笑うヘンデルと二重奏

KaoLi

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第五話

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 通夜と葬式には沢山の人が母を弔いに来た。人望があったとは意外だった。現役から退いてもう結構経つというのに、彼女の音楽家としての名前は業界内では健在だったようだ。嬉しい気もするが、私にとっては八割方複雑な気持ちが勝った。

 一通り、母の友人や知り合いたちに挨拶を済ませて会場を立ち去る。耐えられない。十年前のあの時も、私はこうして目の前の現実から逃げ出した。怖気づいたのだ。人の死に。あの言葉に。

 § § §

 数時間後、全工程が終了し、帰宅する。マンションに着いたのは午後十時だった。有休を使って休んだので明日には学校に戻らなければならないと思ったのだが、昨日、今日の葬式のことを電話越しに聞いていた須藤先生が「一週間ほど休みなさい。今のあなたには休息が必要です」と言ってくれたので、その言葉に今まで我慢していた涙が出た。
 そうだ、と手に持っていた袋の中に入っていた携帯電話を取り出す。

「……郁さんに、電話」

 指を画面に滑らせ電話番号を検索する。郁さんの電話番号を確認してタップする。2コール目で彼女は電話に出た。

「…………あ、もしもし郁さん。昼間はお忙しい中ありがとうございました……」
『いえいえ。恩師のお葬式ですから。それよりも大丈夫ですか? 随分とお疲れですね』
「ええまあ。こんなに体力勝負とは思いませんでした」
『雪子さんはこれを二回も経験されてますからねぇ。凄い精神力でしたよね』

 二回……? 一瞬、郁さんの言葉に意識が取られたが今はそこを気にしている場合ではない。

「あの、今週の土曜日なんですけど、朝の十時に実家集合でお願いしてもいいですか?」
『ええ、全然構いませんよ~』
「ありがとうございます。では、また土曜日」

 電話を切り、用意していたお風呂に入る。湯舟が温かくて気持ちがいい。意識が微睡み、危うく溺死するかと思ったのは言うまでもない。

 § § §

 約束の土曜日。私は早めに行こうと思い、九時にマンションを出た。ここからの距離で実家までは三十分ほどで着く。余裕を持って出たつもりだった。
 出発して携帯を確認した。郁さんから一文、メールが届いており、その内容に私は本気で引いた。
 実家前にはすでに郁さんが立って待っていた。

「……郁さん」
「おっ。おはようございまーす、茜さん」
「あの。この間言ったこと、覚えてます?」
「え? えーと……美音家に集合?」
「その前! 十時に、集合! あんた私の携帯に連絡してきたのいつですか!」

 私は携帯画面に彼女とのトーク履歴を見せつける。そこには『着いちゃいました~』という文が可愛らしいスタンプと共に送られていた。しかし問題視するべきはそこじゃない。

「何時からここにいんだあんた!」
「七時……?」
「なんでだ!」

 この人は時間を守ることをほとんどしない。いや、遅刻することはまったくないと言っても過言ではないが、それよりも早く来すぎる傾向にある。これではこちらが遅刻してしまった感覚になるのでやめていただきたいと切に願っている。

「……はあ。もういいや。どうぞ、上がってください」
「すみません、いつもの癖で。お邪魔しま……。……ん?」

 ふと、玄関先で郁さんが立ち止まる。

「あの、何か?」
「今、何か音がしませんでした?」
「え? ……」

 耳を澄ませてみるが何も聞こえない。

「何もしませんけど。恐いこと言わないでください」
「あはは、すみません。 私の気のせいですね~。さ、さっさと片付けてお昼に美味しいものでも食べに行きましょう!」

 で、どこから? となんとも言えない顔でこちらを向いた郁さんが可笑しくて吹いた。

 とりあえず郁さんにはリビングの清掃をお願いし、私はその横の広間を片付ける。広間にはひとつ大きく立派なグランドピアノが置いてある。これは母のもので、小さい頃はみんなで弾いたものだ。埃が舞っており、少し可哀想に見えてしまう。この子も捨てなければならないのかと思うと心に来るものがあった。
 壁際には箪笥が設置されており、写真立てがいくつか並んでいたが全て伏せられていた。その中の一つを手に取る。そこには、私と母と、雫が笑顔で写った写真が入っていた。

 いつから私たちはバラバラになってしまったのだろう。

「……そういえば郁さん」
「はい?」
「この間、私に何か渡したいものがあったとか言ってましたよね?」
「は?」
「は?」
「なーんて! 冗談ですよ! ちゃんと持って来てます。ちょっと待っててくださいね」
「今絶対忘れてましたよね? 郁さん⁉」

 渡したいもの、というのは一体何なのか。私は郁さんが戻るまで箪笥の中を確認する。小さい頃のアルバムが何個か収納されていた。どの写真もよく撮れていた。けれど日付が確認できたのはどれも十五年前まで。きっと、ここから崩れ始めたんだと感じた。

「すみませんすみません。カバンの中に入れていたと思っていたんですが、カバンを車の中に忘れていました~。はい、どうぞ」
「……これは」
「いえね、雪子さんが亡くなったと連絡をもらってから、ちょっと気になって自分の家の本棚を整理したんですよ。そうしたらこんなものが出てきたものですから。茜さんにぜひお渡ししたいと思いまして」

 はい、とクリップ止めされた紙の束を受け取る。

「これは、雫さんの遺品です」

 そうだ、間違いない。渡された紙面の正体は楽譜。そこにはメモの字がびっしりと敷き詰められていた。これは、雫の字だった。
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