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二十三、終結
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初夏の陽射しが降り注ぎ、爽やかな風の吹き抜けるこの道を、一陣の風の如く駆け抜ける一団があった。
その一団を率いる領主、斎藤義久は、とても手負いとは思えないような速度で皆を先導している。
「義久様!あまり急かれますと、また傷口が…」
「霜田殿の言う通りです、義久殿。満足に手当てもされていないのですから。今はなるべく安静に」
その義久の後に続く形で馬を駆っている二人は、先程から何度も同じ主旨の言葉を繰り返している。
しかし、そんな言葉が、今の義久に聞き入れられるはずもない。
「葵…!」
出立前の少女の姿が脳裏をちらつく。
壇上で見せた嬉しそうな笑顔を、別れ際に見せた儚げな泣き顔を、失うわけにはいかないのだ。
人としての感情など、とうの昔に棄ててしまった。それでも、今、きっとようやく人になれたのだ。
生きている感覚など、微塵も感じることなどなかった。しかし今なら、心から生きたいと願える。
生きて、帰らなければならない。
国を治め、世界のすべてを知ったつもりでいた自分に、本当の世界を見せてくれた。
世界は、それほど醜いものではないのだと。
世界は、己次第で、また美しくもなるのだと。
彼女の笑うこの世界は、必ず守り通してみせる。
今は、ただ、祈り、駆けることしか出来ない。
田園の傍の細道を駆けぬけ、城まで、あと少し。
そして、そこから見えたものは、吉田の旗に囲まれた、最悪の光景。
「義久様!」
「煙が…煙が上がっております…」
「…っ!どけ!」
それでも義久は、誰もが追いつけぬ程の勢いで、城を目指す。
「どこだ!葵!」
少女の面影を探して。
――――……
「どうした桜の君?呼吸が乱れているぞ」
「ま、だまだ…!」
小一時間戦い続けているにも関わらず、未だ平然と立っている男を、葵は睨みつけた。
負けるわけにはいかないのだ。自らの言葉を信じて戦っているであろう皆のためにも。城を預けてくれた愛しいかの人のためにも。
余裕の笑みを浮かべた吉田がゆっくりと歩み寄って来る。
「確かに女子にしては、やるほうだ。なかなか筋が良い」
いつかの兄の言葉が脳裏をかすめる。
――女子と男児では生まれ持っての力にどうしても差が生じてしまうんだ。
しかし、葵は強く相手を見据えた。
「…女子であろうとも、負けられぬ戦があるのです」
一閃、二閃、確実に振り下ろす。
刃先が、陽光を反射し、妖しい輝きを放った。
葵の太刀筋は正確かつ強力、非の打ち所のない太刀捌き。しかし。
「所詮…こんなものか…」
何故か吉田にはまったく通用せず、いとも容易くはね退けられてしまう。
「何故とお思いかな?」
葵は、奥歯をきつく噛み締める。
「簡単なこと。御主には足りないのだ。人を斬る覚悟が」
「…覚悟ならば」
「では聞くが、何故御主は我が兵を一人たりとも斬らなかった?」
「……それは…」
「更に問う。御主はこの場で我を殺せるか?」
そのとき葵は自らの足が震えているのに気がついた。
手の感覚すら、定かではない。
皆が、命を削って戦っているであろうこの戦場で、己は、何と情けない。
既に葵には、刀を振るうだけの気力が残されていなかった。
「共に…来てもらおう」
吉田は葵の方へ、ゆっくりと手を伸ばす。抗う術は、もはやない。
しかしそのとき、葵へと伸ばされていた吉田の手が、ぴたりと止まった。そして彼は、反射的によろよろと後退る。
「…触るな……」
辺りに響いたその声は、低く、深く、冷たく。
獲物を捉えたその瞳は、熱く、狂気に満ちていた。
そのただならぬ様子に、葵ですら息をのむ。
そして、息を飲む暇すら与えられず、吉田は刃に襲われた。
「…避けたか…」
何とか一撃を避けた吉田を、また次なる一撃が襲う。
瞳に憎悪と侮蔑の色を滲ませて、舞うように刃を振るうその姿に、葵は背筋が凍るのを感じた。
「あれが…義久様…?」
ぽつりと呟く。いつか優しく抱き寄せてくれた腕が、人を屠らんために振るわれ、呆れたように微笑む瞳が、血を求めて見開かれる。
「……義久様!!」
その悲痛な叫び声に、義久の刀を振るう腕が鈍る。
葵は義久の元へと駆け寄った。
そして、義久の大きな手を握りしめる。
「義久様!葵でございます!解りますか!」
そのとき、義久の瞳が葵を映した。
次第に瞳に光が戻る。
「…葵……」
「はい、ここに!」
「……葵、無事か…無事だったか…」
葵は、安堵と喜びで、思わず破顔してしまった。
しかし、対称的に、義久の瞳は今だに鋭く研ぎ澄まされている。
「義久様…?」
「あやつが吉田で間違いないか」
「…はい」
「…あやつが、城に攻め込んできたのだな?」
「…はい」
「……あやつが…お前に刃を向けたのだな…?」
義久は葵を背に庇うと、吉田に視線を向けた。
「俺は、斎藤家第四代目当主、斎藤義久。吉田…貴様は同盟国を裏切り、あろうことか敵国に加担し、この地へ攻め込んできた。これは許しがたき大罪だ。分かっているな」
吉田は口元に微笑をたたえたまま応答する。
「勿論だとも」
「今から、貴様に処罰を下す。異存は」
「それは、大有りだ。力ずくで防がせていただくことにしよう」
「…やってみろ」
勝敗は、一瞬で決した。
地には、大量の朱。
倒れる骸は、裏切りの末のもの。
しかし、勝敗が決すると同時に、義久までもが、どさりと地に倒れた。
「義久様!?」
急いで駆け寄り、抱き起こすと、手の平に付着する、生暖かい朱。
そして、義久の肩から胸にかけての衣が朱く濡れていた。
「返り血ではない……まさか…!」
葵は、血の気の失せた義久の顔を、無意識に撫でる。手の平の赤が、彼の顔に跡を残した。
しかし、葵はそれすら気づかないまま、固く閉ざされた瞳を見つめる。
「…義久様…お怪我をなさっていたのですか」
葵は、どうしようもない後悔に苛まれる。
あのとき、吉田を討つことができていれば、こんなことにはならなかった。
しかし、その感情の激流に飲まれる前に、葵はさっと立ち上がった。
唇を噛み、涙を押し戻した。
この戦の終結を、皆へ伝えるために。
彼を、安全な所へ運ぶために。
かくして、戦は終焉を迎えた。
此戦による死者、零名。
斎藤軍は、圧倒的な強さで勝利を収めた。
その一団を率いる領主、斎藤義久は、とても手負いとは思えないような速度で皆を先導している。
「義久様!あまり急かれますと、また傷口が…」
「霜田殿の言う通りです、義久殿。満足に手当てもされていないのですから。今はなるべく安静に」
その義久の後に続く形で馬を駆っている二人は、先程から何度も同じ主旨の言葉を繰り返している。
しかし、そんな言葉が、今の義久に聞き入れられるはずもない。
「葵…!」
出立前の少女の姿が脳裏をちらつく。
壇上で見せた嬉しそうな笑顔を、別れ際に見せた儚げな泣き顔を、失うわけにはいかないのだ。
人としての感情など、とうの昔に棄ててしまった。それでも、今、きっとようやく人になれたのだ。
生きている感覚など、微塵も感じることなどなかった。しかし今なら、心から生きたいと願える。
生きて、帰らなければならない。
国を治め、世界のすべてを知ったつもりでいた自分に、本当の世界を見せてくれた。
世界は、それほど醜いものではないのだと。
世界は、己次第で、また美しくもなるのだと。
彼女の笑うこの世界は、必ず守り通してみせる。
今は、ただ、祈り、駆けることしか出来ない。
田園の傍の細道を駆けぬけ、城まで、あと少し。
そして、そこから見えたものは、吉田の旗に囲まれた、最悪の光景。
「義久様!」
「煙が…煙が上がっております…」
「…っ!どけ!」
それでも義久は、誰もが追いつけぬ程の勢いで、城を目指す。
「どこだ!葵!」
少女の面影を探して。
――――……
「どうした桜の君?呼吸が乱れているぞ」
「ま、だまだ…!」
小一時間戦い続けているにも関わらず、未だ平然と立っている男を、葵は睨みつけた。
負けるわけにはいかないのだ。自らの言葉を信じて戦っているであろう皆のためにも。城を預けてくれた愛しいかの人のためにも。
余裕の笑みを浮かべた吉田がゆっくりと歩み寄って来る。
「確かに女子にしては、やるほうだ。なかなか筋が良い」
いつかの兄の言葉が脳裏をかすめる。
――女子と男児では生まれ持っての力にどうしても差が生じてしまうんだ。
しかし、葵は強く相手を見据えた。
「…女子であろうとも、負けられぬ戦があるのです」
一閃、二閃、確実に振り下ろす。
刃先が、陽光を反射し、妖しい輝きを放った。
葵の太刀筋は正確かつ強力、非の打ち所のない太刀捌き。しかし。
「所詮…こんなものか…」
何故か吉田にはまったく通用せず、いとも容易くはね退けられてしまう。
「何故とお思いかな?」
葵は、奥歯をきつく噛み締める。
「簡単なこと。御主には足りないのだ。人を斬る覚悟が」
「…覚悟ならば」
「では聞くが、何故御主は我が兵を一人たりとも斬らなかった?」
「……それは…」
「更に問う。御主はこの場で我を殺せるか?」
そのとき葵は自らの足が震えているのに気がついた。
手の感覚すら、定かではない。
皆が、命を削って戦っているであろうこの戦場で、己は、何と情けない。
既に葵には、刀を振るうだけの気力が残されていなかった。
「共に…来てもらおう」
吉田は葵の方へ、ゆっくりと手を伸ばす。抗う術は、もはやない。
しかしそのとき、葵へと伸ばされていた吉田の手が、ぴたりと止まった。そして彼は、反射的によろよろと後退る。
「…触るな……」
辺りに響いたその声は、低く、深く、冷たく。
獲物を捉えたその瞳は、熱く、狂気に満ちていた。
そのただならぬ様子に、葵ですら息をのむ。
そして、息を飲む暇すら与えられず、吉田は刃に襲われた。
「…避けたか…」
何とか一撃を避けた吉田を、また次なる一撃が襲う。
瞳に憎悪と侮蔑の色を滲ませて、舞うように刃を振るうその姿に、葵は背筋が凍るのを感じた。
「あれが…義久様…?」
ぽつりと呟く。いつか優しく抱き寄せてくれた腕が、人を屠らんために振るわれ、呆れたように微笑む瞳が、血を求めて見開かれる。
「……義久様!!」
その悲痛な叫び声に、義久の刀を振るう腕が鈍る。
葵は義久の元へと駆け寄った。
そして、義久の大きな手を握りしめる。
「義久様!葵でございます!解りますか!」
そのとき、義久の瞳が葵を映した。
次第に瞳に光が戻る。
「…葵……」
「はい、ここに!」
「……葵、無事か…無事だったか…」
葵は、安堵と喜びで、思わず破顔してしまった。
しかし、対称的に、義久の瞳は今だに鋭く研ぎ澄まされている。
「義久様…?」
「あやつが吉田で間違いないか」
「…はい」
「…あやつが、城に攻め込んできたのだな?」
「…はい」
「……あやつが…お前に刃を向けたのだな…?」
義久は葵を背に庇うと、吉田に視線を向けた。
「俺は、斎藤家第四代目当主、斎藤義久。吉田…貴様は同盟国を裏切り、あろうことか敵国に加担し、この地へ攻め込んできた。これは許しがたき大罪だ。分かっているな」
吉田は口元に微笑をたたえたまま応答する。
「勿論だとも」
「今から、貴様に処罰を下す。異存は」
「それは、大有りだ。力ずくで防がせていただくことにしよう」
「…やってみろ」
勝敗は、一瞬で決した。
地には、大量の朱。
倒れる骸は、裏切りの末のもの。
しかし、勝敗が決すると同時に、義久までもが、どさりと地に倒れた。
「義久様!?」
急いで駆け寄り、抱き起こすと、手の平に付着する、生暖かい朱。
そして、義久の肩から胸にかけての衣が朱く濡れていた。
「返り血ではない……まさか…!」
葵は、血の気の失せた義久の顔を、無意識に撫でる。手の平の赤が、彼の顔に跡を残した。
しかし、葵はそれすら気づかないまま、固く閉ざされた瞳を見つめる。
「…義久様…お怪我をなさっていたのですか」
葵は、どうしようもない後悔に苛まれる。
あのとき、吉田を討つことができていれば、こんなことにはならなかった。
しかし、その感情の激流に飲まれる前に、葵はさっと立ち上がった。
唇を噛み、涙を押し戻した。
この戦の終結を、皆へ伝えるために。
彼を、安全な所へ運ぶために。
かくして、戦は終焉を迎えた。
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