王家の巫女

江馬 百合子

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神殿―星づく夜―

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 村の神殿。
 そこは静謐で、厳かな雰囲気の寺院だった。
 門を入れば、低く静かな賛美歌が耳の奥から響いてくる。
 人の気配はない。
 石造りの建物はひんやりと肌に冷たく、迷路のように入り組んだ内部は思考を鈍らせる。
 薄暗い通路に焚かれた松明。
 ちらちらと壁に投げられる自分の影さえ、見知らぬもののようだった。

 彼女は進んで行く。奥へ、奥へ。
 迷いなく、まっすぐに。
 そしてとうとう、洞穴のような部屋の中へと消えていった。
 
「……この部屋は、一体」

 扉のない部屋の中を、そっと覗き見る。
 そこは、無人ではなかった。
 決して狭くはない部屋の中に多くの人々がひしめき合い、祈りを捧げている。
 彼らの仰ぎ見る祭壇は、また小さな部屋に通じているようで、彼女はその中へ吸い込まれていった。

 彼女が石の扉の向こうに姿を隠すと、祈りの文言はいっそう厳粛さを増す。
 俺はまるで木偶の坊のようにその場に固まっていた。

「気になるかね?」

 突然掛けられた声に、心の臓が跳ねる。
 悪事を暴かれた少年のような心地であったが、隣の老婆はここまで来た経緯には興味がないようだった。

「……また会ったな」
「あの子があの部屋で何をしているか、知りたいかね」

 無意識に喉が上下する。
 考える前に頷いていた。
 老婆は遠くを見るように、焦点の定まらない目を凝らす。

「彼女は飛んでいるのさ」
「飛んでいる?」
「そうさ、鳥のようにね」

 意味がよく分からなかった。

「彼女はそこにいないのか」
「いいや、いるさ。体はね」
「体と心が別々になっているということか?」

 老婆は首を振った。
 どうもそんな単純なことではないらしい。

「……それで、彼女はどこへ行っているんだ」
「色々さ。彼女はどこまでも行かねばならない。そこに意味があるならね」
「意味?」

 老婆は答えない。
 ずっと遠くを見つめている。

「……そこで彼女は何をしているんだ」
「それも色々さ。必要なことをしている。彼女の使命のためにね」
「使命? 使命とは何だ」

 その目が閉じられる。
 悼むように。

「誰が否定しようと、それを最も必要としているのはあの子さ。それが全て。それだけが誇り。あの子はその為だけに生きてきた」

 噛み合わない、すり抜けるような会話が途切れた。
 
「……彼女が、人を殺めたというのは本当か」

 老婆の目が、ようやくこちらを捉える。
 感情の読み取れない、万年の歴史を刻みつけたような眼光だった。

「呪い返しさ」
「呪い返し?」
「この国を守る為には致し方ないこと」
「呪いからこの国を守っているということか?」
「ある意味、その通り。呪いを弾けば術者に返る。それだけのことさ」

 彼女が呪術を弾き返すと、それが犯人に返ってしまうということか。つまり、今年死した五人は、死の呪いを掛けようとしたのだろう。

「彼女に非はない」

 俺が呟くと、老婆も頷いた。

「そうだね。しかしあの子の罪の意識は消えない」
 
 罪などない。
 そう言葉にしかけたときだった。
 重々しい石の扉が音を立て、開かれていく。
 人々は顔を上げ、固唾を飲んで見守っていた。

「今回は早かったね」

 老婆の言葉を訝しむ間も無い。
 暗闇の中から、彼女がふらふらと戻ってきた為だ。
 全身に汗を滴らせ、苦しげに息を吐きながら、祭壇の上で崩れ落ちる。
 しかし誰も助け起す者はいなかった。
 何をしているのかと駆け出しそうになったところで、老婆に止められる。

「やめな。あの子の矜持を傷つけてはならない」

 矜持? そんなものが何の役に立つ!
 そう言い返す前に、彼女は自力で立ち上がった。
 そして平伏する人々に言い渡す。

「北の砦に今晩夜襲が仕掛けられます。急ぎ王宮に伝達を」
「……はい、ベランガレア様」
「それから、西部の日照りはあと一週間で解消します。安心するようにと伝えてあげてください」
「……はい、ベランガレア様」

 それから小一時間、俺はその様子を茫然と眺めていた。

「……あれは神託か?」
「否。全て彼女が見て来たものさ」
「この国に関わることだけを見通す力があるのか」
「否。彼女は全てを見て来る。そしてその中から必要な事象を選び出す。あらゆるものを結び合せ、考え、推理する」
「全てを?」
「万物万象その全てを」
「……無理だ、耐えられるはずがない」
「だが彼女はやらねばならない」
「無茶だと言っている!」

 しんとした堂内に、咆哮が反響する。
 しまったと思うよりも早く彼女と目が合った。
 彼女はただただ驚きに目を見張り、こちらを見つめていた。


――――……


 銀の粉を散らしたような星空を仰ぎ見る。
 人影のない丘の上。
 彼女は言葉を使うことなく、俺に伝えていた。
 何も言わないでほしいと。

「こんな馬鹿げたことはやめろ」

 喉まで出かかっていたその言葉を、飲み込むことができた。
 やめろと言ったところで、きっと彼女はやめない。
 その言葉は徒らに彼女を傷つけるだけだろう。

「この国は美しいわ」

 優しい声だった。
 彼女は心底この国を愛している。
 疑いようもないほどに。

「この村を出たことがあるのか」
「……一度だけ」

 彼女は夢見るように目を閉じた。

「……まだ幼かったとき、王都へ行ったわ」

 ぎゅっと胸の前で合わされた手が、幸せそうな笑みが、何故か俺の目には切なく映った。

「ねぇ、オスレー、教えて。貴方が旅したこの国のこと」
「全てを見ることができるんだろう」
「貴方の目を通した世界が知りたいのよ」

 よく分からない理屈だったが、彼女の期待に満ちた目には敵わなかった。

「最初に訪れた町はピアスというところだった。演劇が盛んで、至る所に劇団があった」
「聞いたことがあるわ。野外でもお芝居しているんでしょ?」
「あぁ、とにかくあちこちで。それから笑いを大事にしている町だった」
「素敵ね」
「食べ物も美味かった。ユーという料理がよく出てくる」
「ユー?」
「透明の物体だ。甘いものもあれば辛いものも、塩気のあるものもある。形も丸かったり細長かったりまちまちだ。とにかく透明なら全てユーだと教えられた」
「美味しかった? どんな食感なの?」

 それから、空が白むまで俺たちはこの国の話を続けた。
 暁の中で、彼女は「夕飯を食べ損ねたわね」と少しだけ申し訳なさそうに、しかしとても楽しそうに笑っていた。

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