王家の巫女

江馬 百合子

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代償―奇跡を―

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 脇目も振らず馬を駆った。
 景色が流れるように飛んでいく。
 何も聞こえない。
 あの旋律も、鈴の音も、彼女の歌も。

 森が見える。
 二人が出会ったあの森が。

「ネリー、お前のご主人様は無事だろう」

 囁くと、少し速度が上がった気がした。

「あの森で、変わらず笑っているんだろう」

 遅いじゃない、と。
 そう言ってはにかむのだろう。
 
 森は、険しく暗い。
 そこからは徒歩で進むより他なかった。
 どこをどう歩いたのか。
 無我夢中だった。
 鳥のさえずり一つ聞こえない。
 この森はこんなにも静かだっただろうか。
 地脈が絶えてしまったかのように、何の気配も感じない。
 まるで、最期の時であるかのように。
 嫌な予感を振り払うように、俺は足を早めた。
 もうすぐ、あの場所に至る。
 全てが始まったあの場所に。

「……タチアナ!」

 そこに、彼女はいた。
 俯せに倒れ、彼女は眠っていた。
 周囲には誰もいない。
 彼女に掛けられた白いレースが、風のない森の中でそよいでいた。

「タチアナ!」

 跪き、手を取る。
 まだ温かい。
 しかしもう、ほとんど脈がなかった。

「……馬鹿なことを」

 彼女の話を聞いて分かったことがある。
 ベランガレアの使命は、あらゆるものを観察し、選ぶこと。この国にとって最善となる選択をすること。
 だからこそ、その選択肢の改変は、最大の禁忌であったのだ。
 運命を変えてはならない。
 見たものに手を加えてはならない。
 彼女はその禁忌を、破ってしまった。

「タチアナ……死ぬなと言ったではないか」

 閉ざされた瞳を指でなぞる。
 ここで彼女が生き絶えるなら、もはや生き長らえることはできない。
 彼女と寄り添うためには、傍へ行かねばならない。
 弟を、皆を残していくのは確かに気がかりだ。
 しかし、こんな結末も悪くはない。
 隣に彼女がいるのなら。
 共に眠るのも悪くはない。
 音もなく腰の剣を抜く。
 そのとき、

「……血を、王家の血を、その子に飲ませることだ」

 そう、頭の中に声が響いた。
 はっとして周囲を見回す。
 老婆はそこにいた。
 幻影のように揺れながら。

「それを以って、その子の中のベランガレアは死ぬ。役目を終えて。故に禁忌の咎めは解消される。しかし」

 そこで老婆は言葉を切った。
 何かを思案するように。

「その子にとって、ベランガレアは人生の全てだ。お前の為に生き、お前の為に死ぬ。それがその子の唯一つの希望だった。お前はその在り方を、否定するのか」

 迷うことはなかった。
 俺は勢いよく腕を切ると、滴る血を彼女の口元に押し付けた。

「……あぁ、否定する。俺は、彼女のつくった未来に生きたいんじゃない。彼女と共に見る明日を生きたいんだ!」

 老婆の口元が微かに上がった。

「死なせてたまるか! 絶対に死なせない!」

 老婆の影が消えていく。
 声が徐々に霞んでいく。

「……では、その旅路を見守ろう。ありふれた言祝ぎだが、贈らせておくれ。どうかその子の未来に幸多からんことを」

――あの娘に気を許してはならんよ。

 あの言葉はきっと、彼女を守るためのものだったのだろう。
 心を通わせれば、それだけ別れが辛くなる。
 自身の運命さえ呪ってしまうかもしれない。
 叶わない想いに苦しむくらいなら、いっそ出会いを忘れてしまう方が幸せだと。
 
 しかし、どうしても彼女を諦めることができない。
 彼女を知らない未来になど、何の価値もない。
 たとえどれほど抗いがたい運命が待っていたとしても、後悔など微塵もない。
 
「……心配いらない。これからは、彼女は俺が守ってみせる」

 それが、答えだった。
 老婆はもう一度ゆったりと微笑み、そのまま夢のように消えていった。

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