雨降って地固まる

江馬 百合子

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二十五、拠所

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 既に、日は昇り、大きく開け放った障子からは先刻より眩しい光が、差し込んできている。
 義久が目覚めてから、二人は随分いろいろな事柄を話し合った。
 最初は葵から、近況報告や城の様子などを、事細かに説明した。
 それは、義久が城を発ってから現在に至るまでに起こった出来事を、記憶の限りに語り尽くすといったものであったため、実際かなりの時が費やされた。

 葵が、特に熱心に説明したのが外交の件で、起こった諸問題や出来事を一つとして言い漏らすことなく伝えた。
 それに重ねて自身がどのように対応したのか、ということも隠さず説明した。
 正直なところ、葵にはその対応が正しいものであったという自信が無い。
 そのため、報告の最中は緊張で声が震えていた。

 義久はそんな妻の様子を面白そうに眺めつつそれでも真剣に耳を傾けていた。
 しかし話が進むにつれて、義久はそれどころではなくなってしまった。
 女子に政が、ここまで勤まるものなのか、と。
 もとより、聡明な女子だということは承知していた。しかし、主不在の城で、ここまでやってしまうとは、全く予想だにしていなかった。

「…そうか、葵、よくやってくれた」

 それは決して世辞として発した言葉ではなかった。
 全てを話し終え、何やら思案している夫を不安げに見守っていた葵は、それを聞くと、安心感と喜びで泣きそうになってしまった。

「勿体なきお言葉にございます…」

 涙声になっている葵に、義久は僅かに笑みを浮かべながら更に言葉を連ねた。

「葵、お前が無事でいてくれてよかった。お前を失えば、俺は人ではなくなってしまう」
「そのようなことは!」

 反駁しようとする葵を押しとどめ、義久はこれまで見せたことのないような笑顔で、葵に笑いかけた。

「お前は、俺の拠所だ」

 心からの感謝の念を、偽りのない言の葉にのせて。
 葵は、首まで赤くなりながらも、その笑顔から目を離すことができなかった。

「覚えているか?」
「え…?」

 半ば呆然と言葉を返す葵に、義久は更に笑みを強くする。

「戦より無事に帰ることがかなえば、言わねばならぬことが……っ…」
「義久様!」

 葵は、上半身を起こそうとした義久を、布団へ押さえ付けた。

「私はきちんと覚えております故!御無理は禁物でございます!」
「この程度の傷など。それより」
「いいえ!…義久様、どうか御安静に…っ…」

 少し語尾が震えたかと思えば、葵はとうとう泣き出してしまった。
 その様子に義久は驚き、それと同時にどうしようもない罪悪感に襲われた。
 彼女の不安と悲しみが、肌を通じて伝わってくる。

「…あぁ、すまない。またいずれ話そう」

 それでも一向に泣き止む気配のない葵に、義久は困ったように笑いながら、その涙を拭った。

「これ以上泣いてくれるな。笑ってくれ」

 自分を想い、流してくれる涙は有り難く、また美しかったが、葵の苦しむ様子をこれ以上眺めているのは堪えられなかった。
 葵は、嗚咽を押し殺し、両腕で目元をこすって、なんとか涙を止めようと奮闘している。
 暫くすると、少しだけ目元を赤くした、また、少しだけ睫毛を濡らした少女が、柔らかく微笑んでいた。

 それは、日頃見慣れた義久でさえ息をのむ程の、優しく、美しい笑顔であった。


――――……


 その後も、何の脈絡もない話を続けていると、既に日は高く昇りつめていた。

「そろそろ、何か召し上がったほうがよろしいかと思われます」

 葵がそんなことを言い始めた頃。

「奥方様、殿が御心配なのは十分承知しておりますが、それでは貴女様がお体を損ねてしまわれます。何か、お口に入れてくださいませ」

 膳を抱えたお鶴が入室してきた。
 勿論二人は驚いたが、それ以上に驚いたのは、一人分の食事を持ったお鶴の方だった。
 思わず膳を落とし、器の割れる音が廊下にまでこだまする。
 それでもなお、彼女はその場で固まっていた。

「…お…お鶴…?」

 葵が心配そうに問い掛けても、何の反応も返って来ない。
 義久も黙ってはいるものの心情は葵と同じだった。
 暫くすると、陶器の破片に囲まれて固まっていたお鶴は漸く状況を理解した。
 そして、途端に顔から血の気が失せていく。

「…殿!も、申し訳ございません!せっかくお目覚めになられましたのにこのような…」

 そのとき先程の音を聞き付けて秀之もやってきた。

「お鶴さん、どうしたのですか?先程の音は…」

 そう言いながら室内を覗いた秀之も、お鶴と同様に固まってしまった。

「よ、義久様…」

 両名の反応が余りにも面白くて、葵はつい吹き出してしまった。
 つられて、義久も笑みをこぼす。

「…すまない。世話をかけた」

 二人の反応を見て、本当にすまなく思った義久は、なるべく丁寧に謝罪の言葉を述べたが、余りにも、唐突過ぎる展開に呆然としている二人には、その言葉の半分も届いてはいなかった。
 勿論、既に膳のことなどは二人の意識の中から消えてしまっている。

「秀之」

 主に呼ばれて、漸く秀之はこれが現なのだと判ずることが出来た。

「はい、なんでしょう」

 判じた後は、普段通り、落ち着いて義久の傍に控えている。
 きっとこれまでも、いくつもの修羅場を共にくぐり抜けてきたのだろう。
 秀之の切り替えの早さは、葵にそのようなことを思わせた。

「此度の戦で、一人として欠けることなく帰郷出来たのは、ひとえにお前の知略と武功による手柄だ。礼を言う」

 秀之は目をぱちくりさせると可笑しそうに笑った。

「いえ、私は何も。此度の戦の勝因は…そうですね、あえて言うなら、貴方様の御仁徳と奥方様のお人柄によるものです」

「え…?」
「何…?」

 急に名を指された葵は勿論のことだが、義久までもが理解しかねるといった風情で秀之を凝視している。
 秀之は少し居心地悪そうに苦笑をもらすと「無礼を承知で申し上げます」と前置いて、両名を納得させるべく口を開いた。

「これまでも貴方様の本質を見抜き、慕っていた者達は少なからずいました。…まぁ、それはかなりの少数派でしたが。しかし、奥方様が嫁いで来られてからというもの、貴方様は傍目に見ても明らかな程に変わられました」

 義久は、一瞬眉根にしわを寄せたが、少しの間を開けて肯定した。

「それから、奥方様」
「はい」

 葵は背筋を伸ばすと、はっきりと返事をした。

「奥方様のお人柄に惹かれる者は、私の予想していた以上に多かったようです」
「は…はい…?」
「…皆がお二方の未来を願っていた、ということですよ」

 そこにいるお鶴さんも、と言ってお鶴に視線を向けると、お鶴は今だに涙を拭っている最中だった。
 秀之は、それを微笑ましげに見やると、二人に視線を戻す。

「義久様、御無事でなによりです」

 そう言って、秀之は低く頭を下げた。
 義久は今だ泣き止む気配のないお鶴に視線を移す。

「お鶴、お前にも礼を言わねばならない」

 お鶴は嗚咽を止めることが出来ず、返答すらままならない。
 しかし、義久は構わず続けた。

「俺が留守の間、よく、葵を支えてくれた」

 その言葉により、更に涙を止めるのが困難になってしまったのは、言うまでもない。
 暫くの後、義久は思い出したかのように、おもむろに尋ねた。

「政幸殿は?」
「既に、お帰りになりましたよ」
「そうか」
「義久様、暫く暇をいただけないでしょうか?」

 全く前後関係の見えない秀之の願い出に、葵、お鶴両名は不思議そうな表情を浮かべている。
 だが何かを察した義久は妖しく笑うと問い掛けた。

「政幸殿と話したのか?」
「はい、一応許しはいただきました。本人にはまだ伝えないそうですが。私の口から直接、と」
「そうか、すぐに行ってやれ」

 義久は更に口角を吊り上げ、何やら楽しそうに許可を出した。

「ありがとうございます」

 そう言うと、秀之はゆっくりと立ち上がり、退室してしまった。

 状況の飲み込めない葵が、「どういうことなのでしょうか?」と尋ねれば、義久は喉で笑い、「…今にわかる」と、悪戯な表情を浮かべた。

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