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一方、ラカン男爵令嬢、マリア・アーシェ・ラカンは、通された部屋で部屋付きのメイド達に宥められながらカウチに座っていた。
泣いたせいで腫れた目を冷やす為に濡らした布を当て、乱れた髪を結い直して貰って、彼女はようやく落ち着いたようだった。
「お嬢様、お水をお持ち致しましょうか」
「いいえ、今はいらないわ。ありがとう」
本来ならメイドがこのように部屋の主人たるマリアの目に触れる事などあってはならず、ましてや直に声を掛ける事も許されるはずもないのだが、マリアはさして気にした様子もなく穏やかに対応していた。
「あのぅ、お嬢様。無礼を承知でお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「まぁ、なぁに?」
「お嬢様は、あの、どうしてよりにもよってこの領へ嫁いで下さる気になったのでしょう。私共は子爵様が良いお方であるのを知っておりますが、他の領の方にとってはそうではないでしょうに……」
ベルガー子爵領といえば王都では蛮族の集団くらいに言われているのを、領民達は皆知っている。
つまりベルガー子爵はその親分だ。
皆、子爵の結婚が決まった事を喜んでいたが、同じくらいどこの物好きが子爵を選んで下さったのかと疑問に思っていた。
泣かれる、引かれる、失神される。
貴族令嬢がベルガー子爵に対して見せる反応は概ねそのようなものだ。
しかしこのラカン男爵令嬢はどこか違う。
先程泣いたのだって、子供っぽいドレスで来てしまって恥ずかしいという羞恥からであって、子爵が恐ろしくて泣いた訳ではない。
おそるおそる尋ねたメイドに、無礼を咎める事もせずにマリアはパチリと大きな目を瞬かせ、そしてポッと頬を赤らめて目を伏せた。
「……子爵様には秘密にしていてね」
そう前置きしてマリアは話し始める。
マリアは実は昨年行われた夜会でベルガー子爵と顔を合わせている。
しかしそれは貴族の作法に則って誰かの紹介で挨拶を交わしたとか、そういう訳ではない。
ラカン男爵家というのは一代で財を成して爵位を与えられた新興貴族、つまりは『成金貴族』であった。
それこそ格上の貴族家と同等かそれ以上の財産を持ち、けれども歴史のない新興貴族は社交界ではいつだって除け者にされるか、陰口を叩かれるものだ。
正式な招待を受けて参加したとある夜会でもその扱いは変わらない。
それは、マリアにとっては慣れない社交界であり、夜会だった。
夜会用のドレスはいつものドレスよりもずっと重く、きつく締めたコルセットのせいでひどく気分が悪かった。
「……私、気分が悪くてよろけてしまって、そのまま転んでしまったの。靴も片方脱げて、それはひどい有り様だったのでしょうね。周りのご婦人や紳士の皆様は虫でも見るような目で私を見ていて、誰一人助けてなんてくれなかったの」
人目の多い場所で転んでしまい、更にはそれを無作法と嘲笑われて、マリアは床に倒れたまますっかり身動きが取れなくなってしまっていた。
体調が悪い事もあり、自分がここからどうしたら良いのか何も考えられなかったのだ。
しかもそんな時に限って、両親は挨拶周りで忙しくしていて、広いホールのどこに居るかもわからない。
「私、頭の中が真っ白になってしまって、怖くて、辛くて、泣きそうだったの。その時よ。子爵様が人混みから出てきて、私を抱き起こして下さったの……」
その時の事を思い出したのか、マリアはうっとりした表情を浮かべ、頬を薔薇色に染めてほうと息を吐いた。
逞しい腕でマリアをそっと抱き起こしたベルガー子爵は、片膝を立ててそこにマリアをちょこんと座らせると、転がっていた靴を片手で拾ってマリアに履かせてくれたのである。
「私、きちんとストッキングは履いていたけれど、家族でも使用人でもない殿方に靴を履かせて貰うだなんて、そんな事初めてで……っ! あぁ、本当に、とっても素敵だったのよ」
それを聞いてギョッとしたのはメイド達である。
嫁入り前の令嬢の足に触れるなど、世が世であり、相手が相手だったら淫行扱い待った無し案件だ。
幸いだったのはこの令嬢がそれを受け入れている事だが、一歩間違えば訴訟問題だ。
メイド達は主人であるベルガー子爵の勇気ある行動を、至極複雑な思いで受け止めるしかなかった。
「それでね、それでね、子爵様は私に怪我は無いかと尋ねて下さって、広間の隅にある椅子まで運んで下さったの。子爵様はそれからすぐ去ってしまわれて、お名前も聞けなかったのだけれど……」
両手で頬を押さえながら、マリアはきゃー!と乙女らしく恥じらった。
メイド達はそれ本当にうちの子爵かなぁと若干不安に思ったが、先程顔は見ているのだし、人違いという悲劇は起こらないはずだ。
「私、夜会から帰ってすぐにお父様に結婚するならああいう殿方が良いわと伝えたの」
マリアは目をキラキラさせて続けた。
「(礼服が)黒くて、(筋肉が)硬くて、(身体が)大きくて逞しい方……!」
そしてメイド達は思った。
聞いてる側からするとややアウト発言なんだよなぁ、と。
「何故だかその後一ヶ月程おうちから出して貰えなくなってしまって、あの晩の殿方を探す事が出来なかったのよ。でもお父様が方々手を尽くして探して下さって、それがベルガー子爵様だとわかったの」
突然娘が黒くて硬くて大きくて逞しい男と結婚したいとか言い出したら、貴族令嬢の親としては心配して家に閉じ込めるくらいするだろうなとメイド達は思った。
この世の中、令嬢の無垢と純潔は金より尊いので。
ちなみにベルガー子爵は王都に年に一度、多くて二度顔を出すくらいの出没度がレアクラスの幻の貴族だった。だからこそ噂話ばかりが広がるのだが、本人はそんな噂話など知ったこっちゃないので王都で社交活動など行わない。
そんな訳であったので、黒くて硬くて大きくて逞しいというだけのヒントでベルガー子爵に辿り着くのは、さぞや大変だった事だろう。むしろよく辿り着けたものだ。
メイド達は心の中でラカン男爵の努力に心からの拍手を送った。
「あんなに素敵な方だから、御礼を伝えられたらそれだけで満足だと思っていたのに、子爵様は結婚相手をお探しだと言うじゃない。そんなの、何をおいても立候補するに決まっているでしょう? それでお父様にゴリ押しして婚約を取り付けてもらったという訳なの。……はしたないと思われるだろうから、子爵様には秘密よ」
ふふふと照れくさそうに笑うマリアの愛らしさに、メイド達はこくこくと頷き、しかしまだ疑問が残ると口を開いた。
「じゃあ、お嬢様は旦那様のあの目付きの悪さも、強面も平気なんですか」
メイドの問い掛けに、マリアはこてんと小首を傾げて逆に問うた。
「子爵様って、そんなに目付きが悪かった? お顔立ちも精悍でとっても素敵だと思うのだけれど」
コワモテ?とつぶらな瞳を瞬かせるマリアを見て、ついにメイドの一人が泣いた。
この方は天が授けて下さった御使かもしれない。
この方を逃したら子爵はきっと一生結婚なんて出来ないだろう。
あとめっちゃくちゃ可愛い。男も女も逞しい生き物になりがちなベルガー領ではとんと見ない可愛い生き物。何だこれ奇跡か。
「ぐすっ。うう、うちの子爵を末永くよろしくお願いします……」
「まぁ。それは私の台詞だわ。私、子爵夫人として精一杯頑張るから、よろしくお願いするわね」
そんな風にマリアがメイド達の涙腺を緩っ々に緩めているのと同じ頃、部屋のドア前ではこっそり話を盗み聞きしていたベルンハルト達が尊みに震えていた。
声を掛けるタイミングをはかろうとこっそり中の様子を窺っていたらマリアの回想が始まってしまったので、結局最初から最後まで全部聞いていたのである。
(そうか、彼女はあの時の……。誰かが連れてきた子供が転んだのだと思っていたが、まさかあの令嬢だったとは……)
強面の自覚があった子爵は、これまで数多の令嬢達を意図せず泣かせてしまってきたので女子供の泣き顔が苦手だった。
あの夜会の時も、子供は転んだらきっと泣くだろうと思って助けてやったに過ぎず、すぐに立ち去ったのも顔を見て泣かれるのは困ると思ったからだった。
目を合わせたらきっと泣かれると思って相手の顔もろくに見ていなかったので、ベルンハルトは当然マリアの顔を視認していなかったが、そういう存在がいた事自体は記憶していた。
自分を怖がらず、それどころか好意を抱いてくれる相手が存在する。
ようやくその事を実感したベルンハルトは、じわりと視界が歪むのに気付いて、周りに気付かれないようにそっと目元を拭った。
泣かれる度、拒絶される度に自分自身の存在を否定されるような気持ちになり、いつしか領民だけが自分を知っていればそれで良いと思うようになっていた。
けれどマリアは、ベルンハルトからしてみればほんの些細なお節介一つで、王都から離れたこんな不便なド田舎まで来てくれたのだ。
存在を許されるとはこんなにも嬉しいものなのか。
(絶対に彼女を幸せにせねば)
そう強く決意し、ベルンハルトは大きく深呼吸をした。
傍らに控えていたヴォルフとローザも、すっと姿勢を正し、ベルンハルトの為に一歩下がってドアから離れる。
(まずは挨拶をして、歓迎している事を伝えなければ。疲れているだろうから晩餐は軽いものの方が良いのだろうか。こちらの料理を気に入ってくれると良いが……)
そしてベルンハルトはゆっくりとノックをして、部屋の中に声を掛けた。
「──ラカン男爵令嬢。落ち着かれたようなら、少し話をしたいのだが……」
一瞬だけ間があって、すぐに喜んでと返事が飛んでくる。
それだけの事が、ベルンハルトにはすごく嬉しい。
「……し、子爵様、お、お待たせしました……」
おずおずと部屋から顔を出したマリアは、大きくてまんまるな瞳でベルンハルトを見上げ、そしてにこりとはにかんで頬を赤らめた。
「いや、待ってなどいないから気にしなくていい」
ベルンハルトもまた、マリアにつられたのか、ほんの少しだけ頬を染めて目を逸らす。
中庭のよく見える部屋でお茶にしようと言ったベルンハルトにマリアがこくこくと頷き、この上なく自然なエスコートで二人はゆっくりと廊下を歩き始めた。
そんな二人の背を見ながら、二人が幸せな結婚式を挙げられますようにとヴォルフとローザは心から願ったのだった。
泣いたせいで腫れた目を冷やす為に濡らした布を当て、乱れた髪を結い直して貰って、彼女はようやく落ち着いたようだった。
「お嬢様、お水をお持ち致しましょうか」
「いいえ、今はいらないわ。ありがとう」
本来ならメイドがこのように部屋の主人たるマリアの目に触れる事などあってはならず、ましてや直に声を掛ける事も許されるはずもないのだが、マリアはさして気にした様子もなく穏やかに対応していた。
「あのぅ、お嬢様。無礼を承知でお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「まぁ、なぁに?」
「お嬢様は、あの、どうしてよりにもよってこの領へ嫁いで下さる気になったのでしょう。私共は子爵様が良いお方であるのを知っておりますが、他の領の方にとってはそうではないでしょうに……」
ベルガー子爵領といえば王都では蛮族の集団くらいに言われているのを、領民達は皆知っている。
つまりベルガー子爵はその親分だ。
皆、子爵の結婚が決まった事を喜んでいたが、同じくらいどこの物好きが子爵を選んで下さったのかと疑問に思っていた。
泣かれる、引かれる、失神される。
貴族令嬢がベルガー子爵に対して見せる反応は概ねそのようなものだ。
しかしこのラカン男爵令嬢はどこか違う。
先程泣いたのだって、子供っぽいドレスで来てしまって恥ずかしいという羞恥からであって、子爵が恐ろしくて泣いた訳ではない。
おそるおそる尋ねたメイドに、無礼を咎める事もせずにマリアはパチリと大きな目を瞬かせ、そしてポッと頬を赤らめて目を伏せた。
「……子爵様には秘密にしていてね」
そう前置きしてマリアは話し始める。
マリアは実は昨年行われた夜会でベルガー子爵と顔を合わせている。
しかしそれは貴族の作法に則って誰かの紹介で挨拶を交わしたとか、そういう訳ではない。
ラカン男爵家というのは一代で財を成して爵位を与えられた新興貴族、つまりは『成金貴族』であった。
それこそ格上の貴族家と同等かそれ以上の財産を持ち、けれども歴史のない新興貴族は社交界ではいつだって除け者にされるか、陰口を叩かれるものだ。
正式な招待を受けて参加したとある夜会でもその扱いは変わらない。
それは、マリアにとっては慣れない社交界であり、夜会だった。
夜会用のドレスはいつものドレスよりもずっと重く、きつく締めたコルセットのせいでひどく気分が悪かった。
「……私、気分が悪くてよろけてしまって、そのまま転んでしまったの。靴も片方脱げて、それはひどい有り様だったのでしょうね。周りのご婦人や紳士の皆様は虫でも見るような目で私を見ていて、誰一人助けてなんてくれなかったの」
人目の多い場所で転んでしまい、更にはそれを無作法と嘲笑われて、マリアは床に倒れたまますっかり身動きが取れなくなってしまっていた。
体調が悪い事もあり、自分がここからどうしたら良いのか何も考えられなかったのだ。
しかもそんな時に限って、両親は挨拶周りで忙しくしていて、広いホールのどこに居るかもわからない。
「私、頭の中が真っ白になってしまって、怖くて、辛くて、泣きそうだったの。その時よ。子爵様が人混みから出てきて、私を抱き起こして下さったの……」
その時の事を思い出したのか、マリアはうっとりした表情を浮かべ、頬を薔薇色に染めてほうと息を吐いた。
逞しい腕でマリアをそっと抱き起こしたベルガー子爵は、片膝を立ててそこにマリアをちょこんと座らせると、転がっていた靴を片手で拾ってマリアに履かせてくれたのである。
「私、きちんとストッキングは履いていたけれど、家族でも使用人でもない殿方に靴を履かせて貰うだなんて、そんな事初めてで……っ! あぁ、本当に、とっても素敵だったのよ」
それを聞いてギョッとしたのはメイド達である。
嫁入り前の令嬢の足に触れるなど、世が世であり、相手が相手だったら淫行扱い待った無し案件だ。
幸いだったのはこの令嬢がそれを受け入れている事だが、一歩間違えば訴訟問題だ。
メイド達は主人であるベルガー子爵の勇気ある行動を、至極複雑な思いで受け止めるしかなかった。
「それでね、それでね、子爵様は私に怪我は無いかと尋ねて下さって、広間の隅にある椅子まで運んで下さったの。子爵様はそれからすぐ去ってしまわれて、お名前も聞けなかったのだけれど……」
両手で頬を押さえながら、マリアはきゃー!と乙女らしく恥じらった。
メイド達はそれ本当にうちの子爵かなぁと若干不安に思ったが、先程顔は見ているのだし、人違いという悲劇は起こらないはずだ。
「私、夜会から帰ってすぐにお父様に結婚するならああいう殿方が良いわと伝えたの」
マリアは目をキラキラさせて続けた。
「(礼服が)黒くて、(筋肉が)硬くて、(身体が)大きくて逞しい方……!」
そしてメイド達は思った。
聞いてる側からするとややアウト発言なんだよなぁ、と。
「何故だかその後一ヶ月程おうちから出して貰えなくなってしまって、あの晩の殿方を探す事が出来なかったのよ。でもお父様が方々手を尽くして探して下さって、それがベルガー子爵様だとわかったの」
突然娘が黒くて硬くて大きくて逞しい男と結婚したいとか言い出したら、貴族令嬢の親としては心配して家に閉じ込めるくらいするだろうなとメイド達は思った。
この世の中、令嬢の無垢と純潔は金より尊いので。
ちなみにベルガー子爵は王都に年に一度、多くて二度顔を出すくらいの出没度がレアクラスの幻の貴族だった。だからこそ噂話ばかりが広がるのだが、本人はそんな噂話など知ったこっちゃないので王都で社交活動など行わない。
そんな訳であったので、黒くて硬くて大きくて逞しいというだけのヒントでベルガー子爵に辿り着くのは、さぞや大変だった事だろう。むしろよく辿り着けたものだ。
メイド達は心の中でラカン男爵の努力に心からの拍手を送った。
「あんなに素敵な方だから、御礼を伝えられたらそれだけで満足だと思っていたのに、子爵様は結婚相手をお探しだと言うじゃない。そんなの、何をおいても立候補するに決まっているでしょう? それでお父様にゴリ押しして婚約を取り付けてもらったという訳なの。……はしたないと思われるだろうから、子爵様には秘密よ」
ふふふと照れくさそうに笑うマリアの愛らしさに、メイド達はこくこくと頷き、しかしまだ疑問が残ると口を開いた。
「じゃあ、お嬢様は旦那様のあの目付きの悪さも、強面も平気なんですか」
メイドの問い掛けに、マリアはこてんと小首を傾げて逆に問うた。
「子爵様って、そんなに目付きが悪かった? お顔立ちも精悍でとっても素敵だと思うのだけれど」
コワモテ?とつぶらな瞳を瞬かせるマリアを見て、ついにメイドの一人が泣いた。
この方は天が授けて下さった御使かもしれない。
この方を逃したら子爵はきっと一生結婚なんて出来ないだろう。
あとめっちゃくちゃ可愛い。男も女も逞しい生き物になりがちなベルガー領ではとんと見ない可愛い生き物。何だこれ奇跡か。
「ぐすっ。うう、うちの子爵を末永くよろしくお願いします……」
「まぁ。それは私の台詞だわ。私、子爵夫人として精一杯頑張るから、よろしくお願いするわね」
そんな風にマリアがメイド達の涙腺を緩っ々に緩めているのと同じ頃、部屋のドア前ではこっそり話を盗み聞きしていたベルンハルト達が尊みに震えていた。
声を掛けるタイミングをはかろうとこっそり中の様子を窺っていたらマリアの回想が始まってしまったので、結局最初から最後まで全部聞いていたのである。
(そうか、彼女はあの時の……。誰かが連れてきた子供が転んだのだと思っていたが、まさかあの令嬢だったとは……)
強面の自覚があった子爵は、これまで数多の令嬢達を意図せず泣かせてしまってきたので女子供の泣き顔が苦手だった。
あの夜会の時も、子供は転んだらきっと泣くだろうと思って助けてやったに過ぎず、すぐに立ち去ったのも顔を見て泣かれるのは困ると思ったからだった。
目を合わせたらきっと泣かれると思って相手の顔もろくに見ていなかったので、ベルンハルトは当然マリアの顔を視認していなかったが、そういう存在がいた事自体は記憶していた。
自分を怖がらず、それどころか好意を抱いてくれる相手が存在する。
ようやくその事を実感したベルンハルトは、じわりと視界が歪むのに気付いて、周りに気付かれないようにそっと目元を拭った。
泣かれる度、拒絶される度に自分自身の存在を否定されるような気持ちになり、いつしか領民だけが自分を知っていればそれで良いと思うようになっていた。
けれどマリアは、ベルンハルトからしてみればほんの些細なお節介一つで、王都から離れたこんな不便なド田舎まで来てくれたのだ。
存在を許されるとはこんなにも嬉しいものなのか。
(絶対に彼女を幸せにせねば)
そう強く決意し、ベルンハルトは大きく深呼吸をした。
傍らに控えていたヴォルフとローザも、すっと姿勢を正し、ベルンハルトの為に一歩下がってドアから離れる。
(まずは挨拶をして、歓迎している事を伝えなければ。疲れているだろうから晩餐は軽いものの方が良いのだろうか。こちらの料理を気に入ってくれると良いが……)
そしてベルンハルトはゆっくりとノックをして、部屋の中に声を掛けた。
「──ラカン男爵令嬢。落ち着かれたようなら、少し話をしたいのだが……」
一瞬だけ間があって、すぐに喜んでと返事が飛んでくる。
それだけの事が、ベルンハルトにはすごく嬉しい。
「……し、子爵様、お、お待たせしました……」
おずおずと部屋から顔を出したマリアは、大きくてまんまるな瞳でベルンハルトを見上げ、そしてにこりとはにかんで頬を赤らめた。
「いや、待ってなどいないから気にしなくていい」
ベルンハルトもまた、マリアにつられたのか、ほんの少しだけ頬を染めて目を逸らす。
中庭のよく見える部屋でお茶にしようと言ったベルンハルトにマリアがこくこくと頷き、この上なく自然なエスコートで二人はゆっくりと廊下を歩き始めた。
そんな二人の背を見ながら、二人が幸せな結婚式を挙げられますようにとヴォルフとローザは心から願ったのだった。
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