海の指輪

江馬 百合子

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海の指輪

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 駅を出て、それから時計を確認した。打ち合わせまで三十分。上司から男の足なら十分もかからないと聞いていた。少し早めだが、ちょうど良い時間に着くことができたようだ。
 標識を見て、通りの名前を確認する。方向も分かった。行くか、と足を踏み出したそのとき、ふわりと香ったその匂いに、はっとした。
 足が、動かせない。足だけではない。全身が凍ってしまったかのように、指先すら動かすことができなかった。

 生花のような、瑞々しい香水の香り。それが彼女の髪の深く甘い香りと混ざり合って、いつしか僕の中で、彼女そのものの香りとなった。
 そしてそれは刷り込みのように、遠く愛しく苦しい記憶へと繋がる。
 八年前、まだ高校生だった僕は彼女に聞いてみた。「これは何の香り?」と。
 すると彼女は「ただの香水よ」と朗らかに笑った。

 彼女は英会話教室の先生だった。僕はそこそこ成績も良かったため、そんなものは必要なかったのだが、兄の頼みで入塾することになった。
 彼女は兄の同僚だったのだ。まだ新人だった彼女の言わば練習台として、身内が割り当てられることになったというわけだ。

 彼女の授業は、毎回とても分かりやすかった。英語力にはまだ伸びしろがあるように感じたが、何より一生懸命な姿に好感が持てた。
 一応形だけ兄に従ってすぐに辞めることもできたはずなのに、そうしなかったのは、心のどこかに彼女を応援する気持ちがあったからなのかもしれない。
 いや、きっとそんな純粋な気持ちではない。一目見たその日から、心の奥底で、彼女に対する特別な感情は膨らみ始めていたのだろう。

「今日、分かりづらかったところはなかった?」

 授業後、彼女はいつも、片付けをしている僕の机の側で、不安そうに確認をしてくる。
 彼女は背が高い。かろうじて僕より低いが、それでも座った状態で視線を合わせようとすると、大きく見上げなければならない。きっとそれを気にしているのだろう。彼女はいつも、側にしゃがんで話しかけてきた。
 僕としては、子ども扱いされているようで若干不愉快だったが、それ以上に目のやり場に困った。

 彼女はいつも、ブラウスかシャツに、スラックスかスカートを合わせていた。華美なものではない。しかし、妙齢のお洒落好きな女性であることが、一目でわかる服装だった。
 細い手首には、腕時計と華奢なブレスレット。そして胸元には、稀に金色のネックレスが光っていた。
 鎖骨や胸の谷間がちらりと覗くその姿は、何とも悩ましい。僕はなるべく視界に入れないようにしながら、気のない返事をしていた。
 しかし彼女はきっと、そんな生徒の煩悶になど一切気づいていなかったに違いない。
 その証拠に、彼女は僕の成績が少しでも上がると、無邪気に飛び上がって喜んだ。挙句、ハイタッチやハグまで求めてくる。

「誠一くん!先生、もっと頑張るからね!」

 彼女が必死に努力をしていることは、誰の目にも明らかだった。休暇中は海外に研修に行っていたことも、兄を通して知っている。そして僕は、そんな彼女の一挙手一投足にまで、次第に目を奪われるようになっていった。

 教室に入るといつも、ふわりと何とも言えない良い香りが漂う。彼女が側で髪をかき上げれば、それは僕にとって、もはや麻薬だった。
 僕はもっと近くに、その香りを感じたかった。

 彼女はまた、蝶だった。花の香りに惹きつけられるはずの蝶が、自ら香りを発して周囲を魅了する。そして僕は、そんな取るに足らない存在のうちの、ちっぽけな一人にすぎなかった。

 そんなある日、突然、彼女が家へ訪れた。玄関で呆然とする僕に、彼女はにこりと笑いかける。

「お兄さんに呼ばれたの。家でも、教えてやってほしいって」

 横目で兄を睨むと、兄は悪びれずに「お前が余裕こいて家で全く勉強しないからだろ。勉強の習慣を教われ」とのたまった。正論過ぎて、反論することすらできない。

 それから彼女には、週に一度教室で、週に一度僕の部屋で会うようになった。
 狭い室内で小さな机に並んで座ると、彼女の香りに包まれているかのような錯覚を覚える。机に手を乗せると、彼女の手が、すぐにでも触れられる位置に置いてある。
 あとは、もう、衝動と自制心とのせめぎ合いだった。

 僕は、派手な生徒でもなければ、まして不真面目な生徒でもなかった。
 しかし目鼻立ちが整っていたためか、女の子から誘ってもらえることも多かった。しかし、どの子も彼女と比べると、何だか色が薄いというか、物足りない感じがした。
 そして、どんな女の子と会っても、すぐに彼女が頭に浮かんでしまう。
 
 その日も、女の子を返した部屋に彼女を通した。机にテキストと筆箱を並べる。その間、彼女はずっと突っ立っていた。咎めるような、戸惑っているかのような視線。

「先生、どうしたんですか?」

 僕が尋ねても、彼女は何も答えなかった。しかし、その目に複雑な色が浮かんだのを、僕は確かに認めた。

 椅子から立ち上がって、彼女の元へと歩く。彼女は僅かに身を引いたが、僕が捕まえる方が早かった。身じろぎをする彼女の存在をやけにリアルに感じる。

「好きなんです」

 その言葉に、彼女は、少しだけ肩を揺らした。息を飲んだのが、肌越しに伝わってくる。それから、彼女はおずおずと、僕の背中に目を回した。
 初めて腕の中におさまった彼女は、思っていたよりずっと細くて小さかった。

 僕たちの関係は、誰にも知られてはならなかった。僕が教室をやめてしまえば、大々的に付き合える。それに僕は、べつに誰に何も言われても構わなかった。だが、彼女はそれを望まなかった。

 外で会うときは、大抵八時頃に駅前で待ち合わせた。それから、買い物をしたり、ご飯を食べたりして、日によっては彼女の家に泊まったりもした。
 僕の部屋で会うときは、兄に怪しまれないよう、細心の注意を払わなければならない。

 とにかく、人目を忍び続けた。映画を観るときはレイトショーだったし、近場を堂々と歩くことはできなかった。悪いことをしているわけではないのに、何故、僕は彼女の隠れた恋人でいなければならないのだろうと、たまに不思議に思ったこともある。
 しかし僕は、幸せだったのだ。彼女が楽しそうに笑っていれば、僕の心は温かく満たされたし、彼女に抱きしめられれば、何も怖いものはなくなった。彼女が世界一大切だった。
 僕は、彼女のためなら何でもできた。

 そんなふうに付き合い始めて、一年半が経とうとしていた。僕はクリスマスに、彼女を映画に誘った。それも、昼間、隣町の映画館だ。電車で一時間ほどかかるが、彼女となら移動時間すら楽しめる。しかし彼女は、すぐには返事をくれなかった。

「…うん、楽しそう…だけど、まだ少し先だし、仕事が入るかもしれないから…」

 仕事なら仕方ない。彼女は社会人なのだから。それに結局、彼女は予定を空けてくれた。

「昼だけなら、何とか空けられたから…」

 そう言う彼女に何かを察していたはずなのに、僕はその隙間風を、さっと塞いで見て見ぬ振りをした。

 当日、僕は映画を観る前に、彼女に指輪を渡した。少しずつバイト代を貯めて、昨日ようやく買えた。正直、ああいうところは、あまり得意ではない。それでも、彼女に喜んでほしかった。
 彼女の顔がぱっと明るくなる、と思っていた。しかし、予想に反して、彼女は強張った笑顔を浮かべた。

「ありがとう。大事にするね」

 そう言って、彼女はその指輪をポケットにしまった。

 映画が終わって、僕は映画館の前で彼女を食事に誘った。だが、やはり彼女は首を縦にはふらなかった。

「これから、ちょっと用事があって…」

 そのとき、一人の男が近づいてきた。

「絵里!何で電話に出ないんだよ」

 そう言って、男は彼女の腕を掴む。彼女の顔に、さっと焦りの表情が浮かんだが、それはすぐに隠れた。

「ちょうど今偶然、教室の生徒さんに会って…」

 そうして彼女は、ちらりと僕の方を見て、少しだけ泣きそうな顔をした。
 僕は、そんな顔が見たかったわけじゃない。ただ今日は、ここ数ヶ月元気がなかった彼女に、心から笑ってほしかったのだ。
 僕は「引き止めてしまってすみませんでした」と笑うと、なるべく自然に見えるように、その場を離れた。あの場でちゃんと笑えていたのか。それは、未だに分からない。

 それから僕は、教室を辞めた。彼女からは一度着信があったが、出ていない。かけ直すこともしなかった。何も知らない兄は、単純な奴なので、何かを察することもなかった。
 だから、兄が「実は彼女、会社の先輩と数ヶ月くらい前に付き合い始めたらしいぞ」と下世話な話を始めても、僕は特に驚かなかった。それに、彼女を責める気持ちなど、微塵も湧いてこなかった。

 だが、僕は、確かに傷ついていた。部屋のシーツを何度も洗った。彼女の香りに包まれると、自然と涙が流れるからだ。気持ちは静かに凪いでいるのに、心はヒビが入ってしまったかのように軋む。
 彼女はもうそこにはいないのに、幻影のように浮かんでは、微笑みを残して消えていく。何故、彼女はいなくなってしまったのだろう。僕が、悪かったのだろうか。子供である僕を、彼女は愛することができなかったのだろうか。

 何度も、忘れようとした。いろんな人の誘いにも乗ったし、強いて純粋な交際もした。だが、彼女たちからは、何の香りもしなかった。そして、思い出すのは、幸せそうに笑う、彼女の笑顔だけなのだ。

 僕は、自分の分の指輪を、海へ沈めた。気持ちも一緒に沈んでしまえばいいと思った。そうすれば、この苦しい想いも、断ち切れない情も全て、消えて無くなってしまうのに。しかしそれでも、彼女の面影は、ちらちらと瞬く。手に抱いた熱い感触すら、忘れられそうになかった。

「好きだ」

 静かに、呟いた。
 この先ずっと、彼女のことは、心の奥底に鍵をかけてしまっておくことになるのだろう。それも悪くはないだなんて思ってしまう、自分自身に呆れた。


 すれ違った彼女は、どうやら僕には気がつかなかったらしい。無理もない。あれから僕は十五センチ程背が伸びた。それに何より、学生服を着ることはなくなった。
 彼女はといえば、セミロングだった髪が、ショートになっていた。もう、三十を超えているにも関わらず相変わらず綺麗だ。少し気の強そうな顔立ちも、変わっていない。ヒールの高い靴を自由に履きならしている姿は、昔のままだ。
 しかし、隣には、あのときの男ではない、別の男が歩いていた。
 あいつとは、別れてしまったのだろうか。そんなことを冷静に考えている間も、僕はその場を動くことができなかった。 

 そのとき、「大丈夫ですか?」と遠慮がちに声をかけられた。
 目の前に、そっとハンカチが差し出される。

 そのとき僕は、自分が涙を流していることに、初めて気がついた。
 とっさに「すみません」とハンカチを受け取ると、さっと涙を拭かせてもらう。
 スーツを着た大の大人が駅前の歩道で泣いているなんて、さぞかし不気味だったに違いない。
 一体どのくらいの間、ここに突っ立っていたのだろう。打ち合わせに行かなければならないのに。
 僕は、その女性と目を合わせることもなく、「ありがとう」とハンカチを返した。それから、踵を返して先を急ぐ。

 すると、「あの!」と、不自然な程大きな声で、呼び止められた。思わず振り返る。
 彼女は、真っ赤になってその場に立っていた。手が、ハンカチを受け取った状態のまま、固まって震えている。

「ご、ご迷惑でなければ、お名前を教えてください…」

 決して美人ではなかった。それに服装も、残念であると言わざるを得ない。しかし、それでも僕は、そんな彼女を見て、何故か思わず笑顔になってしまった。

 この穏やかな気持ちに、何と名前をつけたらいいのだろう。

 急いで名刺を取り出して、彼女の手に握らせる。彼女の手に微かに触れた自分の手も、少しだけ震えていることに気づいた。

「連絡、待ってるから」

 そう言うと、僕は彼女の返事も待たずに、走り出した。


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