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九、後悔
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重たい瞼を上げると、眩しい日の光が差し込んできた。
葵は目を細めながら、ゆっくりと上体を起こした。
太陽はもうすっかり高く昇っており、自分が寝過ごしてしまった事に気付く。
暫しの間休ませた脳は、驚くほど冴えており、昨日の話が幾度となく頭の中を巡った。
「私は、あのお方のことを何一つ分かっていなかった」
がらんとした部屋に、自らの声がやけに大きく聞こえる。
「何も分かっていなかったのに」
葵の頬を透明な涙が伝った。
幼い子供が母を看取らなければならない惨さ。あどけない、何の力も持たない我が子を残して逝かねばならなかった母君は、どれほど心残りであったろう。どれほどの思いで我が子の無事を、未来を願ったことだろうか。
残されたかの人は、どれほど悲しく、口惜しく、心細かったことだろう。
周囲の大人に虐げられ、傷つけられ、味方は父が付けた従者ただ一人。右を向いても左を向いても敵しかいない、そんな世界で、彼は、息を殺しながら生きのびねばならなかった。
葵は、膝に顔を埋めた。
怒鳴ってしまった。
あの、氷のような眼差しの奥に潜む苦しみに、気づくことができなかった。
いつか分かり合いたいなどと、大それたことを願っておきながら、上辺の表情や言葉に気を取られ、結局、かの人の心を知ろうともしなかったのだ。
妻を迎えると聞いたとき、一体、どんな心持ちがしただろう。
今は亡き母、配流先で命を落とした北の方、幼き頃の自分を虐げ続けた側室たち。
思い出さずにはいられなかっただろう。悪夢のような日々を。
それでも、かの方は、招かれざる花嫁を、追い返すことも、逃げ出すこともなく、受け入れてくださった。
葵は、婚儀の日を思い起こす。あの日、東雲の作法など、何も分からぬまま婚儀を迎えたはずなのに、気がつくと、全てが無事に終わっていた。
何故か。考えるまでもなかった。
晴れの席で葵が恥をかかぬよう、気を回し、機転を利かせていたのは、他でもない、隣に座した夫であったのだ。
与えられるものに、何と鈍くなってしまったことだろう。
思えばこれまで、周囲から授けてもらうばかりであった。愛情も、慈しみも、全て。両親、兄、そしてお梅。彼らから惜しみなく注がれてきた無償の優しさに、感謝の気持ちを返したことがあっただろうか。
葵は、まだはっきりと思い起こすことすらできない自らの夫を思った。
彼は、生前の母からの愛と、従者からの忠誠の他、ほんの僅かな安らぎすら与えられなかった。
それなのに、まだ見ぬ花嫁のためこれほど広い部屋を整えさせ、婚儀を取り仕切り、こうして静かに住まわせてくださっている。
決して利とはならぬであろう小国の小娘に、情けを与えてくださったのだ。
かの人の優しさに、報いたい。
同情なのかもしれない。きっと、これはただの自己満足だ。
それでも、少しでも、安らぎを感じてほしい。
かの人の、笑顔が見たい。
そのために、何ができるだろう。
葵の頭を、暗い部屋に一人佇む孤高の城主の姿がよぎる。
自分とあのお方の間には、既に大きな亀裂が出来てしまった。
それに今、自分の抱いている感情は、きっと、彼にとっては迷惑にしかならない。
城主の嫁となった、それも正室の女の顔など、視界に入れるのも辛いだろう。
それでも、葵は、ひらり、ひらりと舞う桜を見つめ、そっと、髪に挿してある桜の簪に触れた。
――そして、無人の室内を、庭の桜は静かに見守っていた。
――――……
先日あのような別れ方をしてしまったので、正直、何と声を掛ければ良いのかも分からなかった。
あれだけ怒って飛び出してしまったこの部屋に、よもや、また自分から訪問することになろうとは、予想だにしていなかったのである。
そこで葵は、こっそりと中の様子を伺ってみる事にした。
襖を僅かに引き、そっと中を覗き込む。
そこには、筆を持ったまま机に眠る、かの人の姿があった。
きっと昨夜も遅くまで執務をこなされていたのだろう。かの従者が「見ていられない」と言っていた意味が、葵にもようやく分かった。
その額には、うっすらと汗が浮いており、眉根は険しく歪められている。
「…お許し下さい…」
葵は申し訳程度に声をかけると、そっと部屋に入り込んだ。そして、なるべく音を立てぬよう、静かに腰を下ろす。
「…義久様」
その背に、呼びかけた。手を伸ばせば届く距離にある背中は、遠目に見るとあれほど広く逞しく見えたものが、今は驚くほど細く痛ましく見える。
葵は、その背をそっと抱きしめた。
指先で、額に浮いた汗を、優しく拭う。
「…ここまで苦しまれていたなんて…」
葵は、秀之より聞いた話を思い出し、また、涙が込み上げてきた。
「義久様……貴方様が私を望まれる日は、この先永遠に来ないのかもしれません…それでも、これまで、ずっとお独りで背負ってこられたその過去を、これからは、私が共に背負って参ります」
気づいていただく必要はない。ただ、その過去を知り、受け入れ、寄り添いたい。雨の降る日は傘となり、風の吹く日は小屋となろう。いつか、世界の美しさを知っていただけるように。葵はそう、決心した。
その時、義久は自分の背を何か温かなものが覆っている事に気づき、ゆっくりと目を開けた。
眠っていたとはいえ、何の訓練もしていないただの女子に背を取られていたという事実に、義久は驚き、混乱する。
「……!おい!何故お前がここに…」
「よ…義久様!」
寝起きに突然自分の名前を呼ばれた事に更に驚き、責める言葉が出てこない。
「どうか、私の話を、聞いてください」
義久は、目を見開く。
「何を…」
「私は、決して貴方様を裏切ったりなど致しません。まして財や地位等私は、はなから興味もございません。…確かに平和な世を望んではおりますが、貴方様に何かを望んでいるわけではないのです」
そこまで言い切ると、葵は腕の力を更に強めた。
「義久様、ただ一つ、もしお許しいただけるなら」
驚きと困惑に固まる義久の背に、葵は頬を寄せる。切なさと悲しみの涙で酷いことになっている顔を、その背に隠した。くぐもった声が、背中越しに伝う。
「どうか、私をお側にいさせてください」
空気の揺れる音が聞こえてきそうなほどの静寂の中で、義久の息を飲む音が、やけに大きく響いた。
肩の揺れた振動が、全身に伝わってくる。
永遠とも思われるほどの時間が、静かに流れた。
葵は、離れないという意思を込めて、再びその背を抱き締める。
すると、ため息とも、吐息とも判じえない声が、葵の耳に届いた。
「……何を根拠に信じればいいのだ」
葵は抱きしめていた腕を解くと、義久の正面へと回った。そして、一度目を閉じると、ゆっくりと息を吸い込む。
苦悩と混乱と不安と悲しみ、そして、決意。それらが複雑に入り混じったその顔は、涙の嵐に濡れ、お世辞にも美しいとは言い難い。
それでも、その瞳から、義久は目を逸らすことができなかった。
「私は、義久様と、本当の夫婦になりたいのです」
あまりの出来事に、義久は思考が追いつかない。
うわごとの様に呟いた。
「夫婦…俺と、夫婦になりたいと…?」
「はい」
「俺が誰だか分かっているのか」
義久の瞳が、僅かに細められた。
葵は、その眼を、しっかりと見つめ返す。
「斎藤義久様。隣国の…取るに足らない小国の娘に居場所を与えてくださった、情け深い大国の領主様でございます」
義久は、眉根にしわを寄せ、苦しげに顔を歪めた。
そして彼女を、正面から抱き寄せた。
「え…」
葵はその衝撃に我に帰り、温かな温度に目を見張る。
かろうじて視界の端に捉えたその表情は、相変わらず冷たく、苦しげで無機質だった。
それでも、その体温は間違いなく人のもので、伝わる心音は、彼が確かにここに生きていることを葵に教える。
「……すまない」
掠れた声が、葵の鼓膜を揺らした。
それは過去への、現在への、そして未来への謝罪。
葵は瞼を降ろし、ゆっくりと頷いた。
「私は…大丈夫でございます…」
――覚えておいて下さいませ。例えこの先、何が起ころうとも、私は、いつまでも、貴方様のお側におります。
葵は目を細めながら、ゆっくりと上体を起こした。
太陽はもうすっかり高く昇っており、自分が寝過ごしてしまった事に気付く。
暫しの間休ませた脳は、驚くほど冴えており、昨日の話が幾度となく頭の中を巡った。
「私は、あのお方のことを何一つ分かっていなかった」
がらんとした部屋に、自らの声がやけに大きく聞こえる。
「何も分かっていなかったのに」
葵の頬を透明な涙が伝った。
幼い子供が母を看取らなければならない惨さ。あどけない、何の力も持たない我が子を残して逝かねばならなかった母君は、どれほど心残りであったろう。どれほどの思いで我が子の無事を、未来を願ったことだろうか。
残されたかの人は、どれほど悲しく、口惜しく、心細かったことだろう。
周囲の大人に虐げられ、傷つけられ、味方は父が付けた従者ただ一人。右を向いても左を向いても敵しかいない、そんな世界で、彼は、息を殺しながら生きのびねばならなかった。
葵は、膝に顔を埋めた。
怒鳴ってしまった。
あの、氷のような眼差しの奥に潜む苦しみに、気づくことができなかった。
いつか分かり合いたいなどと、大それたことを願っておきながら、上辺の表情や言葉に気を取られ、結局、かの人の心を知ろうともしなかったのだ。
妻を迎えると聞いたとき、一体、どんな心持ちがしただろう。
今は亡き母、配流先で命を落とした北の方、幼き頃の自分を虐げ続けた側室たち。
思い出さずにはいられなかっただろう。悪夢のような日々を。
それでも、かの方は、招かれざる花嫁を、追い返すことも、逃げ出すこともなく、受け入れてくださった。
葵は、婚儀の日を思い起こす。あの日、東雲の作法など、何も分からぬまま婚儀を迎えたはずなのに、気がつくと、全てが無事に終わっていた。
何故か。考えるまでもなかった。
晴れの席で葵が恥をかかぬよう、気を回し、機転を利かせていたのは、他でもない、隣に座した夫であったのだ。
与えられるものに、何と鈍くなってしまったことだろう。
思えばこれまで、周囲から授けてもらうばかりであった。愛情も、慈しみも、全て。両親、兄、そしてお梅。彼らから惜しみなく注がれてきた無償の優しさに、感謝の気持ちを返したことがあっただろうか。
葵は、まだはっきりと思い起こすことすらできない自らの夫を思った。
彼は、生前の母からの愛と、従者からの忠誠の他、ほんの僅かな安らぎすら与えられなかった。
それなのに、まだ見ぬ花嫁のためこれほど広い部屋を整えさせ、婚儀を取り仕切り、こうして静かに住まわせてくださっている。
決して利とはならぬであろう小国の小娘に、情けを与えてくださったのだ。
かの人の優しさに、報いたい。
同情なのかもしれない。きっと、これはただの自己満足だ。
それでも、少しでも、安らぎを感じてほしい。
かの人の、笑顔が見たい。
そのために、何ができるだろう。
葵の頭を、暗い部屋に一人佇む孤高の城主の姿がよぎる。
自分とあのお方の間には、既に大きな亀裂が出来てしまった。
それに今、自分の抱いている感情は、きっと、彼にとっては迷惑にしかならない。
城主の嫁となった、それも正室の女の顔など、視界に入れるのも辛いだろう。
それでも、葵は、ひらり、ひらりと舞う桜を見つめ、そっと、髪に挿してある桜の簪に触れた。
――そして、無人の室内を、庭の桜は静かに見守っていた。
――――……
先日あのような別れ方をしてしまったので、正直、何と声を掛ければ良いのかも分からなかった。
あれだけ怒って飛び出してしまったこの部屋に、よもや、また自分から訪問することになろうとは、予想だにしていなかったのである。
そこで葵は、こっそりと中の様子を伺ってみる事にした。
襖を僅かに引き、そっと中を覗き込む。
そこには、筆を持ったまま机に眠る、かの人の姿があった。
きっと昨夜も遅くまで執務をこなされていたのだろう。かの従者が「見ていられない」と言っていた意味が、葵にもようやく分かった。
その額には、うっすらと汗が浮いており、眉根は険しく歪められている。
「…お許し下さい…」
葵は申し訳程度に声をかけると、そっと部屋に入り込んだ。そして、なるべく音を立てぬよう、静かに腰を下ろす。
「…義久様」
その背に、呼びかけた。手を伸ばせば届く距離にある背中は、遠目に見るとあれほど広く逞しく見えたものが、今は驚くほど細く痛ましく見える。
葵は、その背をそっと抱きしめた。
指先で、額に浮いた汗を、優しく拭う。
「…ここまで苦しまれていたなんて…」
葵は、秀之より聞いた話を思い出し、また、涙が込み上げてきた。
「義久様……貴方様が私を望まれる日は、この先永遠に来ないのかもしれません…それでも、これまで、ずっとお独りで背負ってこられたその過去を、これからは、私が共に背負って参ります」
気づいていただく必要はない。ただ、その過去を知り、受け入れ、寄り添いたい。雨の降る日は傘となり、風の吹く日は小屋となろう。いつか、世界の美しさを知っていただけるように。葵はそう、決心した。
その時、義久は自分の背を何か温かなものが覆っている事に気づき、ゆっくりと目を開けた。
眠っていたとはいえ、何の訓練もしていないただの女子に背を取られていたという事実に、義久は驚き、混乱する。
「……!おい!何故お前がここに…」
「よ…義久様!」
寝起きに突然自分の名前を呼ばれた事に更に驚き、責める言葉が出てこない。
「どうか、私の話を、聞いてください」
義久は、目を見開く。
「何を…」
「私は、決して貴方様を裏切ったりなど致しません。まして財や地位等私は、はなから興味もございません。…確かに平和な世を望んではおりますが、貴方様に何かを望んでいるわけではないのです」
そこまで言い切ると、葵は腕の力を更に強めた。
「義久様、ただ一つ、もしお許しいただけるなら」
驚きと困惑に固まる義久の背に、葵は頬を寄せる。切なさと悲しみの涙で酷いことになっている顔を、その背に隠した。くぐもった声が、背中越しに伝う。
「どうか、私をお側にいさせてください」
空気の揺れる音が聞こえてきそうなほどの静寂の中で、義久の息を飲む音が、やけに大きく響いた。
肩の揺れた振動が、全身に伝わってくる。
永遠とも思われるほどの時間が、静かに流れた。
葵は、離れないという意思を込めて、再びその背を抱き締める。
すると、ため息とも、吐息とも判じえない声が、葵の耳に届いた。
「……何を根拠に信じればいいのだ」
葵は抱きしめていた腕を解くと、義久の正面へと回った。そして、一度目を閉じると、ゆっくりと息を吸い込む。
苦悩と混乱と不安と悲しみ、そして、決意。それらが複雑に入り混じったその顔は、涙の嵐に濡れ、お世辞にも美しいとは言い難い。
それでも、その瞳から、義久は目を逸らすことができなかった。
「私は、義久様と、本当の夫婦になりたいのです」
あまりの出来事に、義久は思考が追いつかない。
うわごとの様に呟いた。
「夫婦…俺と、夫婦になりたいと…?」
「はい」
「俺が誰だか分かっているのか」
義久の瞳が、僅かに細められた。
葵は、その眼を、しっかりと見つめ返す。
「斎藤義久様。隣国の…取るに足らない小国の娘に居場所を与えてくださった、情け深い大国の領主様でございます」
義久は、眉根にしわを寄せ、苦しげに顔を歪めた。
そして彼女を、正面から抱き寄せた。
「え…」
葵はその衝撃に我に帰り、温かな温度に目を見張る。
かろうじて視界の端に捉えたその表情は、相変わらず冷たく、苦しげで無機質だった。
それでも、その体温は間違いなく人のもので、伝わる心音は、彼が確かにここに生きていることを葵に教える。
「……すまない」
掠れた声が、葵の鼓膜を揺らした。
それは過去への、現在への、そして未来への謝罪。
葵は瞼を降ろし、ゆっくりと頷いた。
「私は…大丈夫でございます…」
――覚えておいて下さいませ。例えこの先、何が起ころうとも、私は、いつまでも、貴方様のお側におります。
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