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短編・中編や他の人物を中心にした物語
その鼠は龍と語らう8
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「馮則貴様!なんだあの醜態は!」
馮則は上官からの鉄拳制裁を受け、踊るように足をもつれさせて転んだ。
周囲の同僚たちから嘲笑の声が上がる。普通の兵なら足を踏ん張って耐える所であり、その情けなさを嘲っているのだ。
痛いが馮則としてはかわすわけにもいかない。ここは軍隊であり、体罰として放たれる拳をかわすほど馬鹿ではない。
ただし、どうしても浮かんでくる文句もあった。衝撃で頭がくらくらしていたせいもあって、それが自然と口から出てしまった。
「で、でも俺たちのおかげで敵陣に穴が開けられたって……」
馮則はそう褒められたのだ。しかも孫権直々にである。
孫権は先の宣言通り、やや高いところに敷かれた本陣から馮則と白龍の働きを見てくれていた。
もちろん総大将として戦の全体を見ているうちの一部なので、ちゃんと認識してもらえたのは幸運ともいえるだろう。しかしそれでも孫権は間違いなく約束を守ってくれたのだ。
白龍が敵の真っただ中に突っ込み、暴れまわって敵兵を文字通り蹴散らした。そこに付け込んで崩せたという事実は紛れもないものだ。
結局は目標であった船の大綱を切断するには至らなかったものの、戦初日の感触としては悪くないものとなっていた。
『今はまだ乗れないとはいえ、これが私の馬だと思うと誇らしいぞ』
孫権はそうまで言ってくれた。
馮則はこの言葉に心躍らせていたのだが、李観にとってはそれが余計に腹立たしかったらしい。
あわよくば最前線で死ぬことを望んで送り出したのに、主君直々の誉め言葉を賜っている。快く思えるわけがなかった。
それでその夜、戦が一休みしている間に馮則を連れ出し、怒りに任せて殴りつけたのだった。
「たまたま上手い具合に事が運んだからと言って、調子に乗るんじゃない!あんなのは偶然だ!騎兵として恥ずかしくないのか!」
そう言われても、そもそも騎兵としての誇りなど毛の先ほども持ち合わせていない馮則である。恥など感じる道理がない。
ただ唇を引き結び、地べたに尻もちをついたままうつむいた。
直後、その顎がしたたかに蹴り上げられる。
「ぐっ!」
「なんだその顔は!不満なのか!」
馮則はあおむけに倒れてから、必死に『不満でないわけがあるか』という言葉を飲み込んだ。
再び唇を引き結んでいると、その顔の上に抜身の剣が投げ落とされた。
上手いこと剣の腹が当たったから良かったものの、下手したら顔の肉がサクっと切れていたかもしれない。
「その剣を拾って立て。そして構えろ」
馮則はその命令に、いよいよ来るものが来たかと思った。
これだけいじめにいじめられているのだ。そのうち殺されるのではないかとはずっと思っていた。
剣を与えられているということは、形式だけは真剣勝負という形を取るのだろう。
もしくは馮則から斬りかかってきたので返り討ちにしたとでも言うつもりかもしれない。もしそうならあんまりな処理の仕方だが、李観ならやりかねないと思った。
が、李観が次に口にしたことは、そのどれでもなかった。それどころか、馮則を傷つけるものですらなかった。
「この捕虜を斬れ。お前が処刑するのだ」
馮則が顔を上げると、腰に縄を結び付けられた男が引っ張られて来るところだった。
松明で浮かび上がった男の顔は腫れ上がっており、すでに結構な暴行を受けた後なのだろうと察せられた。
「そこの木にくくりつけろ」
李観の命により、男の腰から伸びた縄が近くの木に結び付けられる。その結果、男は木を中心に五歩あまりの範囲内しか動けないようにされた。
馮則はゆっくりと立ち上がりながらその状況を確認し、上官に尋ねた。
「……ど、どうして俺が斬らないといけないんで?」
「最前線を経験したとはいえ、結局貴様自身は敵を手にかけなかったではないか。それでは度胸がつかん。適当に捕虜を連れてきたから、それを殺させてやろうと思ってな」
李観からそう言われ、馮則は日中に見た数多の殺人の光景を思い浮かべた。
切り裂かれる肉、上がる血しぶき、断末魔の悲鳴。
悪夢のような記憶から湧き上がった空気が馮則の全身を包み、思わずヒィっと声を漏らした。
それを見た周囲の同僚たち、そして李観からまた嘲笑の声が上がる。
ただしその声には嘲りだけでなく、何か楽しむような空気も混じっていた。馮則をいじめている時にいつも感じられた、娯楽を楽しむような雰囲気だ。
馮則はどういうことかと思考を巡らし、すぐに一つの可能性に思い至った。
(……こいつらもしかして、ただ殴りつけるのにも飽きたんで別の趣向を、ってことか?)
馮則のような臆病な男なら、人を殺すのもおっかなびっくり怖がりながらやるだろう。その様子を見て楽しもうというわけだ。
そう考えて、馮則はこの推測が間違いなく正解であると確信した。李観を含むほぼ全員から期待と悪意のこもった視線がむけられていたからだ。
確かに人を殺す度胸は兵にとって必要なものだろうし、馮則にないものだろう。
ただ馮則にとってはたまったものではないし、適当に連れてこられたという捕虜にとっては人生最大の不幸と言える。
その捕虜は腰紐で木に括り付けられているだけで、手は自由にされている。それに木から五歩分くらいは動けるのだ。
つまり馮則が斬りかかれば逃げ回るだろうし、手で防ごうともするだろう。簡単に死ねるはずがない。
そしてその残酷な死刑執行を見て楽しむために、周囲の兵たちは集まってきているのだ。
(死ぬのを見世物にされる人間の気持ちってのは、どんなもんだろうな……)
ひどく重い気分で馮則が捕虜へ目を向けると、捕虜の視線も馮則の顔へと上がって目が合った。それまでは馮則の手に握られた剣の刃を見つめていたのだ。
捕虜は引きつるような声を上げた。
「た……助けてくれ!俺は、俺は死ぬわけにはいかねぇんだ!カミさんと子供が俺のことを待ってるんだよ!何でもする!何でもするから!頼むよ!」
声を裏返らせながら、必死の瞳で哀願してくる。
それを受ける馮則はというと、最悪の心境だった。ただでさえ人を殺すことが恐ろしくて仕方ないのに、その行為によってどこかの家庭から父親を奪うのだ。
(俺、本当に何も考えずに兵士になったんだな……)
半ば以上は強制されてのこととはいえ、断る勇気のなかった自分の意気地のなさが嫌になった。
剣を握る手が震え、冷たい汗がどっと吹き出てくる。自分が今生きているのが不思議なほど、体の芯まで冷えてしまったように感じられた。
しかし、やらなければ自分がひどい目に遭わされることも予想できている。最悪の想定は、また最前線に向かわされることだ。
せっかく生き延びたのに、再びあの地獄に落とされるかもしれないと思うと目の前が暗くなった。
かといって剣を振り上げる決心もつかず、馮則はただ震え続けた。そして捕虜は命乞いを続けている。
李観はしばらく楽しそうにその様子を見ていたが、あまりに動かないのでついに痺れを切らしたらしい。
唇の端をつり上げて声を発する。
「おい、いい加減にやらないと……」
「おっ、こんなところにいたのか!探したぞ!」
その覇気あふれる声に、李観は慌てて口を閉じて直立した。
そして可能な限り引き締まった顔でそちらを振り向く。
「孫権様」
李観の背後から現れたのはこの場の全員の主君、孫権だった。
護衛の兵を二十人ほどを連れ、紫がかった顎髭を撫でつけながら歩いて来る。
「……このようなところへ、いかがされたのですか?」
李観は後ろめたいことなど何も無いと自分に言い聞かせながら尋ねた。
「いや何、ちょっと気晴らしに白龍に揺られてみようと思ってな」
そう言って朗らかに笑う孫権だったが、周囲の護衛たちは明らかに困り顔をしていた。
馮則以外、白龍への騎乗は常に落馬の危険を伴う。それを戦の最中、総大将がやろうというのだからこんな顔にもなるだろう。
おそらく護衛たちから諌められ、それを振り切った上で来ているのだろうと察せられた。
「それで馮則の姿を探していたのだが、こんな所で何をしているのだ?」
孫権は剣を手に震える馮則と、その前でもっと震えている捕虜に目をやった。
李観は即座に答える。
「馮則の度胸付けであります。昼間の様子からもご理解いただけると思いますが、この男にはまず兵としての度胸が足りておりません」
「……なるほど」
説明を聞く孫権の目は李観を向いておらず、二人に据えられたままになっている。
それは不思議なほど静かに澄んだ目で、納得したような返事をしてはいるものの、何かを推し量っているように感じられた。
孫権はしばらく黙って二人を見ていたが、やがて口を開いた。
「馮則、お前は兵をやりたくてやっているわけではないのだな?」
いきなり図星を突かれた馮則は、ビクリと肩を震わせた。
しかし簡単に肯定できるようなことではない。敵前逃亡は死罪であると何度も聞かされているので、戦意の無さを表明するのは勇気が要った。
「いえ……あの……その……」
「ハハハ、今この場では答えづらいことだったな。すまんすまん」
簡単に謝罪を口にする主君に呆気にとられ、どう反応すればいいかも分からない。
馮則はただひたすらに恐縮して縮こまった。鼠のようだった男が、今はもはやノミのようだ。
孫権にはその姿が可笑しかったようで、いっそう楽しげな笑い声を上げた。
「大方そんな風に小さくなっている所を甘寧が強引に引っ張って来たのだろう。あの男は根が荒くれ者だということは私も知っている」
甘寧の情報が伝わっているにせよ、そこまで正確に察してみせた孫権の知性に馮則は感服した。
「お、おみそれしました!」
叫びながら剣を投げ捨て、その場に勢いよく平伏する。
勢いがあまりにつきすぎて、額を地面にぶつけたゴツンッという音が辺りに響いた。
痛かったが、目的があるからそれも耐えられた。実はこうしているのはただ感服したからではない。
(このやり取りで、何とかこいつの処刑を有耶無耶にしたい!)
馮則はそんな事を考えて大袈裟な言動を心掛けたのだ。
捕虜から全員の意識を遠ざけたい。そしてその上で、さっさと孫権に連れ出してもらい、有耶無耶のうちにこの場を終わらせたい。
(俺さえいなけりゃ、処理の面倒な処刑もしないんじゃねぇかな)
望み薄ながら、そんなことも考えた。
運搬だけ考えても死体を運ぶより、捕虜に自分で歩かせた方が楽そうだ。この捕虜が助かる目もあるのではないかと思いたかった。
「おいおい、大袈裟だな」
「いいえ!自分は今、歴史に名を残すのはこういう方なんだって感動してます!決して大袈裟ではなくて!」
「ふむ……歴史に名を残す、か……」
この言葉に孫権はあごひげを撫でつつ、視線をふっと遠くに飛ばして何かを思い出すような目になった。
「確かにそういう言い方に相応しい偉人というものはいる。江南の虎と呼ばれた父上や、小覇王と呼ばれた兄上はそうだった。しかし私は違うな。ただ巡り合わせで今この立場にいる」
「そんなことは……」
「そうなのだ。もし父上や兄上が戦死しなければ、私は孫家の一親族として地味な役割を果たすだけで終わっていただろう。内から政を支えることはできたと思うが、それくらいのものだ。兄上の死がもう少し遅ければ、家督は兄上の子に移っていただろうしな」
馮則もその辺りの事情はいくらか聞いているが、新入りなので詳しいというほどではない。
話題が処刑から離れたことは喜ばしいが、どう返事をしていいか分からないので黙って孫権の話を聞いた。
「孫家の支配地域はそれなりの広さになっているし、史家がこの時代の記録を残すなら私の名も記すだろう。しかし、それはあくまで成り行きの結果だ。そして自分自身がそうであることから分かるが、歴史に名を残せるかどうかなど、ほとんど巡り合わせ次第だな」
「巡り合わせ次第……」
「そうだ。運次第と言ってもいいだろう。つまり運次第では馮則、お前の名も歴史に残るかもしれないぞ」
「俺の名が?まさか!」
馮則は己の存在が鼠のように小さなものだと知っている。歴史に名を残すと言われても、面白い冗談だとしか思えなかった。
だから笑い、そしてついさっきまで震えていた自分を笑わせてくれた主君に感謝した。
思い返してみると、馮則が軍に身を置いてから心休まるのは孫権の側にいる時だけだった。
狩猟好きでやんちゃ坊主なようなところのある主君だが、人の心の機微には敏感で、優しいのだ。軍にいることは不満でも、この人の下にいることは嫌ではなかった。
「別に冗談を言ったつもりはないぞ。例えばそうだな……偶然でもいい、この戦で黄祖を討った者の名は孫家の歴史に刻むと約束しよう。たとえそれが一兵卒であったとしても、だ」
そう宣言してからニヤリと笑う。
「今のは完全に私の気紛れでだが、その気紛れで歴史に一つ名が残る。そういうものなのだ」
この言葉に、周囲の兵たちの目が急にギラギラと光り始めた。李観の隊員たちだけでなく、孫権の護衛である兵たちまでも気持ちを高揚させたようだ。
史書に残されるのはほとんどの場合は将の名だけであり、直接首を獲った者でも兵の名が残ることは滅多にない。だから孫権の約束に奮起している兵たちの反応は当然のものと言えた。
ただし馮則だけは例外だ。むしろ目立たず隠れるようにして生きるのが性に合っているので、名を残したいなどと欠片も思わない。
「いやぁ、俺なんかの名が残ったところで歴史家さんたちのお目汚しですよ」
周囲の熱気に気づきもせず、そんな軽口を叩いた。
しかしこの反応はまずい。せっかく主君が臣下を奮起させる言葉を紡いだのに、それを流してしまうような発言だからだ。
馮則を監督する立場にある李観は激怒した。
「馮則!貴様……」
「構わん。それより早く白龍のところへ連れて行け」
孫権はなんでもないことのように李観の叱責を遮り、馮則の腕を掴んで立ち上がらせた。
そしてさっさと歩けと言わんばかりに背中を押す。
馮則はそれをありがたく思いながら早足で歩き始めた。
(やった!本当に有耶無耶になった!)
蒸し返されないうちに、早くこの場から去りたいと思った。
残される捕虜がどうなるのか分からないが、馮則がこれ以上どう動いたところで悪い方にしか進まないだろう。
そう思っていると、孫権は去り際にその捕虜をチラリと見た。
そして歩き出しながら李観に声をかける。
「そういえば李観。私はつい先ほど捕虜については皆従順であり、何の問題も起こっていないと報告を受けている。そして処刑してよい捕虜は、反抗する不服従者のみと通達してあるはずだ。そこに縛られている捕虜は、すぐに戻されるのだな?」
李観は一瞬しまったという顔をしたが、孫権はわざと背を向けているので目には入っていない。
即座に平静を装った声で返答した。
「ハッ!反抗を考えぬよう、脅していただけでありますので!」
「ならいい」
孫権は振り返りもせずにそれだけ答え、あとは白龍との激しい逢瀬に思いを巡らせた。
馮則は上官からの鉄拳制裁を受け、踊るように足をもつれさせて転んだ。
周囲の同僚たちから嘲笑の声が上がる。普通の兵なら足を踏ん張って耐える所であり、その情けなさを嘲っているのだ。
痛いが馮則としてはかわすわけにもいかない。ここは軍隊であり、体罰として放たれる拳をかわすほど馬鹿ではない。
ただし、どうしても浮かんでくる文句もあった。衝撃で頭がくらくらしていたせいもあって、それが自然と口から出てしまった。
「で、でも俺たちのおかげで敵陣に穴が開けられたって……」
馮則はそう褒められたのだ。しかも孫権直々にである。
孫権は先の宣言通り、やや高いところに敷かれた本陣から馮則と白龍の働きを見てくれていた。
もちろん総大将として戦の全体を見ているうちの一部なので、ちゃんと認識してもらえたのは幸運ともいえるだろう。しかしそれでも孫権は間違いなく約束を守ってくれたのだ。
白龍が敵の真っただ中に突っ込み、暴れまわって敵兵を文字通り蹴散らした。そこに付け込んで崩せたという事実は紛れもないものだ。
結局は目標であった船の大綱を切断するには至らなかったものの、戦初日の感触としては悪くないものとなっていた。
『今はまだ乗れないとはいえ、これが私の馬だと思うと誇らしいぞ』
孫権はそうまで言ってくれた。
馮則はこの言葉に心躍らせていたのだが、李観にとってはそれが余計に腹立たしかったらしい。
あわよくば最前線で死ぬことを望んで送り出したのに、主君直々の誉め言葉を賜っている。快く思えるわけがなかった。
それでその夜、戦が一休みしている間に馮則を連れ出し、怒りに任せて殴りつけたのだった。
「たまたま上手い具合に事が運んだからと言って、調子に乗るんじゃない!あんなのは偶然だ!騎兵として恥ずかしくないのか!」
そう言われても、そもそも騎兵としての誇りなど毛の先ほども持ち合わせていない馮則である。恥など感じる道理がない。
ただ唇を引き結び、地べたに尻もちをついたままうつむいた。
直後、その顎がしたたかに蹴り上げられる。
「ぐっ!」
「なんだその顔は!不満なのか!」
馮則はあおむけに倒れてから、必死に『不満でないわけがあるか』という言葉を飲み込んだ。
再び唇を引き結んでいると、その顔の上に抜身の剣が投げ落とされた。
上手いこと剣の腹が当たったから良かったものの、下手したら顔の肉がサクっと切れていたかもしれない。
「その剣を拾って立て。そして構えろ」
馮則はその命令に、いよいよ来るものが来たかと思った。
これだけいじめにいじめられているのだ。そのうち殺されるのではないかとはずっと思っていた。
剣を与えられているということは、形式だけは真剣勝負という形を取るのだろう。
もしくは馮則から斬りかかってきたので返り討ちにしたとでも言うつもりかもしれない。もしそうならあんまりな処理の仕方だが、李観ならやりかねないと思った。
が、李観が次に口にしたことは、そのどれでもなかった。それどころか、馮則を傷つけるものですらなかった。
「この捕虜を斬れ。お前が処刑するのだ」
馮則が顔を上げると、腰に縄を結び付けられた男が引っ張られて来るところだった。
松明で浮かび上がった男の顔は腫れ上がっており、すでに結構な暴行を受けた後なのだろうと察せられた。
「そこの木にくくりつけろ」
李観の命により、男の腰から伸びた縄が近くの木に結び付けられる。その結果、男は木を中心に五歩あまりの範囲内しか動けないようにされた。
馮則はゆっくりと立ち上がりながらその状況を確認し、上官に尋ねた。
「……ど、どうして俺が斬らないといけないんで?」
「最前線を経験したとはいえ、結局貴様自身は敵を手にかけなかったではないか。それでは度胸がつかん。適当に捕虜を連れてきたから、それを殺させてやろうと思ってな」
李観からそう言われ、馮則は日中に見た数多の殺人の光景を思い浮かべた。
切り裂かれる肉、上がる血しぶき、断末魔の悲鳴。
悪夢のような記憶から湧き上がった空気が馮則の全身を包み、思わずヒィっと声を漏らした。
それを見た周囲の同僚たち、そして李観からまた嘲笑の声が上がる。
ただしその声には嘲りだけでなく、何か楽しむような空気も混じっていた。馮則をいじめている時にいつも感じられた、娯楽を楽しむような雰囲気だ。
馮則はどういうことかと思考を巡らし、すぐに一つの可能性に思い至った。
(……こいつらもしかして、ただ殴りつけるのにも飽きたんで別の趣向を、ってことか?)
馮則のような臆病な男なら、人を殺すのもおっかなびっくり怖がりながらやるだろう。その様子を見て楽しもうというわけだ。
そう考えて、馮則はこの推測が間違いなく正解であると確信した。李観を含むほぼ全員から期待と悪意のこもった視線がむけられていたからだ。
確かに人を殺す度胸は兵にとって必要なものだろうし、馮則にないものだろう。
ただ馮則にとってはたまったものではないし、適当に連れてこられたという捕虜にとっては人生最大の不幸と言える。
その捕虜は腰紐で木に括り付けられているだけで、手は自由にされている。それに木から五歩分くらいは動けるのだ。
つまり馮則が斬りかかれば逃げ回るだろうし、手で防ごうともするだろう。簡単に死ねるはずがない。
そしてその残酷な死刑執行を見て楽しむために、周囲の兵たちは集まってきているのだ。
(死ぬのを見世物にされる人間の気持ちってのは、どんなもんだろうな……)
ひどく重い気分で馮則が捕虜へ目を向けると、捕虜の視線も馮則の顔へと上がって目が合った。それまでは馮則の手に握られた剣の刃を見つめていたのだ。
捕虜は引きつるような声を上げた。
「た……助けてくれ!俺は、俺は死ぬわけにはいかねぇんだ!カミさんと子供が俺のことを待ってるんだよ!何でもする!何でもするから!頼むよ!」
声を裏返らせながら、必死の瞳で哀願してくる。
それを受ける馮則はというと、最悪の心境だった。ただでさえ人を殺すことが恐ろしくて仕方ないのに、その行為によってどこかの家庭から父親を奪うのだ。
(俺、本当に何も考えずに兵士になったんだな……)
半ば以上は強制されてのこととはいえ、断る勇気のなかった自分の意気地のなさが嫌になった。
剣を握る手が震え、冷たい汗がどっと吹き出てくる。自分が今生きているのが不思議なほど、体の芯まで冷えてしまったように感じられた。
しかし、やらなければ自分がひどい目に遭わされることも予想できている。最悪の想定は、また最前線に向かわされることだ。
せっかく生き延びたのに、再びあの地獄に落とされるかもしれないと思うと目の前が暗くなった。
かといって剣を振り上げる決心もつかず、馮則はただ震え続けた。そして捕虜は命乞いを続けている。
李観はしばらく楽しそうにその様子を見ていたが、あまりに動かないのでついに痺れを切らしたらしい。
唇の端をつり上げて声を発する。
「おい、いい加減にやらないと……」
「おっ、こんなところにいたのか!探したぞ!」
その覇気あふれる声に、李観は慌てて口を閉じて直立した。
そして可能な限り引き締まった顔でそちらを振り向く。
「孫権様」
李観の背後から現れたのはこの場の全員の主君、孫権だった。
護衛の兵を二十人ほどを連れ、紫がかった顎髭を撫でつけながら歩いて来る。
「……このようなところへ、いかがされたのですか?」
李観は後ろめたいことなど何も無いと自分に言い聞かせながら尋ねた。
「いや何、ちょっと気晴らしに白龍に揺られてみようと思ってな」
そう言って朗らかに笑う孫権だったが、周囲の護衛たちは明らかに困り顔をしていた。
馮則以外、白龍への騎乗は常に落馬の危険を伴う。それを戦の最中、総大将がやろうというのだからこんな顔にもなるだろう。
おそらく護衛たちから諌められ、それを振り切った上で来ているのだろうと察せられた。
「それで馮則の姿を探していたのだが、こんな所で何をしているのだ?」
孫権は剣を手に震える馮則と、その前でもっと震えている捕虜に目をやった。
李観は即座に答える。
「馮則の度胸付けであります。昼間の様子からもご理解いただけると思いますが、この男にはまず兵としての度胸が足りておりません」
「……なるほど」
説明を聞く孫権の目は李観を向いておらず、二人に据えられたままになっている。
それは不思議なほど静かに澄んだ目で、納得したような返事をしてはいるものの、何かを推し量っているように感じられた。
孫権はしばらく黙って二人を見ていたが、やがて口を開いた。
「馮則、お前は兵をやりたくてやっているわけではないのだな?」
いきなり図星を突かれた馮則は、ビクリと肩を震わせた。
しかし簡単に肯定できるようなことではない。敵前逃亡は死罪であると何度も聞かされているので、戦意の無さを表明するのは勇気が要った。
「いえ……あの……その……」
「ハハハ、今この場では答えづらいことだったな。すまんすまん」
簡単に謝罪を口にする主君に呆気にとられ、どう反応すればいいかも分からない。
馮則はただひたすらに恐縮して縮こまった。鼠のようだった男が、今はもはやノミのようだ。
孫権にはその姿が可笑しかったようで、いっそう楽しげな笑い声を上げた。
「大方そんな風に小さくなっている所を甘寧が強引に引っ張って来たのだろう。あの男は根が荒くれ者だということは私も知っている」
甘寧の情報が伝わっているにせよ、そこまで正確に察してみせた孫権の知性に馮則は感服した。
「お、おみそれしました!」
叫びながら剣を投げ捨て、その場に勢いよく平伏する。
勢いがあまりにつきすぎて、額を地面にぶつけたゴツンッという音が辺りに響いた。
痛かったが、目的があるからそれも耐えられた。実はこうしているのはただ感服したからではない。
(このやり取りで、何とかこいつの処刑を有耶無耶にしたい!)
馮則はそんな事を考えて大袈裟な言動を心掛けたのだ。
捕虜から全員の意識を遠ざけたい。そしてその上で、さっさと孫権に連れ出してもらい、有耶無耶のうちにこの場を終わらせたい。
(俺さえいなけりゃ、処理の面倒な処刑もしないんじゃねぇかな)
望み薄ながら、そんなことも考えた。
運搬だけ考えても死体を運ぶより、捕虜に自分で歩かせた方が楽そうだ。この捕虜が助かる目もあるのではないかと思いたかった。
「おいおい、大袈裟だな」
「いいえ!自分は今、歴史に名を残すのはこういう方なんだって感動してます!決して大袈裟ではなくて!」
「ふむ……歴史に名を残す、か……」
この言葉に孫権はあごひげを撫でつつ、視線をふっと遠くに飛ばして何かを思い出すような目になった。
「確かにそういう言い方に相応しい偉人というものはいる。江南の虎と呼ばれた父上や、小覇王と呼ばれた兄上はそうだった。しかし私は違うな。ただ巡り合わせで今この立場にいる」
「そんなことは……」
「そうなのだ。もし父上や兄上が戦死しなければ、私は孫家の一親族として地味な役割を果たすだけで終わっていただろう。内から政を支えることはできたと思うが、それくらいのものだ。兄上の死がもう少し遅ければ、家督は兄上の子に移っていただろうしな」
馮則もその辺りの事情はいくらか聞いているが、新入りなので詳しいというほどではない。
話題が処刑から離れたことは喜ばしいが、どう返事をしていいか分からないので黙って孫権の話を聞いた。
「孫家の支配地域はそれなりの広さになっているし、史家がこの時代の記録を残すなら私の名も記すだろう。しかし、それはあくまで成り行きの結果だ。そして自分自身がそうであることから分かるが、歴史に名を残せるかどうかなど、ほとんど巡り合わせ次第だな」
「巡り合わせ次第……」
「そうだ。運次第と言ってもいいだろう。つまり運次第では馮則、お前の名も歴史に残るかもしれないぞ」
「俺の名が?まさか!」
馮則は己の存在が鼠のように小さなものだと知っている。歴史に名を残すと言われても、面白い冗談だとしか思えなかった。
だから笑い、そしてついさっきまで震えていた自分を笑わせてくれた主君に感謝した。
思い返してみると、馮則が軍に身を置いてから心休まるのは孫権の側にいる時だけだった。
狩猟好きでやんちゃ坊主なようなところのある主君だが、人の心の機微には敏感で、優しいのだ。軍にいることは不満でも、この人の下にいることは嫌ではなかった。
「別に冗談を言ったつもりはないぞ。例えばそうだな……偶然でもいい、この戦で黄祖を討った者の名は孫家の歴史に刻むと約束しよう。たとえそれが一兵卒であったとしても、だ」
そう宣言してからニヤリと笑う。
「今のは完全に私の気紛れでだが、その気紛れで歴史に一つ名が残る。そういうものなのだ」
この言葉に、周囲の兵たちの目が急にギラギラと光り始めた。李観の隊員たちだけでなく、孫権の護衛である兵たちまでも気持ちを高揚させたようだ。
史書に残されるのはほとんどの場合は将の名だけであり、直接首を獲った者でも兵の名が残ることは滅多にない。だから孫権の約束に奮起している兵たちの反応は当然のものと言えた。
ただし馮則だけは例外だ。むしろ目立たず隠れるようにして生きるのが性に合っているので、名を残したいなどと欠片も思わない。
「いやぁ、俺なんかの名が残ったところで歴史家さんたちのお目汚しですよ」
周囲の熱気に気づきもせず、そんな軽口を叩いた。
しかしこの反応はまずい。せっかく主君が臣下を奮起させる言葉を紡いだのに、それを流してしまうような発言だからだ。
馮則を監督する立場にある李観は激怒した。
「馮則!貴様……」
「構わん。それより早く白龍のところへ連れて行け」
孫権はなんでもないことのように李観の叱責を遮り、馮則の腕を掴んで立ち上がらせた。
そしてさっさと歩けと言わんばかりに背中を押す。
馮則はそれをありがたく思いながら早足で歩き始めた。
(やった!本当に有耶無耶になった!)
蒸し返されないうちに、早くこの場から去りたいと思った。
残される捕虜がどうなるのか分からないが、馮則がこれ以上どう動いたところで悪い方にしか進まないだろう。
そう思っていると、孫権は去り際にその捕虜をチラリと見た。
そして歩き出しながら李観に声をかける。
「そういえば李観。私はつい先ほど捕虜については皆従順であり、何の問題も起こっていないと報告を受けている。そして処刑してよい捕虜は、反抗する不服従者のみと通達してあるはずだ。そこに縛られている捕虜は、すぐに戻されるのだな?」
李観は一瞬しまったという顔をしたが、孫権はわざと背を向けているので目には入っていない。
即座に平静を装った声で返答した。
「ハッ!反抗を考えぬよう、脅していただけでありますので!」
「ならいい」
孫権は振り返りもせずにそれだけ答え、あとは白龍との激しい逢瀬に思いを巡らせた。
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