百合子

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円満解決

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「目指していた所って…まさか、ここですか…?」

 私は、咄嗟に、怪訝な顔つきで晴明様の顔を覗き込んだ。

「そのようだな」

 一方晴明様は、そのような視線など、どこ吹く風。
 腕を組みながら、悠々と問題のその場所を眺めている。

 因みに、私から握った手は、晴明様の発した、

「…ん?あれは、どこの牛車だ…?」

という一言によって、私のほうから離してしまった。

 辺りを見回し、それが晴明様の策であったということには、すぐに気がついた。
 しかし、一度気恥ずかしさを感じてしまうと、もう一度握ってやろうという程の勇気は、どうしても湧いてこなかったのだ。

『…我が師匠のことながら、なんと人の悪い方だろう…』

 思わずそのようなことを考えてしまったが、その考えも、晴明様には読まれてしまっているような気がして、「とりあえず、中に入ってみませんか?」と、この状況においては、至極妥当な提案をしたのだった。

 私達の辿り着いた場所というのは、端的に言えば、廃屋であった。
 元は、それは大きくて立派な御屋敷であったのであろうということは、安易に想像出来るのだが…。

 かつて、屋敷を守っていたであろう土塀は、大方朽ち果て、もはやその役割を果たしてはいない。
 庭園には尾花が生い茂り、庭石は土に埋れてしまっている。
 渡り廊下は抜け落ちてしまっており、見る限り、あそこを渡るのは不可能そうだ。
 屋敷の屋根などは、殆どあってないような有様であった。

 そのような中、私達は、埋れた庭石の上を堂々と歩きながら、本邸らしき建物を目指している。

「なんだか、気味が悪いですね…晴明様、ここに、一体何があるというのですか?」

 見た所、単なる廃屋に他ならず、変わったものは目につかない。
 ただ、私にしてみれば、人の住まない廃屋は、やはり少し気味が悪かった。

 それに対し、私を先導するように歩いていた晴明様は、悠々と微笑みながら、

「珍しく弱気だな。まるで女子のようだ。しかし、その割には、堂々と歩いているように見えるが…?
 何があるのかは、私にもわからぬな。ただ、紅葉の調べが正しければ、今夜中に事は終わるだろう」

と、返した。

 …なんというお方だ…

「大っ変!お言葉ですが!私は女子でございます。そのような戯言をおっしゃるなら、此方にも考えがございますよ…?」

 私は、殆ど反射的に、そのような言葉を返していた。
 勿論、考えも何もあったものではない。

『売り言葉に買い言葉のこの癖は、早いうちになんとかしなければ…』

 早々に反省せざるを得なかった。

 しかし、そんな私の考えとは裏腹に、晴明様の口から、思いもよらぬ言葉が飛び出した。

「いや、其方はそれで良い。そのままでいてくれ」

 心を読まれたということよりも、むしろ、その内容と、その表情に、開いた口が塞がらなかった。

『…このようなお顔、初めて見た…それに、このままで良いとは……』

 何故か私は照れてしまって、

「はい、それでは、そのように…」

と返すのがやっとであった。

 なんだか頬が熱く、視線も合わせることが出来ない。

 それを見た晴明様は、何を勘違いしたのか、

「何か勘違いをしているようだが、私には人の心などはわからぬよ」

「……はい?」

 あまりに突拍子もないことを言い出すものだから、私はそんな、間の抜けた返答をしてしまった。

 しかし、晴明様は私が何に動揺しているのか気づいておられないようで、なお、このように続けた。

「私には、人の心など、わからぬ。故に、最も恐ろしい」

 本人にしてみれば、本当に些細な、何の気無しの言葉だったのだろう。
 月並みの表現であるし、それは当たり前のことだとも思う。

 しかし…晴明様の発したその言葉は、私に、なんだかよくわからない違和感を与えた。
 なんだかよくわからないが、何かが引っかかる…まさにそのような感じで、明確に説明することはできないのだが…。

 ただ、その言葉の発する匂いは、いつも浮かべている微笑の匂いに、非常によく似たものだと、そのように感じられた。

 私の性分からすると、本来なら、そのような曖昧模糊の問題は、なんだか気分が良くないので、すぐさま本人に問いかけるのだが、それも憚られた。

 それに、その問題については、いずれ明らかになるような、そのような確信めいたものが、私の中にはあったのである。

 しかし、それではまた気になることが出来てしまった。

「しかし、先程もそうですが、度々私が口には出していないことに、晴明様は返事をなさっていますよね…?心がわからぬのなら、あれはどうやって…?」

 まさか、弟子である私に術をかけて…ということは無いだろうが…いや、晴明様ならあるいは………何だか不安になってきた…。

 すると、こちらの考えをよそに、晴明様はからからと笑った。

 その笑顔に、私はまた釘付けになってしまったのだが、いや、この笑顔に惹かれぬ人などいるはずがない。
 それ程までに、艶やかで、晴れやかで、それでいて美しい、こちらまで何だか嬉しくなってしまうような笑顔だった。

 しかし、この状況で、笑われる意味がわからない。何かおかしなことを言っただろうか…?

 すると、晴明様はその笑顔のまま、

「鏡を貸してやろう」

と、懐から取り出した鏡を、私に差し出した。

 顔を見てみろということだろうか……とりあえず、私は顔を覗き込んでみた。しかし、別段変わった所は見当たらない。そこには、見慣れた自分の顔が映っているだけだった。

 …まさか、私のこの顔が可笑しくて笑ったのか…?
 確かに、私は美人とは言い難い顔立ちをしている。
 一方晴明様は、男性でありながら、この世のものとは思われないような美貌をお持ちだ。

 …無礼な方だが、詮方無きことかもしれない…

「…鏡を、お返しします」

 とりあえず、私は鏡を返した。しかし、これでは私の問いの答えにはなっていない。

「どうして、鏡を?」

 ちょうどそのとき、私達は屋敷の一番奥にあたる部屋の前に辿り着いた。

 その障子の前で立ち止まった晴明様は、こちらを振り向いて、

「私には、人の心など、わからぬ。しかし…其方の考えは、その表情から安易に読み取れるのだ。それが、私には、嬉しくてならない」

 …よく、意味がわからなかった。考えが顔に出やすいということだろうか…?嬉しい…?

 聞き返そうかとも思ったが、やめておいた。

 障子の隙間から、なんだか、異様な気配がしたためである。

「晴明様…」

 きっと、私の顔は不安でいっぱいだっただろう。

 天崎の者とはいえ、このようなこの世ならざるものに慣れているというわけではない。
 むしろ、これまではそのようなものからは遠ざけられて育ってきたのだ。
 家の者たちに隠れて書庫にあった書物はあらかた読んでいたので、知識だけはそれなりにあるが、現場に立つのは初めてかもしれない。

 晴明様にお会いする前に、鬼には遭ってしまったのだが。

 私の表情が強張っているのを、晴明様は、流し目で見ていた。

『…どうせ、また馬鹿にしておられるのだろう…』

 これまで散々私を馬鹿にしてきた晴明様だ。

「仮にも天崎の家の者が…」などと、言い出すに決まっている。

 そこまで考えたところで、ふと、頭の上にふわりと何かがのった気がした。

 いや、確かにのっていた。

「…!晴明様…!?」

 いつの間にか、私の頭の上には、晴明様の白く、細い御手がのせられていた。

「…心配するな。大丈夫だ。私に任せておけ」

 それだけ言うと、晴明様は、二、三度私の頭を軽く叩いて、障子の窪みに手をかけた。

 …もう、恐ろしさも、不安も、何もなかった。

 少しでも、お役に立ちたい。

 不思議なことに、そのようなことさえ考えていた。

 元々、恩返しをするつもりで弟子入りしたので、あながち間違った考えではないのだろうが、それとは別の次元でそう思えたのだ。

「…ゆくぞ」

「……はい!」

 固く閉ざされていた障子が、ゆっくりと、晴明様の御手によって開かれていった。

 そこは、廃屋となったこの地とは不釣合いな程に、美しい一室だった。

 絢爛豪華とも言うべき調度品に、部屋中に飾られた花々。

 そして、その部屋の中央には、これまた場違いな程に麗しい着物を着た女性が、うずくまっていた。

 よく見れば、袖で顔を覆いながら、震えている。

 …涙を流しているのか…?

 確かに、意識してみれば、袖からは、衣が吸いきれなかったのであろう涙が滴り、それは畳に染み入り、部屋中に広がっていた。

 明らかに、一朝一夕にできた染みではなかった。

 そして、明らかに、人の流せる涙の量ではなかった。

 しかし、泣いているばかりで、その女性はこちらを振り向きもしなかった。

 敵意も害意も向けられはしない。
 これは、予想外のことだった。

 これからどうするのかと晴明様の方を見やれば、

「…何故、そこまで泣いているのだ?」

 既に、その女性の目の前で、悠然と微笑んでいた。

『…!いつの間に…』

 早速置いてけぼりをくらい、何だか肩の力が抜けてしまったが、とりあえず、晴明様の元へ駆け寄る。

 すると、ゆっくりとその女性は顔を上げ、その瞳が、私達を、捉えた。

『……!』

 思わず、息を飲んでしまった。

 その、例えようもない、美しさに。

 彼女の周囲の空気まで、何だか芳しい香りがするような、まばゆい真珠玉が輝いているような…いくら言葉を尽くしても、表現することはかなわないだろう。

 そして、その瞳は、私達を捉えた瞬間、更に大きく見開かれた。

「……あなた方は…?」

 細く、しかし妙なる声で、そう聞かれて、私は何と答えたら良いかわからなかった。

 しかし、晴明様は、全く動じることなく、

「私達は、藍とその父親に頼まれ、その子の母親を探しているのだが…。言っている意味が分かりますね…恋姫…?」

 その瞬間、彼女の顔色が、変わった。

「何を言い出すかと思えば!そのようなこと!妾は何も存じませぬ!!」

 目から涙を流しながら、必死の形相で訴えた。
 その血気迫る形相に、私は一瞬たじろいでしまったが、やはり晴明様は全く動じることなく続けた。

「戯言を仰らないで下さい。貴女は自決するその時に、自らの女房、ひいては、彼女の母親に呪いを…「違う!違う!妾はそのようなことはしておらぬ!!」

 髪を振り乱し、叫ぶ彼女に、私は何と声をかければよいのか、見当もつかなかった。

「戯言を言っているのはお主の方だ!知っているぞ、お主は安倍晴明であろう!妾を誰だと心得る!かの噂に名高い恋姫であるぞ!!狐の子の分際で!!賀茂忠行に拾われなければ、野垂れ死んでいた賤しい身の分際で!!お主に恋姫たる妾の何がわかるのだ!!!」

「…恋に狂ったか、恋姫の分際で」

 その声は、あの悲しみのこもった冷たい声より、更に冷たく、まるで、一切の感情を遮断してしまったかのような声音であった。

 私は、この状況そのものよりも、遥かに、その声音を恐れた。

 それは恋姫も同じだったようで、彼女は、晴明様から少しでも距離を取ろうと、後ろに後ずさった。

 晴明様は、その距離を再び埋めるように、恋姫との距離を詰める。

「貴女は、貴女のことを誰より愛していた、貴女自身の女房に、貴女自身の手によって呪いをかけた。それも、この状況においては、最も残酷だとも言える呪いだ。貴女は、貴女の愛した女房も、貴女の愛した薬屋も、そして、彼らの愛するその娘までも、不幸のどん底に突き落とした………満足か?」

 恋姫の目からは、途端、先程とは比較にならない程の涙が溢れ出した。
 逆立っていた髪も、徐々にパサパサと落ちてくる。

「…妾には、どうすることもできなかったのだ…」

 既に、彼女の纏う異様な空気は、薄れてしまっていた。


――――……

「姫様!」

 いつだって、彼女は、明るい笑顔を見せてくれた。

 彼女が負った火傷にしても、妾を庇って、できたものだった。

「……!?姫様!!」

 そう叫んで、妾を押しのけ、降ってきた火鉢を肩からかぶった彼女。

 つまづいて、火鉢を投げてしまった童の驚いた顔。

 全てが、今となっても忘れられない。

 彼女は、もう、助からないだろうと思った。

 勿論、京中の医者を呼び寄せた。

 しかし、誰一人として、彼女を救う手立てをもつ者はいなかった。

 三日経ち、彼女が生きることを諦めかけていた、そのとき、

「お願いします!私に診せてください!必ず治します!お願いします!!」

 その男は、門の前で、見張りの者たちに蹴られ、うずくまりながらも、必死でそう訴えていた。

 迷うことは、なかった。

 彼女を、救ってくれるというなら。

 彼は、どんな医者も匙を投げた治療を根気強く続け、そして、彼女は、傷痕は深く残ったものの、何とか一命を取り留めることができた。

――…嬉しかった。

 彼女が、まだ、妾の側にいてくれる。

 …そして、あの、心優しい薬屋に出会うことができた。

 やっと、妾の求める殿方が、見つかった。

 上っ面だけの殿方ではない、まことに優しい心根を持った、そのような御方が…。

 だが…

「姫様、私は、近々嫁に行くことと相成りました。…このような見てくれとなってしまった私ですが、それでも良いと、そう、言っていただきました」

 ……そう言って、これ以上ない程に嬉しげに微笑む彼女に、妾が何と言えただろう。

「そう、それでは、達者で」

 そう言って、微笑み返すのが、やっとだった。

 どうすることもできなかった。

 妾の入内も、もう、既に決まっていた。

「姫様も、天子様と、どうか、御幸せに」

 屈託のない笑顔が、痛かった。


――――……

「…それで、呪い、か」

 晴明様の表情は、相変わらず、何の変化もしていなかった。

 …彼女の話は、少なからず同情を誘うものだった。
 全く、残酷な運命だとしか言いようがない。

 しかし、

「それでも、他に、方法はありませんでしたか…?」

 私は、思わずそう尋ねてしまった。

「え…?」

 突然の私の言葉に、恋姫は唖然としてしまったようだ。目を丸くして、こちらを見ている。

「呪いをかけて、死ぬしか、方法はなかったのでしょうか…?
貴女は、その運命を、自分で変えることができたのではありませんか…?
入内が嫌なら、逃げ出すこともできたでしょう。
二人に相談すれば、きっと貴女を救ってくれたはずです。
その方と結ばれなくても、他に貴女の運命の御相手が、いたかもしれないではありませんか…」

 いつの間にか、私は静かに涙を流していた。

 そして、その代わりに、恋姫の涙が、止まっていた。

「…その通りです」

 ややあって、ぽつり、と恋姫が呟いた。

「妾は、己の人生を、自ら諦め、その責任を、全てあの二人に押し付けました。そうして、それをずっと嘆き続けてきたのです」

 そのとき、ふわっと、彼女は微笑んだ。

「その言葉が、ずっと、聞きたかったのかもしれません。運命は、自ら変えられたのだと。手遅れになる前に、救ってくれたのは、貴女の言の葉です。…礼を言います」

 その言葉を聞いた瞬間、私達は、元の廃屋の門の前に、戻ってきていた。

 何が彼女を救ったのか…。

 晴明様が、何らかの術をお使いになったのか…。

 そんなことは、私にとってはどうでも良いことだった。

 ただ…

「…よくやった」

 大きな大きな月を背に、こちらに微笑みかける晴明様は、どこまでも美しかった。


――――……

 帰り道、私は、少し気になることを尋ねてみた。

「そう言えば、あの方が『手遅れ』がどうとか言ってましたよね?
あれはどういう意味だったのですか…?」

 すると、晴明様は、先程まで背負っておられた月を見つめながら、

「…人は、恨み辛みに執着し過ぎると、鬼になるそうだ」

 そう、静かに呟いた。

「恨みを持つのも人、辛さを感じるのもまた人……人とは、まことに、難儀な生き物だ」

 私は、そのとき、恋姫の言葉を思い出していた。

『狐の子の分際で!!』

 本当は、尋ねたかった。
 しかし、私には、それはとてもできなかった。

「藍さんの母上様は、無事に戻ってくるでしょうか…?」

 晴明様は、また、例のごとく、

「…さぁな。いずれは、わかることだ」

 そう言って、またすたすたと歩きだした。

 私もまた、例のごとく、遅れないようにと、その後を追ったのだった。


――後日、晴明様の屋敷を訪れた三人の家族は、本当に、幸せそうだった。

失踪していた間の記憶が一切なくなってしまっていた母親は、事の顛末を聞くと、はらはらと涙を流し、

「それでも、私の愛する姫様ですから」


 そう言って、静かに、微笑んだ。
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