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第十六話
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あの演奏会から一年が経ったある頃。雫はあの演奏会にたまたま来ていたレコード会社のプロデューサーに声を掛けられ、音楽家としての才能を開花させた。
今日はそのレコード会社に足を運んでいたらしく、そのまま家に帰宅してくれた。
「あ、雫お姉ちゃん! お帰り!」
ちゃんと家に帰ってきてくれたのは実に一週間ぶりだった。よかった。思ったよりも痩せていないようで安心する。
「茜」
「凄いね、デビューなんて。憧れるなあ」
「そうかしら。あのプロデューサーは馬鹿よ」
「どうして? あそこ大手だよね」
「大手とかどうでもいい。僕よりもよっぽど茜の方が才能があるのに」
びっくりした。本気で雫は言っていた。それが凄く嬉しくて、私は思わずへらっとしてしまった。私のその姿を見て雫は少し心配そうな顔をしていた。
「そんなことないよ。……えへへ」
「? なに」
「お母さんよりも、お姉ちゃんに褒められた方が嬉しいかも」
雫は私を見て、目をぱちぱちと瞬きを数回した。その後、ふっと柔らかく笑った。
「そう。……そういえばあの人は?」
雫の周りの空気が変わる。あの人、というのはお母さんのことだ。
「なんか次の演奏会の打ち合わせだって。部屋で電話してる」
「ふーん」
自分で聞いておいて雫は興味なさそうにする。その身勝手さに少しだけむっとするけれど、久しぶりの再会なのだからと私はぐっと堪えた。
「ねえ、お姉ちゃん。次の演奏会は一緒に演奏、できる?」
私は気にしていなかった。あの日の雫の行動を責めることはしない。あの行動こそが彼女であると知っていたからだ。けれど雫はそうは思っていなかったらしく『一緒に』という言葉に酷く反応した。
「……。そうね……」
「……帰って、きたんだよね?」
「ええ」
「……じゃあ……その、大きい荷物は……なに?」
帰宅してから今まで、彼女はなにやら荷造りをしていた。いつもの郁さん家へ行くときの荷造りかと思っていたのだが、今日の雰囲気は少しだけ違った気がして、私は思わず雫に問い質した。
雫は――笑った。
「……ごめん。その約束、守れそうにないわ」
「え……?」
それって、と彼女の裾を取ろうとした時、後ろから「どうしたの」とお母さんの声がした。このタイミングで、正直来てほしくはなかった。
「お母さん」
「雫……」
「なに、その顔」
雫はお母さんに対して反抗の矛先を向けていた。
「早く部屋に戻ってヴァイオリンの調整をしなさい」
「はあ? ……僕はもうあんたの言いなりになるような人形じゃない。僕はこの家から出て行く。自由になるんだよ。二度と帰らない」
「え⁉ ど、どういうこと⁉」
私は驚愕した。この家に帰ってきたのではない。郁さんの家に家出をするための一時的な準備をしに来たのではなく、本気で彼女はこの家を出て行くと公言した。
「そのままの意味よ。この荷物はね、出て行くためのもの」
「そんなわがままが許されると思っているの? まだ未成年でしょう‼」
「今のあんたに教わることなんて何もない。僕は一人でも生きていく!」
「そんなに言うんだったら、止めはしない。出て行きなさい‼」
「言われなくても出てってやるよこんな家!」
「お姉ちゃん!」
二人はいがみ合い、雫が啖呵を切ってそのまま、今度こそ本当に美音家を出て行ってしまった。私は、彼女が出て行った時のドアが思い切り閉まる音に、悲しいものを感じた。
「……あんな出来損ないのことは忘れなさい。いいわね」
「…………はい」
出来損ない。その言葉は私の頭の中をぐるぐると回る。出来損ないなのは、私の方なのに。
雫がこの家を完全に出て行ってからあっという間に二年が過ぎた。私は高校三年生になった。その頃、お母さんは音楽家としての活動を引退し、私がプロになるための指導に力を入れ始めた。もう進路を決め始めなければならない。最後の夏休みがやってきた。同時に、悪夢のような『それ』が、私の足下へやってきた。
今日はそのレコード会社に足を運んでいたらしく、そのまま家に帰宅してくれた。
「あ、雫お姉ちゃん! お帰り!」
ちゃんと家に帰ってきてくれたのは実に一週間ぶりだった。よかった。思ったよりも痩せていないようで安心する。
「茜」
「凄いね、デビューなんて。憧れるなあ」
「そうかしら。あのプロデューサーは馬鹿よ」
「どうして? あそこ大手だよね」
「大手とかどうでもいい。僕よりもよっぽど茜の方が才能があるのに」
びっくりした。本気で雫は言っていた。それが凄く嬉しくて、私は思わずへらっとしてしまった。私のその姿を見て雫は少し心配そうな顔をしていた。
「そんなことないよ。……えへへ」
「? なに」
「お母さんよりも、お姉ちゃんに褒められた方が嬉しいかも」
雫は私を見て、目をぱちぱちと瞬きを数回した。その後、ふっと柔らかく笑った。
「そう。……そういえばあの人は?」
雫の周りの空気が変わる。あの人、というのはお母さんのことだ。
「なんか次の演奏会の打ち合わせだって。部屋で電話してる」
「ふーん」
自分で聞いておいて雫は興味なさそうにする。その身勝手さに少しだけむっとするけれど、久しぶりの再会なのだからと私はぐっと堪えた。
「ねえ、お姉ちゃん。次の演奏会は一緒に演奏、できる?」
私は気にしていなかった。あの日の雫の行動を責めることはしない。あの行動こそが彼女であると知っていたからだ。けれど雫はそうは思っていなかったらしく『一緒に』という言葉に酷く反応した。
「……。そうね……」
「……帰って、きたんだよね?」
「ええ」
「……じゃあ……その、大きい荷物は……なに?」
帰宅してから今まで、彼女はなにやら荷造りをしていた。いつもの郁さん家へ行くときの荷造りかと思っていたのだが、今日の雰囲気は少しだけ違った気がして、私は思わず雫に問い質した。
雫は――笑った。
「……ごめん。その約束、守れそうにないわ」
「え……?」
それって、と彼女の裾を取ろうとした時、後ろから「どうしたの」とお母さんの声がした。このタイミングで、正直来てほしくはなかった。
「お母さん」
「雫……」
「なに、その顔」
雫はお母さんに対して反抗の矛先を向けていた。
「早く部屋に戻ってヴァイオリンの調整をしなさい」
「はあ? ……僕はもうあんたの言いなりになるような人形じゃない。僕はこの家から出て行く。自由になるんだよ。二度と帰らない」
「え⁉ ど、どういうこと⁉」
私は驚愕した。この家に帰ってきたのではない。郁さんの家に家出をするための一時的な準備をしに来たのではなく、本気で彼女はこの家を出て行くと公言した。
「そのままの意味よ。この荷物はね、出て行くためのもの」
「そんなわがままが許されると思っているの? まだ未成年でしょう‼」
「今のあんたに教わることなんて何もない。僕は一人でも生きていく!」
「そんなに言うんだったら、止めはしない。出て行きなさい‼」
「言われなくても出てってやるよこんな家!」
「お姉ちゃん!」
二人はいがみ合い、雫が啖呵を切ってそのまま、今度こそ本当に美音家を出て行ってしまった。私は、彼女が出て行った時のドアが思い切り閉まる音に、悲しいものを感じた。
「……あんな出来損ないのことは忘れなさい。いいわね」
「…………はい」
出来損ない。その言葉は私の頭の中をぐるぐると回る。出来損ないなのは、私の方なのに。
雫がこの家を完全に出て行ってからあっという間に二年が過ぎた。私は高校三年生になった。その頃、お母さんは音楽家としての活動を引退し、私がプロになるための指導に力を入れ始めた。もう進路を決め始めなければならない。最後の夏休みがやってきた。同時に、悪夢のような『それ』が、私の足下へやってきた。
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